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ヨハネの黙示録4章

神の玉座 天における礼拝と小羊の登場

神の御座に上れ(1-3)
1節 その後、わたしが見ていると、見よ、開いた門が天にあった。そして、さきにラッパのような声でわたしに呼びかけるのを聞いた初めの声が、「ここに上ってきなさい。そうしたら、これから後に起るべきことを、見せてあげよう」と言った。
   予言は「主はこう言われる」で始まるが、黙示は「わたしが見ていると」で始まる。5章から7章までは七つの封印を解くことが主題で、8章から11章までは7つのラッパ、15章から16章は7つの鉢を傾けることによる7種の災厄を主題にしている。これらは終末の時に人間が受ける災害で、3つの階層として組み立てられている。4章から5章は7つの封印のまぼろしの序曲とみることができる。まず4章においてヨハネは神の御座およびその周辺の示現を見、次に5章で小羊なるキリストの示現を見る。神は万物の創造者にして、その支配者である。「開いた門」今や神はご自分を隠しておられる神(イザヤ45:15)ではなく、自らを顕示される神である。ヨハネが聞いた「ラッパのような声」、「初めの声」(1:10)に導かれて天上の様子とこれから起こるべき終末の状況を示される。(エゼキエル1章、イザヤ6章) 1章から4章では、1:11で命ぜられたように「あなたが見ていること」を書き物にして7つの教会に送ったが、ここからは「これから後に起るべきこと」を書くことになる。
2節 すると、たちまち、わたしは御霊に感じた。見よ、御座が天に設けられており、その御座にいますかたがあった。
  「御霊に感じた」1章でヨハネがパトモス島で御霊に感じたように、再び御霊に感じた。ヨハネが天で最初に見たものは「御座」であった。「その御座にいますかた」神の語を避けて間接的な言い回しをしている。天とは神の御座があり、神の前や周りで、御使いが礼拝と賛美と感謝をささげ、また救われた人たちも礼拝をささげる。
3節 その座にいますかたは、碧玉や赤めのうのように見え、また、御座のまわりには、緑玉のように見えるにじが現れていた。
  「碧玉や赤めのう」神は光であり(1ヨハネ1:5)光を衣のように着ておられる(詩編104:2)。碧玉、赤めのう、緑玉などは大祭司の胸当てを飾る宝石であった(出エジプト28:17以下、エゼキエル28:13)。「緑玉のように見えるにじ」(10:1によると緑玉(エメラルド)の色をした半円形の後光だが、虹はノアに対する神の約束のしるしを連想させ、神は契約の神であり、約束をされたことを必ず実行されることを思い起こさせる。

聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな(4-11)
4節 また、御座のまわりには二十四の座があって、二十四人の長老が白い衣を身にまとい、頭に金の冠をかぶって、それらの座についていた。
  「二十四人の長老」は神と共に天上の評議会を構成する。(イザヤ24:23) 彼らは賛美の声に和し(5:8,11,14,7:11,11:16,19:4)、ヨハネに天上の示現の真意を解く者であった(5:5,7:13-15)。二十四はイスラエルの12部族の2倍の数とみるのが適切だろう。「白い衣」白い衣を着た人々は小羊の血によって洗われた贖われた人(7:14)。「金の冠」キリストも金の冠をつけておられた(14:14)。キリストはスミルナの教会やフィラデルフィヤの教会に冠を与える約束をしている。使徒たちの手紙にも冠が報酬として与えられることが多く書かれている。
5節 御座からは、いなずまと、もろもろの声と、雷鳴とが、発していた。また、七つのともし火が、御座の前で燃えていた。これらは、神の七つの霊である。
  「いなずまと、もろもろの声と、雷鳴」は神の顕現に伴う現象(出エジプト19:16,エゼキエル1:13)で、特に雷は神の声とみなされていた(1サムエル2:10,ヨブ37:2-5,詩編18:13-14,77:18)。「七つのともし火」は「神の七つの霊」、5:6には「小羊の7つの目」が「神の七つの霊」であると書かれている。七つの霊のことは1:4,3:1にもある。これらは聖霊の働きの完全性を示している。
6節 御座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。御座のそば近くそのまわりには、四つの生き物がいたが、その前にも後にも、一面に目がついていた。
   御座の前の「水晶に似たガラスの海」は出エジプト24:10,エゼキエル1:22,詩編104:35による。「ガラスの海」」は15:2にもあり、神と人間との間に存在する区別を象徴している。「御座のそば近くそのまわりには」御座とそのまわりにの24人の長老との間に「四つの生き物」がいた。この生き物はエゼキエル10:20によれば天使のケルビム(ケルブの複数)のようである(エゼキエル9:3,10:2-3)。ヨハネの黙示録ではこれらの生き物の活動のありさまは旧約の場合よりも簡略になっている。「前にも後にも、一面に目がついていた」エゼキエル10:12には、ケルビムのかたわらの4つの輪の「輪縁(わぶち)、その輻(や)、および輪には、まわりに目が満ちていた」とあるが、ヨハネの黙示録では目はこれらの生き物の全身についている。(エゼキエル1:18では目は輪縁の周囲にだけついている。)目は知恵を象徴し、多くの目は神の全知を象徴する。
7節 第一の生き物はししのようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人のような顔をしており、第四の生き物は飛ぶわしのようであった。
   四つの生き物は、それぞれ、しし、雄牛、人間、わしのような形をしていたと書いているが、エゼキエル1:10の四つの生き物は、それぞれ、人間、しし、牛、わしの順になっている。これらの四つの生き物は、七つの封印の初めの四つの封印が解かれた時、それぞれ「きたれ」と叫んで、四種の馬を登場させる。(6:1,3,5,7)。これらの動物や人間の形はバビロンの天文学の星座からとられたものと言われている。
8節 この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その翼のまわりも内側も目で満ちていた。そして、昼も夜も、絶え間なくこう叫びつづけていた、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、昔いまし、今いまし、やがてきたるべき者」。
  「六つの翼」エゼキエル1:6には「四つの翼」があり、イザヤ6:2には、セラピム(ケルビムではない)は「六つの翼」があったと書かれている。「翼」は活動性、実践性を表す。「翼のまわりも内側も」6節の目のついている場所を具体的に述べている。これらの生き物は絶えず神のそばにあって「聖なるかな」の賛美を口にしていた(イザヤ6:3)。「昔いまし、今いまし、やがてきたるべき者」1:4,8,11:17,16:5。神が永遠に生きておられることを意味し、また人に顕現される。
9節 これらの生き物が、御座にいまし、かつ、世々限りなく生きておられるかたに、栄光とほまれとを帰し、また、感謝をささげている時、
  「世々限りなく生きておられるかた」この節、次節と1:18はキリストを、10:6と15:7は神を指す。
10節 二十四人の長老は、御座にいますかたのみまえにひれ伏し、世々限りなく生きておられるかたを拝み、彼らの冠を御座のまえに、投げ出して言った、
  「冠を御座のまえに、投げ出して」征服者たる王に対してとる態度(1サムエル25:23)。
11節 「われらの主なる神よ、
    あなたこそは、
    栄光とほまれと力とを受けるにふさわしいかた。
    あなたは万物を造られました。
    御旨によって、万物は存在し、
    また造られたのであります」。

  「御旨によって、万物は存在し、また造られたのであります」万物の創造を説明し、万物の存在は神の御旨によるのであるが、万物の創造はキリストによる。

(2019/12/24)


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