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マタイによる福音書23章

律法学者、パリサイ人への批判(23:1-12)  マルコ12:38-39、 ルカ20:45-46
律法学者、パリサイ人に対する厳しい批判、それによるイエスの受難と死の予感
1節 そのときイエスは、群衆と弟子たちとに語って言われた、
   イエスは1-3節では律法学者、パリサイ人の言説をほめられ、その行為を非難された。
2節 「律法学者とパリサイ人とは、モーセの座にすわっている。
   「モーセの座」はユダヤ人の会堂で律法学者たちが座る椅子。律法学者、パリサイ人は律法の番人となるためモーセの権威を発動する力を持つものと考えていた。
3節 だから、彼らがあなたがたに言うことは、みな守って実行しなさい。しかし、彼らのすることには、ならうな。彼らは言うだけで、実行しないから。
   イエスはパリサイ人に対して絶対的に批判するということはされなかった。彼らが律法を忠実に教えるかぎり、その権威を尊重された。しかし、彼らの実生活は「実行しないから」非律法的であると批判された。
4節 また、重い荷物をくくって人々の肩にのせるが、それを動かすために、自分では指一本も貸そうとはしない。
   イエスは律法学者、パリサイ人の非情を批判された。「重い荷物」平民には守り切れないほどの数限りない律法の規定があった。パリサイ人とて鬼ではないから、律法を情状酌量して軽くすることもあったが、次々に新しい解釈を作っては、「人々の肩にのせる」ことを当然のように思い、自分たちは「指一本も貸そうとはしない」。
5節 そのすることは、すべて人に見せるためである。すなわち、彼らは経札を幅広くつくり、その衣のふさを大きくし、
   イエスは5-12節で律法学者、パリサイ人の行為は誠実性に欠け、虚飾に満ちていることを示し、彼らに倣うことを警戒された。彼らの行為の動機は「すべて人に見せるため」である。「経札を幅広くつくり」信心深いユダヤ人は出エジプト13:9および申命6:8の命令に文字どおり従って、律法を書いた札を額や左の腕に結んでいた。札の大きさは一定していたが、規格より大きくして人目を引こうとした。「衣のふさ」ユダヤ人は律法を思い出すために、上着の四隅にふさを付けていた。
6節 また、宴会の上座、会堂の上席を好み、
   高級祭司のある者にあてた避難。
7節 広場であいさつされることや、人々から先生と呼ばれることを好んでいる。
8節 しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはならない。あなたがたの先生は、ただひとりであって、あなたがたはみな兄弟なのだから。
   「先生」はラビであり、律法学者に対する尊称だが、イエスは、ラビは「ただひとり...すなわち、キリスト」であること、弟子たちは「兄弟」であって、その中に階級はない。
9節 また、地上のだれをも、父と呼んではならない。あなたがたの父はただひとり、すなわち、天にいます父である。
10節 また、あなたがたは教師と呼ばれてはならない。あなたがたの教師はただひとり、すなわち、キリストである。
   イスラエルの族長を父祖と呼ぶローマ9:5)ような傾向、また教師の階級制度への傾向を嘆かわしく思われ、イエスは神ひとりが父であり、キリストひとりが教師であると教える。
11節 そこで、あなたがたのうちでいちばん偉い者は、仕える人でなければならない。
   教会の指導者は兄弟に仕える人でなければならない。
12節 だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。
   18:4で示したように天国に入るには幼子のように「自分を低くする」こと、すなわち謙遜であること。天国でいちばん偉い人は、自分を低くする者である。
わざわいである(23:13-33)  マルコ12:38-40、 ルカ20:45-46
律法学者、パリサイ人に対する警戒。 「言うだけで、実行しない」ことを8つの例をあげて「わざわいである」と言っておられる。
13節 偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、天国を閉ざして人々をはいらせない。自分もはいらないし、はいろうとする人をはいらせもしない。〔
   天国の門を開くカギはパリサイ人から取り上げられ、イエスをキリストと証しする者の手に移されている(マタイ16:19) [1]
14節 偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、やもめたちの家を食い倒し、見えのために長い祈をする。だから、もっときびしいさばきを受けるに違いない。〕
   やもめは孤児とともにユダヤの社会で最も助けるべき弱者であったが、それを食い物にするほど冷酷な指導者がいた。
15節 偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたはひとりの改宗者をつくるために、海と陸とを巡り歩く。そして、つくったなら、彼を自分より倍もひどい地獄の子にする。
   イエスの時代のユダヤ教は伝道に熱心で、改宗者には割礼や犠牲の捧げものなどの義務を課した。
16節 盲目な案内者たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは言う、『神殿をさして誓うなら、そのままでよいが、神殿の黄金をさして誓うなら、果す責任がある』と。
17節 愚かな盲目な人たちよ。黄金と、黄金を神聖にする神殿と、どちらが大事なのか。
18節 また、あなたがたは言う、『祭壇をさして誓うなら、そのままでよいが、その上の供え物をさして誓うなら、果す責任がある』と。
19節 盲目な人たちよ。供え物と供え物を神聖にする祭壇とどちらが大事なのか。
20節 祭壇をさして誓う者は、祭壇と、その上にあるすべての物とをさして誓うのである。
21節 神殿をさして誓う者は、神殿とその中に住んでおられるかたとをさして誓うのである。
22節 また、天をさして誓う者は、神の御座とその上にすわっておられるかたとをさして誓うのである。
   誓いは人々を迷信に陥れる危険があるのを心配してパリサイ人たちは誓いの慣習をなくする意図から誓いに格差をつけて効果のない誓いをしないようにさせようとした。イエスは誓いはすでに神に関係することだから格差をつけても無意味であるとされ、一切誓うないう立場をとられた。
23節 偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。はっか、いのんど、クミンなどの薬味の十分の一を宮に納めておりながら、律法の中でもっと重要な、公平とあわれみと忠実とを見のがしている。それもしなければならないが、これも見のがしてはならない。
24節 盲目な案内者たちよ。あなたがたは、ぶよはこしているが、らくだはのみこんでいる。
   律法が規定している十分の一を宮に献納しながら、実生活は律法無視である。「はっか、いのんど」パレスチナの重要産物。葉や種子は芳香を持つ調味料。薬剤に用いる。「クミン」辛味のある種子はかぜ薬に用いられた。「ぶよはこして」酒杯の中に落ちた小さい虫はこすような細かい神経をもちながら、「らくだはのみこんでいる」大きな不潔に対しては無神経でいる。らくだは不潔な動物に数えられていた(レビ11:4)。
25節 偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。杯と皿との外側はきよめるが、内側は貪欲と放縦とで満ちている。
26節 盲目なパリサイ人よ。まず、杯の内側をきよめるがよい。そうすれば、外側も清くなるであろう。
   宗教儀式の上の清潔、外面的な清めには気を配るが、内なる心の清めには平気でいる。「杯と皿」とは人間の日常生活。
27節 偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいである。
28節 このようにあなたがたも、外側は人に正しく見えるが、内側は偽善と不法とでいっぱいである。
   ユダヤ人は毎年過ぎ越しの祭りの前のアダルの日に墓を白く塗った。イエスのこの基準に従えばすべての義人もまた罪人であることを肯定せざるを得ない。
29節 偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは預言者の墓を建て、義人の碑を飾り立てて、こう言っている、
   パリサイ人たちは預言者や義人の頒徳碑を建てて、自分たちは彼らの後継者であるかのような顔をしているが、もし彼らと同時代に生きていたら、先祖がしたように彼らの迫害者になっていただろう。
30節 『もしわたしたちが先祖の時代に生きていたなら、預言者の血を流すことに加わってはいなかっただろう』と。
   パリサイ人たちは先祖より自分たちの方が義人であると思いあがっている。
31節 このようにして、あなたがたは預言者を殺した者の子孫であることを、自分で証明している。
   しかし、先祖のように預言者の血を流さないと言うことによって、自分たちが人殺しの子孫であることを認めていることになる。
32節 あなたがたもまた先祖たちがした悪の枡目を満たすがよい。
   外側だけを美しくするようなことをしないで、人殺しの子孫らしくするがよい。「悪の枡目を満たす」先祖が満たし始めた罪の枡をなみなみと縁までいっぱいにせよ。イエスは自分を殺そうとしている彼らの悪計を見破って言われた。
33節 へびよ、まむしの子らよ、どうして地獄の刑罰をのがれることができようか。
   明白なさばきの宣告

ああ、エルサレム(23:34-39)  ルカ13:34-35

34節 それだから、わたしは、預言者、知者、律法学者たちをあなたがたにつかわすが、そのうちのある者を殺し、また十字架につけ、そのある者を会堂でむち打ち、また町から町へと迫害して行くであろう。
   34-36は「わざわいである」の説教の結びの言葉。ルカ11:49 [2] には「使徒」が加えられていることや、ユダヤ人が旧約時代に預言者たちを「十字架につけ」た事実がない(十字架はローマ帝国の刑罰のひとつ)ことから、後代のイエスの弟子に加えられた迫害がここに描写されていると考えられる。
35節 こうして義人アベルの血から、聖所と祭壇との間であなたがたが殺したバラキヤの子ザカリヤの血に至るまで、地上に流された義人の血の報いが、ことごとくあなたがたに及ぶであろう。
   「義人アベル」聖書にしるされている最初の殉教者(創世4:8)であり、「バラキヤの子ザカリヤ」は、その最後の殉教者(2歴代24:20-22)。ヨセフスは紀元70年エルサレム陥落の直前に神殿の中で殺されたバリスの子ゼカリヤについて記しているが、もしこれがバリスの子ゼカリヤなら、この節は後代の反映記事と考えられる。
36節 よく言っておく。これらのことの報いは、みな今の時代に及ぶであろう。
37節 ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ。ちょうど、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった。
   37-39は、神の花嫁にもたとえられるエルサレムを思うイエスの嘆声であり、地を去るに当たっての告別の辞。イエスはユダヤ人をあたかも「めんどり」が、そのひなを集めるように、神の国にあつめようとされた。
38節 見よ、おまえたちの家は見捨てられてしまう。
   「おまえたちの家」エルサレムの神殿。
39節 わたしは言っておく、『主の御名によってきたる者に、祝福あれ』とおまえたちが言う時までは、今後ふたたび、わたしに会うことはないであろう」。
   数日前にイエスが勝利の入城をしたとき、群衆が叫んだと同じ言葉が、終末の日においても人々によってふたたび叫ばれるまで、だれもイエスに会うことはないであろう。イエスの死が迫っている。

(2020/03/13)


[1]  マタイ 16:19
   「わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」。」
    イエスはペテロに天国のかぎ(神権)を授けた。

[2]  ルカ 11:49
  「それゆえに、『神の知恵』も言っている、『わたしは預言者と使徒とを彼らにつかわすが、彼らはそのうちのある者を殺したり、迫害したりするであろう』。」


マタイによる福音書略解                                                                                                                
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