18章
20章
マタイによる福音書19章
離婚の問題(19:1-12) マルコ10:1-12、ルカ16:18 1節 イエスはこれらのことを語り終えられてから、ガリラヤを去ってヨルダンの向こうのユダヤの地方へ行かれた。 ガリラヤでの伝道を終えて、ユダヤに向かい十字架を目指してエルサレムの過ぎ越しの祭りに行かれる途中のこと。 2節 すると大ぜいの群衆がついてきたので、彼らをそこでおいやしになった。 イエスが行くところには、常にイエスの憐れみにひかれた群衆がついて来た。イエスは、間もなく十字架につけられるという重大な時期にも、自分を無にして、彼らをの必要を考え病人をいやされた。 3節 さてパリサイ人たちが近づいてきて、イエスを試みようとして言った、「何かの理由で、夫がその妻を出すのは、さしつかえないでしょうか」。 当時ユダヤ人たちの間で、離婚について意見が分かれて論争していた。絶対に認めない厳格派(シャンマイ派)と、条件付きで認める寛容派(ヒルレル派)の二つである。このパリサイ人たちはヒルレル派のようである。彼らはイエスに問うことによって、彼らの論争にイエスを巻き込もうとして、「何かの理由で、」 [1] とイエスに質問した。申命24:1「恥ずべきこと」とはいったい何であるかの議論が大きく分かれていた。ある学派は妻が姦淫した場合であると言い、別の学派は、男が女を気に入らなくなったら離婚できると考えた。パリサイ人は、イエスにどちらかの意見を言わせて、その意見とは合わない人々をイエスから去らせようと企んでいた。 4節 イエスは答えて言われた、「あなたがたはまだ読んだことがないのか。『創造者は初めから人を男と女とに造られ、 5節 そして言われた、それゆえに、人は父母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである』。 6節 彼らはもはや、ふたりではなく一体である。だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない」。 イエスは彼らの論争に巻き込まれることを避け、彼らの論点に触れないで、律法が与えられた時からさかのぼって、天と地が創造された初めの時に戻り、神が結婚を一生涯続くものとして定めたことを指摘した。 神が「人を男と女とに造られ」たのは、「ふたりの者は一体となる」ためであるのがその根拠であることを示した。この見地からするとシャンマイ派が正しいことになる。 7節 彼らはイエスに言った、「それでは、なぜモーセは、妻を出す場合には離縁状を渡せ、と定めたのですか」。 この寛容派のパリサイ人は申命24:1の戒めを根拠にイエスに反撃した。ユダヤ人たちは、モーセが神の預言者でありモーセが話したことは、神からのみことばであると信じていた。イエスがモーセの言ったことに反することを言えば、イエスは群衆の支持を得られなくなる。パリサイ人の質問の目的は、群衆をイエスから引き離すことだった。パリサイ人にとっての神の戒めは、自分の名誉欲を満たす手段でしかなかった。 8節 イエスが言われた、「モーセはあなたがたの心が、かたくななので、妻を出すことを許したのだが、初めからそうではなかった。 モーセが離婚を許したのは民の実情に免じてやむ負えずといった例外行為である。神が初めに男と女を造られたとき、ふたりを対等の関係として造られたが、「かたくななので」人に罪が入ったため、結婚関係は男性が女性を支配する [2] ものに変わった。当時のユダヤ人は、離婚をする権利が一方的に男性にあると考えていた。彼らはモーセの律法を根拠に女性には離婚をする権利はなく、男性にだけあるとし、さらに、それを義務と考えることにより、自分たちが神の戒めを守っていると自負していたのである。しかし、モーセが定めたのは、彼らの解釈と正反対のものだった。モーセは、正当な理由なくして妻を離婚させないように離婚状を出すことを定めたのだった。離婚状は、ふたりか三人の証人がいなければ出すことできず、男は離婚理由を捏造することはできないのである。モーセは離婚を制限するために離縁状の戒めを定めたのである。 9節 そこでわたしはあなたがたに言う。不品行のゆえでなくて、自分の妻を出して他の女をめとる者は、姦淫を行うのである」。 イエスは厳格派と寛容派の中間の立場をとった。人間の自己中心の思いで離婚しようとするものは、姦淫の罪を犯すことになる。(5:31-32参照)人間には自分の考え、行動を肯定し正当化したいという願いが根底にあるものだ。そういう思いで、聖書を読むとき、自分を肯定する読み方をおこない、パリサイ人のように誤った解釈をする危険がある [3] 。 10節 弟子たちは言った、「もし妻に対する夫の立場がそうだとすれば、結婚しない方がましです」。 弟子たちは離婚が不貞以外の理由で許されないなら、結婚は終生の重荷であると考えた。独身者の多い弟子たちの考えそうなことだが、独身を賛美する意味はない。ユダヤ人は結婚は神によって命じられたものと考えていた。パリサイ人は自分を肯定するように神の戒めを解釈していたが、弟子たちはイエスが教えられた高い基準に達していないことを悟っていた。だからこそ彼らはイエスから助けを得、助言を受け、力を受けるために従ったのである。 11節 するとイエスは彼らに言われた、「その言葉を受けいれることができるのはすべての人ではなく、ただそれを授けられている人々だけである。 「その言葉」とは前節の「結婚しない方がまし」を指す。これは万人に当てはまるものではなく、ただ特別な人に当てはまるものだ。個と普遍を混同しないように気を付けなければならない。 12節 というのは、母の胎内から独身者に生れついているものがあり、また他から独身者にされたものもあり、また天国のために、みずから進んで独身者となったものもある。この言葉を受けられる者は、受けいれるがよい」。 終生独身者の三つの種類をあげている。「母の胎内から」生来の身体的障害のため結婚できない者。「他から」未亡人や自分の自由意志からではなく強制により独身で過ごすもの。「天国のために、みずから進んで」宣教や奉仕のため結婚を顧みない終生独身者。神のみこころによって独身であるものもいれば結婚する者もいる。ユダヤ人社会では結婚することが当然と見られていが、イエスは弱い立場にいる独身者に対して特別な計らいを示した。神の戒めはあわれみの現われである。人間はそれを自分の都合に合わせて曲解する、イエスは愛によって律法を全うされた。 幼児の祝福(19:13-15) マルコ10:13-16、ルカ18:15-17 13節 そのとき、イエスに手をおいて祈っていただくために、人々が幼な子らをみもとに連れてきた。ところが、弟子たちは彼らをたしなめた。 ユダヤ人の両親は子供の頭に手をおいて祈って祝福する習慣があった。親たちは自分の子供に望むことをイエスにしてもらいたいとイエスのみもとに子供をつれてきたのだった。しかし弟子たちは、忙しいイエスをそんな雑事で煩わしたくないと思い「彼らをたしなめた」のである。 14節 するとイエスは言われた、「幼な子らをそのままにしておきなさい。わたしのところに来るのをとめてはならない。天国はこのような者の国である」。 当時のユダヤ人社会では、子どもは身分の低い者、つまらない者とみなされていた。イエスはそうした弱い立場にある者に心を寄せられていた。 15節 そして手を彼らの上においてから、そこを去って行かれた。 イエスは子供たちを祝福された。「そこを去って行かれた」ペレヤを去って、ユダヤに向かわれた。 金持ちの青年(19:16-30) マルコ10:17-31、ルカ18:18-30 16-22はイエスと金持ちの青年との対話、23-30は富についてのイエスと弟子との対話。富の問題はイエスの弟子(または初期の教会)にとって重要で難解な問題だった。 16節 すると、ひとりの人がイエスに近寄ってきて言った、「先生、永遠の生命を得るためには、どんなよいことをしたらいいでしょうか」。 イエスに尋ねた「ひとりの人」は青年で、ルカ18:18によると役人だった。誰もが幸せになれると思うような若く高い地位を持った典型的な人物だったろう。彼は当時のまじめな青年が問題にしていた「永遠の生命を得る」道をイエスに問うた。イエスの中に人間にとって真に大切なものを見たその青年は、ギリシャ哲学の霊魂不滅ではなく、終末において永遠の生命を与えられるには、今をいかに生きたらよいのかイエスに問うたのである。 17節 イエスは言われた、「なぜよい事についてわたしに尋ねるのか。よいかたはただひとりだけである。もし命に入りたいと思うなら、いましめを守りなさい」。 マルコ10:17-18(ルカ18:8-19)によると、青年はイエスを「よき師よ」と呼んだのに対し、「なぜわたしをよき者と言うのか。神ひとりのほかによい者はいない。」とたしなめているように見えるが、ここでは「よいかたはただひとりだけである。」とイエスの神性を気づかせようとするとともに自らを神の前にむなしくされ、神の「いましめを守りなさい」と教え、それこそが「よい事」であると言われた。 18節 彼は言った、「どのいましめですか」。イエスは言われた、「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。 19節 父と母とを敬え』。また『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』」。 「どのいましめですか」パリサイ人たちは戒めに種別をつけ軽量があると説いていた。これはパリサイ人の律法の考え方は、外形的儀礼的なものであることを意味する。しかしイエスが言う神の戒めとは霊にかかわるもので、これを完全に守ることは難しい。兄弟にむかって「ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう。」(マタイ5:22)というほど厳しいのものだ。イエスは神の戒めを守ることの難しさを青年に教えようとされたのだった。それが分かると自分が罪びとであり、主に頼るしかないことを知るのだ。 20節 この青年はイエスに言った、「それはみな守ってきました。ほかに何が足りないのでしょう」。 この青年は律法を文字通り守っていたのだが、心に平安がなかった。そのためイエスのもとに来たのだった。しかし、「あなたの隣り人を愛せよ」という教えに対して、青年は「それはみな守って」いると答えたが、神の戒めの下での「隣り人」とは誰かを理解していない。そのうえパリサイ人と同じように自分の都合に合わせて神の戒めをとらえ、「ほかに何が足りないのでしょう」と自分の行為が正しいことを主張する高慢が見える。彼は神の戒めの真の意味を理解せず、神の戒めの下に自分自身を置いていなかった。 21節 イエスは彼に言われた、「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。 イエスはこの青年の内的進歩の障害となっているものは、彼の持ち物であると考えられた。永遠の生命は、律法を儀礼的に守ることによって得られるものではなく、自己と自己をとらえているものから自由になってイエスに従うことだと教える。神の戒めの本質は愛であり、イエスは、愛によって律法を成就された。 22節 この言葉を聞いて、青年は悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。 青年はついに自分が罪びとであることを知ることはなかった。そしてイエスに従うのではなく立ち去った。自分は罪深い人間であると言ったペテロ(ルカ5:5-8)がすぐにイエスに従ったのと大いに異なる。 23節 それからイエスは弟子たちに言われた、「よく聞きなさい。富んでいる者が天国にはいるのは、むずかしいものである。 この時点で、弟子たちはイエスの言われたことをよく理解できていないように見える。イエスは弟子たちにが理解できるようにたとえを使ってくり返す。 24節 また、あなたがたに言うが、富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。 旧約聖書には、ヤコブの子ヨセフやヨブのように富を祝福とみなすところもあるが、イエスは本来物に過ぎない富が人間の心を支配し、心の中から神の国への志望が失われるのを見て、富に対して否定的であった。「らくだ」は当時のエルサレム地方で知られていた最も大きな動物、「針の穴」は日常生活の中で見られる最も小さい穴、あるいはエルサレムの城壁にその名の小さい門があったという。金持ちが神の国に入るのがそれほど困難だというたとえ。 25節 弟子たちはこれを聞いて非常に驚いて言った、「では、だれが救われることができるのだろう」。 弟子たちは富を神の祝福のしるしと考えていたのであろう、イエスの言葉を聞いて神に祝福された金持ちが神の国に入れないなら誰が入れるのだろうと驚いた。 26節 イエスは彼らを見つめて言われた、「人にはそれはできないが、神にはなんでもできない事はない」。 イエスは「見つめて」これから大切なことを弟子たちに告げる。それは救いは人の行ないによるのではなく、神のめぐみ神の行いによるものであるということだ。青年がイエスに「永遠の生命を得るためには、どんなよいことをしたらいいでしょうか」と聞いているが、これは自分の行いが目的を達成するための手段と考えていることを示す。そこには神に対する全幅の信頼も信仰もない。イエスを受け入れ、イエスによって財産を捨てたザアカイ(ルカ19:8)は、自分が救われることを目標とせず、イエスヘの愛、イエスヘの信仰との結びつきを求めた。その結果、人の行いによるのではなく神による永遠の生命に入ることが出来る。 27節 そのとき、ペテロがイエスに答えて言った、「ごらんなさい、わたしたちはいっさいを捨てて、あなたに従いました。ついては、何がいただけるでしょうか」。 ペテロは悲しみながら立ち去った青年と自分たちを比べながら、「わたしたちはいっさいを捨てて、あなたに従いました。」と言った。イエスを信じるということは、それまでの人や物との関係を捨てることを意味する。イエスへの信仰に対する報酬はいったい何だろうかとペテロは「何がいただけるでしょうか」と問う。この時点では弟子たちはまだイエスに従うことが永遠の生命であることを知らなかった。 28節 イエスは彼らに言われた、「よく聞いておくがよい。世が改まって、人の子がその栄光の座につく時には、わたしに従ってきたあなたがたもまた、十二の位に座してイスラエルの十二の部族をさばくであろう。 イエスは「世が改まって、人の子がその栄光の座につく時」にイエスに従う者に与えられる報いについての約束された。彼らは終末に王になるキリストの栄光にあずかる。「栄光の座」その座はイエスがキリストであることを世界の人々が否応なく認める場所であり、また審判者の座でもある。「十二の位」天国において十二弟子のいる所。「十二の部族」すべてのイスラエル人、すなわち全人類。 29節 おおよそ、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、もしくは畑を捨てた者は、その幾倍もを受け、また永遠の生命を受けつぐであろう。 大事にしていた家族の結びつきや財産から断ち切っても生きている間にその幾倍もの祝福を受け、死んだあとは永遠の生命を受けつぐとイエスは約束される。 30節 しかし、多くの先の者はあとになり、あとの者は先になるであろう。 世が改まって新しい秩序が来ると、現在の秩序が逆になるであろう。今もっとも後の者であるイエスの弟子が、その日は先の者になるだろう。また逆の場合もある。ペテロは、「わたしたちはいっさいを捨てて従ったのだから何かください。」と神に貸しをつくった言い方をしている。神からの報いは恵みであり、犠牲に対する報酬ではない。信仰的に先を行く者が後になり、新しく信じた始めた者が先になることがある。大きい賜物に満足し、選民意識にひたっていると悔い改めて神に立ち返ったパリサイ人や富める者が先の者になることもありうるのだ。 (2020/03/07)
[1] 申命24:1 「人が妻をめとって、結婚したのちに、その女に恥ずべきことのあるのを見て、好まなくなったならば、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせなければならない。」
[2] 創世記3:16 「...あなたは夫を慕い、彼はあなたを治めるであろう」。」
[3] 2ペテロ3:16 「彼は、どの手紙にもこれらのことを述べている。その手紙の中には、ところどころ、わかりにくい箇所もあって、無学で心の定まらない者たちは、ほかの聖書についてもしているように、無理な解釈をほどこして、自分の滅亡を招いている。」
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