4章
6章
マタイによる福音書5章
山上で語る。(5:1-2) 5章から7章は、イエスの弟子たちに生活の基本的姿勢を教えたもので、パリサイ人や律法学者の義に対照的な福音を基盤とした実践的な義を説いている。 1節 イエスはこの群衆を見て、山に登り、座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきた。 群衆は山で語るイエスの教えを聞いていた。(マタイ7:28) ルカによる福音書では、平地で語られたとしている。(ルカ6:17) 何れにしても会堂ではなく、野で語られたというイエスらしい姿である。 「座につかれると」ラビが語るときに長時間教えるのに適した姿勢を指している。 4章で召した弟子は4人だけだが、他の弟子も含むのであれば、山上の垂訓には後の説教も含まれた説話集ということも考えられる。 2節 そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた。 「口を開き」 [1] これから重要な教えが語られることを示す。 さいわいな人(5:3-12) (ルカ 6:20-23) 「さいわいである」 [2] という祝福は、神の国の典型的な性格を表している。イエスは神の国の義にふさわしい行いをする者に幸福を約束する。 これらは八福の教えと呼ばれる。 3節 「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。 「こころの貧しい人たち」ここで、イエスは、「こころ」が神の助けを待つほどに謙遜で、 主に頼らなければならないことを感謝の思いをもって認める人々と言っている。 ほとんどが物質的にも貧しく、才能や能力が神から与えられた賜物であることを理解し、 常に主の支えが必要であることを自覚している。 そして今、弟子たちと共にイエスの話を神の言葉として聞いている。 それゆえに天国が来たとき、心が富める者よりも「天国は彼らのものである。」とイエスは教える。 「こころの貧しい」を「霊的に貧しい(必要としている)」と言い換えると分かりやすいかもしれない。 KJVはthe poor in spirit:、ルター訳ではgeistlich armとそのように訳している。 [3] 4節 悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。 自己の罪、同胞の罪のために「悲しんでいる人」は、神によって「慰められる」。神は慰め主 [4] である。 5節 柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。 「柔和な人」は真理に対し、神の前に無我で謙虚な人。そういう人は「地を受け継ぐ」。地とはイエスとともに来る新しい世界。 6節 義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。 「義に飢えかわいている人」神の御心を知りそれを行いたいという強い願望を持った人。 7節 あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。 「あわれみ深い人」人に対して,本人が受けるに値しないほど思いやり深い行いをする人。 8節 心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。 「心の清い人」主を愛し,主に従い,主の戒めを守るために努め,高潔な生活をし,最後まで忠実に堪え忍ぶ努力をしている人。 自分の思いを制御して,不道徳な空想や行いのない状態に保つ人。 9節 平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。 「平和をつくり出す人」他の人々が相違点に目を向けるときに,共通の基盤を見つけられるようにする人。 10節 義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。 11節 わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。 「義のために」「わたしのために」迫害されても、イエスの教えに喜んで従い,それを守る人。 12節 喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。 イエスはさいわいな人に神が報いを約束していると断言する。 地の塩・世の光(5:13-16) (マルコ4:21、9:50、ルカ 8:16、11:33、14:34-35) イエスの弟子たちに世に臨む際の在り方を「地の塩」、「世の光」として示された。 13節 あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。 塩は調味だけでなく健康な体を維持するために必須の成分であるとともに、腐敗を防ぎ細菌を殺す重要な物質である。イエスは弟子たちに世の人々を腐敗から守る塩であることを示した。もし塩が他の要素と混じりあって、その「ききめをなくなったら」汚染されてしまい、塩としての価値が無くなる。それはイエスの弟子の本分を失しなうことである。 14節 あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。 光は外から世を照らす。イエスは「すべての人を照らすまことの光」(ヨハネ1:9)であり、イエスにある弟子たちも光である。「山の上にある町」は隠れることができないように、世の光であるイエスの弟子たちは必ず認められる。 15節 また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである。 パレスチナの家屋の室内は暗かったので、終日消灯しなかった。室内を暗くするには、ますで光をおおった。 16節 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。 イエスの光を反射した「あなたがたの光」は全人類を照らす「よいおこない」となる。人はその光により主の道をはっきりと見えるようになり、「天にいますあなたがたの父をあがめる」ようになる。 より高い律法(5:17-20) (マルコ13:31、ルカ16:17) イエスは旧約の律法や預言者を廃するためではなく、誤った教えを正し,旧約の預言者による預言を成就するために来た。そして律法のうわべの言葉ではなく、律法の真の精神である愛に根差した人間関係が重要であることを示した。 17節 わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。 「律法や預言者」は旧約の宗教や律法を指す。イエスがそれを廃すると思った人々がいた。イエスの世に来ることにより、邪悪と背教のために失われていた福音を完全に回復し,誤った教えを正し,旧約の預言者による預言を成就するのである。 18節 よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。 旧約の律法を生きたものに回復し、「律法の一点、一画」 [5] も永続する。 19節 それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。 ささいな律法と言って破ったり、そうするように教える者は、天国の祝福を受けることができない。 20節 わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。 「律法学者やパリサイ人の義」は、表向きは絶対的だが、裏では情状酌量的だった。「最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者」だったのである。しかし、イエスの弟子たちは人間の弱い面に迎合するのではなく、天国において働く義によって行動しなければならない。そのときに「律法学者やパリサイ人の義」にまさった義となる。 殺すな(5:21-26) (ルカ12:57-59) 前項をどのように実践すべきか、イエスの弟子たちにモーセの十戒の第六を具体的に示した。 21節 昔の人々に『殺すな。殺す者は裁判を受けねばならない』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 昔から殺人は厳しく禁じられていた。 [6] 十戒には裁判についての律法はないが、「殺す者は裁判を受けねばならない」。民衆は直接律法を読むことができず、会堂でラビから聞いていたため、イエスは「あなたがたの聞いているところ」と言った。 [7] 22節 しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。兄弟にむかって愚か者と言う者は、議会に引きわたされるであろう。また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう。 イエスは権威をもって「わたしはあなたがたに言う」と断言された。兄弟、すなわちどんな人に対しても怒るものは、「裁判」を受けなければならない。怒りの炎が大きくなると殺人に発展するのだから。また、人の知恵を軽蔑して「愚か者」と言うものは議会に、人の品性を軽蔑して「ばか者」と言う者は「地獄の火」に投げ込まれるに値する罪である。 23節 だから、祭壇に供え物をささげようとする場合、兄弟が自分に対して何かうらみをいだいていることを、そこで思い出したなら、 24節 その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさい。 人が兄弟と不和であるまま、供え物を捧げても神と正しい関係を保つことは決してできない。まず和解し、兄弟との間に愛がある関係になりなさい。そうすればそのその供え物は神に受け入れられるものとなる。 25節 あなたを訴える者と一緒に道を行く時には、その途中で早く仲直りをしなさい。そうしないと、その訴える者はあなたを裁判官にわたし、裁判官は下役にわたし、そして、あなたは獄に入れられるであろう。 仲直りを引き延ばしてはいけない。訴えるものと一緒に法廷に行くときは、途中で話し合いでもめ事を解決しなさい。 26節 よくあなたに言っておく。最後の一コドラントを支払ってしまうまでは、決してそこから出てくることはできない。 「ゴトラント」は2レプタ、1デナリの64分の1。ローマの最も少額の銅貨。 姦淫するな(5:27-32) (マルコ9:43-48、10:11-12、ルカ16:18) イエスの弟子たちにモーセの十戒の第七姦淫の戒め(出エジプト20:14、申命5:18)の高度な義を示した。 27節 『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 姦淫の戒めは、ラビから「あなたがたの聞いている」はずだが、イエスは高度な心の中の義をここで教え示す。 28節 しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。 律法は外見の潔白を律するものであるが、イエスが語る義は「心の中」の義である。 行為の前に情念のとりこになった時点ですでに義を離れている。それは咎めるべものだ。 心の中の不義の思いを清めてはじめて義とすることができる。 29節 もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に投げ入れられない方が、あなたにとって益である。 30節 もしあなたの右の手が罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に落ち込まない方が、あなたにとって益である。 「右の目」、「右の手」のように大切な人や考えが、あなたを堕落させようとする(全身が地獄に投げ入れられる)なら、犠牲を払ってそれを取り除きなさい。 律法は外見的な枝葉末節の「体の一部」を問題にするが、イエスは全身(霊)が救われないと意味がないと教えた。 31節 また『妻を出す者は離縁状を渡せ』と言われている。 32節 しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、不品行以外の理由で自分の妻を出す者は、姦淫を行わせるのである。また出された女をめとる者も、姦淫を行うのである。 結婚と離婚に関する高度な義の教え。 申命24:1「人が妻をめとって、結婚したのちに、その女に恥ずべきことのあるのを見て、 好まなくなったならば、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせなければならない。」から引用している。 元は人権尊重の立場の律法であったが、男に都合が良い離婚を合法化するものになってしまった。 イエスはこの律法の誤った解釈による制度を悪用を咎め、「不品行(恥ずべきこと)以外の理由」では離婚を認めないと言われた。 したがって「不品行以外の理由」で離婚した妻が、再婚した場合、まだ先夫の妻なので彼女に「姦淫を行わせる」ことになる。 誓うな(5:33-37) 当時のユダヤ人は日常生活で誓うことを行っていた。誓い方に複雑な規定があった。 33節 また昔の人々に『いつわり誓うな、誓ったことは、すべて主に対して果せ』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 レビ19:12、申命23:21-23にある律法 [8] 34節 しかし、わたしはあなたがたに言う。いっさい誓ってはならない。天をさして誓うな。そこは神の御座であるから。 人が誠実であるならば誓う必要など「いっさい」。イエスは弟子たちに誓ってはならないと教えた。天にはじない誠実さがあれば、「天をさして誓う」必要などない。 35節 また地をさして誓うな。そこは神の足台であるから。またエルサレムをさして誓うな。それは『大王の都』であるから。 神の名をみだりに唱えてはならないため、「地」、「エルサレム」など様々な名前を唱えた。 36節 また、自分の頭をさして誓うな。あなたは髪の毛一すじさえ、白くも黒くもすることができない。 ユダヤ人は自己の真実なことを表すため自分の頭をさして誓った。 37節 あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。それ以上に出ることは、悪から来るのである。 疑惑が根底にある社会には誓いが必要だろうが、義の原理の上にある天の国においては、そもそも偽りが存在しないので誓いなどいらない。 そこでは「しかり、しかり、否、否、」と明快に答えるだけでよい。 報復について(5:38-42) (ルカ6:29-30) 正当な報復は律法で認められていた。 [9] しかし報復は悪循環をもたらす。イエスは復讐以前の動機にさかのぼり、それを断ち切るように戒めた。 38節 『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 律法によれば目を傷つけたものの目を傷つけ、歯を折ったものの歯を折ってもよかった。 39節 しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。 報復は報復を招く。したがって「悪人に手向かうな」敵の悪行を報復の動機としてはならない。 「あなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。」報復の連鎖を断ち切ると神が助ける。 [10] 40節 あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。 「下着」をとろうとして訴える人に下着よりも貴重な「上着」を与えることで、悪人に対して積極的に善行を行いなさい。 41節 もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい。 為政者から使役を課せられ「しいて一マイル行かせようとする」なら、圧力に屈してするのではなく、愛と平和をもって前節のように積極的に善行を行う。 42節 求める者には与え、借りようとする者を断るな。 博愛による寛大な行為(申命15:7-8、詩編112:5、使徒行伝20:35) 敵を愛せ(5:43-48) (ルカ6:27-28、32-36) パリサイ人・律法学者が教えていた義の律法とイエスが教えたより高い愛の律法の際立った相違がここにある。 43節 『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 前半はレビ19:18「あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない。」からの引用。「隣り人」はイスラエル人、「敵」は異邦人。 44節 しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。 神は神の敵対者にも愛をもって対処する。同様に神の民も敵や迫害するものに愛をもって対しなければならない。 45節 こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。 こうして神の愛に従うことによって、「天にいますあなたがたの父の子」となる。神の愛はすべての人格に及び対象を選ばない。 46節 あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。 「取税人」ローマ政府の手先になって税を取り立てる請負人。不正な取り立ても多かったため一般民衆の嫌われ者になっていた。 47節 兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。 「兄弟だけにあいさつをした」ユダヤ人同士では平安あれ(シャローム)という挨拶をしていた。 48節 それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。 イエスは21-47節の総括として、イエスの弟子たちに天の国に入るための目標を示した。 (2019/03/09)
[1] 「口を開き」 「これは預言者によって言われたことが、成就するためである、 「わたしは口を開いて譬を語り、 世の初めから隠されていることを語り出そう」。」(マタイ13:35) 「そこでピリポは口を開き、この聖句から説き起して、イエスのことを宣べ伝えた。」(使徒8:35)
[2] さいわい KJVでは、Blessedと翻訳されている。 Blessedはラテン語の幸運または幸福を意味する「beatus」(「ビアタス」)という言葉を翻訳したもの。 八福の教えは、the Beatitudes(至福の教え)と呼ばれる。 ルター訳(1545)では、seligを使っている。さいわいであるは、Selig sind. seligは単に幸福なというよりは、「この上なく幸福な」という至福のさいわいのニュアンスを持っている。
[3] 霊的に貧しい人々 KJVでは、Blessed are the poor in spirit: for theirs is the kingdom of heaven. また、ルター訳1545では、Selig sind, die da geistlich arm sind; denn das Himmelreich ist ihr. いずれも「霊的に貧しい人々は恵まれています。なぜなら、天国は彼らのものだからです。」になる。
[4] 慰め主 「彼女は言った、「わが主よ、まことにありがとうございます。 わたしはあなたのはしためのひとりにも及ばないのに、あなたはこんなにわたしを慰め、 はしためにねんごろに語られました」。 」(ルツ2:13) 「天よ、歌え、地よ、喜べ。 もろもろの山よ、声を放って歌え。 主はその民を慰め、 その苦しむ者をあわれまれるからだ。」(イザヤ49:13) 「主の恵みの年と われわれの神の報復の日とを告げさせ、 また、すべての悲しむ者を慰め、」(イザヤ61:2) 「その時、エルサレムにシメオンという名の人がいた。この人は正しい信仰深い人で、 イスラエルの慰められるのを待ち望んでいた。また聖霊が彼に宿っていた。 」(ルカ2:25) 「どうか、忍耐と慰めとの神が、あなたがたに、キリスト・イエスにならって互に同じ思いをいだかせ、」(ローマ15:5) 「しかるに、うちしおれている者を慰める神は、テトスの到来によって、わたしたちを慰めて下さった。」(2コリント7:6)
[5] 律法の一点、一画 律法の条文の文字の最小点と画のこと。ヘブル語のי(ヨード)、ギリシャ語のι イエスは律法全体から見てあまり重要でない部分も廃れることはないと言われた。
[6] 殺すな 「あなたは殺してはならない。 」(出エジプト20:13、申命5:17)
[7] 殺人の裁判 「人を殺した者、すなわち故殺人はすべて証人の証言にしたがって殺されなければならない。 しかし、だれもただひとりの証言によって殺されることはない。 あなたがたは死に当る罪を犯した故殺人の命のあがないしろを取ってはならない。 彼は必ず殺されなければならない。」(民数35:30-31)
[8] 誓うことについて 「わたしの名により偽り誓って、あなたがたの神の名を汚してはならない。わたしは主である。」 (レビ19:12) 「あなたの神、主に誓願をかける時、それを果すことを怠ってはならない。あなたの神、主は必ずそれをあなたに求められるからである。 それを怠るときは罪を得るであろう。 しかし、あなたが誓願をかけないならば、罪を得ることはない。 あなたが口で言った事は守って行わなければならない。 あなたが口で約束した事は、あなたの神、主にあなたが自発的に誓願したのだからである。」(申命23:21-23)
[9] 報復の律法 「目には目、歯には歯、手には手、足には足、」(出エジプト21:24) 「すなわち、骨折には骨折、目には目、歯には歯をもって、人に傷を負わせたように、自分にもされなければならない。」(レビ24:20) 「あわれんではならない。命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足をもって償わせなければならない。」(申命19:21)
[10] 報復の連鎖を断ち切る。 「わたしを打つ者に、わたしの背をまかせ、 わたしのひげを抜く者に、わたしのほおをまかせ、 恥とつばきとを避けるために、 顔をかくさなかった。 しかし主なる神はわたしを助けられる。 それゆえ、わたしは恥じることがなかった。 それゆえ、わたしは顔を火打石のようにした。 わたしは決してはずかしめられないことを知る。 わたしを義とする者が近くおられる。 だれがわたしと争うだろうか、 われわれは共に立とう。 わたしのあだはだれか、 わたしの所へ近くこさせよ。 見よ、主なる神はわたしを助けられる。 だれがわたしを罪に定めるだろうか。 見よ、彼らは皆衣のようにふるび、 しみのために食いつくされる。」(イザヤ50:6-9)
マタイによる福音書略解
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