20章
22章
マタイによる福音書21章
エルサレム入城(21:1-11) マルコ11:1-10、 ルカ19:28-44 1節 さて、彼らがエルサレムに近づき、オリブ山沿いのベテパゲに着いたとき、イエスはふたりの弟子をつかわして言われた、 オリブ山の近くの「ベテパゲ」は、イチジクの家を意味し、ベタニヤに近い村。 2節 「向こうの村へ行きなさい。するとすぐ、ろばがつながれていて、子ろばがそばにいるのを見るであろう。それを解いてわたしのところに引いてきなさい。 イエスは王としてエルサレムに入るために弟子に「ろば」を用意させた。ろばの他に「子ろば」を引いてきた。 3節 もしだれかが、あなたがたに何か言ったなら、主がお入り用なのです、と言いなさい。そう言えば、すぐ渡してくれるであろう」。 イエスの名は都にまで響いていた。「主がお入り用なのです」と言われてすぐに自分のものをイエスに差し出せる人は祝福されている。 4節 こうしたのは、預言者によって言われたことが、成就するためである。 ゼカリヤ9:9 [1] を引用している。これはキリストがろばにのってエルサレムに入城する預言で、新しい秩序の王としての柔和さが示されている。 5節 すなわち、「シオンの娘に告げよ、見よ、あなたの王がおいでになる、柔和なおかたで、ろばに乗って、くびきを負うろばの子に乗って」。 エルサレムを女性にたとえて「シオンの娘」と呼んだ。紀元前333年にギリシャのアレクサンダー大王がペルシャを破ったとき、イスラエル人が彼を解放者としてたたえた歌。 6節 弟子たちは出て行って、イエスがお命じになったとおりにし、 弟子たちは何の疑問も持たずイエスの言われたとおりにした。 7節 ろばと子ろばとを引いてきた。そしてその上に自分たちの上着をかけると、イエスはそれにお乗りになった。 ろばの上に「自分たちの上着をかける」ことは自分の大切なものをキリストに従うために捨てる姿勢を表している。ゼカリヤはアレクサンダー大王をさして「あなたの王」と呼んだが、イエスの都入りの目的はアレクサンダー大王のような戦争のためでなく、平和のためであった。世の王であれば、勇ましく馬に乗って来る。 しかし、キリストは、へりくだった柔和な王としてろばに乗って来られた。イエスには目を見張るような姿はなく、政治的な活動をせず、ひたすら病んでいる者、弱った者を助けたのだった。 8節 群衆のうち多くの者は自分たちの上着を道に敷き、また、ほかの者たちは木の枝を切ってきて道に敷いた。 イエスのうちには、この世の王という意識は全くなかったが、群衆は「自分たちの上着を道に敷き」(2列王9:13) [2] 上着をろばに踏みつけてもらうことによって、王にひれ伏す姿を示す。「木の枝を切ってきて道に敷いた」(ヨハネ12:13)りして、王者を迎えるようにイエスを迎えた。 9節 そして群衆は、前に行く者も、あとに従う者も、共に叫びつづけた、「ダビデの子に、ホサナ。主の御名によってきたる者に、祝福あれ。いと高き所に、ホサナ」。 群衆は前後から声を合わせて詩編118:25-26 [3] をうたい続けた。「ホサナ」はヘブル語で「いま救いたまえ」の意。この叫び声に「ダビデ」を関して「ダビデの子よ、われらを救いたまえ」と言った。「いと高き所に、ホサナ」は神に対する賛美、あるいは天使に向かって神をほめるよう激励している(詩編141:2)が、ここでは前者だろう。群衆は過ぎ越しの祭りに上る巡礼者からメシヤ運動に熱狂する群れに変わった。 10節 イエスがエルサレムにはいって行かれたとき、町中がこぞって騒ぎ立ち、「これは、いったい、どなただろう」と言った。 イエスに従ってエルサレムに入ってきた群衆の熱狂的な騒ぎに、まだイエスのことを知らないエルサレムの町の人々はこの騒ぎの原因になっているろばに乗ったこの人はどういう人なのだろうと驚いた。 11節 そこで群衆は、「この人はガリラヤのナザレから出た預言者イエスである」と言った。 群衆の中には多くのガリラヤ人がいて、イエスのことを得意になって宣伝した。 宮清め(21:12-17) マルコ11:15-18、 ルカ19:45-46 12節 それから、イエスは宮にはいられた。そして、宮の庭で売り買いしていた人々をみな追い出し、また両替人の台や、はとを売る者の腰掛をくつがえされた。 神聖であるべき宮が、利益のための商売の場所になっていた。「宮の庭」酒や祭壇に備える動物が売られていた。また、ローマの貨幣を献金用の貨幣シケルに交換して手数料を取る両替人の屋台が出ていた。イエスはこれらの商人を宮から追い出して清められた。「はと」羊などの高価な供え物ができない貧しい人のために許された供え物(レビ12:8)。 13節 そして彼らに言われた、「『わたしの家は、祈の家ととなえらるべきである』と書いてある。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている」。 「わたしの家は、祈の家」イザヤ56:7 [4] を引用し商人を追い出した。「強盗の巣にしている」商人の暴利を非難したというより、商人に場所を貸して益を得ていた宮つかさに言った言葉だろう。すなわち、イエスはこのような宮つかさを指して「あなたがた」と言っている。 14節 そのとき宮の庭で、盲人や足なえがみもとにきたので、彼らをおいやしになった。 イエスは清められた庭で、この世の利益のためではなく、いつものように神のめぐみと憐れみの心で病人たちをいやされた。 15節 しかし、祭司長、律法学者たちは、イエスがなされた不思議なわざを見、また宮の庭で「ダビデの子に、ホサナ」と叫んでいる子供たちを見て立腹し、 イエスがだれであるかを知らなかった祭司長、律法学者たちにとって、突然現れたイエスの行動はいちいち彼らのかんにさわるものだった。珍しいものをすぐまねしたがる子供たちは、イエスを迎える群衆のホサナの声をまねた。祭司長たちは「子供たちを見て立腹し」、イエスに対し苦々しく思ったに違いない。こうした大人の政治的な悪意と緊張と、子供たちの無邪気な賛美の姿が対比されている。 16節 イエスに言った、「あの子たちが何を言っているのか、お聞きですか」。イエスは彼らに言われた、「そうだ、聞いている。あなたがたは『幼な子、乳のみ子たちの口にさんびを備えられた』とあるのを読んだことがないのか」。 祭司長たちはイエスに子供たちがホサナと叫んでいる意味を分かっているのかと非難がましく言った。彼らはまだ群衆がイエスを向かえる理由を知らなかったのである。イエスは祭司長たちの非難に対し、詩編8:2 [5] を引用し答えられた。 17節 それから、イエスは彼らをあとに残し、都を出てベタニヤに行き、そこで夜を過ごされた。 ベタニヤはエルサレムの南東約2マイルのところにある村、イエスに愛されたマルタとマリヤの姉妹の家があった。(ヨハネ11:18-19) 枯れたいちじく(21:18-22) マルコ11:12-14、20-24 18節 朝はやく都に帰るとき、イエスは空腹をおぼえられた。 ベタニヤからエルサレムに戻る途中のこと。マルタとマリヤの姉妹の家から来られたなら、この空腹は何故だろうか。野宿したのか。 19節 そして、道のかたわらに一本のいちじくの木があるのを見て、そこに行かれたが、ただ葉のほかは何も見当らなかった。そこでその木にむかって、「今から後いつまでも、おまえには実がならないように」と言われた。すると、いちじくの木はたちまち枯れた。 マルコ11:13によると「いちじくの季節でなかったからである」とあるが、葉が茂っていたので、葉やなりの実があると思われたのか。「いちじくの木はたちまち枯れた」不信仰なユダヤ人の終末を予言された。神はいちじくで譬え、イスラエルからその実である悔い改めを求めたが、それを得られないと木であるイスラエルを滅ぼされる。 20節 弟子たちはこれを見て、驚いて言った、「いちじくがどうして、こうすぐに枯れたのでしょう」。 マルコ11:14-20では朝に木が呪われて、夕方に枯れていた。これは預言とそれが成就するまでに時間の経過があることを暗示している。弟子たちはいちじくの木が枯れたわけを尋ねた。 21節 イエスは答えて言われた、「よく聞いておくがよい。もしあなたがたが信じて疑わないならば、このいちじくにあったようなことが、できるばかりでなく、この山にむかって、動き出して海の中にはいれと言っても、そのとおりになるであろう。 ここでイエスは弟子たちの質問であるいちじくの木が枯れたわけを話していない。弟子たちに信じることの大切さを教えている。「動き出して海の中に」詩編46:2 [6] が背景にあったと思われる。 22節 また、祈のとき、信じて求めるものは、みな与えられるであろう」。 神の意志と、われわれの願いとが一致するときに可能となる。 権威の性格(21:23-27) マルコ11:27-33、 ルカ20:1-8 23節 イエスが宮にはいられたとき、祭司長たちや民の長老たちが、その教えておられる所にきて言った、「何の権威によって、これらの事をするのですか。だれが、そうする権威を授けたのですか」。 祭司長たちは、イエスの宮清めに関連して、イエスに権威の根拠を詰問した。彼らは神の宮で行うことはすべて自分たちの許可の下で行われなければならないと考えていた。神殿は神のものであるのに彼らのものにしていたのである。それで彼らは、彼らにすべての権威が与えられているのに、何故イエスはこんなことをするのかと問いただしたのだった。 24節 そこでイエスは彼らに言われた、「わたしも一つだけ尋ねよう。あなたがたがそれに答えてくれたなら、わたしも、何の権威によってこれらの事をするのか、あなたがたに言おう。 ユダヤ人は質問に対し直接答えずに相手に別の質問をすることによって間接的に答えるという議論の慣習があった。 25節 ヨハネのバプテスマはどこからきたのであったか。天からであったか、人からであったか」。すると、彼らは互に論じて言った、「もし天からだと言えば、では、なぜ彼を信じなかったのか、とイエスは言うだろう。 当時、「ヨハネのバプテスマ」が、天からのものか人からのものかということで、教権者またはユダヤ人の中にふたつの意見が分かれていた。イエスの質問の主旨は、ヨハネが教権から許可を受けることなしに人々から預言者として認められているのであれば、イエスも教権からの許可のあるなしにかかわらずメシヤの権威をもって行動することは何の差しさわりもないはずである、それとも神の真理はユダヤの教権によって認められた教師だけが教導できるものかを問うことであった。そのようなイエスの問いは質問者を窮地に陥れた。もし「天からだ」というと、ヨハネを信じて悔い改めのバプテスマを受けなかったことを反問されるであろうし、ヨハネが言っていることは真実だということと、イエスはキリストであるということを認めることになる。 26節 しかし、もし人からだと言えば、群衆が恐ろしい。人々がみなヨハネを預言者と思っているのだから」。 もし「人からだ」というと、民衆の中でヨハネの人望は大きかったので、祭司長たちはヨハネを預言者とは信じていなかったが、「群衆が恐ろしい」ので「わたしたちにはわかりません」と答えた。 27節 そこで彼らは、「わたしたちにはわかりません」と答えた。すると、イエスが言われた、「わたしも何の権威によってこれらの事をするのか、あなたがたに言うまい。 ほんとうに分からなかったのではなく、自己の信念と周囲の状況との板挟みになって答えに窮してしまったのだった。ヨハネの権威を公然と肯定も否定もしようとしない祭司長たちに、イエスは彼の権威についての問いに答えることを拒まれた。祭司長たちは、人の目を恐れたため、イエスから答えをもらうことができなかったが。その代わり、イエスは彼らに、兄と弟のたとえと悪い農夫のたとえのふたつの譬を話して聞かせた。 兄と弟のたとえ(21:28-32) バプテスマのヨハネに対するパリサイ人の態度と、取税人と遊女の態度を比較している。 28節 あなたがたはどう思うか。ある人にふたりの子があったが、兄のところに行って言った、『子よ、きょう、ぶどう園へ行って働いてくれ』。 「あなたがた」はイエスと話している祭司長たちを指す。 「ある人」とはバプテスマのヨハネ(32節)。「兄」は祭司長、長老、パリサイ人たち。 29節 すると彼は『おとうさん、参ります』と答えたが、行かなかった。 祭司長、長老、パリサイ人たちははじめバプテスマのヨハネの宣教に対し礼儀と敬意を示していたが、ヨハネが彼らを「まむしの子らよ」と呼び、彼らに悔い改めを迫った(3:7-8)が、ヨハネの言葉に従わなかった。 30節 また弟のところにきて同じように言った。彼は『いやです』と答えたが、あとから心を変えて、出かけた。 「弟」は取税人や遊女を指す(31節)。ヨハネの脱俗的な姿や言葉は、はじめ取税人や遊女を恐れさせたが、「あとから心を変えて」彼らは悔い改めることを知っていた。そして「出かけた」信仰に縁がないかのように思われる人々が信者になり、かえって自他から義人と認められ、一方神に近いように見える人々が、イエスの福音に無関心であり、現状から一歩も前進しないことが多い。 31節 このふたりのうち、どちらが父の望みどおりにしたのか」。彼らは言った、「あとの者です」。イエスは言われた、「よく聞きなさい。取税人や遊女は、あなたがたより先に神の国にはいる。 イエスの話を聞いている祭司長たちは自分たちが兄に譬えられていることに気が付かず、イエスの言葉を表面だけ理解して「あとの者です」と答えている。 32節 というのは、ヨハネがあなたがたのところにきて、義の道を説いたのに、あなたがたは彼を信じなかった。ところが、取税人や遊女は彼を信じた。あなたがたはそれを見たのに、あとになっても、心をいれ変えて彼を信じようとしなかった。 「それを見たのに」をヨハネが「義の道を説いた」を指すか、「取税人や遊女は彼を信じた」を指すかの二通りの解釈がある。前者をとるなら、イエスはパリサイ人が彼に反対するならまだしも、ユダヤ人の伝統に保守的であったヨハネが説いた「義の道」を信じなかったのは不思議であると言われたことになる。 後者の場合は、取税人や遊女のような信仰に縁のない人々が悔い改めて福音を受け入れたのに、パリサイ人たちは悔い改めなかったのは不思議であると言われたことになる。 悪い農夫のたとえ(21:33-46) マルコ12:1-12、 ルカ20:9-19 旧約時代のイスラエル人が預言者に対してとった不法行為と今の人々が神の御子に対してとっている行為の譬え 33節 もう一つの譬を聞きなさい。ある所に、ひとりの家の主人がいたが、ぶどう園を造り、かきをめぐらし、その中に酒ぶねの穴を掘り、やぐらを立て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。 家の主人が彼のぶどう園のために万事手抜かりのないよう注意するのと同じく、神は神の民イスラエルのために注意深くあられる。野獣や盗人の侵入を防ぐため「かきをめぐらし」、ぶどうの実をしぼった汁を貯えておく「酒ぶねの穴を掘り」、不法侵入者を見張る「やぐらを立て」る。「農夫たちに貸して」は小作人の制度を示す。小作人は収穫から得た利益の何割かを地主に納める。 34節 収穫の季節がきたので、その分け前を受け取ろうとして、僕たちを農夫のところへ送った。 「分け前を受け取ろうとして」全収穫でなく、地主と小作の間で契約している分け前を受け取る。それは神がご自身のものを人間から受取ろうとされることを意味する。農園主の使いとして送られた「僕たち」はイスラエルの預言者を意味している。 35節 すると、農夫たちは、その僕たちをつかまえて、ひとりを袋だたきにし、ひとりを殺し、もうひとりを石で打ち殺した。 神の選民と言われるイスラエルは、神から送られた預言者をこのように扱った。 36節 また別に、前よりも多くの僕たちを送ったが、彼らをも同じようにあしらった。 37節 しかし、最後に、わたしの子は敬ってくれるだろうと思って、主人はその子を彼らの所につかわした。 神は代々の預言者ののちに、その子イエスを世に送られた(ヘブル1:1-2) [7] 。 38節 すると農夫たちは、その子を見て互に言った、『あれはあと取りだ。さあ、これを殺して、その財産を手に入れよう』。 主人である神の予想と農夫であるイスラエル(人間)の考えは正反対であることが、主人がとった最後の手段を機会として暴露された。「その財産」主人のぶどう園、神が人間に委任している世界を示す。 39節 そして彼をつかまえて、ぶどう園の外に引き出して殺した。 「ぶどう園の外に引き出して殺した」イエスがエルサレム(神殿)の外で殺されたことを示す。ヘブル13:11-12 [8] 40節 このぶどう園の主人が帰ってきたら、この農夫たちをどうするだろうか」。 主人が帰ってきたら、この農夫たちをどうするかは明白である。聞いていた祭司長たちは何の疑問もなくイエスの問いに次節のように答えた。 41節 彼らはイエスに言った、「悪人どもを、皆殺しにして、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに、そのぶどう園を貸し与えるでしょう」。 ここでは「ほかの農夫たち」に「貸し与えるでしょう」と祭司長たちが答えているが、マルコ12:9、ルカ20:16ではイエスの言葉になっている。イスラエルの指導者たちが滅亡して、のちの教会の指導者、またすべてのクリスチャンに席を譲ることを意味していると言われる。 42節 イエスは彼らに言われた、「あなたがたは、聖書でまだ読んだことがないのか、『家造りらの捨てた石が隅のかしら石になった。これは主がなされたことで、わたしたちの目には不思議に見える』。 イエスは詩編118:22-23 [9] を引用された。ユダヤ人はこの句をメシヤを予言したものであると解釈していた。「家造りらの捨てた石」マルコによるとイエスを指しているが、ここではイエスの弟子とクリスチャン(41、43)を指している。「石」はしばしばメシヤの表徴に用いられている(イザヤ28:16、ダニエル2:34 etc)。「隅のかしら石」家の片隅にあって大黒柱を支える礎石。教会の柱を支える者を指す。 43節 それだから、あなたがたに言うが、神の国はあなたがたから取り上げられて、御国にふさわしい実を結ぶような異邦人に与えられるであろう。 イエスを拒んだために神の国は神の選民イスラエルから取り上げられて、異邦人の手に与えられるという変則的なことが起こるであろう。「御国にふさわしい実」ユダヤ人と異邦人からなるキリストの教会を建てる。 44節 またその石の上に落ちる者は打ち砕かれ、それがだれかの上に落ちかかるなら、その人はこなみじんにされるであろう」。 キリストへの悪意と不信は恐るべき審判をもたらせる。イザヤ8:14-15 [10] 45節 祭司長たちやパリサイ人たちがこの譬を聞いたとき、自分たちのことをさして言っておられることを悟ったので、 ここにおいて祭司長たちは、悪い農夫とは自分たちを指していると悟った。そして、いよいよイエスを殺す陰謀を計画し始めた。 46節 イエスを捕えようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者だと思っていたからである。 しかし彼らはイエスを預言者だと思っている群衆の反撃を恐れてすぐにはイエスを捕らえることができなかった。ユダヤ人の指導者たちは、民衆が彼らに反感を抱いていること、イエスが民衆の側の人間であることを感じ取っていた。 (2020/03/11)
[1] ゼカリヤ 9:9 シオンの娘よ、大いに喜べ、 エルサレムの娘よ、呼ばわれ。 見よ、あなたの王はあなたの所に来る。 彼は義なる者であって勝利を得、 柔和であって、ろばに乗る。 すなわち、ろばの子である子馬に乗る。
[2] 2列王9:13 「すると彼らは急いで、おのおの衣服をとり、それを階段の上のエヒウの下に敷き、ラッパを吹いて「エヒウは王である」と言った。 」
[3] 詩編118:25-26 「主よ、どうぞわれらをお救いください。 主よ、どうぞわれらを栄えさせてください。 主のみ名によってはいる者はさいわいである。 われらは主の家からあなたをたたえます。」
[4] イザヤ 56:7 「わたしはこれをわが聖なる山にこさせ、 わが祈の家のうちで楽しませる、 彼らの燔祭と犠牲とは、 わが祭壇の上に受けいれられる。 わが家はすべての民の 祈の家ととなえられるからである」
[5] 詩編 8:2 「みどりごと、ちのみごとの口によって、 ほめたたえられています。 あなたは敵と恨みを晴らす者とを静めるため、 あだに備えて、とりでを設けられました。」
[6] 詩編 46:2 「このゆえに、たとい地は変り、 山は海の真中に移るとも、われらは恐れない。」
[7] ヘブル 1:1-2 「神は、むかしは、預言者たちにより、いろいろな時に、いろいろな方法で、先祖たちに語られたが、 この終りの時には、御子によって、わたしたちに語られたのである。神は御子を万物の相続者と定め、また、御子によって、もろもろの世界を造られた。」
[8] ヘブル 13:11-12 「なぜなら、大祭司によって罪のためにささげられるけものの血は、聖所のなかに携えて行かれるが、そのからだは、営所の外で焼かれてしまうからである。 だから、イエスもまた、ご自分の血で民をきよめるために、門の外で苦難を受けられたのである。」
[9] 詩編 118:22 「家造りらの捨てた石は 隅のかしら石となった。 これは主のなされた事で われらの目には驚くべき事である。」
[10] イザヤ 8:14-15 「主はイスラエルの二つの家には聖所となり、またさまたげの石、つまずきの岩となり、エルサレムの住民には網となり、わなとなる。 多くの者はこれにつまずき、かつ倒れ、破られ、わなにかけられ、捕えられる」」
マタイによる福音書略解
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