Image12章 14章 Image

マタイによる福音書13章 

種まきのたとえ(1-23)  マルコ4:1-20、ルカ8:4-15
種まきのたとえとその解釈
1節 その日、イエスは家を出て、海べにすわっておられた。
  「その日」は前章と同じ日だろうか。
2節 ところが、大ぜいの群衆がみもとに集まったので、イエスは舟に乗ってすわられ、群衆はみな岸に立っていた。
   イエスは船から「大ぜいの群衆」に話された。弟子はわきで聞いていた。
3節 イエスは譬で多くの事を語り、こう言われた、「見よ、種まきが種をまきに出て行った。
     ユダヤの農夫は、うねを作らず平地に種を蒔いたので、ユダヤ人には身近なたとえであった。
4節 まいているうちに、道ばたに落ちた種があった。すると、鳥がきて食べてしまった。
   畑に落ちずそばの道に落ちた。
5節 ほかの種は土の薄い石地に落ちた。そこは土が深くないので、すぐ芽を出したが、
   太陽の熱が早く土の温度を上げるので発芽が早い。土が薄いので発芽した芽がすぐに地上に出る。
6節 日が上ると焼けて、根がないために枯れてしまった。
   温度が上がり過ぎて根をはる前に枯れる。
7節 ほかの種はいばらの地に落ちた。すると、いばらが伸びて、ふさいでしまった。
   無用な灌木が生えている草地。
8節 ほかの種は良い地に落ちて実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。
  「良い地}気候が温暖で肥沃なゲネサレのよく耕作された土地。そこに育たない植物はない。
9節 耳のある者は聞くがよい」。
  「耳のある者」とは、ただ言葉を聞くだけでなく、言葉の意味を理解する人。
10節 それから、弟子たちがイエスに近寄ってきて言った、「なぜ、彼らに譬でお話しになるのですか」。
  イエスが群衆に話すのを弟子たちが聞いていたのだが、イエスが弟子たちに直接話すときと違い、たとえで話す理由を弟子たちが尋ねた。
11節 そこでイエスは答えて言われた、「あなたがたには、天国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていない。
   喩は「天国の奥義」を知らない人に、天国の意味を日常の事象を使って表す。 たとえで話す天国の意味を理解する人のみ天国の奥義を知ることができる。
12節 おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。
   イエスが話す福音を知っている人たちは、ますます知識を増し理解を深める。しかし、イエスの福音を知らない人たちは、ますますイエスから遠くなる。
13節 だから、彼らには譬で語るのである。それは彼らが、見ても見ず、聞いても聞かず、また悟らないからである。
   信じない者にとっては、せっかくの譬えも役に立たない。
14節 こうしてイザヤの言った預言が、彼らの上に成就したのである。
      『あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。
      見るには見るが、決して認めない。

15節    この民の心は鈍くなり、
      その耳は聞えにくく、
      その目は閉じている。
      それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、
      悔い改めていやされることがないためである』。

   これはイザヤの預言(イザヤ6:9-10)の成就であった。神について見たり聞いたりしているのに受け入れないと、理解したくてもそれができないという恐ろしい状態になるのだ。
16節 しかし、あなたがたの目は見ており、耳は聞いているから、さいわいである。
  「しかし」理解することのできない大勢のユダヤ人に比較し、「あなたがた」イエスの弟子たちは、イエスについて目で見、耳で聞き、イエスを主として心に受け入れて、その祝福にあずかる事のできるので幸いである。
17節 あなたがたによく言っておく。多くの預言者や義人は、あなたがたの見ていることを見ようと熱心に願ったが、見ることができず、またあなたがたの聞いていることを聞こうとしたが、聞けなかったのである。
   旧約の預言者たちや義人たちには「天国の奥義」が隠されて見ることができなかったが、イエスの弟子達に明らかにされている。預言者たちは、キリストが来られる約束を聞き、キリストについての預言を語っきた。愛するひとり子イサクをささげる試練によって、父なる神がひとり子キリストを贖いの犠牲としてささげるという、全人類に対する無窮の愛と、御子を見捨てる激しい苦しみを身をもって体験した。しかし、アブラハムはキリストご自身に達し、触れることができなかった。それに対し、弟子達は、イエス・キリストから直々にみことばを聞き、キリストを自分の目で見ている。イエスを信じる者は皆同じある。キリストを見ることはできないが、聖霊の助け [1] によって、弟子たちとおなじようにキリストのみことばを聞き、キリストのみ姿を見ることができる。
18節 そこで、種まきの譬を聞きなさい。
   イエスご自身の種まきの譬の解釈を弟子たちに話す。
19節 だれでも御国の言を聞いて悟らないならば、悪い者がきて、その人の心にまかれたものを奪いとって行く。道ばたにまかれたものというのは、そういう人のことである。
   人の足や車で踏み固められた道のように、自分の考えや、経験を絶対化して福音を受け入れようとしないとき、福音は染ま人から取り去られる。
20節 石地にまかれたものというのは、御言を聞くと、すぐに喜んで受ける人のことである。
   一時の感情ですぐに福音を受け入れる人。
21節 その中に根がないので、しばらく続くだけであって、御言のために困難や迫害が起ってくると、すぐつまずいてしまう。
   しっかりと信仰の根が張っていないので、「御言のために困難や迫害」にあうと挫折してしまう。
22節 また、いばらの中にまかれたものとは、御言を聞くが、世の心づかいと富の惑わしとが御言をふさぐので、実を結ばなくなる人のことである。
   一つの土地にいばらと麦がともに生えているのが、この世の現状である。この状況自体が悪いのではなく、それを「御言をふさぐ」影響として受ける者が悪い。そういう人は福音を聞くが、実を結ばず神の国に受け入れられない。
23節 また、良い地にまかれたものとは、御言を聞いて悟る人のことであって、そういう人が実を結び、百倍、あるいは六十倍、あるいは三十倍にもなるのである」。
   「良い地」とはイエスによって耕された人。その人がイエスのみことばを受け入れると、ぐんぐん成長し多くの実を結ぶ。

麦と毒麦のたとえ(24-30)
24節 また、ほかの譬を彼らに示して言われた、「天国は、良い種を自分の畑にまいておいた人のようなものである。
  「自分の畑」神のものであるこの世界に「良い種」神の言葉を「まいておいた」。収穫は未来のことであるが天国はすでに存在している。
25節 人々が眠っている間に敵がきて、麦の中に毒麦をまいて立ち去った。
  「世の人が眠っている間」人間の注意がとどかないところで、「敵がきて」悪魔がきて「毒麦」利己心、不道徳な悪い思い、福音を否定する心などを世に「まいて立ち去った」。毒麦は小麦によく似ているが全く異なる有毒な雑草。苗のころは見分けがつかないが生育すると小麦と識別しやくなる。降雨の時に繁茂するため、パレスチナの農民の間には降雨のため小麦が毒麦に変ずるという迷信があったという。
26節 芽がはえ出て実を結ぶと、同時に毒麦もあらわれてきた。
  「あらわれてきた」実を結ぶようになると、毒麦の区別がつくようになってきた。
27節 僕たちがきて、家の主人に言った、『ご主人様、畑におまきになったのは、良い種ではありませんでしたか。どうして毒麦がはえてきたのですか』。
   眠っている間に毒麦がまかれたので僕たちは気が付かなかった。
28節 主人は言った、『それは敵のしわざだ』。すると僕たちが言った『では行って、それを抜き集めましょうか』。
  「それを抜き集めましょうか」パレスチナの農民の小作人(僕)は主人の畑のものは毒麦一本も主人のゆるしなしには抜くことができなかった。この「僕」は教会から不信仰な会員を浄化しようとするイエスの弟子たちと考えられる。
29節 彼は言った、『いや、毒麦を集めようとして、麦も一緒に抜くかも知れない。
   地下で小麦と毒麦の根が交互に絡まっている。無理に抜くと不信仰な会員と交流のある会員が、それを見て教会を離れることになるかもしれない。
30節 収穫まで、両方とも育つままにしておけ。収穫の時になったら、刈る者に、まず毒麦を集めて束にして焼き、麦の方は集めて倉に入れてくれ、と言いつけよう』」。
  「収穫まで」、「収穫の時」すなわち最後の審判まで待て。 [2]  さばきは神にゆだねよ。麦と毒麦の譬えの意味は36節以降で説明される。

からし種とパン種のたとえ(31-35)  マルコ4:30-34,ルカ13:18-21
31節 また、ほかの譬を彼らに示して言われた、「天国は、一粒のからし種のようなものである。ある人がそれをとって畑にまくと、
  「一粒のからし種」パレスチナのからしは、黒からしで野生に産する十字花植物で、調味料として使用するために「畑にまく」こともあった。
32節 それはどんな種よりも小さいが、成長すると、野菜の中でいちばん大きくなり、空の鳥がきて、その枝に宿るほどの木になる」。
  「どんな種よりも小さい」種子は非常に小さいが、世界で一番小さいというわけでなく、ユダヤ人が日常知っている種のうちで最も小さいという意味。非常に小さなものの例としてユダヤ人はことわざに用いた。「成長すると」4-5月の結実期には高さが4、5メートルにも達するという。空の鳥が止まり木、休み場にする。バビロンの王侯の権勢には終わりがあったが [3] 、福音と神の国の成長には終わりがない。「木になる」は野菜が木になるというのではなく、小さい種に比べてその成長の大きさを形容している。
33節 またほかの譬を彼らに語られた、「天国は、パン種のようなものである。女がそれを取って三斗の粉の中に混ぜると、全体がふくらんでくる」。
   天国の成長が「パン種」で譬えられている。パン種、イースト菌が物をふくらます力は、悪の感化力にも喩えられることもあるが [4] 、ここではイエスは天国の隠れた奇跡的力を示すものとして使われた。「三斗の粉」ユダヤの容量で三セア。一セアは約八升であるから、三セアは正確には二斗四升になる。このように大きな分量は、三斗の粉によって世界を表現しているからだろう。世界の中に神の国「パン種」を混ぜると、ひそかであるが、止めることができない質的変化がおこる「ふくらんでくる」。
34節 イエスはこれらのことをすべて、譬で群衆に語られた。譬によらないでは何事も彼らに語られなかった。
   イエスはこれらのことを喩で話したが、それも旧約の預言の成就だった。
35節 これは預言者によって言われたことが、成就するためである [5]
      「わたしは口を開いて譬を語り、
      世の初めから隠されていることを語り出そう」。

   イエスが人に教えることは創世の初めに被造物の中に隠されていた神の意志を現代に示すことである。

毒麦のたとえの説明(36-43)
36節 それからイエスは、群衆をあとに残して家にはいられた。すると弟子たちは、みもとにきて言った、「畑の毒麦の譬を説明してください」。
   弟子たちにとっても24-30節の譬はかなり難解なものだった。天の御国に悪い者が入るということは予想に反することだったのである。このため弟子たちにはさらにイエスからの説明が必要だった。
37節 イエスは答えて言われた、「良い種をまく者は、人の子である。
   「良い種」は神の国の子、天国の世継ぎに選ばれている人を指す(38)。神の国の子を世界の畑にまく農夫は「人の子」 [6] イエスである。
38節 畑は世界である。良い種と言うのは御国の子たちで、毒麦は悪い者の子たちである。
  「畑は世界」教会にとって宣教の畑は全世界である(28:19)。 「悪い者の子」悪魔の子。イエスはわれらの先祖にアブラハムがいると言って、自分の血統を誇っているユダヤ人を悪魔の子と呼ばれたことがあった(ヨハネ8:41-44)。
39節 それをまいた敵は悪魔である。収穫とは世の終りのことで、刈る者は御使たちである。
  「世の終り」この言葉は28:20にも出てくる。この終わりは神の新しい支配の始まりである。「御使」は神のみちびき、守りを人に伝えるとともに、神の怒りと刑罰をも伝える神と人間の仲保者として登場している(2サムエル24:16,2列王19:35)。
40節 だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終りにもそのとおりになるであろう。
41節 人の子はその使たちをつかわし、つまずきとなるものと不法を行う者とを、ことごとく御国からとり集めて、
   39節では御使が刑罰の執行者であると記されているが、彼らをつかわしているのは「人の子」であり、イエスが世の終わりの審判者である。(この表現の仕方はユダヤの黙示文学にならっている。) 「御国から」これを人の子の国と解して、43節の「父の御国」と区別して考えると、終わりにまずキリストの国が建てられ、その後キリストはその国をことごとく父なる神にゆだねるとき、そこに神の国が建てられるということになる。
42節 炉の火に投げ入れさせるであろう。そこでは泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。
   罪人の運命についてユダヤの黙示文学が用いている言葉を借りている。
43節 そのとき、義人たちは彼らの父の御国で、太陽のように輝きわたるであろう。耳のある者は聞くがよい。
  「太陽のように輝きわたる」御子イエス・キリストの光を反射することによって輝きわたるものとなる。「耳のある者は聞くがよい」(9)

畑の宝と真珠と地引網のたとえ(44-52)
天国に関する三つの小さな譬。畑の宝と真珠の譬は天国は最上の宝であること、人はそれを得るために喜んで犠牲を払う。地引網の譬は麦と毒麦の譬と同じ主旨のもの。
44節 天国は、畑に隠してある宝のようなものである。人がそれを見つけると隠しておき、喜びのあまり、行って持ち物をみな売りはらい、そしてその畑を買うのである。
   天国は「畑に隠してある宝」のようなもので、だれが隠したかわからないが、畑を耕す農民がくわの先で見つけ掘り出した。「隠しておき」人に奪われないように誰にも告げない。「喜びのあまり」天国がどんなに望ましい宝であるかは、それを発見した人は喜びのあまり、「持ち物をみな売りはらい」あらゆる犠牲を払って、「その畑を買う」ほどである。
45節 また天国は、良い真珠を捜している商人のようなものである。
   畑の宝の譬では天国は偶然に発見されたものであったが、目的をもって探している「良い真珠を捜している商人」になっている。「良い真珠」光沢も形も最上のもの。悪の混入をゆるさないという天国の性格を表している。
46節 高価な真珠一個を見いだすと、行って持ち物をみな売りはらい、そしてこれを買うのである。
   その商人は多年の望みがかなえられて「高価な真珠」を見つけた。すると商人は世界のどこにもないたった一つの真珠を買うために全財産を投げ出すが、彼は満足である。大利のために小利を投げ捨てるようにしないと天国を所有することはできない。
47節 また天国は、海におろして、あらゆる種類の魚を囲みいれる網のようなものである。
   天国は「あらゆる種類の魚を囲みいれる」網のようなものであって、善人も悪人も、神を信じる者も信じない者も、すべてのものを受け入れる。イエスはパリサイ人のように人を人から区別して、完全な者のみを集めようと考えられなかった。
48節 それがいっぱいになると岸に引き上げ、そしてすわって、良いのを器に入れ、悪いのを外へ捨てるのである。
   しかし天国は無法無策のところではない。神は適時に人を裁かれるので、天国である網の中に入っても捨てられるものもある。「悪いのを」ユダヤ人は食べることができる魚と、食べることができない魚との律法をもっていた(レビ11:9-12)。天国はこのような規則ではなく、イエスの言葉を受け入れるか、受け入れないかによって、「器に入れ」るか、「外へ捨てる」が分かれる。 49節 世の終りにも、そのとおりになるであろう。すなわち、御使たちがきて、義人のうちから悪人をえり分け、
   世の終りにキリストが再び来られる時に、教会の中にいる悪い者をさばかれる。
50節 そして炉の火に投げこむであろう。そこでは泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。
   人がイエスのみことばを聞き、それを悟り、実を結ばせる事が本当の教会である。ユダヤ人の指導者たちがメシヤを拒んだので、天の御国は、異邦人を含む教会の姿として表わされた。教会に入るためには、キリストのみことばを聞いて悟らなければならない。悟った証拠として、人生と生活の中に変化が現れる。こうして、教会は畑に良い麦がなっている状態にたとえられるが、そこに悪魔が入り込んで、悪い者が入ってくる。この悪い者は、膨張して非常に大きいものになるのです。しかし、キリストが再び来られる時に、教会にある不法の行いがさばかれる。
51節 あなたがたは、これらのことが皆わかったか」。彼らは「わかりました」と答えた。
   弟子達は、この時点で完全には理解していなかった。そして彼らは失敗を続ける。しかしイエスから、「あなたがたは幸いです。」と言われた弟子たちと群集の違いは、彼らはイエスの行かれる所に何処までもついて行ったことであった。彼らはイエスを自分の主としていた。神はそうした者たちに恵みを注いでくださり、ついには神を喜ばすような生活をするように変えられていく。そしてイエスは、次節で弟子達の将来の姿を「天国のことを学んだ学者」のたとえによって預言された。
52節 そこで、イエスは彼らに言われた、「それだから、天国のことを学んだ学者は、新しいものと古いものとを、その倉から取り出す一家の主人のようなものである」。
  「天国のことを学んだ学者」イエスは弟子たちのことを学者(ラビ)と言っておられるが、律法の末節にとらわれて、その意味や精神を学ばないラビのようではなく、「天国のことを学んだ学者」であり、「新しいもの」イエスの新しい律法と「古いもの」旧約聖書の奥義とを、自由に自分の生活に生かす人のようなものである。

故郷の不信(53-58)  マルコ6:1-6,ルカ4:16-30
53節 イエスはこれらの譬を語り終えてから、そこを立ち去られた。
54節 そして郷里に行き、会堂で人々を教えられたところ、彼らは驚いて言った、「この人は、この知恵とこれらの力あるわざとを、どこで習ってきたのか。
   イエスが郷里のナザレに帰られたのは、公生涯に入られてからは、これが最初であった。「会堂で人々を教えられた」人々から有識者と認められた人は、だれでも会堂で教えることがゆるされていた。「この知恵」故郷の人々が今しがた聞いた教え。「これらの力あるわざ」8、9章に記されている奇跡。「どこで習ってきたのか」イエスはユダヤ教の教師を養成するラビの学校で学んだこともなく、そのほか、特別な学問研究をしたとも聞いていないので不思議に思った。身近な者が有名になったことに対して、意識しない嫉妬を感じたのかもしれない。
55節 この人は大工の子ではないか。母はマリヤといい、兄弟たちは、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。
   郷里の人々がイエスにつまづいたのは、イエスの存在をその周囲の人々と比べることによって理解しようとしたからである。「この人は大工の子」イエスの養父ヨセフは大工であった。イエスもその仕事を習い、公の宣教を始めるまで、養父の死後は家族を養ったらしい。「母はマリヤといい、兄弟たちは、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか」人々はイエスの母や兄弟とは毎日会っていたので、その名前をよく知っていた。みんな普通の村人であるのに、ひとりイエスが有名であるのが不思議だった。「ヤコブ」イエスの復活後、ペテロと並んで初代教会の指導者となった(ガラテヤ1:18以下)。「ヨセフ」ここに記されているだけで、のちの教会には知られていない。「シモン」のちにエルサレム教会の監督になったという説があるが確かでない。「ユダ」のちにイエスを信じ教会で活動した。ユダの手紙の著者とみなされている。
56節 またその姉妹たちもみな、わたしたちと一緒にいるではないか。こんな数々のことを、いったい、どこで習ってきたのか」。
57節 こうして人々はイエスにつまずいた。しかし、イエスは言われた、「預言者は、自分の郷里や自分の家以外では、どこででも敬われないことはない」。
   郷里の人々がイエスにつまづいたのは、次の理由による。イエスが神の子の受肉者であるということを知らないで、イエスをただ肉において近い人と考えたために、かれらはイエスを救い主として受け入れることができなかった。イエスは、彼の郷里の人々が彼を信じないのを見て、預言者エレミヤが郷里の人に受け入れられなかったことを思い起こされたであろう(エレミヤ11:21,12:6)。古い写本にはイエスの言葉は、「預言者は、自分の郷里では受け入れられないし、医者は彼を知る者をいやさない」であったと記している。いずれにしても、この言葉は、当時一般に流布していたことわざであった。
58節 そして彼らの不信仰のゆえに、そこでは力あるわざを、あまりなさらなかった。
   奇跡に先んじるものは信仰である。疑う者、信じない者に対しては、奇跡をともなう力あるわざを行うことができない。


(2020/01/14)


[1]  ヨハネ14:26
   「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。」
 2ペテロ1:21
  「なぜなら、預言は決して人間の意志から出たものではなく、人々が聖霊に感じ、神によって語ったものだからである。 」

[2]  1コリント4:5
  「だから、主がこられるまでは、何事についても、先走りをしてさばいてはいけない。主は暗い中に隠れていることを明るみに出し、心の中で企てられていることを、あらわにされるであろう。その時には、神からそれぞれほまれを受けるであろう。 」

[3]  ダニエル4:20-21
   「あなたが見られた木、すなわちその成長して強くなり、天に達するほどの高さになって、地の果までも見えわたり、 4:21その葉は美しく、その実は豊かで、すべての者がその中から食物を獲、また野の獣がその陰にやどり、空の鳥がその枝に住んだ木、」

[4]  ガラテヤ5:7-9
   「あなたがたはよく走り続けてきたのに、だれが邪魔をして、真理にそむかせたのか。 そのような勧誘は、あなたがたを召されたかたから出たものではない。 少しのパン種でも、粉のかたまり全体をふくらませる。」
 1コリント5:6-7
   「あなたがたが誇っているのは、よろしくない。あなたがたは、少しのパン種が粉のかたまり全体をふくらませることを、知らないのか。新しい粉のかたまりになるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたは、事実パン種のない者なのだから。わたしたちの過越の小羊であるキリストは、すでにほふられたのだ。」

[5]  詩編78:2
   「わたしは口を開いて、たとえを語り、
    いにしえからの、なぞを語ろう。」

[6]  マタイ8:20
   「イエスはその人に言われた、「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」。」
    (イエスは自らを「人の子」と称した。)


マタイによる福音書略解                                                                                                                
1章2章3章4章5章6章7章8章9章10章11章12章13章14章
15章16章17章18章19章20章21章22章23章24章25章26章27章28章