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ヨハネの黙示録20章

キリストの千年の統治の開始、サタンと人々の裁き(19章11節-20章)

千年王国 (1-6)
サタンは底知れぬ所に封印されるが、その後しばらく自由の身となる (1-3)
1節 またわたしが見ていると、ひとりの御使が、底知れぬ所のかぎと大きな鎖とを手に持って、天から降りてきた。
  「底知れぬ所のかぎ」は9:1の「一つの星」である天使にも与えられていた。9章では、この鍵は、「底知れぬ所」のイナゴを地上に出すためのものであった。20章では悪魔をそこに千年間つないでおくためのものであった(2節)。「鎖」は、手かせをさしたものと思われる(マルコ5:4には足かせがでてくる)。
2節 彼は、悪魔でありサタンである龍、すなわち、かの年を経たへびを捕えて千年の間つなぎおき、
  「年を経たへび」19:2。「千年の間」ここにいわゆる「福千年(千年期)」が述べられているが、これは「主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである」(2ペテロ3:8,詩編90:4)によるものと言われ、黙示文学においては、ペルシャ思想などの影響を受けて、一千年または四百年のような善悪両原理の支配に関する世界史または宇宙史の循環期が区画されていた。この千年はサタンの活動の停止期であり(3)、同時にそれは忠実な聖徒がキリストとともに世を支配する祝福の時期である(4)。これは天上における出来事ではなく、地上における出来事だが、その間これらの復活した人々は千年間の間キリストとともに統治する。これはイザヤ65:20 [1] の預言の成就であるとも考えられるが、復活した聖徒がまた地上に戻ってくるのか、またはそのまま天上にとどまって、キリストともに支配するのかは明らかにされていない。
3節 そして、底知れぬ所に投げ込み、入口を閉じてその上に封印し、千年の期間が終るまで、諸国民を惑わすことがないようにしておいた。その後、しばらくの間だけ解放されることになっていた。
   3節によれば、この千年の後に、サタンはしばらくの間解放される。それは悪の勢力がいつまでも力があることを象徴する。詳細なことはヨハネの黙示録は示していないが、まずキリストの再臨と死人の復活とがあって、その後に千年間のキリストの統治があるものと考えられる。しかし、アウグスティヌスによれば、カトリック教会の存在そのものが、すでに千年期に入っていることを示すという後期千年説を説いて一般に認められるようになっている。

殉教者と、獣の像を拝まず、獣の刻印を受けなかった者が復活して、千年間統治する。(4-6)
4節 また見ていると、かず多くの座があり、その上に人々がすわっていた。そして、彼らにさばきの権が与えられていた。また、イエスのあかしをし神の言を伝えたために首を切られた人々の霊がそこにおり、また、獣をもその像をも拝まず、その刻印を額や手に受けることをしなかった人々がいた。彼らは生きかえって、キリストと共に千年の間、支配した。
  「かず多くの座」には「首を切られた」殉教者や、忠実な聖徒の群れが復活した体を与えられてすわっていた。これは天上ではなく、地上のありさまのように解せられるが、厳密に区別する必要はないだろう。これらの座は「さばきの座」であった(詩編122:5,ダニエル7:9,22,マタイ19:28,1コリント6:2)。「首を切られた人々」とは、当時の罪人がされていたように、おので首を切られた殉教者。
5節 (それ以外の死人は、千年の期間が終るまで生きかえらなかった。)これが第一の復活である。
  「以外の死人」とは、主としてこの世の不信者、罪人をさす。彼らも千年期の終わりに復活するが、「さばきを受けるためによみがえる」(ヨハネ5:29 [2] )のであって、第二の死に至る運命のものである。これに対して4節に出てくる人々は、「生命を受けるためによみがえる」ものであった。
6節 この第一の復活にあずかる者は、さいわいな者であり、また聖なる者である。この人たちに対しては、第二の死はなんの力もない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストと共に千年の間、支配する。
  「第一の復活」に対して、「第二の死」(20:14,21:8)は永遠の刑罰にはいるための第二の復活とも言うべきものだ。

千年王国の後 (7-15)
サタンが一時的に解放されて神の民と戦うが、滅ぼされる(7-9)
7節 千年の期間が終ると、サタンはその獄から解放される。
   千年が終わると、「底知れぬ所」獄にとらわれていたサタンが解き放たれる。
8節 そして、出て行き、地の四方にいる諸国民、すなわちゴグ、マゴグを惑わし、彼らを戦いのために召集する。その数は、海の砂のように多い。
  「ゴグ、マゴグを惑わし」エゼキエル38:2に「大君であるマゴグの地のゴグ」とありマゴグは人名でなく、地名であるが、同じエゼキエル39:6には民族の名のようになっている。ゴグの軍の侵入のことは、ヨセフスによってスクテヤ人の侵入にたとえられたこともあった。旧約におけるゴグは種々の象徴と考えられてきた。バビロニア人、スクテヤ人、アレクサンダー大王、アンティオコス三世、アンティオコス四世、パルチヤ人、ポント王ミトリダテス(BC120-60)、リデア王ギゲス(BC670-652)など。ヨハネの黙示録では、ゴグとマゴグは、キリストに反抗する地上の民一般さすと解される。彼らは「海の砂」のように多数であって(エゼキエル38:9,15-16)、サタンの奸言によって招集されてキリストの軍と最後の決戦をしようとした。(16:14,17:14,19:19)
9節 彼らは地上の広い所に上ってきて、聖徒たちの陣営と愛されていた都とを包囲した。すると、天から火が下ってきて、彼らを焼き尽した。
  「地上の広い所」は「地の中央」(エゼキエル38:12)世界の中心すなわち「愛されていた都」エルサレムをさすとみられている。「天から火が下ってきて、彼らを焼き尽した」最後の戦いのありさまは、このように簡単に述べられている。天からの火については、創世記19:24,2列王1:10,12,エゼキエル38:22,39:6,ルカ9:54,17:29。

サタンが獣や偽預言者もいる火と硫黄の池に投げ込まれて、永遠に苦しむ(10)
10節 そして、彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄との池に投げ込まれた。そこには、獣もにせ預言者もいて、彼らは世々限りなく日夜、苦しめられるのである。
  戦いの結果、悪魔の軍は「火と硫黄との池に投げ込まれた」のである。この池は、19:2の獣とにせ預言者が投げ込まれたと同じ池である。このように悪魔、獣、にせ預言者の三種の悪人たちは、「世々限りなく」(1:18,11:15,14:11,19:3,22:5)、「日夜」(4:8,7:15,12:10,14:11)苦しめられる。

最後の裁き:いのちの書に名が無い者がすべて火の池に投げ込まれる。(11-15)
天上における最後の審判
悪魔の活動期間が終わり、すべての死人が復活し、人々はその行為の記録によって裁かれる。
11節 また見ていると、大きな白い御座があり、そこにいますかたがあった。天も地も御顔の前から逃げ去って、あとかたもなくなった。
  「大きな白い御座」これは4:2の「御座」とは別のもの。「白い」は神の審判が絶対に正しいことを示す。神はその御座について、義と公平の審判を下される(ダニエル7:9,詩編9:4,97:2)。そこには天も地もない(21:1)から、天上の審判という必要もない。新天新地の世界である(イザヤ51:6,マルコ13:31,黙示録6:14)。
12節 また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた。
   御座の前の「かずかずの書物」は、ダニエル7:10の「書き物」(複数)によるものである。しかしヨハネの黙示録では、それらとは別に「いのちの書」(3:5,13:8,17:8)があり、義人は世の初めから、この書にその名をしるされていた(詩編69:28,ダニエル12:1,ピリピ4:3)。「そのしわざに応じ」(2:23,22:12)。しわざによって報いられるということは、ユダヤ教的な観念であるが聖書の多くの場所に述べられている(詩編28:4,62:12,箴言24:12,エレミヤ17:10,32:19,エゼキエル7:27,33:20,マタイ16:27,ローマ2:6,2コリント5:10,1ペテロ1:17)。「この書物」(複数)とあるが、これは「いのちの書」ではなく、「かずかずの書物」をさしている。
13節 海はその中にいる死人を出し、死も黄泉もその中にいる死人を出し、そして、おのおのそのしわざに応じて、さばきを受けた。
   海と死と黄泉とが、その中から死人を出した。当時海難で死ぬ人が多かったのだろう。死と黄泉は離すことができないものであるが(1:18,6:8)、次節で火の池に投げ込まれている。これは死というものがない世界の到来を示すものとみるべきだろう(1コリント15:26)。
14節 それから、死も黄泉も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。
  「第二の死」はキリストに反抗する者の運命であった(6節)。死が滅ぼされることは、イザヤ25:8,1コリント15:54にも述べられている。14節は21:8に更に適切に説明されている。
15節 このいのちの書に名がしるされていない者はみな、火の池に投げ込まれた。
   死と黄泉に続いて、「いのちの書」に名がしるされていない人々がみな火の池に投げ込まれた。これも第二の死である。

(2019/12/30)


[1]  イザヤ65:20
 「わずか数日で死ぬみどりごと、
  おのが命の日を満たさない老人とは、
  もはやその中にいない。
  百歳で死ぬ者も、なお若い者とせられ、
  百歳で死ぬ者は、のろわれた罪びととされる。」

[2]  ヨハネ5:29
  「善をおこなった人々は、生命を受けるためによみがえり、悪をおこなった人々は、さばきを受けるためによみがえって、それぞれ出てくる時が来るであろう。 」

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