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マタイによる福音書8章


イエスは説教だけではなく、病気に苦しむ人々をいやすという行動をもって民衆に語りかけた。
8章には、重い皮膚病(8:1-4)、中風(8:5-13)、熱病(8:14-17)など三つのいやしの奇跡が記されている。

重い皮膚病のきよめ(8:1-4)  マルコ1:40-45、ルカ5:12-16
重い皮膚病(らい病) [1] の病人を癒した。
1節 イエスが山をお降りになると、おびただしい群衆がついてきた。
   山上の垂訓をしていた説教していた山をお降りになった。
2節 すると、そのとき、ひとりのらい病人がイエスのところにきて、ひれ伏して言った、「主よ、みこころでしたら、きよめていただけるのですが」。
   人に忌み嫌われる病気で、個人や先祖の罪の報い [2] と考えられ、汚れたものとされ、隔離されて住み、人が近づくと自分で「汚れたもの」 [3] と言わなければならなかった。
  この病は汚れと考えられていたから、いやすと言わずきよめると言った。
 「主よ、みこころでしたら、きよめていただけるのですが」からは、この男がイエスにいやす力があると信じていたことが分かる。
  いやしの奇跡の前提にいやされる者の信仰がある。
3節 イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「そうしてあげよう、きよくなれ」と言われた。すると、らい病は直ちにきよめられた。
   律法によれば、重い皮膚病の患者は健康人に近づくことができなかったが、男の信仰とイエスの差別のない行動があった。
4節 イエスは彼に言われた、「だれにも話さないように、注意しなさい。ただ行って、自分のからだを祭司に見せ、それから、モーセが命じた供え物をささげて、人々に証明しなさい」。
   きよめられると「祭司に見せ」て認定を受けて、きよめの儀式をして後健康人に入ることができた。 [4]
 「モーセが命じた供え物」この病気が治った時に祭司のもとに持っていく供え物があった。
  イエスはモーセの律法を廃するために来られたのではないことが、ここからもわかる。
  このような民衆の習慣を受け入れるイエスの教えは民衆にとって分かりやすいものだった。

百卒長の信仰(8:5-13)  ルカ7:1-10
ローマ人(異邦人)の百卒長の賞賛すべき信仰によって、中風で苦しんでいた彼の僕がイエスによって癒された。
5節 さて、イエスがカペナウムに帰ってこられたとき、ある百卒長がみもとにきて訴えて言った、
  「百卒長」ローマ軍の百人の兵卒の指揮官。
6節 「主よ、わたしの僕が中風でひどく苦しんで、家に寝ています」。
   ルカ7:2では「頼みにしていた僕」と言っている。百卒長がローマ軍の指揮官としておかれた立場にあって、
イスラエルのメシヤとうわさされているイエスを訪問するジレンマを克服するほど、百卒長と僕のきずなが強いことがうかがえる。
7節 イエスは彼に、「わたしが行ってなおしてあげよう」と言われた。
   イエスはその話を聞くと自ら行くと言い、ことを強い意志がうかがわれる。
   前節のように百卒長のしもべに対する愛の深さを察したことだろう。
8節 そこで百卒長は答えて言った、「主よ、わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります。
  イエスを「わたしの屋根の下に」迎える資格がないと言ったのは、百卒長の謙遜さと自分が異邦人であることのおそれを感じさせる。
  そして「お言葉を」かけさえしてくれれば治るという信仰を持っていた。
  それは百卒長が、イエスが神の権威ある言葉を語り、その言葉の力がどのようなものであるか知っていたからだ。
9節 わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下にも兵卒がいまして、ひとりの者に『行け』と言えば行き、ほかの者に『こい』と言えばきますし、また、僕に『これをせよ』と言えば、してくれるのです」。
   百卒長は権威あるものの言葉には力があることをイエスに話した。
10節 イエスはこれを聞いて非常に感心され、ついてきた人々に言われた、「よく聞きなさい。イスラエル人の中にも、これほどの信仰を見たことがない。
   イエスは百卒長の話を聞き、彼のイエスに対する大いなる信頼と信仰を称賛した。
   それは「イスラエル人の中にも」見たほどのないほどの強い信仰だった。
   イエスは異邦人の中に見た強い信仰を驚き喜ぶ。異邦人も信仰によって義とされる。
11節 なお、あなたがたに言うが、多くの人が東から西からきて、天国で、アブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席につくが、
12節 この国の子らは外のやみに追い出され、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう」。
   終末の審判の日に、「多くの人が東から西から」異邦人 [5] が父祖らとともに席につくが、選民である「この国の子ら」イスラエルの民は外に出され泣き叫ぶ。
13節 それからイエスは百卒長に「行け、あなたの信じたとおりになるように」と言われた。すると、ちょうどその時に、僕はいやされた。
   イエスの権威ある言葉の力。

ペテロのしゅうとめの熱病(8:14-17)  マルコ1:29-34、ルカ4:38-40
ペテロの妻の母の熱病がイエスによって癒された。
14節 それから、イエスはペテロの家にはいって行かれ、そのしゅうとめが熱病で、床についているのをごらんになった。
   しゅうとめの熱病は、マラリヤまたはチフスの一種といわれる。
15節 そこで、その手にさわられると、熱が引いた。そして女は起きあがってイエスをもてなした。
   マルコ1:30では「その手をとって起されると」、熱が引いて「女は起きあがって」病後の疲れもなく食事を用意してもてなした。
16節 夕暮になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れてきたので、イエスはみ言葉をもって霊どもを追い出し、病人をことごとくおいやしになった。
   その日は安息日だった。日没後安息日が終わると心を病んだ者や病人が大勢連れてこられた。
   イエスは百卒長のしもべを癒したように「み言葉をもって」悪霊を追い出し、病人をすべて癒した。
17節 これは、預言者イザヤによって「彼は、わたしたちのわずらいを身に受け、わたしたちの病を負うた」と言われた言葉が成就するためである。
   これはイザヤ書53章の「ヤハウェの悩める僕」4節 [6] からの引用。イザヤは自ら打たれて「わたしたちの病を負うた」主の僕について預言したが、マタイはイザヤが預言した主の悩めるしもべ(メシヤ)はイエスであることを証しした。
 
弟子の歩む道(8:18-22)  ルカ9:57-60
イエスは弟子たちに義の道を歩むものの覚悟を示した。
ここにはガリラヤでの伝道を終え、エルサレムに向かう頃の出来事が書かれている。)
18節 イエスは、群衆が自分のまわりに群がっているのを見て、向こう岸に行くようにと弟子たちにお命じになった。
  「向こう岸」とはカペナウム側のガリラヤ湖の向かい、ガダラ人の地を指す。
19節 するとひとりの律法学者が近づいてきて言った、「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従ってまいります」。
  「ひとりの律法学者」がイエスと旅をともにし、教えを聞こうとしたのか。ルカによると「ある人」になっている。
20節 イエスはその人に言われた、「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」。
   イエスと彼の弟子たちが歩む道は、その律法学者が予想したよりもはるかにけわしい道である。
   イエスはメシヤという呼称が本来の意味を失っていたため自分自身を「人の子」 [7] と呼んだ。
   ダニエルが予言した「人の子」の輝かしい栄光とくらべ、現実の人の子の道は険しい。
   この矛盾は選ばれし弟子たちの他は耐えることができない厳しいものだった。
21節 また弟子のひとりが言った、「主よ、まず、父を葬りに行かせて下さい」。
   死者、ことに父親を葬ることは聖なる義務と考えられていた。
   祭司は死人に近づくことを禁じられていたが、近親者を葬ることは許されていた。 [8]
22節 イエスは彼に言われた、「わたしに従ってきなさい。そして、その死人を葬ることは、死人に任せておくがよい」。
   神の国の儀は、この世の聖なる義務よりも優先される。
   イエスは死んで霊界に行ったもののことは、霊界にいるものに任せよと教えた。

暴風の海で(8:23-27)  マルコ4:36-41、ルカ8:22-25
イエスはガリラヤ湖で暴風を静めた。
23節 それから、イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った。
   イエスがまず乗り込まれ、続いて弟子たちが乗った。
24節 すると突然、海上に激しい暴風が起って、舟は波にのまれそうになった。ところが、イエスは眠っておられた。
  「激しい暴風」ルター訳(LUTH1545)では、大きな衝動großes Ungestüm、KJVでは大きな嵐great tempest [9] と書いている。
   ギリシャ語本文では、海で大地震が起きたσεισμὸς μέγας ἐγένετο ἐν τῇ θαλάσσῃとあるから、ルター訳が原文に近いように思われる。
   嵐であれば前兆があったはずだが、突然起きた現象なので、海中地震による大波だったのではないか。
25節 そこで弟子たちはみそばに寄ってきてイエスを起し、「主よ、お助けください、わたしたちは死にそうです」と言った。
   弟子たちの中には嵐にはなれた漁師もいたはずだが、この時は慌てふためいた。
26節 するとイエスは彼らに言われた、「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちよ」。それから起きあがって、風と海とをおしかりになると、大なぎになった。
   これも信仰の試しだったのだろう。イエスが救い主であることと言葉の力を心から信じているなら不安になることはなかった。
   それでイエスは「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちよ」と言われた。イエスの言葉の力で海は静まった。
27節 彼らは驚いて言った、「このかたはどういう人なのだろう。風も海も従わせるとは」。
  「このかたはどういう人なのだろう。」人間には霊があり、それに作用して癒しの奇跡が行われるが、自然には霊が無いから、自然に対する奇跡は困難と考えられる。弟子たちはあらためてイエスの力の大きさと、あらためてイエスがなにものなのかと驚く。

悪霊につかれた者(8:28-34)  マルコ5:31-10、ルカ8:26-39
イエスは人間の中から悪霊を追い出して豚の群れの中に追い込んだ。
28節 それから、向こう岸、ガダラ人の地に着かれると、悪霊につかれたふたりの者が、墓場から出てきてイエスに出会った。彼らは手に負えない乱暴者で、だれもその辺の道を通ることができないほどであった。
  「悪霊につかれたふたりの者」精神病者を悪霊に取りつかれた者と言って人々は恐れていた。
29節 すると突然、彼らは叫んで言った、「神の子よ、あなたはわたしどもとなんの係わりがあるのです。まだその時ではないのに、ここにきて、わたしどもを苦しめるのですか」。
   狂人はイエスを見ると「神の子よ」と言った。正常な人間よりもイエスが何者かを分かったのである。
   「まだその時ではないのに」最後の審判の日が来ていないのに「苦しめ」に来たのかと叫んだ。
30節 さて、そこからはるか離れた所に、おびただしい豚の群れが飼ってあった。
31節 悪霊どもはイエスに願って言った、「もしわたしどもを追い出されるのなら、あの豚の群れの中につかわして下さい」。
  「悪霊ども」が狂人を通して、追い出すなら、せめて「豚の群れの中につかわして」くれとイエスに頼む。 
32節 そこで、イエスが「行け」と言われると、彼らは出て行って、豚の中へはいり込んだ。すると、その群れ全体が、がけから海へなだれを打って駆け下り、水の中で死んでしまった。
   悪霊はイエスの言葉に従って豚に移った。そして狂人の叫び声に驚いて海にかけ下りおぼれて死に、狂人は正気に返った。
33節 飼う者たちは逃げて町に行き、悪霊につかれた者たちのことなど、いっさいを知らせた。
   異常な出来事に驚いた豚飼いは町に知らせに逃げた。彼らからは豚の損害としか見えない。
34節 すると、町中の者がイエスに会いに出てきた。そして、イエスに会うと、この地方から去ってくださるようにと頼んだ。
   町中の者がイエスにこれ以上損失が出ないようにイエスに去るように頼んだ。
   狂人が正気に返ったという人格回復よりも家畜を守ることを優先したのだった。


(2019/03/11)


[1]  らい病
 かつては旧約聖書の時代の「ツァーラト」、これをギリシャ語訳の七十人訳で「レプラ」と訳し、新約聖書も「レプラ」を使っていた。
 これら皮膚の病を含んでいることから、ハンセン病と理解され、日本語では「らい病」と訳していた。
 しかし、「ツァーラト」が皮膚の病ばかりではなく、ある種のカビと考えられるようなものも含まれており、明らかにハンセン病の症状とは異なり、何の病気かはっきりしないこと、また「レプラ」が乾癬や腫瘍など、種々の皮膚病の総称のような言葉で、「ツァーラト」に必ずしも対応した訳語でないことから、現在では「重い皮膚病」という言い方をする。

[2] 「雲が幕屋の上を離れ去った時、ミリアムは、らい病となり、その身は雪のように白くなった。アロンがふり返ってミリアムを見ると、彼女はらい病になっていた。」(民数12:10)(ミリアムはモーセを非難したので、病に罹った。)
 「それゆえ、ナアマンのらい病はあなたに着き、ながくあなたの子孫に及ぶであろう」。彼がエリシャの前を出ていくとき、らい病が発して雪のように白くなっていた。 」(2列王5:27)  (予言者エリシャのしもべゲハジが罪を犯したため、ナアマンが罹っていた病がべゲハジにうつった。)

[3] 「患部のあるらい病人は、その衣服を裂き、その頭を現し、その口ひげをおおって『汚れた者、汚れた者』と呼ばわらなければならない。
その患部が身にある日の間は汚れた者としなければならない。その人は汚れた者であるから、離れて住まなければならない。すなわち、そのすまいは宿営の外でなければならない。」(レビ13:45-46)

[4] 「らい病人が清い者とされる時のおきては次のとおりである。すなわち、....こうしてその人は清くなるであろう。」(レビ14:2-20)

[5] 「自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。おまえたちに言っておく、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができるのだ。 」(マタイ3:9)
「見よ、人々は遠くから来る。見よ、人々は北から西から、またスエネの地から来る」(イザヤ49:12) 「」()

[6] 「まことに彼はわれわれの病を負い、
 われわれの悲しみをになった。
 しかるに、われわれは思った、
 彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。」(イザヤ53:4)

[7] 「わたしはまた夜の幻のうちに見ていると、
 見よ、人の子のような者が、
 天の雲に乗ってきて、
 日の老いたる者のもとに来ると、
 その前に導かれた。
 彼に主権と光栄と国とを賜い、
 諸民、諸族、諸国語の者を彼に仕えさせた。
 その主権は永遠の主権であって、
 なくなることがなく、
 その国は滅びることがない。」(ダニエル7:13-14)

[8] 「ただし、近親の者、すなわち、父、母、むすこ、娘、兄弟のため、
 また彼の近親で、まだ夫のない処女なる姉妹のためには、その身を汚してもよい。」 (レビ21:2-3)

[9] LUTH1545 Und siehe, da erhob sich ein großes Ungestüm im Meer, also daß auch das Schifflein mit Wellen bedeckt ward; und er schlief.
そして見よ、海には大きな衝動が生じ、そのため小さな船も波で覆われた。 そして彼は寝ていた。
KJV: And, behold, there arose a great tempest in the sea, insomuch that the ship was covered with the waves: but he was asleep.
そして見よ、海に大きな嵐が生じ、そのため船が波で覆われた。しかし彼は眠っていた。
NA28: καὶ ἰδοὺ σεισμὸς μέγας ἐγένετο ἐν τῇ θαλάσσῃ, ὥστε τὸ πλοῖον καλύπτεσθαι ὑπὸ τῶν κυμάτων, αὐτὸς δὲ ἐκάθευδεν.
そして突然海で大地震が起き、そのため船は波で覆われたが、しかし彼は眠っていた。


マタイによる福音書略解                                                                                                                
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