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マタイによる福音書16章

時のしるし(16:1-4)  マルコ8:11-13、ルカ11:16
イエスがキリスト(メシヤ)であることを証明するしるし
1節 パリサイ人とサドカイ人とが近寄ってきて、イエスを試み、天からのしるしを見せてもらいたいと言った。
   宗教的立場が異なるパリサイ人とサドカイ人が協力してイエスを陥れようとした。
2節 イエスは彼らに言われた、「あなたがたは夕方になると、『空がまっかだから、晴だ』と言い、
   パリサイ人とサドカイ人は、空模様によって天候を正確に予想するのに霊的能力に欠け、不正確である。
3節 また明け方には『空が曇ってまっかだから、きょうは荒れだ』と言う。あなたがたは空の模様を見分けることを知りながら、時のしるしを見分けることができないのか。
   パリサイ人たちはイエスの話を聞こうとしないし、「時のしるし」を見分けることができないため、
   今が悔い改めの時であることが分からないし、神の審判が彼らの上に臨むことに気が付かない。
4節 邪悪で不義な時代は、しるしを求める。しかし、ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられないであろう」。そして、イエスは彼らをあとに残して立ち去られた。
   しるしを求めるということは、人が神をためすことで、「邪悪で不義な時代」と呼ぶべきものである。

パン種(16:5-12)  マルコ 8:14-21
イエスは弟子たちの心ににパリサイ人とサドカイ人のパン種(考え方、生き方)が入らないように注意した。
5節 弟子たちは向こう岸に行ったが、パンを持って来るのを忘れていた。
   一行の食事を用意するのは弟子たちの仕事だった
   特に異邦人の地に行くときは、その地の食べ物が口に入らないように注意した。
6節 そこでイエスは言われた、「パリサイ人とサドカイ人とのパン種を、よくよく警戒せよ」。
  「パン種」はパリサイ人の誤った教え。
7節 弟子たちは、これは自分たちがパンを持ってこなかったためであろうと言って、互に論じ合った。
   弟子たちはイエスの警告を食物を持ってくるのを忘れたことをとがめられたと思って互いに反省した。
   イエスの言葉によらない反省からは生産的なものは生まれてこない。
8節 イエスはそれと知って言われた、「信仰の薄い者たちよ、なぜパンがないからだと互に論じ合っているのか。
   弟子たちは、この時のパンのことだけを考えていた。
9節 まだわからないのか。覚えていないのか。五つのパンを五千人に分けたとき、幾かご拾ったか。
   弟子たちはわずかのパンで5千人の群衆を養われたことを考えていなかった。
10節 また、七つのパンを四千人に分けたとき、幾かご拾ったか。
   またわずかのパンで4千人の群衆を養われたことを考えていなかった。
11節 わたしが言ったのは、パンについてではないことを、どうして悟らないのか。ただ、パリサイ人とサドカイ人とのパン種を警戒しなさい」。
   イエスは「パン」のことではなく「パン種」に注意するようにと言ったのだ。
   「パン種」が焼けるにしたがい大きく膨らむように間違った教えに気を付けるように。
12節 そのとき彼らは、イエスが警戒せよと言われたのは、パン種のことではなく、パリサイ人とサドカイ人との教のことであると悟った。
   イエスの言葉は聞く人の心の内に恵みをもたらす真理の力であるから、
   パリサイ人やサドカイ人の間違った教えは必要ないし、入り込まないように注意しなければならない。

ペテロの信仰告白(16:13-20)  マルコ 8:27-33、ルカ9:18-22
ペテロのがイエスをキリスト(メシヤ)であると告白する。
イエスはペテロの信仰を称賛し、ペテロの信仰の上に新しい教会を建てると言われた。
13節 イエスがピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、弟子たちに尋ねて言われた、「人々は人の子をだれと言っているか」。
   ヘルモン山のふもと、ユダヤ北端の村、パネアスという地名を分封王ピリポが自分の名をつけた。
14節 彼らは言った、「ある人々はバプテスマのヨハネだと言っています。しかし、ほかの人たちは、エリヤだと言い、また、エレミヤあるいは預言者のひとりだ、と言っている者もあります」。
   ヨハネとエリヤはメシヤの出現に関係が深いと考えられていた。 [1]
エレミヤはメシヤ時代とは特に関係があるとは考えられていなかったが、マタイは最大の預言者のひとりとして名をくわえている。
15節 そこでイエスは彼らに言われた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。
   弟子たちをここに連れてきた目的は彼らにこの質問をするためだった。
   信仰告白はイエスに対する信頼の表明であり、告白者自身の個人的な問題である。
   「あなたがたはわたしをだれと言うか」イエスのこの質問は人類が始まって以来の最初の質問だった。
16節 シモン・ペテロが答えて言った、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。
   他の弟子たちがどう答えていいか躊躇していたとき、ペテロが「あなたこそ、生ける神の子キリストです」と答えた。
17節 すると、イエスは彼にむかって言われた、「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である。
  「バルヨナ・シモン」バルはアラム語でむすこ。ヨナの子 
   このペテロの信仰告白は、彼自身のものだが、イエスは彼にそうさせたのは、「血肉ではなく、天にいますわたしの父」であると教えられた。
   「血肉」は人間のこと。ユダヤ人は神と対比して人間をこのように言った。(ガラテヤ1:16)
   神と天の王国の福音について証する力は天父からもたらされる。
18節 そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。
   この時イエスはシモンにペテロという名前を与えられたのである。
   ペテロはアラム語のギリシャ語訳、ケパすなわち岩という意味。
   「この岩」はペテロという人物ではなく、ペテロの信仰告白を指している。
   天国に対する「黄泉の力」も教会に打ち勝つことができない。
19節 わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」。
   イエスはペテロに「天国のかぎ」すなわち神権をさずけられた。
   その権威によって、地上でつなぐことは天国においてもつながれ、地上で解くことは天国においても解かれる。
20節 そのとき、イエスは、自分がキリストであることをだれにも言ってはいけないと、弟子たちを戒められた。
   イエスは、人々が信仰によらないで、安易に同調することを好まれなかったからである。

十字架の預言(1)(16:21-28)  マルコ 8:27-33、ルカ9:18-27
イエスの受難と死と復活について弟子たちに明らかにする。

21節  この時から、イエス・キリストは、自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえるべきことを、弟子たちに示しはじめられた。
   「この時から」とはペテロの「あなたこそ、生ける神の子キリストです」という信仰告白の後のこと。この部分をマルコ8:31では「人の子は」とし、世にメシヤとして受け入れられず、かえって受難と死をもって報いられたイエスを表現しているが、マタイはイエスが復活した後のキリストの立場から「イエス・キリストは」と語っている。 「必ず」イエスの受難と死は、キリストとしての使命を果たす必然であった。「長老、祭司長、律法学者」はユダヤ人議会(サンヒドリン)を構成する階級。 その議会で「苦しみを受け」侮辱され、違法な裁判によって死の宣告を受け、「殺され」罪人として処刑される。 そして「三日目によみがえる」イエスの完全な死からの復活が実現する。
22節 すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめ、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」と言った。
   ペテロはイエスがキリストであると告白したが、この時点ではキリストの死を理解していなかった。  死だけが耳に入って、復活については聞こえなかったことも考えられる。
23節 イエスは振り向いて、ペテロに言われた、「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。
   イエスは、ペテロの言葉をサタンのものと同一視して、「引きさがれ」と言われた。 ペテロはイエスの受難と死が神のご計画であると思わないで、人の判断で救いの道を阻止しようとしたのである。
24節 それからイエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。
   イエスは弟子の道を示された。それは悔い改めて従う者にとっての招きである。 イエスへの服従は、自由意志により、「自分を捨て」自分をむなしくする。 そして誇りを捨て、これ見よがしな愛の実行ではなく「自分の十字架」を負うこと。 イエスの十字架とイエスに従う者の十字架は区別しなければならない。
25節 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。
   自分で自分を生かそうと思う者は、神による永遠の命を得ることができない。 しかし、イエスの言葉によって自分を生かそうと思う者は、永遠の命を得る。
26節 たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。
   成功と名誉を得て「全世界をもうけて」も世界の奴隷にされてしまったら、 「自分の命」すなわち自分であることを失って、どんな代価を払っても失われた自分を「買いもどす」ことはできない。
27節 人の子は父の栄光のうちに、御使たちを従えて来るが、その時には、実際のおこないに応じて、それぞれに報いるであろう。
   イエスはここで、人の子としての謙遜な姿の他に、神の子のとしての、「父の栄光のうちに、御使たちを従えて来る」審判者としての姿も示した。
28節 よく聞いておくがよい、人の子が御国の力をもって来るのを見るまでは、死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる」。
   弟子たちの中にはイエスの再臨の時にまだ存命者がいると言い、弟子たちの目をさまそうとされた。



(2019/04/06)


[1]  「見よ、主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす。」(マラキ4:5)


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