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マタイによる福音書10章

イエスの十二弟子(10:1-4)  マルコ3:13-19、ルカ6:13-16
1節 そこで、イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊を追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやす権威をお授けになった。
  「収穫は多いが、働き人が少ない。」とイエスは十二弟子に伝道に必要な権威を与えた。
2節 十二使徒の名は、次のとおりである。まずペテロと呼ばれたシモンとその兄弟アンデレ、それからゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、
  1節の十二弟子がここでは十二使徒になっている。聖書の中では十二弟子と十二使徒が混在している。
  ルカ6:113にイエスが弟子たちの中から、十二人を選び使徒という名前を与えたと書かれている。
  使徒は一般の弟子と異なり、後にイエスの復活を目することになる特別に選ばれ召された弟子たちであった。
 「ペテロと呼ばれたシモン」ペテロは十二使徒の筆頭で、愛称はアラム語の岩Kêpâ、ケファ(口語訳聖書ではケパ)だった。
    ケファはギリシャ語でペテロΠέτρος(ペトロス)となる。本名のシモンはシメオンの短縮形
    ペテロは姑がカペナウムでイエスに癒されたことから結婚していたことが分かる。
    ペテロはイエスの弟子になった時他の弟子に比べ比較的高齢で、イエスの存命中からリーダー的存在だった。
    ローマへ宣教し、伝承では67年にネロ帝の迫害下で逆さ十字架にかけられて殉教したとされている。
 「その兄弟アンデレ」はシモン・ペテロの兄弟。ギリシャ語名はΑνδρέας(アンドレアス)
    最初はシモンとともにバプテスマのヨハネの弟子だったが、イエスを「神の小羊」というヨハネの言葉 [1] を聞いてイエスに従った。
    イエスにシモンを紹介したのはアンデレだった。
    シモンとゼベダイの子ヤコブ、その兄弟ヨハネはイエスの高弟となったが、アンデレは地味な存在だったようだ。
    アンデレは、五つの大麦のパンと二匹の魚を持つ少年を見つけ、それをイエスが五千人の群衆に分け与えた奇跡に登場する。
    謙遜な性格で、目立たないようだが固い信仰によって黒海沿岸、アジアで伝道した。
    最後は磔の刑で殉教したが、イエスと同じ十字架では畏れ多いと斜めのX字型の十字架に張り付けてもらった。
 「ゼベダイの子ヤコブ」ギリシャ語名Ἰάκωβος(イアコーボス)。
     ヨハネと共に血気盛んな気性を持ち「雷の子(ボアネルゲス)」という名をつけられた。
     この名には宣教の使命を期待したとの説もある。ヤコブの鳴り響く説教の声は凄まじく悪人どもを震え上がらせたという。
     ゼベダイの子ヤコブは、「アルパヨの子ヤコブ」と区別するため大ヤコブとも呼ばれる。
     ゼベダイの妻サロメは、イエスの母マリヤの妹だったという説がある。もしそうだとしたら、ヤコブとヨセフはイエスのいとこということになる。
     ユダヤ人の歓心を買おうとしたヘロデ・アグリッパ1世によって捕らえられ、殉教したという。(使徒12:2) 44年頃と推定される。
 「その兄弟ヨハネ」ギリシャ語名 Ἰωάννης(イオーアンネース)。
    イエスの愛する弟子として母マリヤと共にイエスの十字架の下にいたとされる。
    ペテロ、兄弟ヤコブとともに高弟とされ、会堂司ヤイロの娘の蘇生、イエスの変容、ゲッセマネにおけるイエス最後の祈りに彼ら三人だけが伴われている。
    イエスの墓が空であることを聞いてペトロとかけつけ、真っ先に墓にたどりついた弟子とされる。
    初代教会においてペトロとともに指導的立場にあった。(使徒行伝 3:1など)
    「ヨハネによる福音書」、「ヨハネの第一の手紙」、「ヨハネの第二の手紙」、「ヨハネの第三の手紙」、「ヨハネの黙示録」の著者とされる。
3節 ピリポとバルトロマイ、トマスと取税人マタイ、アルパヨの子ヤコブとタダイ、
  「ピリポ(フィリポ)」アンデレとペテロとの町ベツサイダの出身で、イエスに直接招かれて弟子になった。
     四福音書の十二使徒のリストに出てくるが、彼についての記述は記述は少なく「ヨハネによる福音書」に集中している。
     ピリポは知り合いのナタナエルにイエスを紹介し、ナタナエルも弟子になった。(ヨハネ1:44-49)
     ピリポ(フィリポ)はギリシャ語の男性名で、ユダヤ人としての名前は別にあったと言われる。
     イエスに会いに来るギリシャ人(またはギリシャ語を話すユダヤ人)は、ピリポに仲介を頼んだ。
     ギリシャと小アジアで宣教した後、フリギアで87歳で磔となり殉教した。
  「バルトロマイ」(Βαρθολομαίος)語義は「タルマイの子」。
     語義からバルトロマイ実名ではなく、父親の名前に由来する呼び名と思われることと、ヨハネによる福音書にはバルトロマイの名はなく、ナタナエルがあることから、伝統的にバルトロマイの本名はナタナエルであると言われている。
     バルトロマイは、伝承ではタダイとともにアルメニアに宣教したとされる。
     最後は皮剥ぎの刑で殉教したといわれる。
  「トマス」四福音書の十二使徒のリストに出てくるが、彼についての記述は記述は少ない。
     情熱的であるが、ヨハネ11:16にイエスの真意を理解せず、少しずれている人物として描かれている。
     イエスの復活を話す弟子たちの言葉を信ぜず、実際にイエスを見たときに復活を納得し、イエスの傷跡に触れて確かめるほどの実証主義者だった。このため「疑い深いトマス」や「猜疑のトマス」と呼ばれる。
    インドヤペルシャデデンドウシ、セイレキ72ネンニキョウシンテキナバラモンニヨッテコロサレ、ジュンキョウシタ。
  「取税人マタイ」(Μαθθαιος,Matthaios)ローマ帝国の徴税人だったが、イエスの召命に応えて弟子となった。
     「マタイによる福音書」はマタイによるものとされる。
     イエスの弟子になった取税人は、マルコ2:14では「アルパヨの子レビ」、ルカ5:27では「レビ」になっている。このためマタイとレビは同一人物という解釈もある。
     エチオピアまたはペルシアのヘリオポリスで殉教したとされる。
  「アルパヨの子ヤコブ」マルコ15:40の「小ヤコブとヨセとの母マリヤ」がこのヤコブとされる。
     マタイ27:56には、「ヤコブとヨセフの母」とある。
     その他の記述はない。
  「タダイ」ルカ6:16の「ヤコブの子ユダ」と同一人物とされている。「タダイと呼ばれるユダ」あるいは「ユダ・タダイ」とも書かれる。
     イスカリオテのユダとの混同を避けるために図的に軽視されてきたようで、「忘れられた聖人」とさえ呼ばれた。
     シモンと共に宣教し、ペルシャで磔刑にされたとも、矢に貫かれて殉教したともいわれるが、
     バルトロマイとともにアルメニアに宣教したともいわれる。
4節 熱心党のシモンとイスカリオテのユダ。このユダはイエスを裏切った者である。
  「熱心党のシモン」共観福音書と使徒行伝に名前が出るだけで、その他の記述がない。
     伝承では、エジプトに伝道したのちユダ・タダイとともにペルシアに行き、そこで殉教したといわれる。
 「イスカリオテのユダ」(יהודה איש קריות)
     「イスカリオテ(イーシュ・カリッヨート)」とはヘブライ語で「カリオテの人」を意味し、カリオテはユダヤ地方の村。
     ほかの弟子はガリラヤ出身であったのに対し、ユダの出身はガリラヤではないとされている。
     イエスを裏切ったため、裏切り者の代名詞として扱われることが多い。
     イエスが召した弟子が裏切ったことは、人間の知恵では理解が難しい深い謎といえる。

伝道の心得(10:5-15)  マルコ6:7-11、ルカ9:1-5
弟子たちを宣教に送り出すにあたり、12弟子にイエスが与えた教訓と警告。
5節 イエスはこの十二人をつかわすに当り、彼らに命じて言われた、「異邦人の道に行くな。またサマリヤ人の町にはいるな。
  イエスの地上にいることができる時間がひっ迫している今、「異邦人の道」、「サマリヤ人の町」に足を延ばす余裕はない。
  イエスの復活の後に、神の国はユダヤ人だけではなく、異邦人にも開かれる。
6節 むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところに行け。
   イスラエルの民は、神の民とされていたが、羊飼いである神から離れ、迷い出した羊になっていた。
  「羊飼いのいない羊」(マタイ9:36)を羊飼いのもとに戻すことが、イエスから託された弟子の第一の使命であった。
   イスラエルの失われた羊を連れ戻すことは、エゼキエル書に預言されていた [2] ことであった。
7節 行って、『天国が近づいた』と宣べ伝えよ。
   弟子の宣教の第一の使命は、天国の教義を説くことではなく、失われた羊に天の御国が近づいていることを知らせることだった。
8節 病人をいやし、死人をよみがえらせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出せ。ただで受けたのだから、ただで与えるがよい。
   イエスが弟子たちは与えらた権威を民衆に使うことが第二の使命だった。
   その働きはこの世の法則にしたがうのではなく、神の国の法則に従ってただで行わなければならない。
   つまりその権威は賜物として受けたのだから、それを民衆に行使するとき、民衆にもまた賜物として与えるということだ。
9節 財布の中に金、銀または銭を入れて行くな。
   伝道の旅装は商売の旅装と異なる。
10節 旅行のための袋も、二枚の下着も、くつも、つえも持って行くな。働き人がその食物を得るのは当然である。
   旅の時二枚の下着を着ることは富める者の習慣だった。弟子たちには必要がないことだ。
  「働き人がその食物を得るのは当然」というのはユダヤ人の経済原理を表す格言であった。
   それとともに伝道者が最低限の生活水準に満足するなら、必要なものは神が与えて下さるという信頼感を表す。
11節 どの町、どの村にはいっても、その中でだれがふさわしい人か、たずね出して、立ち去るまではその人のところにとどまっておれ。
  「ふさわしい人」神に遣わされた使徒に、食べ物と泊まる場所の提供を申し出る人かをたずねだしなさい。
   もしもっと待遇がよい家が見つかってもすぐに移ることをしないで、「立ち去るまではその人のところにとどまって」いなさい。
   とどまる家は宣教活動の拠点となる家のことで、イエスの場合、ガリラヤのペテロの家、ベタニヤのマルタとマリヤの家などだった。
12節 その家にはいったなら、平安を祈ってあげなさい。
  「平安を祈ってあげなさい」ユダヤ人の「あなたに平安あれ」ではなく、福音がもたらす平安を祈りなさいということであるが、
   平安を祈るあいさつには、お互いに安否を尋ね、「食べ物と泊まる場所を提供する」ことを意味していた。
13節 もし平安を受けるにふさわしい家であれば、あなたがたの祈る平安はその家に来るであろう。もしふさわしくなければ、その平安はあなたがたに帰って来るであろう。
  「平安を受けるにふさわしい家」ならイエスの祝福はその家にとどまるであろう。
   もしふさわしい家でないなら、イエスの祝福は別の人に与えるため弟子たちに帰ってくるであろう。
14節 もしあなたがたを迎えもせず、またあなたがたの言葉を聞きもしない人があれば、その家や町を立ち去る時に、足のちりを払い落しなさい。
  「足のちりを払い落としなさい。」足のちりを払い落とすとは、相手との関係の断絶を意味する。
   ユダヤ人は外国から帰国する際、異邦人との交わりがなかったことの証明のためこうした。
   イエスの福音を受け入れない人の神の審判とは、もはや責任がないことを表す。
   そういう人が住む家や町は異邦人と同様に扱えというのだが、これは異邦人伝道がまだ始まっていない時代だから。
15節 あなたがたによく言っておく。さばきの日には、ソドム、ゴモラの地の方が、その町よりは耐えやすいであろう。
   神の火によって滅ぼされた頑迷不信のソドムとゴモラの町々のほうがまだ耐えやすいだろう。

迫害の預言(10:16-23)  マルコ13:9-13、ルカ6:40、12:11-12
イエスは弟子たちに迫害を予告した。17節以降は共観福音書の「終わりの日の教え」となっている。
16節 わたしがあなたがたをつかわすのは、羊をおおかみの中に送るようなものである。だから、へびのように賢く、はとのように素直であれ。
  「羊」はイエスの福音を受け入れる者たち、すなわちイエスの弟子、「狼」はイエスの弟子の命を奪おうとするものたち。
   原文でともに複数形になっている。
   イエスが12使徒を召して宣教に送り出した当時はまだ「羊をおおかみの中に送るような」迫害はなかった。
   したがって16節はイエス昇天後の情勢を説明しているものと考えられる。
   「へびのように賢(さと)く」蛇は知恵があり [3] 、機会を見る目がある。
   口語訳聖書の創世記3:1では、「狡猾」と訳しているが、原本のヘブル語עָרוּם(アールーム)は「賢い」である。
   イエスは何度も賢い人たちについて言及している。マタイによる福音書では、
   「岩の上に自分の家を建てた賢い人」(7:24)、「忠実な思慮深い僕」(24:45)、「思慮深い女(者)たち」(25:4、8、9)がある。
   これらのたとえ話で賢いものたちは、いずれも終わりの日に対して目を覚ましている。
   それであれば、「へびのように賢く」も終わりの日に目を覚ましている賢さということになるだろう。
   また、民数記21:6-9にあるようにへびは神の民を正しく導くための手段としても用いられた。
   その意味で、へびの賢さは、単なる賢さではなく神の裁きと救いを知る賢さを意味している。
   「はとのように素直」鳩は柔和、善意の象徴 [4]  人を刺激するようなことをしない。
   また鳩は聖霊の象徴で、イエスがバプテスマを受けられた時、聖霊が鳩のように天から降ったという。
   そして、洪水が引いた後、ノアが放った鳩がオリーブの葉をくわえて帰ってきたように、
   鳩は新しい平和の時代が来たことを飼い主に知らせる平和の使者の象徴でもある。
   鳩が知らせる平和は、神の計画の完成においてもたらされる完全な平和であり、
   「はとのように素直」はその到来を固く信じて疑わない無垢な信仰を表している。
17節 人々に注意しなさい。彼らはあなたがたを衆議所に引き渡し、会堂でむち打つであろう。
   「衆議所に引き渡し」ユダヤ地方には国民の動向を監視し、犯罪を摘発する衆議所があった。
   「会堂でむち打つ」会堂は礼拝の場所であるとともに、罰金、磔刑などを課する懲罰所 [5] でもあった。
18節 またあなたがたは、わたしのために長官たちや王たちの前に引き出されるであろう。それは、彼らと異邦人とに対してあかしをするためである。
      長官はパレスチナに駐在していたローマの官憲だった。
   王たちはユダヤ人の王ヘロデ・アグリッパとその兄弟たちであるが、後代教会になると皇帝ネロも含まれる。
   捕らえられ、引き渡され、迫害されることで、他のイスラエル人と異邦人に対する証しの機会となる。
19節 彼らがあなたがたを引き渡したとき、何をどう言おうかと心配しないがよい。言うべきことは、その時に授けられるからである。
   これら迫害する者の前で、何をどう話そうかと心配しなくてもよい。なぜなら、話すことはそのとき与えられるから。
   この教えは原始教会の殉教のしおりともいえる。
20節 語る者は、あなたがたではなく、あなたがたの中にあって語る父の霊である。
   地上の権力者の前に立たされる時、不安のあまり無益な弁明をせず、ただ聖霊の導くままに語れ。
   聖霊が働きかけることができるようにすることが重要だ。
21節 兄弟は兄弟を、父は子を殺すために渡し、また子は親に逆らって立ち、彼らを殺させるであろう。
   古い秩序から、新しい秩序への転換期には混乱が生じる。
22節 またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての人に憎まれるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
   患難時代のことだけでなく、いつの時代にも起こり得る。ネロの時代には、ただクリスチャンであることだけで迫害された。
   最後までとは、イエスの再臨のときまでということ。
23節 一つの町で迫害されたなら、他の町へ逃げなさい。よく言っておく。あなたがたがイスラエルの町々を回り終らないうちに、人の子は来るであろう。
   イエスは弟子たちに、殉教者の道を強いられなかった。
   イエスの地上での死は、贖いとともに殉教者に代わるものという意味もあったろう。
   弟子たちの殉教はイエス昇天後のことであった。

恐れるな(10:24-33)  マルコ4:22、8:38、ルカ8:17、12:2-9
弟子たちに対し、迫害する者を恐れるなと訓示している。
マタイは、ここをヘブル的修辞法(パラレリズム) [6] で書いている。イエスが異なる場所で語った教えをここでまとめたものと思われる。
24節 弟子はその師以上のものではなく、僕はその主人以上の者ではない。
   弟子は、師であるイエスがこの世から受けた扱い以上の良い扱を受けようと思ってはならない。
25節 弟子がその師のようであり、僕がその主人のようであれば、それで十分である。もし家の主人がベルゼブルと言われるならば、その家の者どもはなおさら、どんなにか悪く言われることであろう。
   師であるイエスさえ、この世において誤解と迫害を受けられた。イエスの弟子はイエスよりも成功しようと思ってはならない。
   もしイエスがベルゼブル [7] とののしられるなら、弟子はなおさら悪口を言われる覚悟でいなさい。
   天の御国では、弟子は師以上にならない、師と弟子の関係はそのまま続く。
26節 だから彼らを恐れるな。おおわれたもので、現れてこないものはなく、隠れているもので、知られてこないものはない。
  「だから」イエスに対する憎しみや迫害は弟子にも及ぶが、彼らを恐れてはならない。
   終わりの日には、雲におおわれて彼らには見えなかった福音の真理が現わされ、隠れていた神の御国の信仰が必ず世に知られるだろう。
27節 わたしが暗やみであなたがたに話すことを、明るみで言え。耳にささやかれたことを、屋根の上で言いひろめよ。
   イエスは弟子たちに話されたことを、広く世に向かって宣べることを望まれた。
  「耳にささやかれたこと」ラビはその弟子だけにわかるように秘法を話したが、
   イエスの教えはすべての人たちに対するものだから、弟子たちに「屋根の上」で言い広めるように語りなさいと命じた。
28節 また、からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい。
   悪人は「からだを殺しても、魂を殺すこと」ができない。
   永遠の命の根本をなす魂を殺すことができない者を恐れる必要はない。
   むしろ「からだも魂も地獄で滅ぼす」力をお持ちの神を恐れよ。
   神を恐れるなら、人を恐れる必要などない。
29節 二羽のすずめは一アサリオンで売られているではないか。しかもあなたがたの父の許しがなければ、その一羽も地に落ちることはない。
   二羽で一アサリオン(1デナリの16分の1)の雀は、貧しい者のための最低のささげもの。
   その小さな存在でさえも、神は目を留めておられる。
30節 またあなたがたの頭の毛までも、みな数えられている。
   数えることに価値があると思えず、だれも数えたことのない髪の毛の数を、神は数えられ知っておられる。
31節 それだから、恐れることはない。あなたがたは多くのすずめよりも、まさった者である。
   人間に比べとるにたらない小鳥さえも掌握している神は、人を「多くのすずめよりも、まさった者」とみておられる。
   だから弟子たちが世の人々よりも少数だからと言って恐れることはない。
32節 だから人の前でわたしを受けいれる者を、わたしもまた、天にいますわたしの父の前で受けいれるであろう。
   イエスを受け入れ、人の前で証するものは天父の前でイエスに受け入れられる。
   弟子たちに求められるのは、人々に天の王国を宣べ伝え、病をいやすことであるが、その前にイエスを受け入れ証することである。
33節 しかし、人の前でわたしを拒む者を、わたしも天にいますわたしの父の前で拒むであろう。
   イエスを拒み、証しないものは天父の前でイエスに拒まれる。

自分の十字架(10:34-39)  マルコ8:34-35、ルカ12:51-53
イエスに従う者の覚悟
34節 地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。
   当時のユダヤ人が理解していたメシヤの使命とは、彼らをローマの支配から解放し、「地上に平和」をもたらすことだった。
   しかし、イエスはそのために「きたと思うな」、イエスがきたのは、地上の「平和ではなく、つるぎを投げ込むため」と言う。
  「つるぎ」とは、いかなる剣よりも鋭い神の言葉 [8] を意味する。
   真の平和がもたらされる前に、神の言葉によって人々の心の中に潜む悪の力、誤った平和への幻想を断ち切る必要がある。
35節 わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。
   それによって、神と人との正しい関わりが生じるが、たとえ家族であろうと人との関りは断ち切られる。
36節 そして家の者が、その人の敵となるであろう。
   それは新しい秩序が生まれる際の過渡的な矛盾である。
37節 わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。
   弟子を新しい秩序に動員するためには、家族よりもイエスを愛することを命ずる。
   家族に対する愛は、拡大された自己愛である。その自己愛を捨てようとしないものは、イエスにふさわしい者とは言えない。
38節 また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない。
   死刑囚は自分がかけられる十字架を背負って刑場に行った。イエスに従うものは、死を覚悟するという現実があった。
39節 自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう。
   自分で自分を生かそうと思う者は、神による永遠の命を得ることができない。
   しかし、イエスの言葉によって自分を生かそうと思う者は、永遠の命を得るであろう。

イエスの弟子を受け入れる者のむくい(10:40-42)  マルコ9:37、ルカ10:16
イエスの弟子を受け入れる者は、イエスを受け入れる者としてむくいがある。
40節 あなたがたを受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。わたしを受けいれる者は、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである。
   イエスの弟子を受け入れる者は、イエスを受け入れ、イエスを受け入れる者は父なる神を受け入れる者である。
41節 預言者の名のゆえに預言者を受けいれる者は、預言者の報いを受け、義人の名のゆえに義人を受けいれる者は、義人の報いを受けるであろう。
   預言者、義人、小さい者はイエスの伝道者である。イエスの伝道者は「預言者」と呼ばれる。(23:34)
   彼らの働きは使徒と同じもの。イエスは弟子たちを「この小さい者」と呼んだ。
   彼らが受ける報いは永遠の命である。
42節 わたしの弟子であるという名のゆえに、この小さい者のひとりに冷たい水一杯でも飲ませてくれる者は、よく言っておくが、決してその報いからもれることはない」。
   イエスの弟子である「この小さい者」に「冷たい水一杯」小さな愛の行為が、パレスチナの太陽の日差しと水の乏しい土地では大いなる愛の行為となる。


(2019/03/28)


[1] 「その翌日、ヨハネはまたふたりの弟子たちと一緒に立っていたが、
 イエスが歩いておられるのに目をとめて言った、「見よ、神の小羊」。
 そのふたりの弟子は、ヨハネがそう言うのを聞いて、イエスについて行った。」(ヨハネによる福音書1:35-37)

[2] 「主なる神はこう言われる、見よ、わたしは、わたしみずからわが羊を尋ねて、これを捜し出す。
 牧者がその羊の散り去った時、その羊の群れを捜し出すように、わたしはわが羊を捜し出し、雲と暗やみの日に散った、すべての所からこれを救う。
 わたしは彼らをもろもろの民の中から導き出し、もろもろの国から集めて、彼らの国に携え入れ、イスラエルの山の上、泉のほとり、また国のうちの人の住むすべての所でこれを養う。
 わたしは良き牧場で彼らを養う。その牧場はイスラエルの高い山にあり、その所で彼らは良い羊のおりに伏し、イスラエルの山々の上で肥えた牧場で草を食う。
 わたしはみずからわが羊を飼い、これを伏させると主なる神は言われる。
 わたしは、うせたものを尋ね、迷い出たものを引き返し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くし、肥えたものと強いものとは、これを監督する。わたしは公平をもって彼らを養う。」 (エゼキエル34:11-16)

[3] 「さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。 」(創世記3:1)
 「彼らはへびの毒のような毒をもち、
  魔法使または巧みに呪文を唱える者の声を聞かない
  耳をふさぐ耳しいのまむしのようである。」(詩編58:5)

[4] 「エフライムは知恵のない愚かな、はとのようだ。
  彼らはエジプトに向かって呼び求め、
  またアッスリヤへ行く。」(ホセア7:11)

[5] 「人と人との間に争い事があって、さばきを求めてきたならば、さばきびとはこれをさばいて、正しい者を正しいとし、悪い者を悪いとしなければならない。 その悪い者が、むち打つべき者であるならば、さばきびとは彼を伏させ、自分の前で、その罪にしたがい、数えて彼をむち打たせなければならない。 彼をむち打つには四十を越えてはならない。もしそれを越えて、それよりも多くむちを打つときは、あなたの兄弟はあなたの目の前で、はずかしめられることになるであろう。 」(申命25:1-3)
「そこで、わたしが言った、『主よ、彼らは、わたしがいたるところの会堂で、あなたを信じる人々を獄に投じたり、むち打ったりしていたことを、知っています」(使徒行伝22:19)

[6] パラレリズム
  1.同義的パラレリズム 1)の内容を2)で別の語彙で記述する。
    1) マタイ10:24-25
    2) マタイ10:26-27
  2.反意的パラレリズム 1)の反対の内容を2)で記述する。
    1) マタイ10:28
    2) マタイ10:32-33
  3.総合的パラレリズム  複数の節の文章の統合し、一つの意味を表す。
    マタイ10:29-31

[7]  ベルゼブル 悪鬼のかしら、 イエスはサタンと同一視した。(マタイ12:26、マルコ3:23、ルカ11:18)
  ベルゼブルはへブル語のヴァアル・ゼヴール(בַעַל־זְבוּל) ヴァアルは主人、ぜブールは家

[8] 「主はわが口を鋭利なつるぎとなし、
  わたしをみ手の陰にかくし、
  とぎすました矢となして、
  箙にわたしを隠された。」(イザヤ49:2)
 「また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。」(エペソ6:17)
 「というのは、神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、
  精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。」(へブル4:12)


マタイによる福音書略解                                                                                                                
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