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マタイによる福音書17章

変貌の山(17:1-8)  マルコ9:2-8、ルカ9:28-36
イエスの神性を示す出来事
1節 六日ののち、イエスはペテロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。
   「六日ののち」表徴的表現。 [1]
   三人の愛弟子のみを伴った。「高い山」タボル山もしくはヘルモン山と推測される。
2節 ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった。
   「イエスの姿が変り」変貌メテモルフォセーとは貌モルフェと変わるメタバイノーの合成語。
   パウロが、神の貌モルフェであったキリストが人間の姿になったと言っている [2] ことのちょうど逆のことがここで起こっている。
   すなわち人の姿のイエスが神の貌に変わった。
   白い衣は祭司の礼服で、イエスが大祭司であることを示す。
3節 すると、見よ、モーセとエリヤが彼らに現れて、イエスと語り合っていた。
   旧約の代表である「モーセとエリヤ」と新約の主であるイエスが「語り合っていた。」
   ルカによるとイエスの贖いの死のことであった。 [3]
4節 ペテロはイエスにむかって言った、「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。もし、おさしつかえなければ、わたしはここに小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」。
   ペテロは終末の日が目前に迫ったと考え、喜びのあまりこう叫んだ。
   イエスのエルサレム行きを喜ばない弟子の気持ちが、イエスを小屋に縛り付けておこうという思いがでている。
5節 彼がまだ話し終えないうちに、たちまち、輝く雲が彼らをおおい、そして雲の中から声がした、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け」。
   「輝く雲」神の栄光。「雲の中から」人の言葉と異なる神の言葉の表現
6節 弟子たちはこれを聞いて非常に恐れ、顔を地に伏せた。
   「顔を地に伏せた」罪ある人間は神の栄光を直視することができない。
7節 イエスは近づいてきて、手を彼らにおいて言われた、「起きなさい、恐れることはない」。
   イエスは弟子たちにやさしく手を置いて言った。
8節 彼らが目をあげると、イエスのほかには、だれも見えなかった。
   弟子たちはイエスの栄光が永続することを願ったが、地上ではかいま見ることができるものに過ぎなかった。
   しかし弟子たちの心には変貌のイエスが消えることがなかった。

エリヤと人の子(17:9-13)  マルコ 9:9-13
イエスは弟子のユダヤ的なメシヤ像を正した。
9節 一同が山を下って来るとき、イエスは「人の子が死人の中からよみがえるまでは、いま見たことをだれにも話してはならない」と、彼らに命じられた。
   イエスは復活前に、弟子たちがイエスの変貌の意味を正しく理解することは思わなかった。
   そのため不用意に他人に語らないように命じられた。
   「よみがえる」は受け身形になっている。イエスの復活は神によるものだから。
10節 弟子たちはイエスにお尋ねして言った、「いったい、律法学者たちは、なぜ、エリヤが先に来るはずだと言っているのですか」。
   律法学者はメシヤが来る前にエリヤが再来すると言い伝えていた。
   エリヤはまだ再来していない。したがってイエスはメシヤでないと律法学者は主張していた。
11節 答えて言われた、「確かに、エリヤがきて、万事を元どおりに改めるであろう。
   イエスは律法学者のエリヤ再来の説を否定しない。
12節 しかし、あなたがたに言っておく。エリヤはすでにきたのだ。しかし人々は彼を認めず、自分かってに彼をあしらった。人の子もまた、そのように彼らから苦しみを受けることになろう」。
   イエスはバプテスマのヨハネをエリヤの再来と認めた。
   しかし人々はヨハネの使命を理解しなかった。
   ヨハネがヘロデヤによって殺されたことは、エリヤがイゼベルによって苦しめられたのと似ている。
13節 そのとき、弟子たちは、イエスがバプテスマのヨハネのことを言われたのだと悟った。
   弟子たちはバプテスマのヨハネがエリヤの再来だと悟り、イエスを信じた。

山の下にて(17:14-21)  マルコ 9:14-29、ルカ9:37-43
イエスが山の上にいる間に下で弟子たちと群衆の間で起きていたことについて。。

14節 さて彼らが群衆のところに帰ると、ひとりの人がイエスに近寄ってきて、ひざまずいて、言った、
   弟子たちがてんかんの子のいやしを求められて困っていた。
15節 「主よ、わたしの子をあわれんでください。てんかんで苦しんでおります。何度も何度も火の中や水の中に倒れるのです。
   「てんかん」はユダヤに多い風土病の一つ。悪霊のしわざと考えられていた。
16節 それで、その子をお弟子たちのところに連れてきましたが、なおしていただけませんでした」。
   弟子たちにはいやすことができず、イエスが来るのを待っていた。
17節 イエスは答えて言われた、「ああ、なんという不信仰な、曲った時代であろう。いつまで、わたしはあなたがたと一緒におられようか。いつまであなたがたに我慢ができようか。その子をここに、わたしのところに連れてきなさい」。
   「不信仰な、曲った時代」弟子の無能力、父親の疑い、群衆の冷淡、この場に希望はないかのようだ。
   しかしイエスの「その子をここに、わたしのところに連れてきなさい」と言う言葉に希望が光が見える。
18節 イエスがおしかりになると、悪霊はその子から出て行った。そして子はその時いやされた。
   病の根源である悪霊を「おしかりになる」と子供はいやされた。
19節 それから、弟子たちがひそかにイエスのもとにきて言った、「わたしたちは、どうして霊を追い出せなかったのですか」。
   信仰がないといやしの力が働かない。
20節 するとイエスは言われた、「あなたがたの信仰が足りないからである。よく言い聞かせておくが、もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山にむかって『ここからあそこに移れ』と言えば、移るであろう。このように、あなたがたにできない事は、何もないであろう。
   「からし種」のような小さい信仰さえあればできないことは何もない。
21節 〔しかし、このたぐいは、祈と断食とによらなければ、追い出すことはできない〕」。
   「祈と断食」山を動かす信仰は上より受け取らなければならない。

十字架の預言2(17:22-23)  マルコ 9:30-32、ルカ9:43、45
ガリラヤに帰り、イエスの死について弟子たちに語られたこと。
22節 彼らがガリラヤで集まっていた時、イエスは言われた、「人の子は人々の手にわたされ、
   ガリラヤに「集まっていた」イエスを中心として一団となっていた。
23節 彼らに殺され、そして三日目によみがえるであろう」。弟子たちは非常に心をいためた。
   「弟子たちは非常に心をいためた」復活を信じないで死のみ見ている。

宮の納入金(17:24-27)
イエスは神の子だから宮に納入する [4] 必要はないが、隣人をつまずかせないために、納入して神の子の自由を示された。
24節 彼らがカペナウムにきたとき、宮の納入金を集める人たちがペテロのところにきて言った、「あなたがたの先生は宮の納入金を納めないのか」。
   祭司を除く20歳以上のユダヤ人は毎年「宮の納入金」としてひとり半シケル納める。
   半シケル税とも呼ばれギリシャ語でドラクマと訳される。一日の労賃1デナリに相当する。
25節 ペテロは「納めておられます」と言った。そして彼が家にはいると、イエスから先に話しかけて言われた、「シモン、あなたはどう思うか。この世の王たちは税や貢をだれから取るのか。自分の子からか、それとも、ほかの人たちからか」。
   イエスはこの世の義務をないがしろにされない。
   イエスはペテロの屈託のある顔を見て問いかけた姿に深い思いやりがうかがわれる。
   王が「税や貢」を取り立てるのは自分の子からではなく、国民からである。
26節 ペテロが「ほかの人たちからです」と答えると、イエスは言われた、「それでは、子は納めなくてもよいわけである。
   王の王である神の子イエスは、神の宮に税を「納めなくてもよいわけである。」
27節 しかし、彼らをつまずかせないために、海に行って、つり針をたれなさい。そして最初につれた魚をとって、その口をあけると、銀貨一枚が見つかるであろう。それをとり出して、わたしとあなたのために納めなさい」。
   イエスは自分のために奇跡を行うと思われないように、漁師だったシモンに魚をとって、
   銀貨一枚を「わたしとあなたのために」と言って納めさせた。シモンを思う気持ちが溢れている。


(2019/04/06)


[1]  「こうしてモーセは山に登ったが、雲は山をおおっていた。 主の栄光がシナイ山の上にとどまり、雲は六日のあいだ、山をおおっていたが、七日目に主は雲の中からモーセを呼ばれた。」(出エジプト24:15-16)

[2] 「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、 かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、」(ピリピ 2:6-7)

[3]  「栄光の中に現れて、イエスがエルサレムで遂げようとする最後のことについて話していたのである。」(ルカ9:31)

[4]  「主はモーセに言われた、 「あなたがイスラエルの人々の数の総計をとるに当り、おのおのその数えられる時、その命のあがないを主にささげなければならない。これは数えられる時、彼らのうちに災の起らないためである。 すべて数に入る者は聖所のシケルで、半シケルを払わなければならない。一シケルは二十ゲラであって、おのおの半シケルを主にささげ物としなければならない。 すべて数に入る二十歳以上の者は、主にささげ物をしなければならない。」(出エジプト30:11-14)


マタイによる福音書略解                                                                                                                
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