17章
19章
マタイによる福音書18章
小さい者のひとり(18:1-14) マルコ9:33-50、ルカ9:46-50 弟子達の間でだれが天国で一番偉いかという議論が起きたとき、イエスは幼子のような人と教えられた。 1節 そのとき、弟子たちがイエスのもとにきて言った、「いったい、天国ではだれがいちばん偉いのですか」。 イエスと弟子たちがカペナウムに来る途中、弟子たちの間で「だれが一ばん偉いかと、互に論じ合っていた」(マルコ9:34)。それでこの問いが発せられた。 2節 すると、イエスは幼な子を呼び寄せ、彼らのまん中に立たせて言われた、 近くで遊んでいた幼児をイエスが呼ぶと近寄ってきた。 3節 「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。 天国に入るのに、資格がいるとすれば古い自分の志向や慣習を絶対化することをやめ「心をいれかえて」天国の目標に向きを変え、悔い改めることだけである。「幼な子」は見栄を張らず、受容性があり、目標に向かってまっすぐに進む。 4節 この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。 イエスは幼子の属性として「自分を低くする」こと、すなわち謙遜をあげている。天国でいちばん偉い人は、自分を低くする者である。 5節 また、だれでも、このようなひとりの幼な子を、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。 「このようなひとりの幼な子」とは、世の価値観で見ると低い者を示す。世の人々はそのような者を受け入れようとはしない。しかし、「わたしの名のゆえに」イエスと自分を比較した時、いかに自分が低い者、小さい者であるかを知るので、イエスを受け入れる者は、世の低い者、小さい者を受け入れることができる。 イエスの名のゆえに幼な子を受け入れることは、神の名によって幼子の存在を認めることで、子供は親の従属物と考えられていた時代に革命的な宣言であった。 6節 しかし、わたしを信ずるこれらの小さい者のひとりをつまずかせる者は、大きなひきうすを首にかけられて海の深みに沈められる方が、その人の益になる。 しかし、へりくだりを怠ると、他のイエスを信ずる謙遜な者をつまずかせることになる。つまずかせるとは罪を犯させるということで、人に罪を犯す機会を与え、信仰の歩みを止めさせるように促してしまう。これは神のさばきに値する非常に重大な罪である。イエスはこのことを非常に深刻に考え、そのさばきは、大きい石臼を首にかけられて湖の底で溺れ死ぬような残酷な死に方よりもさらにひどいものであると、弟子たちに警告した。 7節 この世は、罪の誘惑があるから、わざわいである。罪の誘惑は必ず来る。しかし、それをきたらせる人は、わざわいである。 この世は人をつまずかせる事に満ちている。人々に罪を犯させ、キリストを信じなくさせるものが溢れている。しかし、キリストを信じるということで嫌がらせを受けたり、馬鹿にされたりするとき、また試練に会うときは、苦しいが罪を犯すことはあまりない。むしろ、主と天の御国を求める信仰が強くなる。気を付けなければならないのは、教会の中で罪があったり、妥協があると、たちまち教会の力は失われることだ。それがパン種となって大きくふくらむからだ。したがって、つまずきをもたらす者はわざわいであるとイエスは教えている。 8節 もしあなたの片手または片足が、罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。両手、両足がそろったままで、永遠の火に投げ込まれるよりは、片手、片足になって命に入る方がよい。 9節 もしあなたの片目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。両眼がそろったままで地獄の火に投げ入れられるよりは、片目になって命に入る方がよい。 体の一部のが、小さい者をつまづかせる原因となるなら、全身を救うためにその体の一部を捨なさい。小さい者に罪を犯させるという重大な罪によって滅びに入るよりは、片目、片手、片足になって救いに入る方がよい。(5:29-30参照比較) 人は自分自身がつまづいたことにはよく気が付くが、自分の手、足、目のような己の考え、価値観が、人をつまづかせていることにはなかなか気が付かないものだ。自分自身を吟味し、人をつまづかせる考えや言動をしないように、イエスを模範とし、その教えに忠実にしたがうべきだ。 10節 あなたがたは、これらの小さい者のひとりをも軽んじないように、気をつけなさい。あなたがたに言うが、彼らの御使たちは天にあって、天にいますわたしの父のみ顔をいつも仰いでいるのである。〔 イエスは弟子たちが、小さい者に対する尊敬の念を呼び起こす教えのために、人には一人ずつ「彼らの御使たち」守護天使がついているというユダヤの民俗信仰を使った。その天使は神のみ顔を仰いで、父なる神の恵みが彼の守護する小さい者の上にあることを願い見守っている。もし小さい者につまづきをもたらすがいたら、神からの滅びが天使によってもたらせるだろう。 11節 人の子は、滅びる者を救うためにきたのである。〕 しかし、父なる神は一人も滅びることを望まれない。実に父なる神は、「滅びる者」神から離れ地獄の火に投げ入れられる者を救うため、ひとり子を送ってくださったのである。 12節 あなたがたはどう思うか。ある人に百匹の羊があり、その中の一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、その迷い出ている羊を捜しに出かけないであろうか。 滅びる者を救うためにきた人の子は、羊飼いが「迷い出ている羊」を捜しに出かけるように、霊的に迷い出た助けと救いをもっとも必要としている罪人、取税人のような人々を真剣に捜すだろう。 13節 もしそれを見つけたなら、よく聞きなさい、迷わないでいる九十九匹のためよりも、むしろその一匹のために喜ぶであろう。 そしてその救いを必要としているひとりの人が悔い改めれば、神は迷い出た羊を見つけた羊飼いのように喜び勇むだろう。 14節 そのように、これらの小さい者のひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではない。 そのように神はご自分と人を切り離す罪をひどく憎んでおられ、謙遜に悔い改める者がひとりでも滅びることを望んでおられない。 兄弟の罪(18:15-20) ルカ17:3 兄弟の罪に対してとるべき態度 15節 もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、行って、彼とふたりだけの所で忠告しなさい。もし聞いてくれたら、あなたの兄弟を得たことになる。 「あなたの兄弟が罪を犯すなら」あなたに対して罪を犯すなら。「彼とふたりだけの所で」第三者に告げないで、直接本人と顔を会わせて話す。これが罪を解決するための最上の方法である。「得たことになる」ふたたび友人としての交わりを回復する。あるいは天国の一員として獲得する。 16節 もし聞いてくれないなら、ほかにひとりふたりを、一緒に連れて行きなさい。それは、ふたりまたは三人の証人の口によって、すべてのことがらが確かめられるためである。 個人的な話し合いで解決できない場合は、人を立てて聞いてもらいなさい。和解の協議には、「ふたりまたは三人の証人」を立てることが戒め(申命19:15 [1] )に定められている。 17節 もし彼らの言うことを聞かないなら、教会に申し出なさい。もし教会の言うことも聞かないなら、その人を異邦人または取税人同様に扱いなさい。 証人を立てて談義しても聞かなければ教会に訴えなさい。それでもなお聞かないときは、教会の交わりから放逐しなさい。「教会」という言葉は16:18 [2] とここだけに用いられているが、マタイによる福音書では弟子の団体という意味である。 18節 よく言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天でも皆つながれ、あなたがたが地上で解くことは、天でもみな解かれるであろう。 16:19 [3] 参照 19節 また、よく言っておく。もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。 「地上で心を合わせる」祈りは本来密室で個人的に行うもの。しかし公同の祈りも忘れてはならない。祈りの目的は祈るものの願いがかなえられることではなく、神の願いが実現するために祈るものの心を開くことである。そのような祈りを心を一つにして行うとき、私たちは天で行われている神の現実を見ることができる。 20節 ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」。 人がキリストの名のもとに集まる目的は、私たちの中におられるキリストを知ることである。祈りの中、賛美のなか、聖書の学びの中、会話の中で、キリストはご自分を私たちに示してくださる。私たちの交わりは、御父と御子との交わりであるのだから [4] 。 あわれみのない僕(18:21-35) ルカ17:4 ペテロが兄弟の罪をゆるす回数についてイエスに質問したところ悪い僕の譬をもって答えられた。 21節 そのとき、ペテロがイエスのもとにきて言った、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」。 前項の兄弟の罪についての教えが、ペテロにこのような質問をさせるようになった。「七たびまでですか」七はユダヤ人の完全数であり、思いきり多く言ったつもりを表している。 22節 イエスは彼に言われた、「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい。 「七たびを七十倍」人間の道徳の完全性によっては、失われた人との関係は回復されない。七たびを七十倍する人間の道徳の限界を超えたところで回復される。人間に道徳の限界を越えさせるものはイエスにおいて示された神のゆるしである。 23節 それだから、天国は王が僕たちと決算をするようなものだ。 以下では他を許さなかった悪い僕の譬となっている。神の許しを信じない者は人間の道徳をさえ完成することができない。「王」神の譬。天国は神の前において行われるわれわれの「決算」である。 24節 決算が始まると、一万タラントの負債のある者が、王のところに連れられてきた。 「一万タラント」巨額の負債である。横領によるものだろう。 25節 しかし、返せなかったので、主人は、その人自身とその妻子と持ち物全部とを売って返すように命じた。 主人に負債を作った僕は、その償いのため奴隷に売られるのが普通であった(アモス2:6,ネヘミヤ5:4-5)。 26節 そこで、この僕はひれ伏して哀願した、『どうぞお待ちください。全部お返しいたしますから』。 27節 僕の主人はあわれに思って、彼をゆるし、その負債を免じてやった。 王のこのような許し方は世間離れしているが、われわれの想像をはるかにこえた神の罪びとに対する許しを表している。 28節 その僕が出て行くと、百デナリを貸しているひとりの仲間に出会い、彼をつかまえ、首をしめて『借金を返せ』と言った。 「ひとりの仲間」僕がこの仲間に貸していた「百デナリ」は、この僕が王から借り、しかも許された負債に比べると極些細なものであった。1デナリは当時の一日分の労賃に相当した。1タラントは6000デナリに相当する。 29節 そこでこの仲間はひれ伏し、『どうか待ってくれ。返すから』と言って頼んだ。 30節 しかし承知せずに、その人をひっぱって行って、借金を返すまで獄に入れた。 僕が仲間に少しの同情も示さず赦せなかったのは、自分がどれほど王から愛されているかを知らなかったからだ。彼は、「どうぞお待ちください。全部お返しいたしますから」と言ったが、自分が払いきれない負債を負っていることを理解していなかった。だから、100デナリの借金をしている兄弟を赦せなかったのである。 31節 その人の仲間たちは、この様子を見て、非常に心をいため、行ってそのことをのこらず主人に話した。 人間は世の不義に対しては義憤を感じる。 32節 そこでこの主人は彼を呼びつけて言った、『悪い僕、わたしに願ったからこそ、あの負債を全部ゆるしてやったのだ。 33節 わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか』。 34節 そして主人は立腹して、負債全部を返してしまうまで、彼を獄吏に引きわたした。 35節 あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのようになさるであろう」。 神と人間の関係は、人間と人間の関係とは無関係に成立しない。イエスにおいて完成をみている神のゆるしは、人がその兄弟を許すときに、はじめてその人のものになるのであって、それまでは神の許しはその人のものにはならない。われわれはすべからく一万タラントの負債を持っていたが、神はそれを全部赦してくださったということを理解しなければならない。キリストにある神の赦しを知るとき、他の兄弟を赦すことができる。 (2010/01/26)
[1] 申命19:15 「どんな不正であれ、どんなとがであれ、すべて人の犯す罪は、ただひとりの証人によって定めてはならない。ふたりの証人の証言により、または三人の証人の証言によって、その事を定めなければならない。」
[2] マタイ16:18 「そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。」
[3] マタイ16:19 「わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」。
[4] 1ヨハネ1:3 「すなわち、わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。それは、あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである。」
マタイによる福音書略解
| 1章 | 2章 | 3章 | 4章 | 5章 | 6章 | 7章 | 8章 | 9章 | 10章 | 11章 | 12章 | 13章 | 14章 |
| 15章 | 16章 | 17章 | 18章 | 19章 | 20章 | 21章 | 22章 | 23章 | 24章 | 25章 | 26章 | 27章 | 28章 |