11章
13章
マタイによる福音書12章
この章にはイエスの義と愛の行いに、パリサイ人、律法学者など当時の宗教指導者がつまづいたこと。 イエスの家族のつまづきについて記されている。 安息日について(12:1-8) マルコ2:23-28、ルカ6:1-5 安息日についてのパリサイ人との論争 1節 そのころ、ある安息日に、イエスは麦畑の中を通られた。すると弟子たちは、空腹であったので、穂を摘んで食べはじめた。 「そのころ、ある安息日に」とは、麦の穂立ちの時期の安息日。 安息日は神のもの [1] で、神とイスラエルとの契約のしるし [2] だったので、割礼と同様、 安息日を汚すことは神との契約を破るということで、死をもって罰せられるものだった。 [3] 安息日は聖なる日としていかなる労働もしない日であった。 ところがイエスの弟子は麦畑を通りながら、麦を摘んで食べてしまった。 2節 パリサイ人たちがこれを見て、イエスに言った、「ごらんなさい、あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています」。 律法は隣人の麦畑にかまを入れることを禁じているが、穂を摘んで食べることを許している。 [4] しかし、パリサイ人がイエスを非難したのは、その日が安息日だったからだ。 麦を摘んで手でもむ行為を安息日に行ってはいけない労働とみなしたのだ。 3節 そこでイエスは彼らに言われた、「あなたがたは、ダビデとその供の者たちとが飢えたとき、ダビデが何をしたか読んだことがないのか。 イエスは旧約の律法を引用して弟子の行為を弁明した。 4節 すなわち、神の家にはいって、祭司たちのほか、自分も供の者たちも食べてはならぬ供えのパンを食べたのである。 ダビデと家臣が神の家に入って祭司の他食べてはいけない「供えのパン」を食べた。 [5] 5節 また、安息日に宮仕えをしている祭司たちは安息日を破っても罪にはならないことを、律法で読んだことがないのか。 祭司の務めは安息日の規定よりも大切だったので [6] 、当番の時は安息日でも働いた。 6節 あなたがたに言っておく。宮よりも大いなる者がここにいる。 神の独り子イエスは「宮よりも大いなる者」であった。 パリサイ人は安息日に働くことを許す特例があることを知っていであろうが、 イエスの弟子の空腹程度ではこの特例は適用されないと考えていただろう。 しかしイエスは、律法の精神を生かすことに意味があると考えられた。 7節 『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か知っていたなら、あなたがたは罪のない者をとがめなかったであろう。 イエスはパリサイ人に『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』 [7] と 律法に書かれていることを知らないのかと問う。 もしパリサイ人がホセア書に書かれているこの律法の精神を理解していたなら、 イエスの弟子をとがめるようなことをしなかったであろう。 8節 人の子は安息日の主である」。 民の平和を守る手段であった律法が、パリサイ人や律法学者の手によって目的に変わり、 人々の生活を身動きできないようにしてしまった。 しかし、イエスは「安息日の主」として、律法をそれに従う者の救いの手段にもどしてくださる。 安息日にいやすことについて(12:9-21) マルコ3:1-6、ルカ6:6-11 会堂で礼拝しているとき、片手のなえた人をいやした。パリサイ人はこれを非難した。 9節 イエスはそこを去って、彼らの会堂にはいられた。 イエスはパリサイ人との討論の場をさり、安息日の礼拝のため会堂にはいった。 10節 すると、そのとき、片手のなえた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、「安息日に人をいやしても、さしつかえないか」と尋ねた。 「片手のなえた人」は不自由ではあるが、急を要する病というわけではない。 律法学者、ラビは急病人の治療は、安息日に行うことを認めていたが、片手がなえた程度なら、 明日でもよいだろう。しかし、彼らにとってイエスに安息日のことで試す絶好の機会だった。 そこで彼らはイエスに安息日に人をいやしてもいいかを尋ねた。 11節 イエスは彼らに言われた、「あなたがたのうちに、一匹の羊を持っている人があるとして、もしそれが安息日に穴に落ちこんだなら、手をかけて引き上げてやらないだろうか。 「一匹の羊」しか持っていない貧しい人の羊が穴に落ち込んだら安息日であっても当然穴から引き上げるだろう。 12節 人は羊よりも、はるかにすぐれているではないか。だから、安息日に良いことをするのは、正しいことである」。 パリサイ人が主張した安息日にやってはいけないという消極的な考え方ではなく、 イエスの根本的な安息日の考え方は、積極的に「良いことをする」であった。 13節 そしてイエスはその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。そこで手を伸ばすと、ほかの手のように良くなった。 14節 パリサイ人たちは出て行って、なんとかしてイエスを殺そうと相談した。 パリサイ人達はイエスの言う安息日の考え方、律法の精神を理解できない。 彼らはイエスが安息日を汚していると考え、律法に従って殺そう(1節[3])と相談した。 パリサイ人がイエスを殺す直接のきっかけが安息日の問題だったのである。 15節 イエスはこれを知って、そこを去って行かれた。ところが多くの人々がついてきたので、彼らを皆いやし、 イエスはパリサイ人たちとの争いを避け、そこを去ったがついてきた群衆の中の病人を癒された。 16節 そして自分のことを人々にあらわさないようにと、彼らを戒められた。 そして癒した人たちにイエスの名声だけが広まることを禁じた。 17節 これは預言者イザヤの言った言葉が、成就するためである、 その日は予言とはイザヤ42:1-4 [8] で、パリサイ人はイエスを拒むが、異邦人は彼を受け入れるだろうというものだった。 18節 「見よ、わたしが選んだ僕、わたしの心にかなう、愛する者。わたしは彼にわたしの霊を授け、そして彼は正義を異邦人に宣べ伝えるであろう。 「わたし」は神。「選んだ僕」はイエス。イエスは「心にかなう、愛する者」で、「正義を異邦人に宣べ伝える」 19節 彼は争わず、叫ばず、またその声を大路で聞く者はない。 イエスは「争わず、叫ばず」、心無い人々の目にはとまらない。 20節 彼が正義に勝ちを得させる時まで、いためられた葦を折ることがなく、煙っている燈心を消すこともない。 イエスは最後の勝利の日まで、「いためられた葦」や「煙っている燈心」のような いつ折れたり、いつ消えたりするか分からないような悩める人、病める人を捨てない。 21節 異邦人は彼の名に望みを置くであろう」。 そして異邦人はイエスに救いの希望を見出す。 権威の所在について(12:22-37) マルコ3:20-30、ルカ11:14-23 イエスのいやしの奇跡は悪霊の力によるものというパリサイ人の非難に対し、イエスは彼の権威の所在を明らかにされた。 22節 そのとき、人々が悪霊につかれた盲人のおしを連れてきたので、イエスは彼をいやして、物を言い、また目が見えるようにされた。 人が悪霊にとりつかれると狂暴になる、口がきけなくなる、目がみえなくなる、てんかんを起こすと信じられていた。 そのため「盲人のおし」も悪霊につかれた言ったのである。 23節 すると群衆はみな驚いて言った、「この人が、あるいはダビデの子ではあるまいか」。 人々は「ダビデの子」すなわちメシヤは奇跡を行う力を持っていると信じていた。 24節 しかし、パリサイ人たちは、これを聞いて言った、「この人が悪霊を追い出しているのは、まったく悪霊のかしらベルゼブルによるのだ」。 群衆の反応は、パリサイ人の気にさわるものだった。パリサイ人はイエスが悪霊のかしら「ベルゼブル」の子分だと主張した。 すなわち諸悪の根源が悪霊のかしらベルゼブルによるものでないなら、悪霊を追い出せないはずだという。 25節 イエスは彼らの思いを見抜いて言われた、「おおよそ、内部で分れ争う国は自滅し、内わで分れ争う町や家は立ち行かない。 「彼らの思いを見抜いて」イエスは人の内にある思いや考えをすばやく見抜く力をもっていた。 売り言葉に買い言葉の論争ではなく、相手の考えに論理的に対応される。 まず誰にでも理解できる一般論からはじめ、内部で争う国、町、家は自滅することを指摘した。 26節 もしサタンがサタンを追い出すならば、それは内わで分れ争うことになる。それでは、その国はどうして立ち行けよう。 盲人のおしをいやしたのが悪霊の子分なら、悪霊同士の内紛である。 神が悪霊を追い出すということはあっても、悪霊が悪霊を追い出すことはあり得ない。 このように一般論から、パリサイ人の論理は矛盾があることを指摘した。 27節 もしわたしがベルゼブルによって悪霊を追い出すとすれば、あなたがたの仲間はだれによって追い出すのであろうか。だから、彼らがあなたがたをさばく者となるであろう。 次にイエスはパリサイ人が行っていることから反論した。 「あなたがたの仲間はだれによって追い出す」とはパリサイ人の中にも悪霊を追い出すことをやっていた者がいたことをしめす。(7:22) パリサイ人も同じことをしているなら、イエスの奇跡の力がベルゼブルによるものというのは矛盾している。 もしイエスに対するパリサイ人の非難が正しいなら、それはパリサイ人が行っていることにもあてはまるのだから。 28節 しかし、わたしが神の霊によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである。 しかし、イエスのいやしの力がベルゼブルによるものではなく、「神の霊」によるものなら、 メシヤのいる所すなわち「神の国」はすでにここに来ていることになる。 このイエスの言葉は重要である。26節の「その国」(サタンの国)と対比するために「天国」を「神の国」と言っているなら、 イエスが宣教のはじめに「悔い改めよ、天国は近づいた」(4:17)に言われた天の王国が、「すでにあなたがたのところに」きたということになる。 29節 まただれでも、まず強い人を縛りあげなければ、どうして、その人の家に押し入って家財を奪い取ることができようか。縛ってから、はじめてその家を掠奪することができる。 次にイエスは泥棒のたとえ話で反論した。神はまず悪霊(サタン)「強い人」を「縛りあげ」てから、サタンにとらわれいた人間「家財」を取り戻す「奪い取る」のである。 これが「神の国」の到来であり、悪霊を追い出すことだ。 30節 わたしの味方でない者は、わたしに反対するものであり、わたしと共に集めない者は、散らすものである。 イエスの神の国の働きを助けない「わたしの味方でない者」は、反対者であり、人々を神の国に「わたしと共に集めない者」は、羊の群れを「散らすもの」である。 イエスに従うものは神に従うもの。神の国の戦いにおいてイエスの味方か敵か、二つに一つで中立はない。 31節 だから、あなたがたに言っておく。人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない。 人間が犯す一般的な罪はゆるされる。しかし、聖霊はイエスの神聖を証するものであるから「聖霊を汚す言葉」は許されることはない。 32節 また人の子に対して言い逆らう者は、ゆるされるであろう。しかし、聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない。 「人の子」イエスに逆らうものは、過ちを認め悔い改めるなら許される。しかし、「聖霊に対して言い逆らう者」は、悔い改めることを拒み、 イエスによる救いを拒むものであるから永遠に許されることはない。 33節 木が良ければ、その実も良いとし、木が悪ければ、その実も悪いとせよ。木はその実でわかるからである。 「木はその実でわかる」、7:17-18にあるように「木」人は外観や言葉だけでは見分けられないが、その「実」行いによって知ることが出来る。 イエスに従うものは、良い行いをするが、イエスに反対するものは、正しくない行為を行う。 34節 まむしの子らよ。あなたがたは悪い者であるのに、どうして良いことを語ることができようか。おおよそ、心からあふれることを、口が語るものである。 人の言葉は心の泉から流れ出る水のように、人の考えが自ずと言葉になって出てくるものだ。 イエスに反対するものが善を語ることはできない。 35節 善人はよい倉から良い物を取り出し、悪人は悪い倉から悪い物を取り出す。 善い人は「善い蔵」である善い心から善い言葉を出し、悪人は「悪い蔵」である悪意に満ちた心から悪い言葉を出す。 36節 あなたがたに言うが、審判の日には、人はその語る無益な言葉に対して、言い開きをしなければならないであろう。 さばきの日には、今まで口にした無益な言葉を、一つ一つ釈明しなければならない。 37節 あなたは、自分の言葉によって正しいとされ、また自分の言葉によって罪ありとされるからである」。 人はその心から出ることばによって、正しい者とされるか、あるいは罪に定められるか、さばかれる。 イエスがメシヤであることの証拠(12:38-42) マルコ8:11-12、ルカ11:16、29-32 これまでのイエスの行いにより、神の国が来たことを示したが、律法学者・パリサイ人はなおもイエスがメシヤであることのしるしを求めた。 38節 そのとき、律法学者、パリサイ人のうちのある人々がイエスにむかって言った、「先生、わたしたちはあなたから、しるしを見せていただきとうございます」。 律法学者・パリサイ人は、イエスに「あなたがほんとうにメシヤなら、その証拠を見せてほしい」と頼んだ。 39節 すると、彼らに答えて言われた、「邪悪で不義な時代は、しるしを求める。しかし、預言者ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられないであろう。 人間が神を信頼していない「、「邪悪で不義な時代」の人は、しるしを求める。 しかし、邪悪で不義なニネベに与えられた「預言者ヨナのしるし」で十分である。 40節 すなわち、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるであろう。 ヨナのしるしとは、「三日三晩、大魚の腹の中にいた」ことである。このヨナのしるしは、イエスが墓の中にいる期間を示す。 イエスは三日の間、墓にいた後復活する。 41節 ニネベの人々が、今の時代の人々と共にさばきの場に立って、彼らを罪に定めるであろう。なぜなら、ニネベの人々はヨナの宣教によって悔い改めたからである。しかし見よ、ヨナにまさる者がここにいる。 ニネベの人々は、ヨナがしるしを示さなかったにも関わらず、ヨナの宣教によって堕落した生活を悔い改め神に立ち返った。 そのためニネベの人々は「今の時代」の悔い改めた人々ともに、しるしを求める不信な人々をさばくことになるだろう。 「ヨナにまさる者」すなわちイエス自身がヨナにまさるしるしである。 42節 南の女王が、今の時代の人々と共にさばきの場に立って、彼らを罪に定めるであろう。なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果から、はるばるきたからである。しかし見よ、ソロモンにまさる者がここにいる。 シバの女王でさえ、不信なものをきびしく罰する側に回るだろう。 彼女は、ソロモンから知恵のことばを聞こうと、あれほど遠い国から旅して来ることもいとわなかった。 ここに、「ソロモンにまさる者」がいるのには信じようとしない。 悪魔の結末(12:43-45) ルカ11:24-26 神によらぬサタン追放の結末。 43節 汚れた霊が人から出ると、休み場を求めて水の無い所を歩きまわるが、見つからない。 人から追い出された悪霊は、「水の無い所」や砂漠に住む民間信仰があった。 しかし、悪霊が休息できる場所はどこにもない。 44節 そこで、出てきた元の家に帰ろうと言って帰って見ると、その家はあいていて、そうじがしてある上、飾りつけがしてあった。 悪霊が住まう場所は人の心である。「元の家」すなわち、悪霊が元いた人の心は、聖霊を住まわせることがなく空き家の状態だった。 45節 そこでまた出て行って、自分以上に悪い他の七つの霊を一緒に引き連れてきて中にはいり、そこに住み込む。そうすると、その人ののちの状態は初めよりももっと悪くなるのである。よこしまな今の時代も、このようになるであろう」。 一度いやされた人の心に、ふたたび悪霊がつくと以前よりも悪化する。 イエスが来られたことでいやされたユダヤの民が、ふたたび悪霊につかれると同様に悪化する。 イエスの家族(12:46-50) マルコ3:31-35、ルカ8:19-21 イエスの真の家族とは。 46節 イエスがまだ群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちとが、イエスに話そうと思って外に立っていた。 イエスが会堂を出て家で群衆に話している時、イエスの母マリヤと弟が訪ねてきて「外に立っていた。」。 47節 それで、ある人がイエスに言った、「ごらんなさい。あなたの母上と兄弟がたが、あなたに話そうと思って、外に立っておられます」。 人がそのことをイエスに知らせた。これはイエスの真の家族とは誰かを示すよい機会となった。 48節 イエスは知らせてくれた者に答えて言われた、「わたしの母とは、だれのことか。わたしの兄弟とは、だれのことか」。 イエスに知らせた人に、イエスの母マリヤと弟とは誰のことかと問う。 49節 そして、弟子たちの方に手をさし伸べて言われた、「ごらんなさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。 イエスは弟子たちを指して、イエスに従うものたちがイエスの母、兄弟であると言われた。 50節 天にいますわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」。 「天にいますわたしの父のみこころを行う者」イエスの言葉を聞くことにより、神の御心を知りそれに従うことができる。 そうしたイエスにつく者たちが、イエスの家族といえる。 (2019/04/29)
[1] 「七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人もそうである。 主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた。」(出エジプト20:10-11)
[2] 「あなたはイスラエルの人々に言いなさい、『あなたがたは必ずわたしの安息日を守らなければならない。これはわたしとあなたがたとの間の、代々にわたるしるしであって、わたしがあなたがたを聖別する主であることを、知らせるためのものである。(出エジプト31:13)
[3] 「それゆえ、あなたがたは安息日を守らなければならない。これはあなたがたに聖なる日である。すべてこれを汚す者は必ず殺され、すべてこの日に仕事をする者は、民のうちから断たれるであろう。 六日のあいだは仕事をしなさい。七日目は全き休みの安息日で、主のために聖である。すべて安息日に仕事をする者は必ず殺されるであろう。 ゆえに、イスラエルの人々は安息日を覚え、永遠の契約として、代々安息日を守らなければならない。」(出エジプト31:14-16) 「イスラエルの人々が荒野におるとき、安息日にひとりの人が、たきぎを集めるのを見た。 そのたきぎを集めるのを見た人々は、その人をモーセとアロン、および全会衆のもとに連れてきたが、 どう取り扱うべきか、まだ示しを受けていなかったので、彼を閉じ込めておいた。 そのとき、主はモーセに言われた、「その人は必ず殺されなければならない。全会衆は宿営の外で、彼を石で撃ち殺さなければならない」。 そこで、全会衆は彼を宿営の外に連れ出し、彼を石で撃ち殺し、主がモーセに命じられたようにした。」(民数15:32-36)
[4] 「あなたが隣人の麦畑にはいる時、手でその穂を摘んで食べてもよい。しかし、あなたの隣人の麦畑にかまを入れてはならない。」(申命23:25)
[5] 「ダビデはノブに行き、祭司アヒメレクのところへ行った。アヒメレクはおののきながらダビデを迎えて言った、「どうしてあなたはひとりですか。だれも供がいないのですか」。 ダビデは祭司アヒメレクに言った、「王がわたしに一つの事を命じて、『わたしがおまえをつかわしてさせる事、またわたしが命じたことについては、何をも人に知らせてはならない』と言われました。そこでわたしは、ある場所に若者たちを待たせてあります。 ところで今あなたの手もとにパン五個でもあれば、それをわたしにください。なければなんでも、あるものをください」。 祭司はダビデに答えて言った、「常のパンはわたしの手もとにありません。ただその若者たちが女を慎んでさえいたのでしたら、聖別したパンがあります」。 ダビデは祭司に答えた、「わたしが戦いに出るいつもの時のように、われわれはたしかに女たちを近づけていません。若者たちの器は、常の旅であったとしても、清いのです。まして、きょう、彼らの器は清くないでしょうか」。 そこで祭司は彼に聖別したパンを与えた。その所に、供えのパンのほかにパンがなく、このパンは、これを取り下げる日に、あたたかいパンと置きかえるため、主の前から取り下さげたものである。」 (1サムエル21:1-6)
[6] 「安息日ごとに絶えず、これを主の前に整えなければならない。これはイスラエルの人々のささぐべきものであって、永遠の契約である。 」(レビ24:8)
[7] 「わたしはいつくしみを喜び、犠牲を喜ばない。 燔祭よりもむしろ神を知ることを喜ぶ。」(ホセア6:6)
[8] 「わたしの支持するわがしもべ、 わたしの喜ぶわが選び人を見よ。 わたしはわが霊を彼に与えた。 彼はもろもろの国びとに道をしめす。 彼は叫ぶことなく、声をあげることなく、 その声をちまたに聞えさせず、 また傷ついた葦を折ることなく、 ほのぐらい灯心を消すことなく、 真実をもって道をしめす。 彼は衰えず、落胆せず、 ついに道を地に確立する。 海沿いの国々はその教を待ち望む。」(イザヤ42:1-4)
マタイによる福音書略解
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