21章
23章
マタイによる福音書22章
王子の婚宴のことわざ(22:1-14) なぜイエスは罪人や取税人と交わられたか 1節 イエスはまた、譬で彼らに語って言われた、 イエスは前章のぶどう園の譬に続いて、別の譬を話された。 2節 「天国は、ひとりの王がその王子のために、婚宴を催すようなものである。 王は父なる神、王子は子なるキリスト。 3節 王はその僕たちをつかわして、この婚宴に招かれていた人たちを呼ばせたが、その人たちはこようとはしなかった。 王の「僕」は預言者たち、そして「招かれていた人たち」はイスラエルの民。彼らは、他の民族とは異なり、初めから神に招かれていた。神は、キリストの救いの祝福を受けるように預言者を送ったが、彼らはその恵みを拒んだ。また今ここにイエスが父の家があるエルサレムに来て福音を伝えようとしたが、パリサイ人たちはイエスに聞こうとしなかった。 4節 そこでまた、ほかの僕たちをつかわして言った、『招かれた人たちに言いなさい。食事の用意ができました。牛も肥えた獣もほふられて、すべての用意ができました。さあ、婚宴においでください』。 神はモーセや預言者たちをつかわしてイスラエルを執拗に招き続けられた。「ほふられて」ご馳走ができている。神の側には準備が万端整えられた。 5節 しかし、彼らは知らぬ顔をして、ひとりは自分の畑に、ひとりは自分の商売に出て行き、 しかし招待された者は自分達の仕事や、神殿における行事に忙しく、また満足していたので素知らぬ顔をしていた。王の招きをことわるのはこの上のない侮辱である。 6節 またほかの人々は、この僕たちをつかまえて侮辱を加えた上、殺してしまった。 神がイスラエルに送った預言者をたちを侮辱し殺してしまった。 7節 そこで王は立腹し、軍隊を送ってそれらの人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。 マタイは紀元70年に起こったローマ軍によるエルサレム占領を背景にして書いたと思われる。 8節 それから僕たちに言った、『婚宴の用意はできているが、招かれていたのは、ふさわしくない人々であった。 「ふさわしくない人々」パリサイ人たちは自らを天国にふさわしくない者としたために、神からもふさわしくない者とされた。 9節 だから、町の大通りに出て行って、出会った人はだれでも婚宴に連れてきなさい』。 神の宮や会堂に行かないで、町の大通りに出て行け。イエスはそのとおりにして罪人や取税人のところに行った。「だれでも」もはやユダヤ人と異邦人、自由人と奴隷、男と女の区別を考える必要はない(ガラテヤ3:28)。 10節 そこで、僕たちは道に出て行って、出会う人は、悪人でも善人でもみな集めてきたので、婚宴の席は客でいっぱいになった。 大通りにいた彼らにとってそれは突然の招待だった。別け隔てなく招かれ、悪人か善人かを問うところではない。婚宴の席に喜んで来るか、来ないかが問題にされる。神の救いには別け隔てがない。 11節 王は客を迎えようとしてはいってきたが、そこに礼服をつけていないひとりの人を見て、 ユダヤ人が婚宴の席に出るとき一定の礼服を着るように、神の前に出るのにふさわしい「礼服」として悔い改めが必要である。王子の婚宴の席に出るには、それ相応の決心と心構えがなければならない。大通りにいた人々はもともと礼服を持っていなかったが、それは宴会場に入るときに分け隔てなく支給されたのだった。宴会場に入る条件は、ただ王から支給される礼服を着ることだけで、神が与えてくださったキリストを救い王として受け入れることを意味している。キリストを受け入れるには、自分は罪人であり神のさばきを受けなければならないことを認めること。そして、キリストは全く正しい方であり、神のさばきを代わりに受けてくださったことを信じることである。ただそれだけであるが、王が客をむかえようとしてはいってくると、ひとりの「礼服をつけていない」人がいた。 12節 彼に言った、『友よ、どうしてあなたは礼服をつけないで、ここにはいってきたのですか』。しかし、彼は黙っていた。 この「礼服をつけていない」罪人は、キリストを救い主として受け入れず悔い改めなかったので、神の前で口が開けずに「黙って」いるしかなかった。 13節 そこで、王はそばの者たちに言った、『この者の手足をしばって、外の暗やみにほうり出せ。そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』。 この言葉は、旧約外典のエノク書に出てくるゲヘナの描写。 14節 招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」。 神の招きの恵みは全人類に向けられているが、イエスを救い主と信じようとする者は少ない。 カイザルと神のもの(22:15-22) マルコ12:13-17、 ルカ20:20-26 パリサイ人はカイザルへの納税の可否についてイエスを言葉のわなにかけ捕縛する糸口にしようとした。 15節 そのときパリサイ人たちがきて、どうかしてイエスを言葉のわなにかけようと、相談をした。 パリサイ人たちは、イエスが群衆からダビデの子として迎えられたと聞き、イエスを言葉のわなにかけるため、政治問題を取り上げるのがもっとも有利であると「相談をした」。 16節 そして、彼らの弟子を、ヘロデ党の者たちと共に、イエスのもとにつかわして言わせた、「先生、わたしたちはあなたが真実なかたであって、真理に基いて神の道を教え、また、人に分け隔てをしないで、だれをもはばかられないことを知っています。 「ヘロデ党」はヘロデ大王とその一家を崇拝する愛国党のようなもので、宗教には無関心で、普段はパリサイ人と不和の間がらだったが、イエスを攻略するため一時的に同盟してやって来た。「先生...」外交辞令でパリサイ人が持っていた理想的な教師の型を言った。 17節 それで、あなたはどう思われますか、答えてください。カイザルに税金を納めてよいでしょうか、いけないでしょうか」。 われわれユダヤ人はカイザルに税金を納めるべきか、それとも神ひとりをイスラエルの王として独立のために戦うべきかという主旨の質問をした。この「税金」とはローマ領土下に住む人々に課せられた人頭税。イエスの時代にはユダヤでは課せられていたが、ヘロデ・アンテパスの治めるガリラヤでは課せられていなかった。 18節 イエスは彼らの悪意を知って言われた、「偽善者たちよ、なぜわたしをためそうとするのか。 神の主権の唯一性を信じつつ、外国政府の統治下で平和に生活することは容易でなかったが、現実にはいかんともしがたい問題であった。イエスが質問者に「悪意」を感じたのは、彼らが政治問題を利用して、言葉のわなをかけようとしたからである。 19節 税に納める貨幣を見せなさい」。彼らはデナリ一つを持ってきた。 イエスはデナリを持っていなかったので、「見せなさい」と言われた。 20節 そこでイエスは言われた、「これは、だれの肖像、だれの記号か」。 デナリに彫刻してあるティベリウス、またはアウグストの「肖像」と、「記号」彼の名と年号を見るとデナリがだれのものか議論の余地がないほど明白である。 21節 彼らは「カイザルのです」と答えた。するとイエスは言われた、「それでは、カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」。 カイザルのものをカイザルに返すことは違法ではない。しかしそれだけで人間の義務が完全に果たされるのでなく、神の形に似せて造られたわれわれ人間はだれのものであるかが明白にされなければならない。「神のものは神に返しなさい」。そこにカイザルの下にはない自由と救いがある。 パリサイ人は世は悪と汚れに満ちているから世に関わることはみな離れなければならないと考えていた。一方、へロデ党の者たちは国の命じるすべてのことに従うことが義務と考えていた。神が不在のパリサイ人にもヘロデ党にもカイザルのものはカイザルに返すという発想は生まれない。しかし、われわれはそれ以前に世に対してキリストの愛を示す責務がある。国の法律を守り納税することによって世に対してキリストの証しを立てている。われわれが従わなければならないのは神であり、国が神のみこころに反することを私たちに命じるのであれば、それに抵抗しなければならない。こうしたバランスのある信仰生活が、カイザルのものはカイザルに神のものは神に返すというイエスのみことばに象徴されている。 22節 彼らはこれを聞いて驚嘆し、イエスを残して立ち去った。 イエスは世に対する責任は世に対して果たすが、自分は神を礼拝しなければならないという、納税について神の真理を明らかにされた。質問者たちはイエスに見事に言い返され驚嘆して帰っていった。 復活の質問(22:23-33) マルコ12:18-27、 ルカ20:27-40 パリサイ人に代わって、サドカイ人が死後の生活についてイエスに質問してきた。 23節 復活ということはないと主張していたサドカイ人たちが、その日、イエスのもとにきて質問した、 サドカイ人は政治についても聖書についても保守的な立場をとり、旧約聖書以外は認めず、死後の生活に関する記事がないという理由で復活はないと主張していた。ただし、彼らが根拠とする聖書はモーセ五書のみだったのである。パリサイ人は復活を信じていたが、それはダニエル12章の預言に基づいていた。サドカイ人は預言は比喩で書かれているので文字通り取るべきではないと考えていた。 24節 「先生、モーセはこう言っています、『もし、ある人が子がなくて死んだなら、その弟は兄の妻をめとって、兄のために子をもうけねばならない』。 これは申命25:5-6 [1] と創世38:8 [2] を組み合わせた、兄弟の未亡人をめとることを規定するユダヤ人の慣習法。サドカイ人は復活の教理がばかげていることを示すためにこの律法から以下の仮説をたてた。 25節 さて、わたしたちのところに七人の兄弟がありました。長男は妻をめとったが死んでしまい、そして子がなかったので、その妻を弟に残しました。 26節 次男も三男も、ついに七人とも同じことになりました。 27節 最後に、その女も死にました。 28節 すると復活の時には、この女は、七人のうちだれの妻なのでしょうか。みんながこの女を妻にしたのですが」。 サドカイ人の論法は、死者の復活があるなら、このような不都合なことが生じるので、復活の教理は不合理で成立しえないというものだった。サドカイ人は、イエスがその質問にきちんと答えられないことを期待していた。またいっしょに聞いている群衆の理性にも訴え、復活というものは馬鹿げているということを論理的に話して、群衆の関心をイエスから背けさせようとした。 29節 イエスは答えて言われた、「あなたがたは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。 サドカイ人の論法は、「聖書も神の力も知らない」ところから来ている。旧約聖書には神の全能を示す記事があふれている。サドカイ人のように聖書の字句にこだわると言葉の背後にある真理を見失ってしまう。イエスは彼らが無知であると言われた。 30節 復活の時には、彼らはめとったり、とついだりすることはない。彼らは天にいる御使のようなものである。 サドカイ人の過ちは、天の秩序をこの世の秩序によって理解しようとしたところにある。来たりつつある新しい秩序においては、「めとったり、とついだり」することはないばかりか、食べたり飲んだり、売り買いのようなこの世界を再び繰り返すようなことはない。「御使のようなもの」霊的存在となり、自分や子孫のために結婚のようなことはもはや必要としなくなる。 31節 また、死人の復活については、神があなたがたに言われた言葉を読んだことがないのか。 32節 『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』と書いてある。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」。 イエスはサドカイ人が信じていたモーセ五書から復活について出エジプト3:6 [3] を引用された。そこで神はモーセに、あたかもアブラハム、イサク、ヤコブが生きているかのように、わたしは彼らの神であると言っている。それは神が永遠であるように神の僕も永遠であるからである。これらイスラエルの族長たちの神は生きた神であるから、神はその僕たちに来たりつつある新しい世界を継ぐ者にしてくださるのである。それが復活である。死すべき人間にとって神は死んだ者の神であっても、生くべき人間にとっては神は生きている者の神である。 33節 群衆はこれを聞いて、イエスの教に驚いた。 サドカイ人とイエスの対話を聞いていた群衆は、イエスの新しい秩序の教えに驚いた。 もっとも大切ないましめ(22:34-40) マルコ12:28-34、 ルカ10:25-28 パリサイ人との論争、サドカイ人との論争のあと、律法学者がイエスを試そうとして戒めについて質問した。 34節 さて、パリサイ人たちは、イエスがサドカイ人たちを言いこめられたと聞いて、一緒に集まった。 パリサイ人と復活の問題について言い争っていたサドカイ人がイエスに論駁されたことを喜ばずかえってイエスの知恵をねたんだ。 35節 そして彼らの中のひとりの律法学者が、イエスをためそうとして質問した、 律法学者は数ある律法のうち、その大小軽重について討議することに日を送っていた。あるラビは、モーセは神から613の戒めを授けられたが、ダビデはそれを11にまとめ(詩編15:2-5)、イザヤは6つに(イザヤ33:15)、ミカは3つに(ミカ6:8)、アモスは2つに(アモス5:4)、ハバククは1つに(ハバクク2:4)まとめたと書いている。 36節 「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」。 もしイエスがある一つの律法を大切にされたら、彼らはイエスは他の律法をないがしろにしていると非難するつもりだった。 37節 イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。 イエスは律法の大小を問うことには興味を持たれなかったが、旧約の広範な律法を二つに要約された。申命6:4 [4] を引用され、「心」は知識、「精神」は感情、「思い」は心と同様の意味。全身全霊をもって神を愛すべきであるということである。 38節 これがいちばん大切な、第一のいましめである。 これが第一の戒めである。 39節 第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。 第二はレビ19:18 [5] の言葉に表されている戒めである。従来あまり注意されていなかった戒めだが、イエスによって律法の中心的なものの一つに選ばれた。 40節 これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。 イエスは、他の律法がその2つの戒めよりも劣るとは言っていない。むしろ「律法全体」すなわち神と人間に関するすべての戒めと、「預言者」である旧約の本質とがこの2つの戒めにかけられているのである。 キリストはだれの子か(22:41-46) マルコ12:35-37、 ルカ20:41-44 41節 パリサイ人たちが集まっていたとき、イエスは彼らにお尋ねになった、 今度はイエスがパリサイ人に尋ねた。 42節 「あなたがたはキリストをどう思うか。だれの子なのか」。彼らは「ダビデの子です」と答えた。 ユダヤ人はだれもがメシヤはダビデの子孫から出ることを知っていた。「キリストをどう思うか」このイエスの問いのうちには、「わたしをどう思うか」という意味が隠されていたが、パリサイ人は一般のユダヤ人の通念で「ダビデの子です」と答えた。 43節 イエスは言われた、「それではどうして、ダビデが御霊に感じてキリストを主と呼んでいるのか。 キリストはダビデの子ではありえないことを詩編110:1 [6] によって証明している。当時の人々は詩編全体の作者がダビデであると信じていた。この引用した詩は、あるユダヤの王について歌ったものであるが、後にダビデが御霊に感じて告白したメシヤ的意味に解せられるようになった。 44節 すなわち『主はわが主に仰せになった、あなたの敵をあなたの足もとに置くときまでは、わたしの右に座していなさい』。 「主はわが主に」の初めの主は神をさし、後の主はキリストをさす。詩編の原文の意味では、後の主はダビデをさすと解するのが正しいが、これをキリストの意味に解するとこの句のうちにダビデ自身をさす言葉がないことになる。そこで第二行目の「あなたの敵」の「あなた」を主キリストと解し、この「あなた」の前に「わたし」という言葉を仮定して、それがダビデ自身と解する。 45節 このように、ダビデ自身がキリストを主と呼んでいるなら、キリストはどうしてダビデの子であろうか」。 このように解すると、ダビデが自分の子孫であるキリストを「主」と呼ぶのは矛盾となる。したがってキリストはダビデの裔でありながら、それ以上であることになる。 46節 イエスにひと言でも答えうる者は、なかったし、その日からもはや、進んでイエスに質問する者も、いなくなった。 こうしてイエスはあらゆるグループの宗教指導者を黙らせてしまった。キリストのうちに知恵と知識の宝が隠されているからである。 (2020/03/12)
[1] 申命 25:5-6 「兄弟が一緒に住んでいて、そのうちのひとりが死んで子のない時は、その死んだ者の妻は出て、他人にとついではならない。その夫の兄弟が彼女の所にはいり、めとって妻とし、夫の兄弟としての道を彼女につくさなければならない。 そしてその女が初めに産む男の子に、死んだ兄弟の名を継がせ、その名をイスラエルのうちに絶やさないようにしなければならない。」
[2] 創世 38:8 「そこでユダはオナンに言った、「兄の妻の所にはいって、彼女をめとり、兄に子供を得させなさい」。」
[3] 出エジプト 3:6 「また言われた、「わたしは、あなたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」。モーセは神を見ることを恐れたので顔を隠した。」
[4] 申命 6:4-5 「イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。 6:5あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない。」
[5] レビ 19:18 「あなたはあだを返してはならない。あなたの民の人々に恨みをいだいてはならない。あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない。わたしは主である。 」
[6] 詩編 110:1 「主はわが主に言われる、 「わたしがあなたのもろもろの敵を あなたの足台とするまで、わたしの右に座せよ」と。」
マタイによる福音書略解
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