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マタイによる福音書9章

中風をいやす(9:1-8)  (マルコ2:1-12、ルカ5:17-26)
中風を病む病人がイエスによっていやされた物語。友人たちの強い友情が信仰をもたらした。
1節 さて、イエスは舟に乗って海を渡り、自分の町に帰られた。
   イエスは「自分の町」カペナウムに帰られた。
2節 すると、人々が中風の者を床の上に寝かせたままでみもとに運んできた。イエスは彼らの信仰を見て、中風の者に、「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪はゆるされたのだ」と言われた。
  力を合わせて中風の者を運んできた人々は、イエスがいやしてくださるという信仰を持ち、
  また中風の者も彼らに身を任せ、またイエスに身を任せるという信仰を表した。
  イエスはそういう「彼らの信仰」を見て、中風の者に「あなたの罪はゆるされた」と言った。
  イエスの救い主としての使命が罪の赦しにあり、病のいやしは民衆に理解されやすかった。
  癒された病人は、いつも自分は罪人であるという思いで世間に引け目を感じ生きてきたが、
 「あなたの罪は許された」というイエスの言葉からどんなに深い平安を得たことだろうか。まさに魂の救いであった。
3節 すると、ある律法学者たちが心の中で言った、「この人は神を汚している」。
  すべての病は罪の報いと思われていたが、祭司が贖いの犠牲を捧げても病を癒すことができなかった。
 「律法学者たち」はイエスが神の御子であることを知らなかったので、イエスが神のみが持つ罪の赦しの権威を犯したと考えた。
4節 イエスは彼らの考えを見抜いて、「なぜ、あなたがたは心の中で悪いことを考えているのか。
  律法学者たちは、預言されていたにもかかわらず地上に罪を許し病を癒す権威を持つものはいないと考えていた。
  神が持つ権威を犯したという「彼らの考え」をイエスに見抜かれた、律法学者たちは驚いたことだろう。
5節 あなたの罪はゆるされた、と言うのと、起きて歩け、と言うのと、どちらがたやすいか。
  罪の赦しの権威を持つイエスにとっては、「あなたの罪はゆるされた」というのと「起きて歩け」というのと違いはない。
6節 しかし、人の子は地上で罪をゆるす権威をもっていることが、あなたがたにわかるために」と言い、中風の者にむかって、「起きよ、床を取りあげて家に帰れ」と言われた。
  イエスは「地上で罪をゆるす権威」を持っていることを律法学者たちに示すため、「起きよ、床を取りあげて家に帰れ」と言われた。
7節 すると彼は起きあがり、家に帰って行った。
8節 群衆はそれを見て恐れ、こんな大きな権威を人にお与えになった神をあがめた。
   群衆はイエスが「大きな権威」をもって奇跡を行ったことに驚き、それを「お与えになった神」とイエスの関係を考えた。
   こうして人々のイエスに対する見方が時とともに変わり、信仰が成長していくのだった。

取税人マタイ弟子になる(9:9-13)  (マルコ2:13-17、ルカ5:27-32)
取税人のマタイが弟子に選ばれたこと。
9節 さてイエスはそこから進んで行かれ、マタイという人が収税所にすわっているのを見て、「わたしに従ってきなさい」と言われた。すると彼は立ちあがって、イエスに従った。
  カペナウムは隊商の通路だったので収税所があった。
  マタイは弟子になってからの名前で、マルコによる福音書にはアルパヨのレビ [1] となっている。
  マタイはヘブル語が堪能で旧約聖書に詳しかった。マタイによる福音書の著者はこのマタイと考えられている。
10節 それから、イエスが家で食事の席についておられた時のことである。多くの取税人や罪人たちがきて、イエスや弟子たちと共にその席に着いていた。
   イエスの食事の席には、律法に無関心なためパリサイ人がさげすんでいた「取税人や罪人たち」が集まっていた。
  「取税人や罪人たち」の方でもパリサイ人らの律法を誇る人々を敬遠していた。
11節 パリサイ人たちはこれを見て、弟子たちに言った、「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人などと食事を共にするのか」。
   パリサイ人にとって、イエスがこれらの律法に無関心な罪びとたちと同席していることは、イエスを攻撃するチャンスであった。
12節 イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。
  パリサイ人は「丈夫な人」ではあったが、それは彼らが病める者であることを自覚していないからだ。
  彼らこそ癒しがたい病人だが、彼らは医者の必要を感じていない。
  しかし、へりくだって医者の必要を感じている収税人や罪びとたちは癒されるだろう。
13節 『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。
 『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』 [2]
  神が好むのは、心のこもらない律法による「いけにえ」ではなく、人の交わりをはぐくむ「あわれみ」である。
  イエスはパリサイ人達に律法の真意を学んでくるように言われた。
  病を意識するものは癒されようとイエスの招きに応じるが、それを意識しない者は自分を義人と思っていても癒されることはない。

断食について(9:14-17)  (マルコ2:18-22、ルカ5:33-39)
ヨハネの弟子が断食をしているのに、イエスの弟子が断食しない理由
14節 そのとき、ヨハネの弟子たちがイエスのところにきて言った、「わたしたちとパリサイ人たちとが断食をしているのに、あなたの弟子たちは、なぜ断食をしないのですか」。
   バプテスマのヨハネは、イエスとは別に弟子を持つ一派であった。
   ヨハネの弟子たちは律法による年一度の断食 [3] ではなく、しばしば断食を行った。
15節 するとイエスは言われた、「婚礼の客は、花婿が一緒にいる間は、悲しんでおられようか。しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その時には断食をするであろう。
   イエスは自身を「花婿」、弟子を「婚礼の客」にたとえている。ユダヤの婚礼の時はいっさいの律法の束縛から自由になる。
   彼らが婚礼の式で「一緒にいる間」は、「悲しんでおられようか」、喜びの時を過ごすべきである。
   しかし、「花婿が奪い去られる日が来る。」その時にはなぐさめを得るため必然的に「断食をするであろう。」
   イエスの犠牲の贖いの日が来ることをここで暗示している。
16節 だれも、真新しい布ぎれで、古い着物につぎを当てはしない。そのつぎきれは着物を引き破り、そして、破れがもっとひどくなるから。
  「真新しい布ぎれ」イエスのもたらした義の生活。「古い着物」パリサイ人やバプテスマのヨハネの教え。
   これらを一つにしようとすると両方ともだめになる。
17節 だれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそんなことをしたら、その皮袋は張り裂け、酒は流れ出るし、皮袋もむだになる。だから、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。そうすれば両方とも長もちがするであろう」。
  「新しいぶどう酒」は発酵力が強いので、伸びきって弱くなった「古い皮袋」に入れると破れてしまう。
   イエスの新しい教えによる生活態度をヨハネの古い形式の生活態度に当てはめることはできない。

ヤイロの娘と長血の女(9:18-26)  (マルコ5:21-43、ルカ8:40-56)
会堂司ヤイロの娘と長血の女が信仰によって癒された奇跡。
18節 これらのことを彼らに話しておられると、そこにひとりの会堂司がきて、イエスを拝して言った、「わたしの娘がただ今死にました。しかしおいでになって手をその上においてやって下さい。そうしたら、娘は生き返るでしょう」。
  「会堂司」は礼拝の準備、会堂の管理などを行う地方の顔役で住民に対し権力を持っていた。
   マルコの福音書では娘は死んだわけではなく、死にかかっていた。
   この会堂司の名はヤイロという。(マルコ5:22) イエスに手をおけば、娘は生き返ると言う。
   この時の信仰はイエスの癒しの力に対する信頼と言うべきものだったが、やがて神への信頼へと進む。
19節 そこで、イエスが立って彼について行かれると、弟子たちも一緒に行った。
   
20節 するとそのとき、十二年間も長血をわずらっている女が近寄ってきて、イエスのうしろからみ衣のふさにさわった。
   「長血」出血する病気で不潔なも [4] のとして、重い皮膚病と同様に人々隔絶されていた。
   律法によるとけがれた者にふれるとけがれるとみなされていたため「イエスのうしろからみ衣のふさ」にさわった。
   ユダヤ人は律法を思い出すために、上着の四隅にふさを付けていた。 [5]
21節 み衣にさわりさえすれば、なおしていただけるだろう、と心の中で思っていたからである。
   女は「み衣にさわりさえすれば」というイエスに対する信仰によっていやそうとした、
22節 イエスは振り向いて、この女を見て言われた、「娘よ、しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」。するとこの女はその時に、いやされた。
   群衆が触れ合う中でイエスが振り向くほどの純粋な信仰により、「あなたの信仰があなたを救った」のだった。
   いやしの力が発揮されるのは、癒されるものの信仰の強さにもよる。イエスは女の信仰を称賛した。
23節 それからイエスは司の家に着き、笛吹きどもや騒いでいる群衆を見て言われた。
   イエスが会堂司の家に着くと葬式の笛吹きと泣き女が騒いでいた。
24節 「あちらへ行っていなさい。少女は死んだのではない。眠っているだけである」。すると人々はイエスをあざ笑った。
   眠りは死の湾曲的表現。死者に無関係な人々を外に出した。
25節 しかし、群衆を外へ出したのち、イエスは内へはいって、少女の手をお取りになると、少女は起きあがった。
   娘の家族とともにイエスが家に入いり、娘の手をとると娘が起き上がった。
26節 そして、そのうわさがこの地方全体にひろまった。
   イエスの奇跡の評判が広まっていった。

盲人とおし(9:27-34)
ふたりの盲人とひとりのおしが癒された。
27節 そこから進んで行かれると、ふたりの盲人が、「ダビデの子よ、わたしたちをあわれんで下さい」と叫びながら、イエスについてきた。
  「ダビデの子よ」ユダヤ人は、救い主がダビデの子孫として来るという考えていた。
   盲人たちの「あわれんで下さい」という願いに答えなかったので、盲人たちはイエスについてきた。
28節 そしてイエスが家にはいられると、盲人たちがみもとにきたので、彼らに「わたしにそれができると信じるか」と言われた。彼らは言った、「主よ、信じます」。
   イエスは盲人たちのイエスに対する信仰を確かめた。
   彼らの信仰も癒しの力に対する信仰に過ぎないが癒されるに十分なものだった。
29節 そこで、イエスは彼らの目にさわって言われた、「あなたがたの信仰どおり、あなたがたの身になるように」。
   「あなたがたの信仰どおり」になるようにと目にさわって言った。信仰が前提であることを教えている。
30節 すると彼らの目が開かれた。イエスは彼らをきびしく戒めて言われた、「だれにも知れないように気をつけなさい」。
   この頃、弟子以外でイエスのもとに来るのは、癒しを求める病人が多かった。
   神の国の福音を伝道するという本来の使命を行う時間があまりにも少ない。
   そのためイエスは盲人たちに癒されたことを口止めした。
31節 しかし、彼らは出て行って、その地方全体にイエスのことを言いひろめた。
   しかし、好奇なものを求める人は多い。
32節 彼らが出て行くと、人々は悪霊につかれたおしをイエスのところに連れてきた。
  「悪霊につかれたおし」ユダヤ人はおしの原因を悪霊につかれたためと考えていた。
   マタイ9:32のおしの部分は、NA28(ギリシャ語本文)によるとκωφὸνは、聴覚障害者の意味がある。
   またマルコ7:32には耳が聞えず口のきけない人をイエスが癒している。
   生まれつき耳が聞こえないと話し方が分からない。ここのおしも、耳も聞こえなかったことが考えられる。
33節 すると、悪霊は追い出されて、おしが物を言うようになった。群衆は驚いて、「このようなことがイスラエルの中で見られたことは、これまで一度もなかった」と言った。
   イエスがおしを癒すと、人々には「悪霊は追い出されて」しまったかのように見えたのだろう。
34節 しかし、パリサイ人たちは言った、「彼は、悪霊どものかしらによって悪霊どもを追い出しているのだ」。
   パリサイ人はイエスを賛美しなかった。
   悪霊追放については、12:43-45にイエスが律法学者、パリサイ人に話したことが書かれている。

十二弟子の派遣の序言(9:35-38)  (マルコ6:34)
ガリラヤでの伝道の総括
35節 イエスは、すべての町々村々を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった。
   イエスのガリラヤ伝道の要約。
36節 また群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れているのをごらんになって、彼らを深くあわれまれた。
  「飼う者のない羊」 [6] のようになっている群衆を見て深く哀れまれた。彼らもまた神のみもとから出てきた霊の子たちだった。
37節 そして弟子たちに言われた、「収穫は多いが、働き人が少ない。
   人間を収穫されることを待っている穀物にたとえて、救うべき人々は多いがイエスを助ける弟子が少ないことを言っている。
38節 だから、収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい」。
   イエスは弟子たちに「収穫の主」神に収穫のために働き人を送るように願えと指示した。


(2019/03/16)


[1]  「また途中で、アルパヨの子レビが収税所にすわっているのをごらんになって、「わたしに従ってきなさい」と言われた。すると彼は立ちあがって、イエスに従った。」(マルコ2:14)

[2] 「わたしはいつくしみを喜び、犠牲を喜ばない。
 燔祭よりもむしろ神を知ることを喜ぶ。」(ホセア6:6)

[3] 「これはあなたがたが永久に守るべき定めである。すなわち、七月になって、その月の十日に、あなたがたは身を悩まし、何の仕事もしてはならない。この国に生れた者も、あなたがたのうちに宿っている寄留者も、そうしなければならない。 この日にあなたがたのため、あなたがたを清めるために、あがないがなされ、あなたがたは主の前に、もろもろの罪が清められるからである。 これはあなたがたの全き休みの安息日であって、あなたがたは身を悩まさなければならない。これは永久に守るべき定めである。」(レビ16:29-31)

[4] 「女にもし、その不浄の時のほかに、多くの日にわたって血の流出があるか、あるいはその不浄の時を越して流出があれば、その汚れの流出の日の間は、すべてその不浄の時と同じように、その女は汚れた者である。」(レビ15:25)

[5] 「イスラエルの人々に命じて、代々その衣服のすその四すみにふさをつけ、そのふさを青ひもで、すその四すみにつけさせなさい。」(民数15:38)
「身にまとう上着の四すみに、ふさをつけなければならない。」(申命22:12)

[6] 「彼らの前に出入りし、彼らを導き出し、彼らを導き入れる者とし、主の会衆を牧者のない羊のようにしないでください」(民数27:17)
「彼は言った、「わたしはイスラエルが皆、牧者のない羊のように、山に散っているのを見ました。すると主は『これらの者は飼主がいない。彼らをそれぞれ安らかに、その家に帰らせよ』と言われました」。(1列王22:17)


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