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マタイによる福音書26章

祭司長たちの策略(1-5)  マルコ14:1-2、ルカ22:1-2
祭司長たちはイエスを殺そうとたくらむ。
ここからイエスの受難となる。

1節 イエスはこれらの言葉をすべて語り終えてから、弟子たちに言われた。
  「これらの言葉」24章と25章の教え、またはこれまで語ったすべての教え。
2節 「あなたがたが知っているとおり、ふつかの後には過越の祭になるが、人の子は十字架につけられるために引き渡される」。
  「過ぎ越しの祭り」はアビブの月(ニサン-4月)の14日から21日に行われ、各地からの巡礼者がエルサレムに集まる。
3節 そのとき、祭司長たちや民の長老たちが、カヤパという大祭司の中庭に集まり、
  カヤパは紀元18年から36年に大祭司だった。彼らは正式な議会を開いたのではなく、密会して陰謀を企てた。
4節 策略をもってイエスを捕えて殺そうと相談した。
  ユダヤ議会には死刑執行の権限が無かったので、策略をめぐらす必要があった。
5節 しかし彼らは言った、「祭の間はいけない。民衆の中に騒ぎが起るかも知れない」。
  陰謀を祭りの間に実行すると、イエスをメシヤと思っている民衆が暴動を起こす危険があった。
  そこで、祭りが終わり、民衆が帰郷してから折を見て実行することにした。

葬りの用意(6-13)  マルコ14:3-9、ルカ7:36-50
ベタニヤのらい病人シモンの家で、ひとりの女がイエスに香油を注ぐ
(ルカでは、この話の舞台がパリサイ人の家になっている。)
21:17でベタニヤに行き、泊まった時のことかもしれない。

6節 さて、イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられたとき、
   イエスがらい病人の家に入られたので、群衆は近づいて来なかっただろう。女にとっては都合がよかった。
7節 ひとりの女が、高価な香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、イエスに近寄り、食事の席についておられたイエスの頭に香油を注ぎかけた。
   この女はヨハネによる福音書によるとラザロの姉妹マリヤかもしれない。
   この香油はインド原産のナルドで、サンスクリットのかぐわしいという意味のナラダーに由来する大変高価なものだった。
8節 すると、弟子たちはこれを見て憤って言った、「なんのためにこんなむだ使をするのか。
   弟子たちの怒りは、常識的には正しいことであった。
9節 それを高く売って、貧しい人たちに施すことができたのに」。
   世の救い主への尊敬と愛のない者には、高貴な信仰の行為も無駄使いにしか見えない。
   マルコ14:5によると300デナリ以上で売れるものだった。それはひとりの労働者の一年分の賃金にあたった。
10節 イエスはそれを聞いて彼らに言われた、「なぜ、女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。
   女は無意識にこの行為を行ったかもしれない、しかしそれはみ霊にうながされた信仰の行為だった。
   イエスは真の意味を理解されていた。
11節 貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。
   弟子たちは群衆とともにいることができるが、イエスはその使命を全うするために死ななければならない。
12節 この女がわたしのからだにこの香油を注いだのは、わたしの葬りの用意をするためである。
   この時点では使徒たちですら、イエスの間近せまっている受難と死を肯定できずにいた。
   女がイエスの死の意味を教えられ、それを肯定していたわけではないだろう。
   しかし、女のイエスに対する愛による洞察が、この行動を自然に起こさせたに違いない。
   (男は論理の積み重ねで考え、女は直感で行動する。その端的な例がこの話しだ。)
   イエスはそれを理解され、女が行ったことはイエスは葬りの用意のためであると宣言した。
13節 よく聞きなさい。全世界のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう」。
   イエスの死を洞察し葬りの用意をした女の行為はまことに美しいものだった。
   この話はイエスの受難の話とともに聖書を通して、代々のクリスチャンに語り継がれる。

ユダの裏切り(14-16)  マルコ14:10-11、ルカ22:3-6
祭司長たちは民衆を恐れて、陰謀の実行を祭りが終わってからということにして機会をうかがっていた。
しかし、イエスの弟子のイスカリオテのユダが、祭司長たちにイエスを売ることを申し出た。
これによって陰謀を実行する時期が早まった。

14節 時に、十二弟子のひとりイスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところに行って
   ユダはイエスの頭に香油を注いだ女の行為に対するイエスの弁護に失望したのか、
   あるいはいつまでもメシヤとしてローマからの解放を実現しようとしないイエスに失望したのか、
   それは表向きの解釈と考えるべきであろう。
   イエスが贖い主としての使命を成し遂げるには、死によって完結する受難が前提であるが、
   天父もイエスご自身も直接悪にイエスの身を引き渡すことができない。
   エデンの園における蛇やヨブを試みに遭わせる役割を行うものを必要としていた。
   それがイスカリオテのユダだった。彼なしにイエスはキリストになりえなかった。
   そういう意味で彼は非常に重要な立場にあった。
15節 言った、「彼をあなたがたに引き渡せば、いくらくださいますか」。すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。
   ユダがイエスを裏切ったのは金のためではなかった。
   何か理由が必要だったためというのが妥当ではないか。
   銀貨三十枚は30シケル。奴隷ひとりの売買価格 [1] であり、預言に合わせた [2] とも考えられる。
16節 その時から、ユダはイエスを引きわたそうと、機会をねらっていた。
   2節によると過ぎ越しの祭りの期間ということになる。

最後の晩餐(17-29)  マルコ14:10-11、ルカ22:3-6
主の聖餐の制定

17節 さて、除酵祭の第一日に、弟子たちはイエスのもとにきて言った、「過越の食事をなさるために、わたしたちはどこに用意をしたらよいでしょうか」。
  「除酵祭」は「種なしパンの祝い」ともいう。過ぎ越しの祭りの一部で、昔ユダヤ人がエジプトを脱出する際、
   パン種を入れずにパンを焼いた故事を記念して七日間種なしパンを食べる。
   出エジプトの恵みを感謝し会食するのが習慣であった。
18節 イエスは言われた、「市内にはいり、かねて話してある人の所に行って言いなさい、『先生が、わたしの時が近づいた、あなたの家で弟子たちと一緒に過越を守ろうと、言っておられます』」。
   エルサレムにいるイエスの同情者が、一行の食事を用意したと思われる。
  「わたしの時が近づいた」、イエスが過ぎ越しの羊として世の罪のために殺される日が近づいたということ。
19節 弟子たちはイエスが命じられたとおりにして、過越の用意をした。
   弟子たちはイエスに言われたとおりをその人に言い、過ぎ越しの用意をした。
20節 夕方になって、イエスは十二弟子と一緒に食事の席につかれた。
   イエスはその家で弟子たちと食事の席についた。
21節 そして、一同が食事をしているとき言われた、「特にあなたがたに言っておくが、あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている」。
   ユダの顔色を見て、そう言ったのか。あるいは弟子たちに受難がどのように開始するか予告する時期と思い言ったのか。
22節 弟子たちは非常に心配して、つぎつぎに「主よ、まさか、わたしではないでしょう」と言い出した。
   イエスの思いもよらぬ突然の発言に弟子たちは非常に心配する。
   今後どのような事態になり、これまで予想もしなかった主を裏切ることになるのだろうか。
   先のことは分からない、自分は大丈夫だろうかという不安。
23節 イエスは答えて言われた、「わたしと一緒に同じ鉢に手を入れている者が、わたしを裏切ろうとしている。
   この時、ユダが鉢に手を入れていた。鉢には酢に香料を混ぜた汁が入っていて、これにパンを浸して食べる。
24節 たしかに人の子は、自分について書いてあるとおりに去って行く。しかし、人の子を裏切るその人は、わざわいである。その人は生れなかった方が、彼のためによかったであろう」。
   神の計画は人の思いや行動に関わらず行われる。ユダの行動は神の計画に必要なことではあるが、
   ユダ本人にとっては祝福というよりは、のろいのようなものであり、それをやらざるを得ない。
   それならむしろ生まれなかった方がユダにとってはよかったであろう。
25節 イエスを裏切ったユダが答えて言った、「先生、まさか、わたしではないでしょう」。イエスは言われた、「いや、あなただ」。
   イエスとユダの火花を散らすような対峙。ここにおいてユダは裏切りが、イエスのために必須であることを確信する。
26節 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「取って食べよ、これはわたしのからだである」。
   さかれたパンを食べる時、それが犠牲としてささげられるイエスの体の記念であることを覚えよ。
   そして進んで御子の御名を受け、御子が与えた戒めを守ることを父なる神に証明し、
   それによって、御子の御霊を受けるのである。
27節 また杯を取り、感謝して彼らに与えて言われた、「みな、この杯から飲め。
28節 これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。
   イエスの死はすべての人の贖いのための犠牲の死である。
   その盃から飲むとき、犠牲のために流された血の記念として飲み、御子を覚えていることを、父なる神に証明して、
   御子の御霊を受けるのである。
29節 あなたがたに言っておく。わたしの父の国であなたがたと共に、新しく飲むその日までは、わたしは今後決して、ぶどうの実から造ったものを飲むことをしない」。
   この食事はイエスと弟子たちの別れの食事であった。
   それと同時に父の国が打ち建てられる日にふたたびイエスは、皆と一緒に聖餐をとる予行でもあった。

弟子たちのつまづきの預言(30‐35)  マルコ14:26-31、ルカ22:31-34
ペテロの否認が予告される

30節 彼らは、さんびを歌った後、オリブ山へ出かけて行った。
   詩編から歌ったであろう。いつものようにオリブ山に出かけて行った。
31節 そのとき、イエスは弟子たちに言われた、「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずくであろう。『わたしは羊飼を打つ。そして、羊の群れは散らされるであろう』と、書いてあるからである。
   オリブ山に着くとイエスは、ゼカリヤ13:7 [3] を引用して弟子たちがつまづくことを予言された。
   ゲッセマネの園でイエスが祭司長たちに捕えられた時、羊である弟子たちは、羊飼いであるイエスを捨てて逃げたのである。
32節 しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先にガリラヤへ行くであろう」。
   弟子たちがガリラヤに帰る時、復活したイエスが先に行き、弟子たちをそこで待つ。
33節 するとペテロはイエスに答えて言った、「たとい、みんなの者があなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」。
   ペテロは、イエスが復活すると言ったことを喜ぶよりも、今夜皆がつまずくだろうという言葉に驚いて、自分は決してつまづかないとの決意を示した。
34節 イエスは言われた、「よくあなたに言っておく。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」。
   「鶏が鳴く前」とは、夜明け前ということ。
35節 ペテロは言った、「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません」。弟子たちもみな同じように言った。
   ペテロはイエスの言葉を信頼できなかった。ここまでイエスについてきて、つまずくことなど考えられないことだった。
   他の弟子たちも同様であった。

ゲッセマネの祈り(36‐46)  マルコ14:32-42、ルカ22:40-46
イエスのゲッセマネで祈り、すべての人の罪の贖いのために苦難を受けられる。
その苦難は肉体の苦痛ではなく、筆舌に尽くしがたいほどの心の苦痛である。
これは眠っていた弟子たちの回想録である。

36節 それから、イエスは彼らと一緒に、ゲツセマネという所へ行かれた。そして弟子たちに言われた、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここにすわっていなさい」。
   ゲッセマネはアラム語で「油しぼり」の意味。オリブ油のしぼり場があったのか。
37節 そしてペテロとゼベダイの子ふたりとを連れて行かれたが、悲しみを催しまた悩みはじめられた。
   イエスは祈っている間、近くにいるようにとペテロとゼベダイの子ふたり(ヤコブとヨハネ)を伴った。
38節 そのとき、彼らに言われた、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、わたしと一緒に目をさましていなさい」。
   贖いの苦難は独りで受けなければならない今、イエスは特に親しかった三人の弟子に近くにいてもらいたかった。
39節 そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。
   この苦難の杯は、荒野で40日間のサタンの誘惑に打ち勝ったイエスでさえ、打ち勝ちがたいほどの圧倒的な苦しみを伴うものである。
   その意味と目的をイエスの直接の弟子たちでさえ理解していない。
   できることなら飲まなくて済むようにしてほしいとが、イエスの思いで行うのではなく、あくまでも天父のみこころに従うという。
40節 それから、弟子たちの所にきてごらんになると、彼らが眠っていたので、ペテロに言われた、「あなたがたはそんなに、ひと時もわたしと一緒に目をさましていることが、できなかったのか。
   イエスが「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。」という時に弟子たちはなぜ眠ったのか。
   緊張と主の苦しみを思う深い憂い肉体の疲れの反動だろうか。
   その日の食事がイエスとの別れの食事となり、今夜弟子たちはイエスにつまづくと言われた。
   なんという悲しみだろうか。そういう時に眠ってしまったのである。
41節 誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。心は熱しているが、肉体が弱いのである」。
   疲れた体、悲しみや苦しみから解放する眠りに入るというということは、抗いがたい誘惑だ。
   それに打ち勝ち、精神の覚醒を維持するには祈りをもってするしかない。
42節 また二度目に行って、祈って言われた、「わが父よ、この杯を飲むほかに道がないのでしたら、どうか、みこころが行われますように」。
   イエスはふたたび天父のみこころに従うことを祈る。
43節 またきてごらんになると、彼らはまた眠っていた。その目が重くなっていたのである。
   はたして弟子たちは誘惑に陥らないように祈っていたのだろうか。それとも祈りながら眠ってしまったのだろうか。
44節 それで彼らをそのままにして、また行って、三度目に同じ言葉で祈られた。
   眠っている弟子たちをそのままにしていたイエスの深い理解。弟子たちはまだ本当の証しを得ていないのだ。
   イエスは天父に三度同じ言葉で祈る。
45節 それから弟子たちの所に帰ってきて、言われた、「まだ眠っているのか、休んでいるのか。見よ、時が迫った。人の子は罪人らの手に渡されるのだ。
   イエスはこのような時にまだ眠っているのかと驚かれる。
   「天の雲に乗って来る。」と言われたイエスが、「罪人らの手に渡される」と言う。それを聞いた弟子たちは、驚愕を持ってイエスと群衆を見た。
46節 立て、さあ行こう。見よ、わたしを裏切る者が近づいてきた」。
   イエスは近づいてくる群衆の中にユダを認めた。ついにその時が始まる。

イエス捕えられる(47‐56)  マルコ14:43-52、ルカ22:47-53
イエスが祭司長たちに捕えられる。

47節 そして、イエスがまだ話しておられるうちに、そこに、十二弟子のひとりのユダがきた。また祭司長、民の長老たちから送られた大ぜいの群衆も、剣と棒とを持って彼についてきた。
   確実にイエスを捕らえるためだろうユダが先導してきた。
そして、祭司長、長老たち、彼らの僕、宮の警護の者たちの群衆がユダについてきた。
48節 イエスを裏切った者が、あらかじめ彼らに、「わたしの接吻する者が、その人だ。その人をつかまえろ」と合図をしておいた。
   これまで衆目にその身を現してきたイエスの姿は、すぐに誰にでもわかるが、夜中なのであらかじめ合図を決めていた。
49節 彼はすぐイエスに近寄り、「先生、いかがですか」と言って、イエスに接吻した。
50節 しかし、イエスは彼に言われた、「友よ、なんのためにきたのか」。このとき、人々が進み寄って、イエスに手をかけてつかまえた。
   ルカによるとイエスはユダを「あなたは接吻をもって人の子を裏切るのか」と叱責しているが、
   マタイは、イエスはユダに「友よ、」と呼びかけたと書いている。
   それはユダが止むにやまれぬ状況で裏切者になったことに理解を示し愛情を込めて言った言葉である。
   イエスの無限無窮の愛。後でユダは罪のないものの血を売ったことを悔いることになる。
51節 すると、イエスと一緒にいた者のひとりが、手を伸ばして剣を抜き、そして大祭司の僕に切りかかって、その片耳を切り落した。
   大祭司の僕の片耳を切り落したものは、ヨハネ18:10によるとペテロだった。
   ルカは弟子たちが剣を持っていた理由を書いている。(ルカ22:36)
52節 そこで、イエスは彼に言われた、「あなたの剣をもとの所におさめなさい。剣をとる者はみな、剣で滅びる。
   弟子の暴力行為を戒められた。
53節 それとも、わたしが父に願って、天の使たちを十二軍団以上も、今つかわしていただくことができないと、あなたは思うのか。
   ローマの一軍団は約6千名の兵士で構成されていた。その12倍というのは完全な多数を意味する。
54節 しかし、それでは、こうならねばならないと書いてある聖書の言葉は、どうして成就されようか」。
   イエスが捕らえられるのは、すべて神のご計画によるのだ。それに反することは神のみ心に沿わない。
55節 そのとき、イエスは群衆に言われた、「あなたがたは強盗にむかうように、剣や棒を持ってわたしを捕えにきたのか。わたしは毎日、宮ですわって教えていたのに、わたしをつかまえはしなかった。
   祭司長たちが、夜分にこのようにしてイエスを捕らえたのは、彼らなりの事情があった。
   しかしイエスは、群衆が強盗に向かうかのように、自分たちは正しいことをやっていると思い込んでいることを非難した。
56節 しかし、すべてこうなったのは、預言者たちの書いたことが、成就するためである」。そのとき、弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げ去った。
   これによってイザヤ、詩編、申命、その他、預言者たちが書いたことが成就して行く。
   弟子たちはイエスが捕らえられたことに驚いて逃げてしまう。ここにおいてゼカリヤ13:7の預言が成就した。

サンヘドリンでの審問(57‐68)  マルコ14:53-65
ゲッセマネで捕らえられたイエスは、大祭司カヤパの前に連行され審問された。

57節 さて、イエスをつかまえた人たちは、大祭司カヤパのところにイエスを連れて行った。そこには律法学者、長老たちが集まっていた。
   サンへドリン(ユダヤ人会議)は祭りの夜には開かれないのが慣例だった。
   しかし、イエスを死刑にしようと目論見の下に慣例を破って開催された。
58節 ペテロは遠くからイエスについて、大祭司の中庭まで行き、そのなりゆきを見とどけるために、中にはいって下役どもと一緒にすわっていた。
   イエスを見捨てて逃げたパウロだったが、カヤパの屋敷の中庭に紛れ込みなりゆきを見ていた。
59節 さて、祭司長たちと全議会とは、イエスを死刑にするため、イエスに不利な偽証を求めようとしていた。
   サンヘドリンは、神を冒涜するものに死刑を宣告することができたが、紀元30年頃ローマの指示により死刑を執行することはできなかった。
   そこで偽りの証言により、ローマ政府が死刑を執行するように画策したのだった。
60節 そこで多くの偽証者が出てきたが、証拠があがらなかった。しかし、最後にふたりの者が出てきて
   イエスが神を冒涜した証拠がつかめないでいると、ふたりの有力な証人が現れた。
61節 言った、「この人は、わたしは神の宮を打ちこわし、三日の後に建てることができる、と言いました」。
   イエスは死んで三日後に復活することを言ったのだが、これを聞いた人は神の宮のことを言っていると誤解した。
62節 すると、大祭司が立ち上がってイエスに言った、「何も答えないのか。これらの人々があなたに対して不利な証言を申し立てているが、どうなのか」。
   イエスは何ら弁明しない。自分の正しさを確信するものは、いかなる非難に対しても自己弁護の必要はない。
   的外れの中傷やゆがんだ非難に答える価値はないのだ。
63節 しかし、イエスは黙っておられた。そこで大祭司は言った、「あなたは神の子キリストなのかどうか、生ける神に誓ってわれわれに答えよ」。
   ほふり場に引かれて行く羊 [4] のようなイエスの沈黙に、苛立った大祭司は、イエスの言葉尻を捕らえようと、
  「あなたは神の子キリストなのかどうか」と問うた。
64節 イエスは彼に言われた、「あなたの言うとおりである。しかし、わたしは言っておく。あなたがたは、間もなく、人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗って来るのを見るであろう」。
   イエスはキリスト(メシヤ)であることを認めたばかりか、「力ある者(神)の右に座し、天の雲に乗って来る」と言った。
   このようにイエスは、神の主権を持つものであると主張した。
65節 すると、大祭司はその衣を引き裂いて言った、「彼は神を汚した。どうしてこれ以上、証人の必要があろう。あなたがたは今このけがし言を聞いた。
   衣を引き裂くとは、聞くに堪えないことを表す。 [5]
   メシヤであることを表明することは神を冒涜することとは考えられなかった。
   しかし、神の右に座すと言ったことが神の名を汚す罪に問われたのである。
66節 あなたがたの意見はどうか」。すると、彼らは答えて言った、「彼は死に当るものだ」。
   大祭司はイエスは死に値すると判断したが、サンヘドリンの議員たちの賛同を判断の裏付けにしようとした。
67節 それから、彼らはイエスの顔につばきをかけて、こぶしで打ち、またある人は手のひらでたたいて言った、
68節 「キリストよ、言いあててみよ、打ったのはだれか」。
   群集心理が働いている様子がみられる。彼らは自分たちが、何をやっているのか分かっていない。

ペテロの否認(69‐75)  マルコ14:66-72、ルカ22:54-62 
ペテロはイエスとの関係を否定する

69節 ペテロは外で中庭にすわっていた。するとひとりの女中が彼のところにきて、「あなたもあのガリラヤ人イエスと一緒だった」と言った。
   パウロは大祭司の家の女中に見とがめられた。
70節 するとペテロは、みんなの前でそれを打ち消して言った、「あなたが何を言っているのか、わからない」。
   ゲッセマネで、「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません」と言ったパウロの信仰はまだ確固としたものではなかった。
71節 そう言って入口の方に出て行くと、ほかの女中が彼を見て、そこにいる人々にむかって、「この人はナザレ人イエスと一緒だった」と言った。
   パウロはふたたび別の女中に見とがめられた。
72節 そこで彼は再びそれを打ち消して、「そんな人は知らない」と誓って言った。
   今度は神に誓って否定したのだった。
73節 しばらくして、そこに立っていた人々が近寄ってきて、ペテロに言った、「確かにあなたも彼らの仲間だ。言葉づかいであなたのことがわかる」。
   ペテロはイエスや他の弟子たちと同じガリラヤ人のなまりがあったのだろう。人々はそれを指摘した。
74節 彼は「その人のことは何も知らない」と言って、激しく誓いはじめた。するとすぐ鶏が鳴いた。
   人があえて何かを誓う時、正当とは逆の場合が多い。もし正当な事を主張するなら誓う必要などない。
   そりゆえイエスは誓うことを禁じられたのだった。(マタイ5:33-37)
   ペテロがイエスを知らないと激しく誓っていると、鶏が鳴いた。
75節 ペテロは「鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われたイエスの言葉を思い出し、外に出て激しく泣いた。
   鶏が鳴く声を聞いたペテロは、イエスの言葉を思い出し「激しく泣いた。」
   しかしイエスを否認し、それを悔いて激しく泣いたことは、ペテロの精神を浄化し迷いのない信仰を確立するきっかけになった。
   「シモン、シモン、見よ、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って許された。
    しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。
    それで、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい」。(ルカ22:31-32)
   シモンは麦のようにふるいにかけられたが、立ち直って、イエスから与えられたペテロ(岩)の名にふさわしい指導者になっていくのである。

(2019/06/13)


[1]  出エジプト21:32
   「牛がもし男奴隷または女奴隷を突くならば、その主人に銀三十シケルを支払わなければならない。またその牛は石で撃ち殺されなければならない。」

[2]  ゼカリヤ11:13
   「主はわたしに言われた、「彼らによって、わたしが値積られたその尊い価を、宮のさいせん箱に投げ入れよ」。
    わたしは銀三十シケルを取って、これを主の宮のさいせん箱に投げ入れた。」

[3]  ゼカリヤ13:7
   「万軍の主は言われる、
    「つるぎよ、立ち上がってわが牧者を攻めよ。
     わたしの次に立つ人を攻めよ。
     牧者を撃て、その羊は散る。
     わたしは手をかえして、小さい者どもを攻める。」

[4]  イザヤ53:7
   彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、
   口を開かなかった。
   ほふり場にひかれて行く小羊のように、
   また毛を切る者の前に黙っている羊のように、
   口を開かなかった。

[5]  民数14:6
   「このとき、その地を探った者のうちのヌンの子ヨシュアとエフンネの子カレブは、その衣服を裂き、」


マタイによる福音書略解                                                                                                                
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