5章
7章
マタイによる福音書6章
施しをする時(6:1-4) 神の国の民はその行為の動機が偽善であってはならない。ユダヤの三大善行である施し、祈り、断食をどのように行うべきかを教えられた。 1節 自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう。 見せびらかしの戒め。神に認められる相応しい行為は、ありのままでなければならない。イエスはユダヤの伝統な(パリサイ人的な)義を制度的に改革しようとしたのではなく、神の国の実践にふさわしい意味あるものとされた。「人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」(5:16) というように人に見られるように行う必要がある場合もある。 2節 だから、施しをする時には、偽善者たちが人にほめられるため会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹きならすな。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。 当時のユダヤ人は施しを宗教的実践として行っていた。実際以上に信心深いふりをして施しをする人は偽善者である。「偽善者」のギリシャ語υποκρισίαは演説や劇を演ずる際に仮面をかぶり素顔を隠す俳優を語源とする。ラッパを吹き貧者のための施しを集めたり、雨乞いの祈りと共にラッパを鳴らしていた。 ラッパは慈善の代名詞であった。善行を吹聴する人は人から褒められ報いを得てしまっており、人の報いによって神の報いが差し引きゼロになっている。ユダヤ人の思想では現在報いを受けている人は来る世においては報いを得ることが出来ない。 3節 あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。 ルターによると、金を勘定して右手から左手に金を送るしぐさの連想という。施しを受けた人以外は誰にもわからないようにしなさい。 4節 それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。 そうすれば、隠れたことはどんな小さなことでもご存じの天の父から、必ず報いがくる。 祈る時(6:5-15) (マルコ11:25、ルカ11:2-4) ここでイエスは神との交わりである祈りが見せかけの偽善に陥らないように戒め、祈りの正しい態度を示している。 5節 また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。 毎日一定の時間 [1] が祈る時間として定められてて、その時間に会堂や大通りのつじで祈った。祈りが神との交わりであることを忘れるとき「人に見せようとして」祈ることが起きる。そのような偽善の祈りは、偽善者の施しと同じく人の報いを受けてしまっており、神の報いを得ることができない。 6節 あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。 祈りの本質は父なる神との交わりであって、人に見られるための祈りは神との霊的な交わりを拒むものである。「戸を閉じて」神以外の誰も「自分のへや」である心に入らないようにして祈りなさい。そのような思いであれば、野でも人ごみの中でも「自分のへや」にすることができる。 7節 また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉かずが多ければ、聞きいれられるものと思っている。 「くどくどと」、多弁、反復 8節 だから、彼らのまねをするな。あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである。 祈るとき多弁である必要はない。神は人が必要としているものをご存じなのだ。祈りは神に対する信頼の上に成り立つものなので、それだからこそ祈るのである。 9節 だから、あなたがたはこう祈りなさい、天にいますわれらの父よ、御名があがめられますように。 「主の祈り」と呼ばれる祈りの例。まず祈りの対象を「天にいますわれらの父よ」と呼び、「御名」と 10節 御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。 「御国」と「みこころ」についての三つの願いで始まる。「御名」は神の名前、神ご自身であり、 「御国」は神の支配、「みこころ」は神の意志を示す。はじめに神の栄えが現れることを祈るのが主の祈りの特徴であり、主が示された模範である。 11節 わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。 神の栄を願った後、人間の必要を願う。「日ごとの食物」とは食物や毎日の生活に必要なものを示す。ルターは「着物、履き物なども」と言っている。「日ごと」はその日一日の必需品であり、ぜいたく品を含まない。 12節 わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。 神のゆるしを願う。人をゆるす謙虚な心を持つことにより、はじめて神のゆるしを願うことができる。神のゆるしを受けることができる者は、他人をゆるすことができるものである。罪は他人に対する「負債」である。人との間の「負債」は「ゆるし」という形でのみ清算される。もし債権者の側に「ゆるし」がないなら、負債は永久に続く。 13節 わたしたちを試みに会わせないで、悪しき者からお救いください。 罪のゆるしを受けた後の生活がきよく保たれ、ふたたび罪に陥らないように神の守りを願う。「試み」は誘惑を示す。誘惑は堕落に導く。 14節 もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。 もしあなたがたが、自分に対して罪を犯した人を赦すなら、天の父も、あなたがたを赦してくださいます。 15節 もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。 しかし、あなたがたが赦さないなら、天の父も、あなたがたを赦してくださいません。 断食する時(6:16-18) 偽善の断食を戒め、断食の真の意味を示す。 16節 また断食をする時には、偽善者がするように、陰気な顔つきをするな。彼らは断食をしていることを人に見せようとして、自分の顔を見苦しくするのである。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。 「地のすべての民、および祭司に告げて言いなさい、あなたがたが七十年の間、五月と七月とに断食し、かつ泣き悲しんだ時、はたして、わたしのために断食したか。」(ゼカリヤ7:5) 断食はユダヤ人の生活で行われる宗教的な生活慣習であった。少なくとも年に5、6回行なうことが求められた。パリサイ人は毎週月曜と水曜を断食日として守った。断食は悔い改めを表すために行われたため、嘆きと悲しみの表情を過度に表し勝ちになった。また髪をわざととかさなかったり、洗顔しないで頭に灰をかぶったりして「自分の顔を見苦しく」したのだった。そのような断食は人に見られる断食であって、神に受け入れられるものではない。 17節 あなたがたは断食をする時には、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい。 断食していることを人に知られないよう、髪をとかし、オリブ油などを塗りなさい。 18節 それは断食をしていることが人に知れないで、隠れた所においでになるあなたの父に知られるためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いて下さるであろう。 隠れた所で見ておられる神に対する悔い改めの断食が神に喜ばれる断食である。形だけの断食は人に知られても、神に知られるところとはならない。 ふたりの主人(6:19-24) (ルカ11:34-36, 12:33-34, 16:13) 地上の宝が天におよぼす力を持っている。それを正しく使うことを教えている。 19節 あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。 神の国の民は地上にできなく天に宝を蓄えなくてはならない。地上の宝は常に危険にさらされている。豪華な織物がユダヤ地方の宝であった。それを「虫」が食うと価値が無くなった。また金属の宝は錆びて価値を失う。泥や編み垣で造られたユダヤの農家は壁に穴をあけられ「盗人らが押し入って盗み出す」危険にさらされている。 20節 むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。 そういう危険がない安全な場所に真の宝を蓄えなさい。(ルカ12:33) 21節 あなたの宝のある所には、心もあるからである。 宝と心は同じ場所にある。もし宝が地にあれば心も地に、宝が天にあれば心も天にある。 22節 目はからだのあかりである。だから、あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいだろう。 目から光を体に受け入れる。パレスチナの家の中は暗く常時光を灯していた。神の御心を体に取り込むことができるように心の目を開き健全に保つように。「目が澄んでおれば」いつも神の国への道筋を見失うことがない。悪に目がくらむことがなく、正直に見て正直に行うことができる。 [2] 23節 しかし、あなたの目が悪ければ、全身も暗いだろう。だから、もしあなたの内なる光が暗ければ、その暗さは、どんなであろう。 「目が悪ければ」あなたの生を支配する心が利己的であるなら、あなたの全生活は利己的になるほかないだろう。生の深いところにまで達する天の光である「内なる光」が存在しないなら(暗ければ)、人生は真の闇夜であろう。 24節 だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。 「ふたりの主人」神と富の何れかにつくかの決断が迫られている。神と富は本質的に異なるものであるが、どちらも人を要求し支配する力である。富は、人間によって造られ、人間の僕であったが、現在は人間の主人になっている。神も富も全力を尽くして使えることを要求するが、必ず一方に傾き、他方を疎んじるようになる。しかし、イエスの教えは、神につかえるために地上の生活を犠牲にすることを命ずるのではなく、「まず神の国と神の義とを求めなさい。」そうすれば、地上での生活に必要なことは与えられると示唆している。 思いわずらうな(6:25-34) (ルカ12:22-31) 天に宝をたくわえようと願うものは、地上の思いわずらいから自由でなければならない。 [3] 25節 それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。 神と富とに兼ね仕えることはできないから、「何を食べ」「何を飲もうか」「何を着ようか」という生活の労苦を心配して、心を心を乱してはいけない。「命は食物にまさり、からだは着物にまさる」命は神が与えたもの、命は食物にまさり、からだは着物にまさっている。命をささえるために、神は命やからだよりも小さいものを与えたまわないはずがない。地上の生活を営むために必要とする衣食住を完全に維持することが困難な中で、それよりもさらに困難な神に絶対的に信頼し、従うことを戒めている。 26節 空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。 「空の鳥」人に飼われていない野鳥、「養っていて下さる」自然に現れた神の恵み。 27節 あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。 思い煩うことのむなしさ。人は寿命がのびることを願う。 28節 また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。 「野の花」写本によってはユリとあるが、パレスチナに多いアネモネの花か。 29節 しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。 栄華を極めた王「ソロモン」の王位は赤であった。 30節 きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。 31節 だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。 神の恵みは短命な野の草にも寄せられる。神の子らにおいてはなおさらではないか。その神の恵みに対して信頼していないことが思いわずらいの原因である。イエスは神への信頼に向かって決断するように促す。 32節 これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。 33節 まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。 神の国を求める者は、「異邦人が切に求めているもの」と異なるものでなければならない。「日ごとの食物」を祈ることは必要であるが、思いわずらうのではなく神に信頼をおかなければならない。「まず神の国と神の義」すなわち神の国にふさわしい生き方を求めなさい。そうすれば、「これらのものは、すべて添えて」与えられる。 34節 だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。 まず求めるべきものを求めよ。そうすれば生活に必要なものは添えて与えられる。「あす」から思いわずらいを借りてくるな。あすのことはあなたが思いわずらわなくても、あす自身が思いわずらうであろう。あす自身にまかせよ、「一日の苦労」だけでたくさんと、神を強く信頼するように教えている。 (2019/03/02)
[1] 「さて、ペテロとヨハネとが、午後三時の祈のときに宮に上ろうとしていると、」(使徒行伝3:1)
[2] 目は心、良心、信仰とも解される。また良い目は気前が良いこと、悪い目は欲深いことにたとえられている。 「あなたは心に邪念を起し、『第七年のゆるしの年が近づいた』と言って、 貧しい兄弟に対し、物を惜しんで、何も与えないことのないように慎まなければならない。 その人があなたを主に訴えるならば、あなたは罪を得るであろう。」(申命15:9) 「物惜しみする人のパンを食べてはならない、 そのごちそうをむさぼり願ってはならない。」(箴言23:6)
[3] 「こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。」(ヘブル12:1)
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