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マタイによる福音書24章

24-25章は世界の終末に関する預言。24章は小黙示録と呼ばれる。

神殿崩壊の預言(24:1-2)  マルコ13:1-2、 ルカ21:5-6
ユダヤ人の目には永遠のようであった神殿が、イエスの目には有限に過ぎない。
1節 イエスが宮から出て行こうとしておられると、弟子たちは近寄ってきて、宮の建物にイエスの注意を促した。
   弟子たちは神殿のすばらしさに目をみはっていた。これはヘロデが建てた神殿で金でおおわれた大理石を使っていた。イエスが生きておられたころには、建築開始からすでに46年経っていたいたが、まだ未完で完成したのは紀元64年だった。「イエスの注意を促した」弟子たちはイエスが宮の構造に関心がなさそうな様子だったので不満であった。
2節 そこでイエスは彼らにむかって言われた、「あなたがたは、これらすべてのものを見ないか。よく言っておく。その石一つでもくずされずに、そこに他の石の上に残ることもなくなるであろう」。
   紀元70年にローマ軍がエルサレムを破壊し、神殿に火をつけた。金箔の金が溶けて石と石の間に入り固まったので、ローマ軍はその金を取り出すために石を一つ一つ取り壊していった。こうしてイエスのみことばは文字通り成就した。人々はエルサレムの繁栄を誇っていたものの、葉が生い茂っているが実を結ばせていないいちじくの木のように外見は整っているが内実がともなっていなかったため、実を結ばせないいちじくの木のようにエルサレムは滅びたのだった。

キリストの再臨(24:3-31)  マルコ13:3-27、 ルカ21:6-28
終末の日の前に現れる諸現象とそれらの中において弟子たちが処する道についての訓戒。
3節 またオリブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとにきて言った、「どうぞお話しください。いつ、そんなことが起るのでしょうか。あなたがまたおいでになる時や、世の終りには、どんな前兆がありますか」。
   「おいでになる時」キリストの再臨を表す使徒時代の術語。「前兆」終末の日の前に、その日が近いことを示す前兆があるという信仰を反映している。
4節 そこでイエスは答えて言われた、「人に惑わされないように気をつけなさい。
   人々を惑わすものが多いので、惑わされないようにと命じられた。
5節 多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がキリストだと言って、多くの人を惑わすであろう。
   第一の前兆はにせキリストの出現。
6節 また、戦争と戦争のうわさとを聞くであろう。注意していなさい、あわててはいけない。それは起らねばならないが、まだ終りではない。
   第二の前兆は地域紛争としての戦争。この戦争は終わりのしるしではない。
7節 民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに、ききんが起り、また地震があるであろう。
   というのは、「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる」国際紛争、世界規模の戦争が起きるだろう。また各地で天災が起きる。これが第三の前兆である。
8節 しかし、すべてこれらは産みの苦しみの初めである。
   これらの前兆を終末と混同してはならない。前兆はキリスト再臨の前触れであり、「産みの苦しみ」の始まりである。世の終わりの苦しみは、産みの苦しみと同じく希望のある苦しみだ。御国が来るためには、今の世が滅び去らなければならない。今の世界はますます悪くなり住みにくくなるだろう。しかし産みの苦しみが大きくなるにしたがって神の国が近づいてくるのが分かる。
9節 そのとき人々は、あなたがたを苦しみにあわせ、また殺すであろう。またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての民に憎まれるであろう。
   世界大戦、ききんや地震の次に来る第四の前兆は、キリストの名のゆえの迫害である。キリスト再臨の生みの苦しみの中にあってクリスチャンも産みの苦しみを味わう(ローマ8:22-23)。その迫害は肉体的な苦しみではなく無関心や無視という形が多い。そういうものはクリスチャンの証しを無力にする力をもっているからである。
10節 そのとき、多くの人がつまずき、また互に裏切り、憎み合うであろう。
   そうした外部からの圧力に耐えられなくなると内部で争うようになり、「互に裏切り、憎み合う」ことが起き、多くの人が「つまづく」信仰を失う。イエスは分派の発生を予言している。
11節 また多くのにせ預言者が起って、多くの人を惑わすであろう。
   にせ預言者が出てきて、聞く者を健全な教えから離れさせる。彼らは人々の関心を集めるために耳ざわりの良い話をする(2テモテ4:3-4)。
12節 また不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう。
   どの時代にも世の中に不法がはびこっている。しかし、教会内部ににせ預言者が出現し、互の裏切りと憎しみが起きて、世から選び出されて聖い生き方をするはずのクリスチャンの中に不法がはびこることに注意しなければならない。イエスが麦と毒麦の譬で教えているように終わりの時までそのままにしておかれる。
13節 しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
   世からの艱難に耐えられなくなると互いにつまずき、偽りの教えを信じ愛が冷える。しかし、苦しみを最後まで耐え忍ぶ者には、決してそのようなことは起こらず救い出される。産みの苦しみは希望のある苦しみであり、苦しみが大きいだけ神の国に入る希望と愛が増し加わる(Ⅰペテロ4:7-8)。前兆の中においての忍耐こそ最後の救いへの道となる。
14節 そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである。
   前兆の時が続くのは、御国の福音が世界のひとりでも多くの人に「宣べ伝えられる」ためである。
15節 預言者ダニエルによって言われた荒らす憎むべき者が、聖なる場所に立つのを見たならば(読者よ、悟れ)、
   以下22節まではユダヤにおける前兆。「荒らす憎むべき者」ダニエル11:31による [1] 。そこでは紀元前168年にエルサレム神殿にゼウスの像を祭ったシリヤ王アンティオコス四世を指すが、ここでは紀元70年のローマ軍侵攻を指す。ユダヤ人にとって異邦人の侵略者が聖所に立つことは許しがたい屈辱であった。
16節 そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げよ。
   エルサレムはもはや安全な場所ではなく、敵から身を守る場所は山の洞窟であった。
17節 屋上にいる者は、家からものを取り出そうとして下におりるな。
18節 畑にいる者は、上着を取りにあとへもどるな。
   危急から逃れるために一秒を争うように逃げなければならない。
19節 その日には、身重の女と乳飲み子をもつ女とは、不幸である。
20節 あなたがたの逃げるのが、冬または安息日にならないように祈れ。
   すぐに逃れることができない者たちへの同情。「冬または安息日にならないよう」ユダヤの冬は雨季で逃亡に悪い条件。また聖日である安息日には旅行が制限されていた。
21節 その時には、世の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような大きな患難が起るからである。
   ゼカリヤ書13:8によるとユダヤ人の3分の1のみが生き残る。次々と殺されていくのでだれかがこの働きを止める者がいなければひとりとして救われる者はいない。
22節 もしその期間が縮められないなら、救われる者はひとりもないであろう。しかし、選民のためには、その期間が縮められるであろう。
   神が定められた苦難の期間が、選民のために短くされる。
23節 そのとき、だれかがあなたがたに『見よ、ここにキリストがいる』、また、『あそこにいる』と言っても、それを信じるな。
   以下28節まで、ふたたびにせキリスト、にせ預言者について。激しい苦難の中、自分たちを救い出してくれるキリストを求め始める。そこで、キリストに関するにせ情報が流れる
24節 にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。
   ある者は不思議やしるしを行ない選民を惑わそうとするが信じてはいけない。
25節 見よ、あなたがたに前もって言っておく。
   イエスはこれから起こることについて隠すことはされなかった。聖書には事細かに終末の出来事が記されている。惑わされないためにそれを知らなければいけない。
26節 だから、人々が『見よ、彼は荒野にいる』と言っても、出て行くな。また『見よ、へやの中にいる』と言っても、信じるな。
   「見よ、彼は荒野にいる」モーセが荒野で神を見て以来、ユダヤ人は荒野を神の啓示の場所と考えた。イエスが前もって言われたことを知っていれば惑わされることはない。
27節 ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう。
   イエスが降誕された時は、世のごく一部の人しか知らなかったが、再臨の時は世界中のだれもが見ることができるかたちで来られる。
28節 死体のあるところには、はげたかが集まるものである。
   はげたかが死体を襲うように審判の理由があるところに神の審判が現れる。
29節 しかし、その時に起る患難の後、たちまち日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、星は空から落ち、天体は揺り動かされるであろう。
   以下31節までは、人の子の再臨のしるしについて。旧約において天体の異変は神の世界への干渉と考えられている(イザヤ13:10,エゼキエル32:7-8など)。
30節 そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。
   イエスの再臨の前兆として天において「人の子のしるし」が現れる。「人の子が天の雲に乗って」ゼカリヤ12:10 [2] とダニエル7:13-14 [3] の組み合わせ。雲は神の栄光の表徴であって、再臨のキリストの権威を表す。
31節 また、彼は大いなるラッパの音と共に御使たちをつかわして、天のはてからはてに至るまで、四方からその選民を呼び集めるであろう。
   「大いなるラッパの音」終末の日が来たことを告げて、選民を集める信号。

その日・その時(24:32-44)  マルコ13:28-37、 ルカ21:29-36
キリストの再臨の時は、だれも予知することができないので、目をさまして用意していなければならない。
32節 いちじくの木からこの譬を学びなさい。その枝が柔らかになり、葉が出るようになると、夏の近いことがわかる。
   イエスは「学びなさい」と言われる。イエスは世の終わりの時が始まることについて事細かに教えておられるし、聖書にはそれについて多くのことが述べられている。そのことをぶことによって、「夏の近いこと」終わりの日が近いことが分かる。
33節 そのように、すべてこれらのことを見たならば、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。
   「すべてこれらのこと」3-13節に記されている前兆の出来事。
34節 よく聞いておきなさい。これらの事が、ことごとく起るまでは、この時代は滅びることがない。
   以下36節まで、再臨の日時を知っているのは神だけ。「この時代」はイエスが弟子たちや人々とかかわりを持つ時代。イエスが話した出来事が「ことごとく起るまで」は、この時代は「滅びる」すなわち過ぎ去らないという。まだ全部おこってはいないので、「この時代」はまだ続いているということだ。
35節 天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。
   イエスが終わりの時について話されたのは、天地が過ぎ去るということだ。目を見張るようなエルサレムの町が破壊されたように、主のみ心であれば今にでも地上のものは滅び去る。人は目に見えないものよりも目に見えるものによって動くので、主のみことばよりも世にあるものに引き寄せられてしまう。しかし天地よりも強固で永続するイエスのみ言葉は取り去ることができない。見えるものは一時的であり、見えないものいつまでも続くのだ。
36節 その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。
   「その日、その時」再臨の日は、「子も知らない」イエスさえも知らない。知っているのは父なる神だけ。キリストはまだ来られないだろうと考えた時点で日と時を設定してしまっているがこれは大きな誤りである。
37節 人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。
   以下39節までノアの洪水を予知したものがいなかったように、キリストの再臨の日を予知できるものはいない。神がノアに丹を造るよう命じたのは洪水が超こる100年も前のことだった。彼とその家族が大きな箱舟を建設しはじめましたがその間大洪水が起こるような気配は何一つなかった。
38節 すなわち、洪水の出る前、ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていた。
   洪水の日まで何の前ぶれもなく、人々は自分たちが堕落していることを意識せずにいつも変わらぬ日常生活を営んでいた。
39節 そして洪水が襲ってきて、いっさいのものをさらって行くまで、彼らは気がつかなかった。人の子の現れるのも、そのようであろう。
   30節の再臨(地上再臨)の時は前兆があるが、ここでの「人の子の現れる」再臨は空中に来られる(空中再臨)もので(1テサロニケ4:16-17)、その再臨の時は何のしるしもなく、聖徒はたちまち雲の中に引き上げられる。
40節 そのとき、ふたりの者が畑にいると、ひとりは取り去られ、ひとりは取り残されるであろう。
   それは洪水のように突然であるが、しかし無差別、無秩序ではない。キリストを信ずる「ひとりは取り去られ」神の国に受け入れられる。キリストを信じない「ひとりは取り残される」自分の死に至る運命の中に残される。
41節 ふたりの女がうすをひいていると、ひとりは取り去られ、ひとりは残されるであろう。
   「ふたりの女が」一つのうすを回していると、キリストを信ずるひとりは神の国に受け入れられ、キリストを信じないひとりは自分の死に至る運命の中に残される。
42節 だから、目をさましていなさい。いつの日にあなたがたの主がこられるのか、あなたがたには、わからないからである。
   「目をさましていなさい。」キリストが来られることをいつでも期待してなさい。キリストが来る日のことを思い、キリストに会うことを最大の願いにしなさい。
43節 このことをわきまえているがよい。家の主人は、盗賊がいつごろ来るかわかっているなら、目をさましていて、自分の家に押し入ることを許さないであろう。
   盗賊は暗闇に乗じてやってくる。暗闇は罪や不法がはびこって暗くなっている世を表している。目をさましている家の主人は、キリストを信じる光の子どもなので神が暗闇の力から守ってくださる。
44節 だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。
   キリストは「思いがけない時」に来るので、キリストが来られるのを待ち望むだけでなく、キリストにお会いするのにふさわしい生き方をして「用意をしていなさい」。

二種類の僕(24:45-51)  ルカ12:41-46
キリストの再臨の時は、だれも予知することができないので、目をさまして用意していなければならない。
45節 主人がその家の僕たちの上に立てて、時に応じて食物をそなえさせる忠実な思慮深い僕は、いったい、だれであろう。
   「忠実な思慮深い僕」は、キリストが来られる時のために用意していた。この僕は台所をあずかる司厨長であった。そして主人からまかされたものによって生きていた。生活のすべての面においてキリストを認め、キリストの福音を中心にした生き方をしていた。
46節 主人が帰ってきたとき、そのようにつとめているのを見られる僕は、さいわいである。
   神に信頼して、神を喜ばす生活をするなら、キリストがいつ帰ってきても、「さいわいである」と言われる。
47節 よく言っておくが、主人は彼を立てて自分の全財産を管理させるであろう。
   キリストはこの僕に「全財産を管理させる」だろう。このように、キリストの再臨は私たちが評価を受けるときだ。人はすでに神からさまざまなものを任されている。まず自分自身、時間、才能、財産、回りの人々。これらをキリストの福音を中心とした生活の中で管理することは神の御国を相続するための準備をしていることになる。
48節 もしそれが悪い僕であって、自分の主人は帰りがおそいと心の中で思い、
   「悪い僕」は、キリストが来られる時の用意をしていない人だ。それは自分が期待しているよりも、主人が帰ってくるのが遅くなったので、まだ帰ってくることはないと思ったからたで。この僕は主人の帰りが遅いと思い準備を怠った。これはキリストが来られるのが、私たちが期待するよりも遅くなることを示唆している。イエスが、わたしはすぐに来ると言われてから、2千年近くになっている。当初、教会はローマ帝国の激しい迫害にもかかわらず、勢いよく成長した。主が再び来られることを期待していたからだ。しかし、ローマがキリスト教を国教と認めたころから、教会は死んでいった。それは、キリストが来られるという信仰を失ってしまったからだ。キリストがすぐ来られると思ったのに遅すぎると思った。そのために、教会はいのちを失った。
49節 その僕仲間をたたきはじめ、また酒飲み仲間と一緒に食べたり飲んだりしているなら、
   個人生活もこれと同じで、主はまだ来ないだろうと思うと、キリストにあって生きる力を失う。神についての事柄よりも、自分や世の中の事柄に興味を持ち、キリストから離れて世の仲間となってしまう。
50節 その僕の主人は思いがけない日、気がつかない時に帰ってきて、
   ところが、キリストは思いもしなかったときに突然帰ってくる。
51節 彼を厳罰に処し、偽善者たちと同じ目にあわせるであろう。彼はそこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。
   主人は、偽善者にしたと同じように僕を厳しく罰する。そのとき泣き叫んだり、歯噛みしたりするがもう遅い。人がこの地上で生きているのは、神の国に入るための訓練であって、最後までキリストを待ち望み耐え忍ぶ者が救われる。たとえ外側がクリスチャンのようであっても、内側がそうでないなら決して天の御国に入ることはできない。クリスチャンのように話し、行動し、振る舞ったとしても、キリストの福音を中心とし、キリストと同じ思い持ち、神と生きた関係をもたないなら、キリストを公然と否定した者たちと全く変わらない。 [5]


(2020/03/14)


[1]  ダニエル 11:31
   「彼から軍勢が起って、神殿と城郭を汚し、常供の燔祭を取り除き、荒す憎むべきものを立てるでしょう。」

[2]  ゼカリヤ 12:10
  「わたしはダビデの家およびエルサレムの住民に、恵みと祈の霊とを注ぐ。彼らはその刺した者を見る時、ひとり子のために嘆くように彼のために嘆き、ういごのために悲し」

[3]  ダニエル 7:13
  「わたしはまた夜の幻のうちに見ていると、
   見よ、人の子のような者が、
   天の雲に乗ってきて、
   日の老いたる者のもとに来ると、
   その前に導かれた。」

[4]  1テサロニケ 4:16-17
  「すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、 それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。」

[5]  2コリント 13:5
  「あなたがたは、はたして信仰があるかどうか、自分を反省し、自分を吟味するがよい。それとも、イエス・キリストがあなたがたのうちにおられることを、悟らないのか。もし悟らなければ、あなたがたは、にせものとして見捨てられる。 」


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