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マタイによる福音書20章

ぶどう園の賃金(20:1-16)
前節19:30をたとえ話で教えている。ペテロのいっさいを捨ててイエスに従ったことに対する報酬を問う精神を戒められたものともとれる。
1節 天国は、ある家の主人が、自分のぶどう園に労働者を雇うために、夜が明けると同時に、出かけて行くようなものである。
   この主人は一日の労働が始まる時間「夜が明けると同時に」に労働者を雇うために出かける。天国に救われる時期で考えるならば、朝早く雇われる労働者は、人生の早い時期にイエスを救い主として受け入れる人、あるいは、創世の朝である人類の歴史の早い時期に神に従った人。
2節 彼は労働者たちと、一日一デナリの約束をして、彼らをぶどう園に送った。
   「一デナリ」当時の労働者の一日の労賃の相場。 主人が人々と約束した救いの契約を表す。
3節 それから九時ごろに出て行って、他の人々が市場で何もせずに立っているのを見た。
   夜明けから日没までを十二時刻分けられていた。9時、12時、3時は時限。「何もせずに立って」いたのは、怠けていたのではなく雇い主がいなかったから。 救いで考えるなら、その時まで福音を聞く機会がなかった人々ということになる。
4節 そして、その人たちに言った、『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当な賃銀を払うから』。
   ここでは賃金の額を定めず「相当な賃銀」と言っている。神が人とかわす救いの契約に額はない。
5節 そこで、彼らは出かけて行った。主人はまた、十二時ごろと三時ごろとに出て行って、同じようにした。
   繰り返し出かけ、後から雇った人も同様に賃金の額を定めなかった。中間の時の時代、そしてその後と、神はひとりでも多く神の国に招くために、何度も福音を聞く機会を与えられるのである。
6節 五時ごろまた出て行くと、まだ立っている人々を見たので、彼らに言った、『なぜ、何もしないで、一日中ここに立っていたのか』。
   労働者を雇い入れる最後の時刻「五時ごろ」にも出かけて行った。神は時満ちるときまで、人々を救おうとされる。
7節 彼らが『だれもわたしたちを雇ってくれませんから』と答えたので、その人々に言った、『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい』。
   「だれもわたしたちを雇ってくれませんから」と言った人々は、イエスの再臨の直前に救われる人々、または老年になるまで福音を聞く機会がなかった人々と考えることができる。いずれにしても主人の意図は、自分の利益のためではなく、人を雇うい賃金を払うこと、人を救うことが目的なのだ。
8節 さて、夕方になって、ぶどう園の主人は管理人に言った、「労働者たちを呼びなさい。そして、最後にきた人々からはじめて順々に最初にきた人々にわたるように、賃銀を払ってやりなさい」。
   律法にしたがって(レビ19:13)、賃金はその日の内に払われる。「最後にきた人々からはじめて順々に最初にきた人々に」先の者はあとになり、あとの者は先になる順に支払われた。主人は最後の時まで救いの訪れを聞く機会がなかった人々を哀れんだのだった。
9節 そこで、五時ごろに雇われた人々がきて、それぞれ一デナリずつもらった。
   主人は労働者が一日に必要な生活費を考えて支払った。働いた時間に応じて払われたら、五時ごろに雇われた人は家族を養うに足る賃金を得ることができなかったであろう。神は福音を受け入れた時期や神に従って歩いた時間の長さではなく忠実さを見られる。
10節 ところが、最初の人々がきて、もっと多くもらえるだろうと思っていたのに、彼らも一デナリずつもらっただけであった。
   主人が一時間しか働なかった人に一日分の賃金を払ったのだから、最初に雇われた人は、「もっと多くもらえるだろう」と思ったが、同じ金額だった。
11節 もらったとき、家の主人にむかって不平をもらして
   最初に雇われた人の「不平」は正しい。しかし、彼は最初に主人と「一デナリ」で約束したことを忘れ、ルカ15の放蕩息子の兄の場合のように、神の愛を自分の労働時間に換算したところに錯誤がある。
12節 言った、『この最後の者たちは一時間しか働かなかったのに、あなたは一日じゅう、労苦と暑さを辛抱したわたしたちと同じ扱いをなさいました』。
   この地方の日中の砂漠から吹き付ける熱風の中での労働は厳しいものだった。一時間しか働かなかった者と同じ賃金をもらった彼は、朝から日没まで働いた苦しい思い出だけが残り、雇われたという恵みと、ぶどう園で働けたという喜びが消えてしまった。放蕩息子の兄も同様だった。放蕩の末に財産を使い果たし帰ってきた弟を父は大喜びで迎え入れ、一番よい着物を着せ肥えた子牛をほふり宴を催す。それを知った兄は、「わたしは何か年もあなたに仕えて、一度でもあなたの言いつけにそむいたことはなかったのに、友だちと楽しむために子やぎ一匹も下さったことはありません。 それだのに、遊女どもと一緒になって、あなたの身代を食いつぶしたこのあなたの子が帰ってくると、そのために肥えた子牛をほふりなさいました」と父に抗議したのだった(ルカ15:29-30)。 それは主によって救われ、主のために働いている私たちが、それを喜びとせずに苦痛に思ってしまう姿と同じだ。 福音を知り、その道を歩むことはぶどう園で働くように苦労も多い。主のために働けることを恵みとし喜びとしていたはずなのに、いつの間にかそれを忘れ、これだけ頑張っているのだから、何かもっと恵みがあってもよいはずだとついつい思ってしまい苦しい思いだけが残ることはないだろうか。 
13節 そこで彼はそのひとりに答えて言った、『友よ、わたしはあなたに対して不正をしてはいない。あなたはわたしと一デナリの約束をしたではないか。
   主人は、「友よ」と呼びかける。この世の主人と雇われた労働者の関係においてならば、一時間働いた人と一日中働いた人を同一に扱うのは不公平である。しかし、天国は報酬を目的にしない世界だ。「一デナリの約束」は、このような報酬を目的としない神の国に入ること、永遠の生命を受け神とともに友として住む約束を意味する神の賜物である。「罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。」(ローマ6:23)
14節 自分の賃銀をもらって行きなさい。わたしは、この最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ。
   報酬を目的としない天国を知らない者にとって、一デナリは「自分の賃銀」に過ぎないが、神の国を信じる者には、一デナリは単なる賃金ではなく、「最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ」という天国の主人の好意を受け取って神の安息に入ることを意味する。イエスは天国の労働者の報酬はこのような神の国の交わりであって、その他の一切の報酬ではないことを教えている。約束の一デナリをとればよいのであって、私が他の人に与える分をねたむな、と言っている。これは、天における報いは、他と自分を比べるようなものではない。天国ではだれがー番いい地位についていて、だれが低い地位についているか比べることはない。これは前章で「わたしたちはいっさいを捨てて、あなたに従いました。ついては、何がいただけるでしょうか」とイエスに問うたペテロに対する戒めでもあったろう。
15節 自分の物を自分がしたいようにするのは、当りまえではないか。それともわたしが気前よくしているので、ねたましく思うのか』。
   世のいっさいのものを「自分の物」と呼ぶことができる神は、「自分がしたいように」できる唯一の存在である。神の国において主権は神にある。 まじめに父に仕えた放蕩息子の弟の兄は、最後に愛情深い父に言われる。「子よ、あなたはいつもわたしと一緒にいるし、またわたしのものは全部あなたのものだ」。 いっさいのものを持つ神にこのように言われる以上の祝福があるだろうか。 
16節 このように、あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう」。
   19:13の教えをを繰り返している。ペテロはこのたとえ話を聞いてそれを理解したことだろう。

十字架の預言(3)(20:17-19)  マルコ10:32-34、ルカ18:31-34
17節 さて、イエスはエルサレムへ上るとき、十二弟子をひそかに呼びよせ、その途中で彼らに言われた、
   十字架の死についての三度目の預言。マルコ10:32には「イエスが先頭に立って行かれたので、彼らは驚き怪しみ、従う者たちは恐れた。」とある。エルサレムに近づくにつれてイエスの全身にみなぎる決意に弟子たちは圧倒されそうになった。
18節 「見よ、わたしたちはエルサレムへ上って行くが、人の子は祭司長、律法学者たちの手に渡されるであろう。彼らは彼に死刑を宣告し、
   イエスは「彼」と三人称で呼んでいる。十字架上の苦しみを客観視したのではなく、その苦しみを思いやることのできない弟子たちの心に対する心情を反映している。この時点において、弟子たちはイエスの十字架の贖いの意味と必要性をまだ分かっていなかった。それは彼らの理解を遥かに越えるものだった。
19節 そして彼をあざけり、むち打ち、十字架につけさせるために、異邦人に引きわたすであろう。そして彼は三日目によみがえるであろう」。
   「異邦人に引きわたす」ユダヤ人は裁判権があったが、ローマ政府から人を処刑する権限を与えられていなかった。イエスを十字架につけるために、ユダヤ人たちは口実を作ってローマ提督ピラトに引き渡さなければならない。

ゼベダイの子らの願い(20:20-28)  マルコ10:35-45
20節 そのとき、ゼベダイの子らの母が、その子らと一緒にイエスのもとにきてひざまずき、何事かをお願いした。
   「ゼベダイの子らの母」ヤコブとヨハネの兄弟の母のサロメ(マルコ15:40)。マルコ10:35では、母ではなく息子たちが願い出ている。マタイは両弟子の野心でないように、母の願い出としている。
21節 そこでイエスは彼女に言われた、「何をしてほしいのか」。彼女は言った、「わたしのこのふたりのむすこが、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるように、お言葉をください」。
   ゼベダイの子らの母は「あなたの御国で」ふたりの息子が王位についたイエスの左右に座る者になることを夢見て願い出た。彼女は息子たちが英雄になることを夢見たのである。
22節 イエスは答えて言われた、「あなたがたは、自分が何を求めているのか、わかっていない。わたしの飲もうとしている杯を飲むことができるか」。彼らは「できます」と答えた。
   彼女の求めているものは、もっとも世俗的な願いであった。多くの世の母と同様に子供のために「何を求めているのか、わかっていない」。「わたしの飲もうとしている杯」には喜びの盃(詩2:5)、悲しみ苦しみの盃(詩11:6, イザヤ51:17)とがあるが、ここでは後者の意。
23節 イエスは彼らに言われた、「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになろう。しかし、わたしの右、左にすわらせることは、わたしのすることではなく、わたしの父によって備えられている人々だけに許されることである」。
   イエスは、「あなたがたはわたしの杯を飲む」と、将来、弟子たちはイエスと苦難を分かつ者になると預言された。ゼベダイの子ヤコブはイエスのために殉教した(使徒12:1-3)。しかし、天国において天の御座の左右に座る者を決める権限は、父なる神のものであって、イエスのものではないと、天父に対する謙遜を示された。
24節 十人の者はこれを聞いて、このふたりの兄弟たちのことで憤慨した。
   残りの十人の弟子が「憤慨した」ことから、彼らもヤコブとヨハネと同じ野心があったことがわかる。
25節 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者たちはその民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。
   この世の君主はや、権力者は、他者を自分に服従させることだけを知っていて、他者に仕えることを知らない。
26節 あなたがたの間ではそうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、
   イエスが建てられる新しい国においては、他者に仕える人が偉い人である。「仕える人」原語のδιάκονοςは、のちの教会の役職名の執事となった。
27節 あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない。
28節 それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである」。
   「人の子」イエスはこれまで世に来られた目的について明言されなかったが、ゼベダイの子の子らの母の願い出に関連して天国について語られた。神の御国においては、支配者が支配される者の上に君臨する古い秩序ではなく、人の子である神が罪人のために苦しみ、その敵のために死ぬというまったく新しい秩序が開始する。「多くの人のあがないとして」イエスのあがないは、人間を死と罪から解放するために人間を死ぬまで愛しあがなってくださった。そのためにエルサレムに向かって行かれた。

エリコの盲人(20:29-34)  マルコ10:46-52、ルカ18:35-43
29節 それから、彼らがエリコを出て行ったとき、大ぜいの群衆がイエスに従ってきた。
   エリコの町で盲人の目をいやされた奇跡であるが、ここでは盲人がイエスにあわれみを求める熱心さと、それにイエスが動かされた点に重点を置いている。
30節 すると、ふたりの盲人が道ばたにすわっていたが、イエスがとおって行かれると聞いて、叫んで言った、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちをあわれんで下さい」。
   「ふたりの盲人」マルコ10:46ではバルテマイというひとりの盲人のこじきになっている。ふたりは「道ばたにすわって」こじきをしていた。群衆はイエスについて来たが、彼らはイエスが通っていることさえ知らなかった。そして「聞いて」初めてイエスが通ることをしったので。必死に「ダビデの子よ」と「叫ん」だのだった。ユダヤの間には、来るべき救い主はダビデ王の子孫であるという考えが普及していた。イエスはこの呼称に政治的意味が含まれていることを知っていたので、自分自身に当てはめて用いなかった。「あわれんで下さい」とは物乞いでなく、目を見えるようにしてくださいとの気持ちが込められている。
31節 群衆は彼らをしかって黙らせようとしたが、彼らはますます叫びつづけて言った、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちをあわれんで下さい」。
   群衆は盲人にイエスを独占されることを喜ばなかったか、盲人が必要以上にダビデの子よとイエスをメシヤと宣言することによって、イエスの身に危険がせまることを恐れたのかもしれない。しかし盲人たちは、目をあけていただくまでは黙らないという熱心から「ますます叫びつづけて」いた。
32節 イエスは立ちどまり、彼らを呼んで言われた、「わたしに何をしてほしいのか」。
   そのふたりの熱心な声を聞いて、イエスは心を動かされ彼らを呼び寄せ、何をあわれんでほしいかたずねた。
33節 彼らは言った、「主よ、目をあけていただくことです」。
   盲人がイエスに願ったことは、彼らの最も切実な要望であった。このふたりの盲人がどういう間がらだったのか書かれていない。しかし、同じ苦しみを持ち、同じ願いを持つ仲間としての強い連帯感と呼吸の一致を感じる。
34節 イエスは深くあわれんで、彼らの目にさわられた。すると彼らは、たちまち見えるようになり、イエスに従って行った。
   「イエスに従って行った」目が開かれたふたりは、苦難と死への道を進むイエスに弟子であるかのように従って行った。この話は、ぶどう園のたとえ話を連想する。イエスの宣教開始の頃に弟子になった十二弟子を朝雇われた者、その後に弟子になった人々を昼頃雇われた者とすると、この目がみえるようになったふたりは日没前に雇われた人々。 ぶどう園の主人はふたりが5時までずっと雇われることなく、さみしく辛い思いをしていたことを知っていた。この時に初めて福音を知ったふたりのイエスに従う純真な姿は、ゼベダイの子らはじめ古くからの弟子にくらべ爽やかな印象がする。


(2020/03/09)


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