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マタイによる福音書27章

イエスはピラトに引き渡される(1-2)  マルコ15:1、ルカ23:1
祭司長たちはイエスを殺そうと罪状を変えてピラトに訴えた。

1節 夜が明けると、祭司長たち、民の長老たち一同は、イエスを殺そうとして協議をこらした上、
  ユダヤ人会議は宗教的冒涜に対し死刑を判決できた。しかし執行権は与えられていなかった。
  そのため、イエスがキリストであると主張したことをユダヤ人の王位を要求していると改変し、ローマに対する反逆罪としてピラトに訴えた。
2節 イエスを縛って引き出し、総督ピラトに渡した。
  ピラトはユダヤ、サマリヤ、イドマヤを収めるローマの第5代総督であった。(BC26-36)
  彼はエルサレム進軍の際、皇帝の像が描かれた旗をもって入城したため民衆の反感を買った。
  また神殿の金を使ってソロモンの池から水道を引き、激高した群衆を虐殺した。(ルカ13:1)
  イエスの無実を認めたが、十字架につけたことがピラトの最大の過ちとなった。

ユダは首をつって死ぬ(3-10)
口伝えによって記されたマタイによる福音書にのみある記事。使徒行伝1:18-19にもある。

3節 そのとき、イエスを裏切ったユダは、イエスが罪に定められたのを見て後悔し、銀貨三十枚を祭司長、長老たちに返して
  ユダはイエスを裏切ったことを後悔し、シケル銀貨(マタイ26:15)を返すがイエスとその使命に帰ることができなかった。
  一方、イエスを否認したペテロは、激しく後悔し(マタイ26:75)、悔い改めて真の使徒となった。
  この二人の結末の違いは、罪の深さや悔い改めの正否によってだけでは簡単に説明できない。
4節 言った、「わたしは罪のない人の血を売るようなことをして、罪を犯しました」。しかし彼らは言った、「それは、われわれの知ったことか。自分で始末するがよい」。
  この時まだピラトによる判決が出ていない。しかし、ユダには「罪のない人の血を売る」ということがどういうことか分かっていた。
  それは取り返しようがない重大な罪であったが、祭司長たちに告白しても無駄なことだった。
  イエスがメシヤとしての使命を果たすために命を捧げることが必須であり、ユダの裏切りは不可欠であった。
  このジレンマをユダは一人で解決しなければならなかった。
5節 そこで、彼は銀貨を聖所に投げ込んで出て行き、首をつって死んだ。
  深く後悔に罪に苦しんだユダは、悔い改めとは異なる道を選び自決した。
6節 祭司長たちは、その銀貨を拾いあげて言った、「これは血の代価だから、宮の金庫に入れるのはよくない」。
  銀三十シケルの「血の代価」も預言の成就であった。 [1]
7節 そこで彼らは協議の上、外国人の墓地にするために、その金で陶器師の畑を買った。
  礼拝するためにエルサレムを訪れている間に死んだ巡礼者のための無縁墓地を造ることにした。
8節 そのために、この畑は今日まで血の畑と呼ばれている。
  「血の畑」ヘブル語アケルダマ(使徒行伝1:19)、「眠れる者の地」の意味。
9節 こうして預言者エレミヤによって言われた言葉が、成就したのである。すなわち、「彼らは、値をつけられたもの、すなわち、イスラエルの子らが値をつけたものの代価、銀貨三十を取って、
10節 主がお命じになったように、陶器師の畑の代価として、その金を与えた」。
  9節と10節はエレミヤではなく、ゼカリヤ11:13を書き替えたものと思われる。

裁判のためイエスはピラトの前に立つ(11-26)  マルコ15:2-15、ルカ23:2-25
総督ピラトによって死刑を宣告される。イザヤ53:7-8

11節 さて、イエスは総督の前に立たれた。すると総督はイエスに尋ねて言った、「あなたがユダヤ人の王であるか」。イエスは「そのとおりである」と言われた。
   祭司長たちがピラトに告訴の内容に従って、ピラトはイエスに質問した。
   それに対しイエスは、俗世の王であるマカベヤやヘロデとは違い、神の王国の王であるという意味で答えた。
   おそらくピラトは、王権を主張する反逆罪ではないことは、うわさによってある程度理解していたであろう。
12節 しかし、祭司長、長老たちが訴えている間、イエスはひと言もお答えにならなかった。
   命を捧げることは地上におけるメシヤとしての必然であるから、次元の異なる祭司長たちの訴えに対して弁明する必要がない。
13節 するとピラトは言った、「あんなにまで次々に、あなたに不利な証言を立てているのが、あなたには聞えないのか」。
14節 しかし、総督が非常に不思議に思ったほどに、イエスは何を言われても、ひと言もお答えにならなかった。
   沈黙するイエスの姿を見て、ピラトはますますイエスの無罪を確信していったに違いない。
15節 さて、祭のたびごとに、総督は群衆が願い出る囚人ひとりを、ゆるしてやる慣例になっていた。
   ローマは被占領国の民心を得るために特別な日に民衆の意向に従って恩赦をする慣例があった。
16節 ときに、バラバという評判の囚人がいた。
   バラバは暴動を起こした殺人犯として有名だった。
17節 それで、彼らが集まったとき、ピラトは言った、「おまえたちは、だれをゆるしてほしいのか。バラバか、それとも、キリストといわれるイエスか」。
   過ぎ越しの祭りの恩典で、イエスを釈放しようとしたピラトは、悪名高い殺人犯のバラバと選ばせたら、イエスの釈放を選ぶと思ったのだ。
18節 彼らがイエスを引きわたしたのは、ねたみのためであることが、ピラトにはよくわかっていたからである。
   ピラトは祭司長たちがイエスを訴えた理由をねたみと思っていた。律法と神の国の真理というユダヤ人の根源的な問題を理解していたわけではなかった。
19節 また、ピラトが裁判の席についていたとき、その妻が人を彼のもとにつかわして、「あの義人には関係しないでください。わたしはきょう夢で、あの人のためにさんざん苦しみましたから」と言わせた。
   ローマ人の生活は迷信に支配されていた。ピラトの妻は、夢でイエスが罪人などではなく、義人であることを知り、罪で裁くことがないようにと夫に伝えた。
20節 しかし、祭司長、長老たちは、バラバをゆるして、イエスを殺してもらうようにと、群衆を説き伏せた。
   祭司長たちはピラトが世論を恐れる政治家であることを知っていたので民衆を扇動した。
   祭司長たちもこの世の政治家同様策略に長けていたのである。
21節 総督は彼らにむかって言った、「ふたりのうち、どちらをゆるしてほしいのか」。彼らは「バラバの方を」と言った。
   ピラトは再び群衆に言った。祭司長たちにたきつけられた群衆はバラバを釈放するように叫んだ。
22節 ピラトは言った、「それではキリストといわれるイエスは、どうしたらよいか」。彼らはいっせいに「十字架につけよ」と言った。
   バラバを釈放するなら、罪があるとは思えないイエスをどうしたらいいのか、ピラトは苦慮し、群衆に問うが、祭司長たちに先導された群衆心理をコントロールできなくなっていた。
23節 しかし、ピラトは言った、「あの人は、いったい、どんな悪事をしたのか」。すると彼らはいっそう激しく叫んで、「十字架につけよ」と言った。
   ピラトにはイエスがローマに反逆する政治犯とは思えなかった。しかし群衆をこれ以上抑えるのも難しくなっていた。
24節 ピラトは手のつけようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、水を取り、群衆の前で手を洗って言った、「この人の血について、わたしには責任がない。おまえたちが自分で始末をするがよい」。
   ピラトはイエスが無罪であると信じていたが、暴動を恐れて水で手を洗い自分には責任がないことを示した。
25節 すると、民衆全体が答えて言った、「その血の責任は、われわれとわれわれの子孫の上にかかってもよい」。
   自分たちを義とするのも群集心理である。それが不遜な過ちであったことを歴史が証明するだろう。
26節 そこで、ピラトはバラバをゆるしてやり、イエスをむち打ったのち、十字架につけるために引きわたした。
   十字架につける前にむち打つことになっていた。

人前で兵士たちによってあざけられる(27‐31)  マルコ15:16-20
処刑の前にあざけるのがローマ人の慣習だった。

27節 それから総督の兵士たちは、イエスを官邸に連れて行って、全部隊をイエスのまわりに集めた。
   この官邸は総督がエルサレムに滞在中の官邸のこと。総督府はカイザリヤにあった。
28節 そしてその上着をぬがせて、赤い外套を着せ、
   赤い外套とはローマ兵の外套のこと。兵士は自分の外套をイエスに着せて、王様にみたてた。
29節 また、いばらで冠を編んでその頭にかぶらせ、右の手には葦の棒を持たせ、それからその前にひざまずき、嘲弄して、「ユダヤ人の王、ばんざい」と言った。
   そしていばらの冠をかぶらせ、王の笏として葦の棒を持たせ、王にするように敬礼してばかにした。
30節 また、イエスにつばきをかけ、葦の棒を取りあげてその頭をたたいた。
   兵士たちは、ますます調子に乗ってイエスを愚弄した。
31節 こうしてイエスを嘲弄したあげく、外套をはぎ取って元の上着を着せ、それから十字架につけるために引き出した。
   兵士たちはイエスが地上の王ではないことを認め、赤い外套をはぎ取り元の外套を着せた。

ゴルゴタで十字架にかけられる(32‐44)  マルコ15:21-32、ルカ23:26-43
ゴルゴダの丘で二人の強盗と一緒に十字架にかけられる。祭司長たちは十字架上のイエスをなおも愚弄する。イザヤ53:8-12

32節 彼らが出て行くと、シモンという名のクレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に負わせた。
   十字架の刑に処せられるものは、自分の十字架の柱を背負って刑場に行かなければならなかった。
   しかしイエスは疲労で歩むことができなくなっていた。そこで通りがかりのクレネ人のシモンに無理やりイエスの十字架の柱を背負わせた。
33節 そして、ゴルゴタ、すなわち、されこうべの場、という所にきたとき、
34節 彼らはにがみをまぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはそれをなめただけで、飲もうとされなかった。
   刑は非常に苦痛を伴うものだった。そのため、刑場で死刑囚に麻酔剤を混ぜたぶどう酒を飲ませるのが慣習だった。
   しかしイエスはなめただけで、飲もうとされなかった。目覚めた心で十字架の苦難を受けようとされたのである。
   イエスは弟子たちにつねに目を覚ましているようにと言った。
   たとえそれが苦痛の時であっても、神の御心を見失うことがないようにと地上で最後の務めを果たそうという時に自らの行動を通して教えたのである。
35節 彼らはイエスを十字架につけてから、くじを引いて、その着物を分け、
   死刑囚の着物は、死刑執行人の役得であった。これも預言の成就であった。 [2]
36節 そこにすわってイエスの番をしていた。
   イエスの弟子たちが、イエスの遺体を盗みに来ないように見張っていたのである。(27:62-66と同様)
37節 そしてその頭の上の方に、「これはユダヤ人の王イエス」と書いた罪状書きをかかげた。
   ローマ兵は十字架に死刑の理由を書いた罪状書をかかげた。この内容はイエスとユダヤ人に対する嘲笑でもあった。
38節 同時に、ふたりの強盗がイエスと一緒に、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけられた。
   イザヤ53:9の「その墓は悪しき者と共に設けられ、その塚は悪をなす者と共にあった。」の成就。
39節 そこを通りかかった者たちは、頭を振りながら、イエスをののしって
   ユダヤ人は、人をののしる時「頭を振りながら」行った。
40節 言った、「神殿を打ちこわして三日のうちに建てる者よ。もし神の子なら、自分を救え。そして十字架からおりてこい」。
   イエスは死んで三日後に復活されること(ヨハネ2:19-21)を言ったのだが、ユダヤ人たちは理解していなかった。
   イエスが荒野で試みを受けられていた時、サタンからも「神の子なら、自分を救え。」という内容の言葉を聞かれた。
41節 祭司長たちも同じように、律法学者、長老たちと一緒になって、嘲弄して言った、
   祭司長たち、宗教指導者のイエスに対する恨みの深さは尋常ではない。
42節 「他人を救ったが、自分自身を救うことができない。あれがイスラエルの王なのだ。いま十字架からおりてみよ。そうしたら信じよう。
   彼らは最後まで病人をいやしたようなしるしを求めイエスを求めようとしない。
43節 彼は神にたよっているが、神のおぼしめしがあれば、今、救ってもらうがよい。自分は神の子だと言っていたのだから」。
   これは詩編22:7-8の成就であった。 [3]
44節 一緒に十字架につけられた強盗どもまでも、同じようにイエスをののしった。
   ルカ23:40-43には強盗の一人が悔い改めたことが書かれているが、マタイはそれを書いていない。

イエスの死(45‐56)  マルコ15:33-41、ルカ23:44-49
午前9時頃に十字架にはりつけにされたイエスは、午後3時頃に息を引き取った。
そのとき、神殿の幕が裂け、地震が起こり、聖徒が生き返った。

45節 さて、昼の十二時から地上の全面が暗くなって、三時に及んだ。
   日食であると非神話化することは無理である。過ぎ越しの祭りの期間は、満月なので日食が起こりようがないのだ。
   むしろ人間の罪の深さが暴露され、それまで沈黙していた父なる神の怒りと悲しみが地を闇で覆ったとみるべきではないだろうか。
46節 そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
   詩編22篇1節の冒頭、「わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか。」をヘブル語とアラム語を混用している。
   イエスは苦しみの絶頂において、愛唱の詩編を絶叫された。これは父なる神とその御子の関係を表している重要な箇所である。
   仲保者、贖い主としての使命を与えられたイエスは、その務めをただひとりで全うしなければならない。
   独り子イエスを地上に送った父なる神は、わが子がいかに苦しもうとも助けてはならないのだ。
   人に捨てられ神にも捨てられた苦しみを通してイエスは神と人との仲保者になったのである。
   世の人々の罪を負って自ら罪人となったイエスは、人に捨てられ神にも捨てられたかのようにみえるが、
   天父とイエスは常に一体であった。 
   ここにおいて、天父とメシヤとなる御子の関係を示す詩編22:1-3 [4] の真の意味を自ら明らかにされようとしたのである。
47節 すると、そこに立っていたある人々が、これを聞いて言った、「あれはエリヤを呼んでいるのだ」。
   イエスが「エリ(わが神)」と叫んだのをエリヤと聞き間違え、エリヤを読んでいると思ったのである。
   イエスをあざけっていた祭司長たち、宗教指導者たちも詩編であることが分からなかったのであろう訂正しようとしていない。
48節 するとすぐ、彼らのうちのひとりが走り寄って、海綿を取り、それに酢いぶどう酒を含ませて葦の棒につけ、イエスに飲ませようとした。
   イエスの最後の叫びと思ったのであろう、のどの渇きをやわらげさせようと、麻酔剤を混ぜたぶどう酒を飲まなかったイエスに
酢いぶどう酒を飲ませようとした。
49節 ほかの人々は言った、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」。
   ここでもイエスが叫んだエリの意味を知ろうともしない見物人が好奇心で見ている。
50節 イエスはもう一度大声で叫んで、ついに息をひきとられた。
   そして最後にもう一度叫んで息をひきとられた。
51節 すると見よ、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。また地震があり、岩が裂け、
   神殿の幕は、神殿の中の聖所と至聖所を隔てる垂れ幕で、至聖所は神が人間と面会する場所であった。
   そこにはもとは十戒の石を収めた神の箱が置かれていた最も神聖な場所で、年に一度民の代表として大祭司だけが入ることが出来た。
   罪人である人間は神に会うことが許されなかったのである。
   しかしイエスの贖いによる死によって、人の罪によって神と隔絶していたものが取り去られ、悔い改めれば誰でも神に近づくことができるようになった。
52節 また墓が開け、眠っている多くの聖徒たちの死体が生き返った。
53節 そしてイエスの復活ののち、墓から出てきて、聖なる都にはいり、多くの人に現れた。
   イエスの死は、復活の前提、イエスの復活は初穂であって、それに聖徒たちの復活が続き主に従って聖なる都に入った。
54節 百卒長、および彼と一緒にイエスの番をしていた人々は、地震や、いろいろのできごとを見て非常に恐れ、「まことに、この人は神の子であった」と言った。
   マルコによる福音書15:39では、イエスにむかって立っていた百卒長は、このようにして息をひきとられたのを見てこう言ったという。
55節 また、そこには遠くの方から見ている女たちも多くいた。彼らはイエスに仕えて、ガリラヤから従ってきた人たちであった。
56節 その中には、マグダラのマリヤ、ヤコブとヨセフとの母マリヤ、またゼベダイの子たちの母がいた。
   これらの女性たちがイエスの十字架上での死を証しすることができる人たちであった。

イエスの埋葬(57‐61)  マルコ15:42-47、ルカ23:50-56
イエスの体は、イエスの弟子アリマタヤのヨセフによって埋葬された。

57節 夕方になってから、アリマタヤの金持で、ヨセフという名の人がきた。彼もまたイエスの弟子であった。
   アリマタヤはラマのギリシャ名。サムエルはラマにいた。(1サムエル8:4) マルコ15:43によると弟子ではなく、「神の国を待ち望んでいる人」とある。
   ヨセフはユダヤ国会(サンヒドリン)の地位の高い議員だった。(マルコ15:43) 相当な政治的な力を持っていたと思われる。
58節 この人がピラトの所へ行って、イエスのからだの引取りかたを願った。そこで、ピラトはそれを渡すように命じた。
   律法では、死刑になった人の体を翌朝まで放置することを禁じていた。 [5]
   また、ユダヤ人にとって死者を葬ることは善行の一つであった。
   その日は安息日の前日だが、安息日は午後6時に始まる。安息日に死体を処理することは忌まわしいことだった。
   過ぎ越しの祭りの最も重要な安息日なので、3時間に満たない時間で、急いで処理しなければならなかった。
   ヨセフは金持で自分と家族のための墓を持っていた。
   もしヨセフがイエスの遺体を引き取らなかったら、兵士たちが急いでとりおろし、共同墓地に投げ捨ててしまったかもしれない。
   ヨハネ19:38に「ユダヤ人をはばかって、ひそかにイエスの弟子となった」とあるようにヨセフはイエスの弟子であることを立場上公言できなかった。
   しかし、イエスの裁判に賛成票を投じなかった。「...彼は議会の議決や行動には賛成していなかった。」(ルカ23:51)
   ヨセフは、勝利の宣言をもって息を引きとったイエス壮絶な死に様と背後にある無窮の愛を見て、それまでの消極的な信仰を恥じ、命がけの行動に出た。
   イエスに向けられた敵意、憎悪、嘲りがヨセフに向けられ、議員の立場をはく奪されるかもしれないし、命の保証もないのだ。
   ヨハネがピラトに直接陳情することは、このような危険をともなうことで実に勇気ある行動だった。
   これはヨセフでなければできなかったことだ。もしペテロがピラトに陳情しようとしても門前払いであったろう。
   ピラトはあまりにも早い死に驚いて、百卒長にイエスの死を確認した上で、ヨハネの陳情を受け入れ、イエスの遺体を渡すように命じた。
59節 ヨセフは死体を受け取って、きれいな亜麻布に包み、
   ユダヤの埋葬では棺を用いず、遺体を洗い、香料を塗り、清潔な亜麻布に包む。
   イエスの死後3時間以内に、すべてのことが悲しみの内にも手際よく行われた。
   イエスの女弟子たちがそれを助けたた。彼女たちは、身の安全のために、この日の出来事を遠くから眺めていたが、
   ヨセフの大胆な行動に勇気を得て、葬りの手伝いをしたのだった。
   ニコデモも「没薬と沈香とをまぜたものを百斤ほど」(ヨハネ19:39-40)持ってきた。ヨセフの勇気ある行動にならったのである。
60節 岩を掘って造った彼の新しい墓に納め、そして墓の入口に大きい石をころがしておいて、帰った。
   亜麻布で包んだイエスの遺体を岩を掘った横穴の墓に収め、大きい石で入り口を閉ざした。
61節 マグダラのマリヤとほかのマリヤとが、墓にむかってそこにすわっていた。
   ヨセフやニコデモが帰った後も、女たちは墓に向かって座っていた。すでに安息日が始まっていたかもしれないが、
   一日半の間に目まぐるしく変転した出来事を彼女たちは、まだ実感できなかったのではないだろうか。

墓の警備(62‐66)  
祭司長たちはイエスの体を弟子たちが盗み出すことを恐れ、ピラトに墓の警護をするようピラトに願い出た。
新約外典「ペテロによる福音書」にもある。

62節 あくる日は準備の日の翌日であったが、その日に、祭司長、パリサイ人たちは、ピラトのもとに集まって言った、
   準備の日(金曜日)の翌日は安息日(土曜日)。除酵祭の翌日であった。
63節 「長官、あの偽り者がまだ生きていたとき、『三日の後に自分はよみがえる』と言ったのを、思い出しました。
64節 ですから、三日目まで墓の番をするように、さしずをして下さい。そうしないと、弟子たちがきて彼を盗み出し、『イエスは死人の中から、よみがえった』と、民衆に言いふらすかも知れません。そうなると、みんなが前よりも、もっとひどくだまされることになりましょう」。
   当時、イエスの復活は弟子によって仕組まれた芝居であるという復活批判があった。この話はそれに対するものとして入れたものであろう。
65節 ピラトは彼らに言った、「番人がいるから、行ってできる限り、番をさせるがよい」。
   ピラト自身は、その必要はないと思ったが、人心に逆らうことは無益と思い同意した。投げやりな雰囲気である。
66節 そこで、彼らは行って石に封印をし、番人を置いて墓の番をさせた。
   墓の入り口の石に蝋や土で封印し動かせないようにした。
   ダニエルがししの穴に投げ込まれたときもこのような方法で穴の口の石を封印した。(ダニエル6:17)

(2019/06/13)


[1]  ゼカリヤ11:13
   「主はわたしに言われた、「彼らによって、わたしが値積られたその尊い価を、宮のさいせん箱に投げ入れよ」。わたしは銀三十シケルを取って、これを主の宮のさいせん箱に投げ入れた。」
   「宮のさいせん箱に投げ入れよ」および「これを主の宮のさいせん箱に投げ入れた。」が、
   日本聖書刊行会の1970年版新改訳聖書では、「陶器師に投げ与えよ。」、「それを主の宮の陶器師に投げ与えた。」となっている。
   日本聖書協会の文語訳聖書では、「陶人に投あたへよと」、「エホバの室に投げいれて陶人に歸せしむ」になっている。
   KJVでは、"Cast it unto the potter"、"and cast them to the potter in the house of the Lord."(potter=陶工、陶芸家)
   1545年版ルター訳聖書では、"daß es dem Töpfer gegeben werde!" (それが陶工に与えられることを!)、"und warf sie ins Haus des HERRN, daß es dem Töpfer gegeben würde."(それらを主の家に投げいれた。それらは陶工に与えられるだろう。)
   「さいせん箱」は原典では「つぼ」なのでこれらの違いが出たのかもしれない。

[2]  詩編22:18
   「彼らは互にわたしの衣服を分け、
    わたしの着物をくじ引にする。」
 イザヤ53:12
   「それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に
    物を分かち取らせる。
    彼は強い者と共に獲物を分かち取る。
    これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、
    とがある者と共に数えられたからである。
    しかも彼は多くの人の罪を負い、
    とがある者のためにとりなしをした。」

[3]  詩編22:7-8
   「すべてわたしを見る者は、わたしをあざ笑い、
    くちびるを突き出し、かしらを振り動かして言う、
    「彼は主に身をゆだねた、主に彼を助けさせよ。
    主は彼を喜ばれるゆえ、主に彼を救わせよ」と。」

[4]  詩編22:1-3
   「わが神、わが神、
    なにゆえわたしを捨てられるのですか。
    なにゆえ遠く離れてわたしを助けず、
    わたしの嘆きの言葉を聞かれないのですか。
    わが神よ、わたしが昼よばわっても、
    あなたは答えられず、
    夜よばわっても平安を得ません。
    しかしイスラエルのさんびの上に座しておられる
    あなたは聖なるおかたです。」

[5]  申命21:22-23
   「もし人が死にあたる罪を犯して殺され、あなたがそれを木の上にかける時は、
    翌朝までその死体を木の上に留めておいてはならない。
    必ずそれをその日のうちに埋めなければならない。木にかけられた者は神にのろわれた者だからである。
    あなたの神、主が嗣業として賜わる地を汚してはならない。」


マタイによる福音書略解                                                                                                                
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