6章
8章
マタイによる福音書7章
7章にはイエスのいろいろな教えが集められている。 さばくな(7:1-5) (マルコ4:24, ルカ6:37-38) 批判やあら探しを戒めている。人は他人をさばく資格を持っていない。(ロマ2:1) 1節 人をさばくな。自分がさばかれないためである。 人は他人をさばく資格を持っていない。(ロマ2:1) 他者をさばくことは神のさばきを招く。 2節 あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。 誰かをさばくと、同じように自分もさばかれる。そして終わることのない報復が人の間に入ってくる。 3節 なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。 兄弟の持つ「目にあるちり」小さな欠点、小さな悪をさばこうとするのに、自分の「自分の目にある梁」大きな欠点、悪には鈍感で痛みを感じない。これは人が陥りやすい性癖である。 4節 自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。 自分を改善しないで、他人を変えることはできない。人はしばしば自分の目の梁で、神の御心が隠されているため他者を平然とさばく。 5節 偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。 人間の宿命的性癖を克服し、さばく心からではなく、愛の心から悪を取り除く気持ちを持てば、「はっきり見えるようになって」兄弟の悪を「取りのけることができるだろう」。 聖なるもの(7:6) イエスは弟子に、福音を拒むものからきっぱりと離れるよう命じた。(10:13-14, 22:8-10) 6節 聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。恐らく彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう。 「聖なるもの」とは祭壇に供えられた犠牲の供物、また「真珠」は個人所有の貴重品で、どちらも神の国の福音を指す。「犬」と「豚」はユダヤ人が不潔として嫌った動物で、神の国と義を踏みにじる心なき人間を指す。豚は真珠を食物と思ってかみついてくるが、食べられないと分かると怒って踏みつける。同様に福音を理解できない人々はイエスの弟子たちに襲いかかってくるであろう。 求めよ(7:7-12) (ルカ11:9-13, 6:31) 祈りによる願いの強い確信 黄金律 7節 求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。 「求めよ」(希求)、「捜せ」(探求)、「門をたたけ」(熱情)という三つの神への祈りのあり様。 8節 すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。 答えは自然に発生するものではなく、祈り求めることに対する神からの応答として与えられる。 9節 あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。 祈りが聞かれるのは、祈るものと祈られるものとの信頼関係の結果である。 10節 魚を求めるのに、へびを与える者があろうか。 信頼関係にあるなら、祈り求めたものと異なるものを与えるはずがない。 11節 このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。 「あなたがたは悪い者」現実の利己的な人間でも子供には良いものを与える。熱心に祈り求めるなら、神は必ず答えてくれる。 12節 だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である。 黄金律。 山上の垂訓の総括。「これが律法であり預言者である。」旧約聖書の精神の要約である。 狭い門から入りなさい。(7:13-14) (ルカ13:23-24) 神の国に入ることは、けして易しいことではないが、困難であるからこそ行わなければならない。(マルコ10:24) 13節 狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。 城壁をめぐらせた都に入る大小の門のうち、「狭い門」を選びなさい。人を滅亡に導く門・道は大きく広いので、「そこからはいって行く者が多い」。 14節 命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。 しかし永遠の「命にいたる門」は狭く、またその道も狭いので進みにくい。この門と道は人目につきにくく、「それを見いだす者が少ない」。隠れた門を見出し、入るにはいっさいを神の国に捧げ、主に仕え従う覚悟と謙遜さが必要である。 にせ預言者(7:15-20) (ルカ6:43-45) イエスの神の国の到来を否定し、別の神の国を宣べるにせ預言者に対する警戒 15節 にせ預言者を警戒せよ。彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲なおおかみである。 「羊の衣を着て」旧約で神の民は羊に譬えられ、「おおかみ」は羊の敵として譬えられている。昔の預言者は羊皮の衣を着ていた。見せかけは柔和だが、「その内側」正体は「強欲なおおかみ」であり、羊(聖徒)あるいは牧場(教会)を破壊する。おおかみはイエスの弟子を迫害するものも譬えている。 16節 あなたがたは、その実によって彼らを見わけるであろう。茨からぶどうを、あざみからいちじくを集める者があろうか。 17節 そのように、すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。 18節 良い木が悪い実をならせることはないし、悪い木が良い実をならせることはできない。 19節 良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれる。 20節 このように、あなたがたはその実によって彼らを見わけるのである。 「その実によって」彼らの行いによって見分けがつく。「木」人が茨かぶどうかは外観や言葉だけでは見分けられないが、その実によって知ることができる。ここでは預言者かにせ預言者かだけではなく、神の国の民も訓練次第で茨にもぶどうにもなることを教えている。 天国に入る。(7:21-23) (ルカ13:26-27) 天国に入る者は口先だけでイエスを主と言う人でなく、天父のみ旨を行う者だけが入る。 21節 わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。 イエスに向かって「主よ主よ」と言うが、信仰と行いから離れていてはいけない。口先だけの信仰に陥らないようにするには、「父の御旨を行う」ことが必要である。 22節 その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。 「その日」すなわち審判の日に、「あなたの名によって」多くの御業を行ったと言うであろう。 23節 そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。 しかし、主の名を使った行いが信仰から離れたものであるなら、その行為が素晴らしいものであったとしても、主イエスとは無関係である。内外の困難に遭遇しつつ存続した教会が、もし滅びるとすれば、主から「あなたがたを全く知らない。」と言われるときである。 岩の土台と砂の土台(7:24-29) (ルカ6:47-49) イエスの教えに従う者と従わない者 24節 それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。 イエスの教えに従い、神の国の民にふさわしい生活を行う人は「岩の上に」家を建てた者。 25節 雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。 平時から神の言葉に従って生活するものは、人生の苦難にあっても生の根拠が動かされることがない。 26節 また、わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができよう。 イエスの教えに従わず、自己の生の基礎に無思慮な人は「砂の上に」家を建てた者 27節 雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまう。そしてその倒れ方はひどいのである」。 しかし神の言葉に無頓着なものは、人生の苦難にあうと建物がしっかりしているほど「倒れ方はひどい」のである。 28節 イエスがこれらの言を語り終えられると、群衆はその教にひどく驚いた。 イエスが「これらの言」山上の垂訓を語り終えると、「群衆は」ひどく驚いた。 29節 それは律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように、教えられたからである。 イエスの教え方は「律法学者たちのように」これまでの教えの繰り返しではなく、「権威ある者のように」独創的な教えだったからである。 (2019/03/02)
マタイによる福音書略解
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