概要
2章
ヨハネの黙示録1章
パトモス島におけるヨハネに対するイエスの顕現 序詞(1-3) 1節 イエス・キリストの黙示。この黙示は、神が、すぐにも起るべきことをその僕たちに示すためキリストに与え、そして、キリストが、御使をつかわして、僕ヨハネに伝えられたものである。 「イエス・キリストの黙示」、これまで明らかにされていなかったイエス・キリストの全容がここに一気に現わされる。それには遠い将来ではなく、「すぐにも起るべきこと」、差し迫ったこととして伝えられたもので、父なる神からキリストへ、キリストから御使いへ、御使いからヨハネに伝えられた。 2節 ヨハネは、神の言とイエス・キリストのあかしと、すなわち、自分が見たすべてのことをあかしした。 ヨハネは、神とイエス・キリストのことばと、自分が見聞きした、すべてのことを書きとめた。 3節 この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて、その中に書かれていることを守る者たちとは、さいわいである。時が近づいているからである。 ヨハネは、これを教会で朗読し、それを聞く会衆は単に聞くだけでなく、他の聖書の書物と同じように、「書かれていることを守る」ことが求められる。この言葉を知るだけではなく、従順に従っていく必要がある。「時」、すなわち終わりの時 [1] が近づいているからである。 七つの教会へのあいさつ(4-8) 4節 ヨハネからアジヤにある七つの教会へ。今いまし、昔いまし、やがてきたるべきかたから、また、その御座の前にある七つの霊から、 「七」は「完全」である状態のときにが使われるので、「七つの教会」とはすべての時代のすべての教会を指していると考えられる。「今いまし、昔いまし、やがてきたるべきかた」神が永遠に生きておられることを意味し、また人に顕現される。「七つの霊」とは、聖霊がどの教会にも働いていることを示す。 5節 また、忠実な証人、死人の中から最初に生れた者、地上の諸王の支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。わたしたちを愛し、その血によってわたしたちを罪から解放し、 前半にはキリストのメシヤとしての三つの側面が述べられている。「忠実な証人」キリストは神を完全にあらわしたもう方である。「死人の中から最初に生れた者」キリストは最初に復活され、それによって人は死を克服できるようになった。「地上の諸王の支配者」キリストは天地の主として、霊的王国の主であるに留まらず、現象界の王でもある。 後半から6節にかけてはキリストの三つの業が述べられている。それらは「わたしたちを愛し」キリストの愛、「罪から解放し」キリストの贖罪、「御国の民とし、祭司とし」キリストの国の委任である。 6節 わたしたちを、その父なる神のために、御国の民とし、祭司として下さったかたに、世々限りなく栄光と権力とがあるように、アァメン。 神の王国において人は国民であり祭司である。 [2] 7節 見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。しかり、アァメン。 キリストは「雲に乗ってこられる」 [3] ことはキリスト自身によっても語られた。「彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。」 [4] ヨハネによる福音書においては、キリストを刺した数人のローマ兵がキリストを仰ぎ見たが、ヨハネの黙示録では、キリストを刺したのは全人類を代表する悪人で、彼らはその罪のゆえに嘆く。「しかり、アァメン。」は深い肯定の嘆声。 8節 今いまし、昔いまし、やがてきたるべき者、全能者にして主なる神が仰せになる、「わたしはアルパであり、オメガである」。 アルパは、ギリシヤ語の初めのアルファベットで、オメガは最後のアルファベット。初めであり、終りである [5] 神は、いつもでも生きておられる万物の支配者である。 ヨハネに啓示が示された顛末(9-20) 9節 あなたがたの兄弟であり、共にイエスの苦難と御国と忍耐とにあずかっている、わたしヨハネは、神の言とイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。 紀元90年代にヨハネ以外の使徒は殉教しており、生きている使徒はヨハネだけだった。ヨハネは読者の「兄弟」として「イエスの苦難と御国と忍耐」を共有する。苦難と御国と忍耐は、愛と信仰と希望という福音の三つの徳を表している。ヨハネは「神の言とイエスのあかしとのゆえに」伝道活動のためにパトモス島に流された。 10節 ところが、わたしは、主の日に御霊に感じた。そして、わたしのうしろの方で、ラッパのような大きな声がするのを聞いた。 この時代から土曜日に代わって、日曜日を聖日とするようになっており、「主の日」を日曜日と解釈することができるが、聖書で「主の日」という言葉は、終わりのときに起こる大患難のことも指している。旧約聖書では主の日を主の復讐の日、怒りの日、恐ろしい日として描いている。「終わりの日」と捉えるとヨハネは、終わりの日に起こることを御霊によって感じ、終わりの日に聞くようなラッパの音を聞いたということになる。ラッパの声は終末のときに鳴り響くと教えられていた。(マタイ24:31、1コリント15:52、1テサロニケ4:16) 11節 その声はこう言った、「あなたが見ていることを書きものにして、それをエペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、ヒラデルヒヤ、ラオデキヤにある七つの教会に送りなさい」。 この「書きもの」は羊皮紙ではなく、パピルスの巻物で、回状のようなもの。七つの教会の順序はその都会の重要性の順と言われている。当時、エペソはアジア州最大の都市であった。 12節 そこでわたしは、わたしに呼びかけたその声を見ようとしてふりむいた。ふりむくと、七つの金の燭台が目についた。 示現を与えられているので、声を聞くのではなく「声を見ようと」したのである。「七つの金の燭台」は20節にその「奥義」(意味)があるが、一つの台から七つの枝が出たもの [6] で、幕屋の中の第二の幕の外側に置くものだった。 13節 それらの燭台の間に、足までたれた上着を着、胸に金の帯をしめている人の子のような者がいた。 「足までたれた上着」亜麻布の祭服(ダニエル10:5、エゼキエル9:2,11)を着て、「金の帯」ダニエル10:5のウパズの金の帯または出エジプト39:29の色とりどりに織った帯をしめた「人の子のような者」はメシヤとしてのイエスがいた。 14節 そのかしらと髪の毛とは、雪のように白い羊毛に似て真白であり、目は燃える炎のようであった。 「かしらと髪の毛とは、雪のように白い羊毛に似て真白」の形容はダニエル7:9による。また「目は燃える炎」の形容はダニエル7:9、10:6による。 15節 その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、声は大水のとどろきのようであった。 「光り輝くしんちゅう」しんちゅうまたは青銅(詩編107:16)は足の強さを示す。「声は大水のとどろき」の形容はエゼキエル1:24、43:2による。 16節 その右手に七つの星を持ち、口からは、鋭いもろ刃のつるぎがつき出ており、顔は、強く照り輝く太陽のようであった。 「七つの星」は「七つの教会の御使」(1:20)で神の政治的権力を示している。「もろ刃のつるぎ」は刃の広い大型の剣(詩編149:6、箴言5:4、へブル4:12)。「強く照り輝く太陽」の形容はシナイ山におけるモーセの顔が光を放ったことによる。(出エジプト34:29) 17節 わたしは彼を見たとき、その足もとに倒れて死人のようになった。すると、彼は右手をわたしの上において言った、「恐れるな。わたしは初めであり、終りであり、 「足もとに倒れて死人のようになった」ダニエルも幻を見たとき同じような状態になった(ダニエル10:8、15-17)。神の本当の姿を見ると、神の前には立てなくなるほどへりくだされる。「恐れるな」は神の言葉でしばしば使われる。「初めであり、終り」は「アルパであり、オメガ」と同義。永遠に生きている存在を表す。 18節 また、生きている者である。わたしは死んだことはあるが、見よ、世々限りなく生きている者である。そして、死と黄泉とのかぎを持っている。 「生きている者」この世に生きている者を越えている永遠の存在者である。(ローマ14:11「主は言われる。私は生きている。」)エゼキエル書の神の言葉に何度も用いられている。(エゼキエル5:11, 14:16など10数回) 「死と黄泉とのかぎ」天国のかぎを持つキリストは、また死を支配する力をもっておられる。「黄泉」は旧約の陰府(シェオール)、死者が一時集合する地下の場所と考えられていた。新約のハデス、ゲヘナに相当する。 19節 そこで、あなたの見たこと、現在のこと、今後起ろうとすることを、書きとめなさい。 「現在のこと」2章と3章にあるアジアの7教会の現在の姿。「今後起ろうとすること」は4章から22章までの示現を指している。 20節 あなたがわたしの右手に見た七つの星と、七つの金の燭台との奥義は、こうである。すなわち、七つの星は七つの教会の御使であり、七つの燭台は七つの教会である。 「奥義」とは内的霊的意義、象徴の本体を指し、また説明の言いだしを意味することもある。ここでは霊的意味として使われている。「七つの教会の御使」は教会に働きかける聖霊、または教会の代表者や監督とも解される。ここでは2章3章を考えると後者の意味である。 (2019/11/24)
[1] ダニエル12:4 「ダニエルよ、あなたは終りの時までこの言葉を秘し、この書を封じておきなさい。多くの者は、あちこちと探り調べ、そして知識が増すでしょう」。
[2] 出エジプト19:6 「あなたがたはわたしに対して祭司の国となり、また聖なる民となるであろう』。これがあなたのイスラエルの人々に語るべき言葉である」。
[3] ダニエル7:13 「わたしはまた夜の幻のうちに見ていると、 見よ、人の子のような者が、 天の雲に乗ってきて、 日の老いたる者のもとに来ると、 その前に導かれた。」
[4] ゼカリヤ12:10 「わたしはダビデの家およびエルサレムの住民に、恵みと祈の霊とを注ぐ。彼らはその刺した者を見る時、ひとり子のために嘆くように彼のために嘆き、ういごのために悲し」
[5] イザヤ44:6 「主、イスラエルの王、イスラエルをあがなう者、 万軍の主はこう言われる、 「わたしは初めであり、わたしは終りである。 わたしのほかに神はない。」
[6] 出エジプト25:31-32 「また純金の燭台を造らなければならない。燭台は打物造りとし、その台、幹、萼、節、花を一つに連ならせなければならない。 また六つの枝をそのわきから出させ、燭台の三つの枝をこの側から、燭台の三つの枝をかの側から出させなければならない。」 ゼカリヤ4:2 「彼がわたしに向かって「何を見るか」と言ったので、わたしは言った、「わたしが見ていると、すべて金で造られた燭台が一つあって、その上に油を入れる器があり、また燭台の上に七つのともしび皿があり、そのともしび皿は燭台の上にあって、これにおのおの七本ずつの管があります。 」
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