Image13章 15章 Image

ヨハネの黙示録14章

天の戦い、地における獣の増大、地の刈り入れ(12章-14章)

ヨハネの黙示録のクライマックス。至福と審判の二つの場面。
エルサレムのシオンの山の子羊(1-5)
7:4-8の十四万四千人の聖徒が天上に移され、シオンの山に立つ小羊に対して「新しい歌」を歌う。
1節 なお、わたしが見ていると、見よ、小羊がシオンの山に立っていた。また、十四万四千の人々が小羊と共におり、その額に小羊の名とその父の名とが書かれていた。
  「シオンの山に立っていた」メシヤがシオンの山に立つということは、当時のユダヤ人の思想であった(ヨエル3:16-17,21)。しかし今やユダヤ人の民族主義は一転して全世界のクリスチャンを率いるキリスト自身の幻となった。「額に小羊の名とその父の名とが書かれていた」とあるが、7:3には「印をおす」とあり、また3:12には三種の名(「神の御名」、「神の都'新しいエルサレム)の名」、「キリストの新しい名」)、22:4には一つだけ神の名が記されているとある。いずれにせよ、この十四万四千人はユダヤ人だけでなく新しいイスラエル、すなわち救われるべきキリスト教徒をさしている。
2節 またわたしは、大水のとどろきのような、激しい雷鳴のような声が、天から出るのを聞いた。わたしの聞いたその声は、琴をひく人が立琴をひく音のようでもあった。
  「大水のとどろき」(1:15)、「雷鳴のような声」(6:1,19:6)、「琴をひく人」(5:8)はそれぞれ他の場所にも述べられている。竪琴は神を賛美するときに用いられた(詩編33:2-3)。
3節 彼らは、御座の前、四つの生き物と長老たちとの前で、新しい歌を歌った。この歌は、地からあがなわれた十四万四千人のほかは、だれも学ぶことができなかった。
  「彼ら」は前節の「琴をひく人」。「新しい歌」は5:9にもある。新しい恵みに対する賛美の歌で、キリストのあがないによって作り変えられる新しい世界の到来を祝う讃美歌(イザヤ42:10)。「学ぶ」は「聞く」(ガラテヤ3:2)または「知る」(使徒23:27)の意味にも解せられるが、「習得する」または「歌う」と解することもできる。「地からあがなわれた」も5:9によったもの。
4節 彼らは、女にふれたことのない者である。彼らは、純潔な者である。そして、小羊の行く所へは、どこへでもついて行く。彼らは、神と小羊とにささげられる初穂として、人間の中からあがなわれた者である。
  「女にふれたことのない者」は男性、「純潔な者」は女性をさしている。ともに独身生活を守り通した者の意であるが、単なる独身主義を強調しただけでなく、もっと広く解して、異教、特に皇帝礼拝の汚れに汚されていない者の意に解すべきである(2コリント11:2,エペソ5:27)。「初穂」は最初の信者もしくは殉教者の意にもとれるが、これも一般的に介して「神へのささげ物」と解すべきだろう。
5節 彼らの口には偽りがなく、彼らは傷のない者であった。
  「口には偽りがなく」(詩編32:2,イザヤ53:9,ゼパニヤ3:13,ヨハネ1:47,1ペテロ2:22)。「傷のない者」(1ペテロ1:19,へブル9:14)はささげ物について「初穂」をさらに説明する語。

三人の天使が裁きを宣言する(6-13)
三人の天使が神に背いた人々の陥るべき運命を述べている。
19:20以下と20:9-15に詳細が述べられている。
6節 わたしは、もうひとりの御使が中空を飛ぶのを見た。彼は地に住む者、すなわち、あらゆる国民、部族、国語、民族に宣べ伝えるために、永遠の福音をたずさえてきて、
  「もうひとりの御使」とは、11:15の第七の御使いと区別するためにこう書いた。すなわち三人の天使は新たな登場人物である。この第一の天使は8:13のわしのように、中空を飛んでいた。「中空」とは地上のものが見ることができる天の最高部である。天使に翼があって空を飛ぶという思想は、ダニエル9:21にもみえる。「永遠の福音」は、不定冠詞が付けられてる「普遍的な福音」ともいうべきもので、次節に内容が述べられている。
7節 大声で言った、「神をおそれ、神に栄光を帰せよ。神のさばきの時がきたからである。天と地と海と水の源とを造られたかたを、伏し拝め」。
   創造者である神に栄光を帰し、伏し拝めということが、初期教会の言いだしの言葉だった(使徒14:15以下,17:24以下)。福音の目的は、それを聞いて信じた人が、「神をおそれ、神に栄光を帰」すことだからである。創造主を被造物によって知っている(ローマ1:20)のにその創造主に栄光を帰さず、獣の国の一員になっている人々に対する神のさばきが来る。パレスチナは清水が少ないため、天と地と海ばかりでなく、「水の源」(8:10,16:4)も特に述べられている。
8節 また、ほかの第二の御使が、続いてきて言った、「倒れた、大いなるバビロンは倒れた。その不品行に対する激しい怒りのぶどう酒を、あらゆる国民に飲ませた者」。
   ここでの「大いなるバビロン」はローマ帝国をさすと解される(1ペテロ5:13)。このローマ帝国滅亡の預言はイザヤ21:9,エレミヤ5:18などにならったもの。しかし、一般的な意味で、世界全般の罪悪がバビロンであり、それは黙示録の中で大きなテーマの一つになっている。16章の最後のところに、大いなるバビロンが倒れることが再び書かれ、さらに17章と18章で、主はヨハネに大いなるバビロンの崩壊について啓示を与えている。そして19章で、主の再臨が述べられており、大いなるバビロンの存在は霊的に非常な大きな意味を持っている。バビロンは、イスラエルとエルサレムの町が滅ぼされ、ユダヤ人を捕囚の民としたネブカデネザル王による国として登場する。けれども、その前に創世記10章にその名が出てくる。ニムロデが最初の神に反抗する権力者として、シヌアルの地に町々を建てたが、その頃は一つの言葉だった。ところが人々が高慢になり、天にまで届く塔を建てようとしたため、神によって言葉が乱され全地のおもてにちらされた。その町の名は「混乱」を意味するバベルと呼ばれた。バビロンはバベルのギリシャ語形である。旧約の時代、バビロンは悪魔、肉欲、俗世の中心として知られており、バビロンに関わるすべてはあらゆる正義に反するもので、人々を堕落させ霊の滅びへ至らせるものだった。したがって、新訳聖書の時代の使徒や霊感を受けた人々が、霊的な事柄の領域において混乱と暗黒を広めるために組織された勢力を「バビロン」という名前で呼んだのは自然であった。
9節 ほかの第三の御使が彼らに続いてきて、大声で言った、「おおよそ、獣とその像とを拝み、額や手に刻印を受ける者は、
  12節までが第三の天使の宣言。「獣とその像とを拝み、額や手に刻印を受ける者」13:16に関連している。
10節 神の怒りの杯に混ぜものなしに盛られた、神の激しい怒りのぶどう酒を飲み、聖なる御使たちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめられる。
  「混ぜものなしに盛られた」は、酒の酔いをきかすために「混ぜも」の水を加えるようなことはしないということ。「火と硫黄」による苦しみは、ソドムとゴモラの物語にもあり(創世記19:24)、またエドムも同様の状況で滅ぼされるべきことが述べられている(イザヤ34:8-10,エゼキエル38:22)。
11節 その苦しみの煙は世々限りなく立ちのぼり、そして、獣とその像とを拝む者、また、だれでもその名の刻印を受けている者は、昼も夜も休みが得られない。
  「苦しみの煙は世々限りなく立ちのぼり」(19:3,20:10)はイザヤ34:10による。創世記19:28には、ソドムとゴモラの煙が、かまどの煙のように立ちのぼっていたてとある。「昼も夜も休みが得られない」悪人には休息がない。
12節 ここに、神の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持ちつづける聖徒の忍耐がある」。
   13:10と同様に聖徒に対する特別な注意の言葉で、迫害時の忍耐を説いている。すべてのさばきを主にゆだねることにより平安を得る。「神の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持ちつづける聖徒」12:17参照。
13節 またわたしは、天からの声がこう言うのを聞いた、「書きしるせ、『今から後、主にあって死ぬ死人はさいわいである』」。御霊も言う、「しかり、彼らはその労苦を解かれて休み、そのわざは彼らについていく」。
   突然天からの声が聞こえる。「主にあって死ぬ死人はさいわいである」死の床の人に対して慰めを与える句。殉教者だけでなく、主を信じる人の死をもさしている(1コリント15:18,1テサロニケ4:16)。「そのわざは彼らについていく」主にあっては、あなた方の労苦は無駄になることはない(1コリント15:58)と言われている。悪人が休息を得ないのに反し、義人は正しい休息に入るのである(6:11,マタイ11:28-29,へブル4:10)。

鎌が地に投げ入れられる(14-20)
14節 また見ていると、見よ、白い雲があって、その雲の上に人の子のような者が座しており、頭には金の冠をいただき、手には鋭いかまを持っていた。
  「白い雲」は、マタイ17:5の「輝く雲」のことで、光と祝福を象徴している。「人の子のような者」は、ダニエル7:13に出ている語で、キリストをさしている。「金の冠」は統治者ではなく勝利者の象徴(6:2,詩編21:3)。「鋭いかま」によって人間の悪を排除することは、ヨエル3:13 [1] による。
15節 すると、もうひとりの御使が聖所から出てきて、雲の上に座している者にむかって大声で叫んだ、「かまを入れて刈り取りなさい。地の穀物は全く実り、刈り取るべき時がきた」。
   マタイ13:39「それをまいた敵は悪魔である。収穫とは世の終りのことで、刈る者は御使たちである。」とあるように収穫は世の終わりをさし、刈るものは御使いたちである。
16節 雲の上に座している者は、そのかまを地に投げ入れた。すると、地のものが刈り取られた。
  「刈り取」るとは、悪人に対して審判が行われること。17節以下は14節以下を詳細に説明したものであるが、別の示現として述べられている。ただし「人の子のような者」は登場しない。また「穀物」は「ぶどうの実」になっている。これは「大きな酒ぶね」に譬えられた「神の激しい怒り」に対応するものである。
17節 また、もうひとりの御使が、天の聖所から出てきたが、彼もまた鋭いかまを持っていた。
   この「もうひとりの御使」は、15節の「もうひとりの御使」を第四の天使とすれば、第五の天使ということになる。第五の天使は 「鋭いかま」を持っていた。
18節 さらに、もうひとりの御使で、火を支配する権威を持っている者が、祭壇から出てきて、鋭いかまを持つ御使にむかい、大声で言った、「その鋭いかまを地に入れて、地のぶどうのふさを刈り集めなさい。ぶどうの実がすでに熟しているから」。
   さらに「もうひとりの御使」として第六の天使が登場する。第六の天使は、「火を支配する権威」を持っていた。16:5には「水をつかさどる御使」が出てくる。また7:1の「四人の御使」は風を支配する天使である。「鋭いかまを地に入れて、地のぶどうのふさを刈り集めなさい」この命令は15節と同様にヨエル3:13による。
19節 そこで、御使はそのかまを地に投げ入れて、地のぶどうを刈り集め、神の激しい怒りの大きな酒ぶねに投げ込んだ。
  「神の激しい怒りの大きな酒ぶね」(19:5)酒ぶねを踏むことは、ヨエル3:13にもある。
20節 そして、その酒ぶねが都の外で踏まれた。すると、血が酒ぶねから流れ出て、馬のくつわにとどくほどになり、一千六百丁にわたってひろがった。
   ヨエル3:13では「来て踏め」と天使も一緒に踏むように招かれているが、20節はイザヤ63:3 [2] によるもので、神ひとりが酒ぶねを踏むと述べている。ここに突然「都」が出てくる。これは天のエルサレムである。「都の外」は、へブル13:12-13の「門の外」、「営所の外」を暗示している。ぶどう液に象徴される血が流れ出て、「馬のくつわにとどくほどになり、一千六百丁にわたってひろがった」一千六百丁(スタディオス)は約200マイルの距離で、大体ダンからベェルシバまでの距離、パレスチナの南北の長さである。4×4×100=1600とする黙示文学の完全数をさすという説がある。4は世界の四隅を象徴する。

(2019/12/28)


[1]  ヨエル3:13
 「かまを入れよ、作物は熟した。
  来て踏め、
  酒ぶねは満ち、石がめはあふれている。
  彼らの悪が大きいからだ。」

[2]  イザヤ63:3
 「わたしはひとりで酒ぶねを踏んだ。
  もろもろの民のなかに、
  わたしと事を共にする者はなかった。
  わたしは怒りによって彼らを踏み、
  憤りによって彼らを踏みにじったので、
  彼らの血がわが衣にふりかかり、
  わが装いをことごとく汚した。」

ヨハネの黙示録略解
1章 2章 3章 4章 5章 6章 7章 8章 9章 10章 11章 12章
13章   15章 16章 17章 18章 19章 20章 21章 22章