14章
16章
マタイによる福音書15章
洗わない手(15:1-20) マルコ7:1-23、ルカ6:39 清めについてのイエスの新しい教え 1節 ときに、パリサイ人と律法学者たちとが、エルサレムからイエスのもとにきて言った、 パリサイ人と律法学者たちが、エルサレムの権威ある筋から、イエスの現行を査察するためにやってきた。 2節 「あなたの弟子たちは、なぜ昔の人々の言伝えを破るのですか。彼らは食事の時に手を洗っていません」。 食事の前に手を洗うことは敬虔なユダヤ人の習慣であり「昔の人々の言伝え」の命ずるところだった。「言伝え」は、パリサイ人の口伝であって、モーセの律法と同様の権威が認められていた。食事の前に手を洗うことも言い伝えできびしく命じられていた習慣であった。 3節 イエスは答えて言われた、「なぜ、あなたがたも自分たちの言伝えによって、神のいましめを破っているのか。 パリサイ人は言い伝えにとらわれ、言い伝えの拠り所である神の律法を破っていることを指摘されたのである。 4節 神は言われた、『父と母とを敬え』、また『父または母をののしる者は、必ず死に定められる』と。 出エジプト20:12,21:17 [1] の引用。 5節 それだのに、あなたがたは『だれでも父または母にむかって、あなたにさしあげるはずのこのものは供え物です、と言えば、 6節 父または母を敬わなくてもよろしい』と言っている。こうしてあなたがたは自分たちの言伝えによって、神の言を無にしている。 イエスが引用したのは、父母を扶養する義務は、神に供え物をすることによって免除されるという口伝をたてに、当時の人々が父母に対する責任をまぬがれようとした非を指摘したものである。この言い伝えは、神を第一とし、父母を第二とするという表面上は信仰的には立派に見えるものであった。「自分たちの言伝えによって、神の言を無にしている」神への義務が、人間への義務を解くかのようにみえるのは、神の戒めが、人間の戒律に変えられている結果である。このような言い伝えは、父母への義務をつくさない人間の口実にすぎない。神の言を無にしていることになる。 7節 偽善者たちよ、イザヤがあなたがたについて、こういう適切な預言をしている、 パリサイ人と律法学者たちを「偽善者たち」と呼んでいる。己の欲によって行動するにもかかわらず、神という言葉を使うことで正当化することを偽善という。イエスはイザヤの言葉を引用して、言い伝えと心のつながりの隔たりを指摘している。言い伝えの恐さは、それを行っていると、あたかも自分が神につながっているように思い込み、見た目は、神との関係を持っているかのようであるが、実際は、遠く離れているのである。この状態が偽善を産む。 8節 『この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。 9節 人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる』」。 イエスはイザヤ29:13 [2] を引用して、自分たちの言い伝えのために、神のことばを無にしていることを指摘した。 10節 それからイエスは群衆を呼び寄せて言われた、「聞いて悟るがよい。 11節 口にはいるものは人を汚すことはない。かえって、口から出るものが人を汚すのである」。 パリサイ人、律法学者は、汚れた手でパンを食べることを問題視した。つまり、彼らは「口にはいるもの」が人を汚すと考えた。これは外側の行いによって救われるという考えであって、儀式を行なったり、祈りをしたり、献金をしたり、施しをしたりする事によって、神から正しいものと認められるというものだ。つまり、そうした行いをしなければ神との関係はもてないというものである。それに対してイエスは、たとえ洗わない手で食べる食物でも「人を汚すことはない」、汚れは物との関係から生じないと言われた。しかし、「口から出るもの」すなわち「心の中から出てくる」(15:19)悪い思いが、神との関係を切り離し、人を汚すと言われた。これは外側では正しいこと思われることを行っても、思いが神から離れこころの状態が悪ければ、救いを得ることはできないということである。 12節 そのとき、弟子たちが近寄ってきてイエスに言った、「パリサイ人たちが御言を聞いてつまずいたことを、ご存じですか」。 イエスの言葉がパリサイ人、律法学者たちをつまづかせたことを弟子たちは心配した。 13節 イエスは答えて言われた、「わたしの天の父がお植えにならなかったものは、みな抜き取られるであろう。 イエスは、パリサイ人、律法学者たちが持っているとされていた神との特別な関係が、いっさい剥奪されることを宣言し、弟子たちに心配しないように言われた。 14節 彼らをそのままにしておけ。彼らは盲人を手引きする盲人である。もし盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むであろう」。 「盲人を手引きする盲人」パウロは律法に安んじ、神を誇る人々を盲人の手引きと呼んでいる(ローマ2:17-20)。彼らは「穴」地獄に落ちる。 15節 ペテロが答えて言った、「その譬を説明してください」。 弟子たちはおりいって説明を聞かないとイエスの譬を理解することができなかった。そういう時は、いつもペテロがイエスとの対話者になった。 16節 イエスは言われた、「あなたがたも、まだわからないのか。 17節 口にはいってくるものは、みな腹の中にはいり、そして、外に出て行くことを知らないのか。 口にはいってくるものはみな体から排泄されて「外に出て行く」。 18節 しかし、口から出て行くものは、心の中から出てくるのであって、それが人を汚すのである。 「口から出て行くもの」は、心の中から出ていく思いである。心に起こっていることで神との関係が決まり、それが人を汚す。 19節 というのは、悪い思い、すなわち、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、誹りは、心の中から出てくるのであって、 人の心の中から出る「悪い思い」である七つの悪徳とは、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、誹りなどである。(十誡の順) マルコ7:21-22には13の悪徳が示されている。 20節 これらのものが人を汚すのである。しかし、洗わない手で食事することは、人を汚すのではない」。 これらの悪い思いが、人を汚し人を神から切り離す。 カナンの女(15:21-28) マルコ 7:24-30 異邦人の地ツロとシドンでの出来事。 21節 さて、イエスはそこを出て、ツロとシドンとの地方へ行かれた。 イエスは清めの問題について論じられたのち、しばらく異邦人の地ツロとシドンに行かれた。 22節 すると、そこへ、その地方出のカナンの女が出てきて、「主よ、ダビデの子よ、わたしをあわれんでください。娘が悪霊にとりつかれて苦しんでいます」と言って叫びつづけた。 「カナンの女」この女はギリシャ人でスロ・フェニキヤの生まれであった(マルコ7:26)。フェニキヤ人はカナン人の植民の子孫であったため、マタイは彼女をカナンの女と呼んだ。彼女がイエスを「ダビデの子」と呼んだのは、イエスの名声がこの地方にまで伝わっていたからである。娘の病気を訴えるのに「わたしをあわれんでください」と言ったのは、娘の苦しみは、それ以上に母親の苦しみであったからである。 23節 しかし、イエスはひと言もお答えにならなかった。そこで弟子たちがみもとにきて願って言った、「この女を追い払ってください。叫びながらついてきていますから」。 イエスはこの母に対し外見的に冷淡な態度をとっている。これは、イエスの行動に方針があったからである。しかしそれを知らぬ弟子たちはイエスの一見冷淡な態度に輪をかけて「この女を追い払ってください」と言った。 24節 するとイエスは答えて言われた、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない」。 イエスがはじめからもっておられた伝道方針が「イスラエルの家の失われた羊」に対する宣教であった。 25節 しかし、女は近寄りイエスを拝して言った、「主よ、わたしをお助けください」。 しかし女はなおも近寄って娘の癒しを懇願した。 26節 イエスは答えて言われた、「子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」。 ユダヤ人にとって、犬は異邦人を軽蔑する呼び名とされている。「子供たち」ユダヤ人のこと。「小犬」異邦人のこと。ただ「小犬」と言われ、部屋の中に飼う犬を指し、野良犬と区別していることが、この女にとってせめてもの慰めであった。 27節 すると女は言った、「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」。 女は自分に対するイエスの態度がどうあろうとも、イエスの救いを得るために懸命になった。「パンくず」子供が食べ残したもの、おこぼれ。彼女は知恵のある謙遜な言葉で応じた。 28節 そこでイエスは答えて言われた、「女よ、あなたの信仰は見あげたものである。あなたの願いどおりになるように」。その時に、娘はいやされた。 異邦人が信仰の模範にあげられている。イエスは彼の伝道方針を破って異邦人の女の娘を癒された。イエスにその鉄則を破らせたものは、この女の見上げた信仰だった。 4千人の食事(15:29-39) マルコ 8:1-10 5千人の食事の奇跡と同じ内容の奇跡が4千人の異邦人の中でも行われた。 29節 イエスはそこを去って、ガリラヤの海べに行き、それから山に登ってそこにすわられた。 場所はガリラヤとされているがマルコ7:31に記しているように、場所はツロの地方であったと思われる。 30節 すると大ぜいの群衆が、足なえ、不具者、盲人、おし、そのほか多くの人々を連れてきて、イエスの足もとに置いたので、彼らをおいやしになった。 いつもと変わらないイエスのみわざだが、次節に違いが現れる。 31節 群衆は、おしが物を言い、不具者が直り、足なえが歩き、盲人が見えるようになったのを見て驚き、そしてイスラエルの神をほめたたえた。 「イスラエルの神をほめたたえた」とあることから、この群衆が異邦人であることが分かる。イエスがイスラエルの家の失われた羊に行われていた力ある御業を、異邦人も主人の食卓から落ちるパンくずをいただく子犬のように受取ることができた。 32節 イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた、「この群衆がかわいそうである。もう三日間もわたしと一緒にいるのに、何も食べるものがない。しかし、彼らを空腹のままで帰らせたくはない。恐らく途中で弱り切ってしまうであろう」。 それだけではなく、イエスはユダヤ人に行った食事を給するみわざを異邦人にも行われた。五千人の場合の発言者は弟子であったが、ここではイエスである。群衆は「何も食べるものがない」というのは、その中に「遠くからきている者」(マルコ8:3)がいたという意味で、彼らがすべて三日間断食していたわけではないだろう。しかし、イエスは彼らを空腹のまま帰らせることは途中が心配でできなかった。 33節 弟子たちは言った、「荒野の中で、こんなに大ぜいの群衆にじゅうぶん食べさせるほどたくさんのパンを、どこで手に入れましょうか」。 五千人の時の奇跡からあまり時間がたっていないのに、弟子たちは忘れたのか。 34節 イエスは弟子たちに「パンはいくつあるか」と尋ねられると、「七つあります。また小さい魚が少しあります」と答えた。 前回は弟子たちが率先してイエスに話したのに対し、ここではイエスが率先して弟子たちに聞かれている。 35節 そこでイエスは群衆に、地にすわるようにと命じ、 36節 七つのパンと魚とを取り、感謝してこれをさき、弟子たちにわたされ、弟子たちはこれを群衆にわけた。 前回と同じく感謝の祈りのち、弟子たちが群衆に配った。 37節 一同の者は食べて満腹した。そして残ったパンくずを集めると、七つのかごにいっぱいになった。 14章に出てくる「かご」は、パンかごを意味するコフィース(κοφινοs)で、ユダヤ人が旅をする時に使っていたもので、ちりがかごに入らないように、おおいがついていた。しかし、ここの「かご」は、灯心草で作った異邦人が持ち歩いていた魚かごを意味するスプリス(σπμριs)が使われている。ここからもこの奇跡が異邦人に対するものであったと推測できる。 38節 食べた者は、女と子供とを除いて四千人であった。 「女と子供とを除いて」14:21 39節 そこでイエスは群衆を解散させ、舟に乗ってマガダンの地方へ行かれた。 「マガダンの地方」湖の西岸にあるマグダラか、メギドであるか明らかでない。 (2020/01/16)
[1] 出エジプト20:12 「あなたの父と母を敬え。これは、あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く生きるためである。」 出エジプト21:17 「自分の父または母をのろう者は、必ず殺されなければならない。 」
[2] イザヤ29:13 「主は言われた、 「この民は口をもってわたしに近づき、 くちびるをもってわたしを敬うけれども、 その心はわたしから遠く離れ、 彼らのわたしをかしこみ恐れるのは、 そらで覚えた人の戒めによるのである。 」
マタイによる福音書略解
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