Image10章 12章 Image

マタイによる福音書11章

イエス、バプテスマのヨハネについて語る(11:1-15)  マルコ1:2、9:12、 ルカ7:24-31
バプテスマのヨハネは獄中から、イエスがメシヤかどうかを尋ねる。
イエスはバプテスマのヨハネが道を整える偉大な預言者であることを証する。
1節 イエスは十二弟子にこのように命じ終えてから、町々で教えまた宣べ伝えるために、そこを立ち去られた。
   弟子たちはイエスの伝道について行く。使徒たち自身の伝道は、イエスの昇天後のことである。
2節 さて、ヨハネは獄中でキリストのみわざについて伝え聞き、自分の弟子たちをつかわして、
  バプテスマのヨハネは、イエスにバプテスマをほどこし、聖霊が降るのを目にしたものの、
  まだイエスのことを理解できずにいた。
  メシヤのための道を整えて、その登場を待っていたバプテスマのヨハネの考え方は、まだ旧約時代のものだった。
3節 イエスに言わせた、「『きたるべきかた』はあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか」。
  そうした彼にとって、イエスの教えと行動は、彼が考えていたメシヤの型とは異なるものだった。
  疑問の気持ちを抱いた彼は、獄中から彼の弟子に命じイエスを訪問させ、自分が待っているメシヤなのかを尋ねさせた。
4節 イエスは答えて言われた、「行って、あなたがたが見聞きしていることをヨハネに報告しなさい。
  イエスはバプテスマのヨハネの弟子たちに、これまで彼らが見聞きしたことをヨハネに伝えるように答えた。
5節 盲人は見え、足なえは歩き、らい病人はきよまり、耳しいは聞え、死人は生きかえり、貧しい人々は福音を聞かされている。
  ヨハネの弟子たちが、見聞きしてきたイエスがこれまで行ってきた数々の奇跡のこと、
  また、やみの中にいた「貧しい人々」が福音を聞かされ希望の光を見出したこと。
  これらはすべてイエスが、預言されたメシヤ [1] であることを示している。
6節 わたしにつまずかない者は、さいわいである」。
  ヨハネや多くの人々がイエスの行いを悪魔から来るものと考えたりなどしないで、「わたしにつまずかない」なら幸いである。
7節 彼らが帰ってしまうと、イエスはヨハネのことを群衆に語りはじめられた、「あなたがたは、何を見に荒野に出てきたのか。風に揺らぐ葦であるか。
  獄にいるヨハネの心の片隅には、「風に揺らぐ葦」のような迷いがあったかもしれない。
  そのためヨハネは弟子たちをイエスのもとに送ったのだったが、イエスが彼らにメシヤであることを教え帰らせた後、
  イエスは群衆に向かって、ヨルダン川の荒野にいるヨハネのもとに集まったのは、「風に揺らぐ葦」を見るためだったのかと問う。
8節 では、何を見に出てきたのか。柔らかい着物をまとった人か。柔らかい着物をまとった人々なら、王の家にいる。
  バプテスマのヨハネは決して「風に揺らぐ葦」のような弱々しいものではない。
  また誰も彼を贅沢な生活に慣れた「柔らかい着物をまとった人」とは考えない。
9節 では、なんのために出てきたのか。預言者を見るためか。そうだ、あなたがたに言うが、預言者以上の者である。
  イエスはヨハネが、群衆の考えていた通り、預言者だと断言し、しかも「預言者以上の者」であると断言した。
10節 『見よ、わたしは使をあなたの先につかわし、あなたの前に、道を整えさせるであろう』と書いてあるのは、この人のことである。
   バプテスマのヨハネは普通の預言者とは異なり、マラキ書で預言された預言者だ。
   そこに「書いてある [2] のは、この人のこと」であり、メシアの「道を整えさせる」という特別な役割を担った「預言者以上の者」である。
11節 あなたがたによく言っておく。女の産んだ者の中で、バプテスマのヨハネより大きい人物は起らなかった。しかし、天国で最も小さい者も、彼よりは大きい。
 「女の産んだ者」 [3] とは人間を意味するヘブル的表現。
   イエスはヨハネほど重大な使命を担って地上に生まれた人間はこれまでにいなかったと賛辞した。
   しかしイエスは、「神の国で最も小さい者」でさえ、ヨハネよりも偉大であるという。
   イエスは弟子たちを「小さい者」(10:41)と呼んでいる。ヨハネはイエスに対してつまづきを感じたが、
   天の御国の到来とイエスがキリスト(メシヤ)であることを知った「小さい者」(イエスの弟子)たちは、
   イエスにつまづくことなく、さらにイエスの福音を伝える使命を託されているため、ヨハネよりも偉大なのだと教えている。
   悔い改めて神に立ち返るように力強く叫んでいたヨハネのイエスに対する確信が、風に揺らぐ葦のように一瞬ゆらいでしまった。
   ただそれだけで、イエスに招かれる前は漁師や取税人であった弟子たちよりも勝ることがないという。
   信仰は信ずる存在への信頼という単純なことであるが、それを保つということの難しさを感じないだろうか。
12節 バプテスマのヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている。
   バプテスマのヨハネの時から、この世は天国を激しく攻勢している。
   獄にいるヨハネの上に死が臨もうとしているし、世の苦難と死はやがてイエスにも望むだろう。
13節 すべての預言者と律法とが預言したのは、ヨハネの時までである。
   「すべての預言者と律法とが預言した」旧約の時代は、バプテスマのヨハネまでだった。
   「ヨハネの時まで」の古い時代が終わり、イエスの時からの新しい時代に入る。
14節 そして、もしあなたがたが受けいれることを望めば、この人こそは、きたるべきエリヤなのである。
   ヨハネこそはメシヤの先駆けとして再来すると預言された「きたるべきエリヤ」 [4] である。
15節 耳のある者は聞くがよい。
   しっかり聞きなさい。

今の時代の無関心と不信への町の裁き(11:16-24)  ルカ7:31-35、10:12-15
イエスの時代の人々の無関心と宣教した町々への裁き
16節 今の時代を何に比べようか。それは子供たちが広場にすわって、ほかの子供たちに呼びかけ、
   イエスが生きていた「今の時代」のユダヤは、メシアであるキリストを拒否する。
   それを広場にすわって、「ほかの子供たちに呼びかけ」る子供たちにたとえている。
17節 『わたしたちが笛を吹いたのに、あなたたちは踊ってくれなかった。弔いの歌を歌ったのに、胸を打ってくれなかった』と言うのに似ている。
   子供が二組に分かれて次のような童謡を歌いかわすのに似ている。
   一方の組の子供が結婚の申し込みをすると、片方の組がそれを拒む。
   今度は弔いの遊戯を申し込むがそれも拒まれる。
   このようにバプテスマのヨハネやイエスが笛を吹き、歌を歌っているのに、「今の時代」の人々は、無視し、拒絶した。
18節 なぜなら、ヨハネがきて、食べることも、飲むこともしないと、あれは悪霊につかれているのだ、と言い、
   ヨハネが断食していると「あれは悪霊につかれている」と批判し、
19節 また人の子がきて、食べたり飲んだりしていると、見よ、あれは食をむさぼる者、大酒を飲む者、また取税人、罪人の仲間だ、と言う。しかし、知恵の正しいことは、その働きが証明する」。
   イエスが食べたり飲んだりしていると、「あれは食をむさぼる者、大酒を飲む者、また取税人、罪人の仲間」と非難した。
   天の御国の福音を受け入れるには簡単なことではない。多くの人は非難し拒むだろう。
   しかし、「知恵」であるイエスが「正しいこと」は、イエスの「働きが証明する」と語った。
20節 それからイエスは、数々の力あるわざがなされたのに、悔い改めることをしなかった町々を、責めはじめられた。
   イエスによって数々の「力あるわざ」(奇跡)を目にしながら、そこに神のしるしを認めず、
   悔い改めなかった人々が住む町々をイエスは「責めはじめられた」。
21節 「わざわいだ、コラジンよ。わざわいだ、ベツサイダよ。おまえたちのうちでなされた力あるわざが、もしツロとシドンでなされたなら、彼らはとうの昔に、荒布をまとい灰をかぶって、悔い改めたであろう。
  「コラジン」カペナウムの西北数マイル、ツロへの途中にある町。
  「ベツサイダ」(漁夫の家)、ガリラヤ湖北岸の町。シモン、アンデレ、ピリポの出身地。
   どちらもガリラヤの代表的な商業都市だった。イエスはこれらの町で宣教と奇跡を行ったが、受け入れられなかった。
  「ツロとシドン」はフェニキヤの地中海東岸の通商都市。かつて士師時代にこれらの町は偶像礼拝に毒されていた。
   イザヤなどの預言者はこれらの町の滅亡を予言していた。
  「荒布をまとい灰をかぶって」 [5] 罪を悔い改めていることを表明するしるし。
22節 しかし、おまえたちに言っておく。さばきの日には、ツロとシドンの方がおまえたちよりも、耐えやすいであろう。
   「さばきの日」には偶像礼拝の町ツロとシドンは、イエスを拒絶したコラジン、ベツサイダよりも神の裁きに持ちこたえるだろう。
23節 ああ、カペナウムよ、おまえは天にまで上げられようとでもいうのか。黄泉にまで落されるであろう。おまえの中でなされた力あるわざが、もしソドムでなされたなら、その町は今日までも残っていたであろう。
   「カペナウム」はイエスのガリラヤ伝道の拠点であったが、住民はイエスを受け入れなかった。
   「天にまで上げられ」るどころか、落ちたら二度と出ることができない死者が眠る暗い地下の「黄泉にまで落される」だろう。
   一方住民の罪悪のため、神による天からの硫黄と火によって滅ぼされたソドムの町で、
   イエスの力あるわざが行われたら、イエスを拒否するようなことはなかっただろう。
24節 しかし、あなたがたに言う。さばきの日には、ソドムの地の方がおまえよりは耐えやすいであろう」。
  「さばきの日」にはソドムの町は、イエスを拒絶したカペナウムよりも神の裁きに持ちこたえるだろう。
   天の御国の福音を拒み、悔い改めない行為に対する報いは、いかなる罪にたいするものよりも大きい。

イエスの感謝と招き(11:25-30)  ルカ10:21-22
ガリラヤ伝道で少数の人々がイエスに従ったことを神に感謝した。
25節 そのときイエスは声をあげて言われた、「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました。
   イエスを拒んだ町の住民が理解することができなかった「これらの事」(天の御国の福音)を
   パリサイ人や律法学者のような「知恵のある者や賢い者」ではなく、
   身分が低く無学で貧しい「幼な子」すなわちイエスの弟子が理解し受け入れたことをイエスは天父に感謝し賛美した。
26節 父よ、これはまことにみこころにかなった事でした。
   この神の「みこころ」をパウロは次のようにコリントの教会員に書いている。
     「兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。
      人間的には、知恵のある者が多くはなく、
      権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない。
      それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、
      強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、
      有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、
      すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。
      それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。」(1コリント1:26-29)
27節 すべての事は父からわたしに任せられています。そして、子を知る者は父のほかにはなく、父を知る者は、子と、父をあらわそうとして子が選んだ者とのほかに、だれもありません。
   イエスは神の独り子「子を知る者は父のほかにはなく」である。
   イエスの伝道のつとめと救いの業の「すべての事」は天父より任されたものである。
   「父を知る者」は、その子イエスと、イエスが「選んだ者」弟子とイエスを受け入れたもののみである。
28節 すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。
   「すべて重荷」日々の生活の労苦やパリサイ人や律法学者が人々に課した律法の重み。
    律法は本来の精神を離れ、人々を支配者に従わせる道具となった。
29節 わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。
   イエスの招きはパリサイ人や律法学者の招きと異なり、負いやすい「くびき」である。
   公平とあわれみと忠実のイエスの「くびき」は、ラビが教える律法の条文にとらわれた負いにくい「くびき」と異なる。
30節 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。
   イエスのくびきは厳しいが、律法としてではなく、福音として受け入れる人には「負いやすく」、「軽い」ものだ。
   そして、それはわれわれの「魂に休み」を与えるものとなる。

(2019/03/30)


[1]  「その時、目しいの目は開かれ、
  耳しいの耳はあけられる。
  その時、足なえは、しかのように飛び走り、
  おしの舌は喜び歌う。
  それは荒野に水がわきいで、
  さばくに川が流れるからである。」(イザヤ35:5-6)
 「起きよ、光を放て。
  あなたの光が臨み、
  主の栄光があなたの上にのぼったから。
  見よ、暗きは地をおおい、
  やみはもろもろの民をおおう。
  しかし、あなたの上には主が朝日のごとくのぼられ、
  主の栄光があなたの上にあらわれる。」(イザヤ60:1-2)

[2]  「見よ、わたしはわが使者をつかわす。彼はわたしの前に道を備える。
  またあなたがたが求める所の主は、たちまちその宮に来る。
  見よ、あなたがたの喜ぶ契約の使者が来ると、万軍の主が言われる。」(マラキ3:1)

[3]  「人はいかなる者か、どうしてこれは清くありえよう。
  女から生れた者は、どうして正しくありえよう。 」(ヨブ15:14)
 「それで人はどうして神の前に正しくありえようか。
  女から生れた者がどうして清くありえようか。」(ヨブ25:4)
 「あなたがたに言っておく。女の産んだ者の中で、ヨハネより大きい人物はいない。
  しかし、神の国で最も小さい者も、彼よりは大きい。」(ルカ7:28)

[4]  「見よ、主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす。」(マラキ4:5)

[5]  「このうわさがニネベの王に達すると、彼はその王座から立ち上がり、朝服を脱ぎ、荒布をまとい、灰の中に座した。」(ヨナ3:6)
  荒布は小羊またはラクダの毛で織った黒色の布で、死者への哀悼、国家的災禍の際のざんげのしるしとして腰にまとった。


マタイによる福音書略解                                                                                                                
1章2章3章4章5章6章7章8章9章10章11章12章13章14章
15章16章17章18章19章20章21章22章23章24章25章26章27章28章