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ヨハネの黙示録11章

七人の天使がラッパ(士気を上げる音)を吹く(8章6節-11章19節)

11章は解釈が難しい表現が多い。
神殿と二人の証人(1-14)
二人の証人が殺されるが生き返る
1節 それから、わたしはつえのような測りざおを与えられて、こう命じられた、「さあ立って、神の聖所と祭壇と、そこで礼拝している人々とを、測りなさい。
   ヨハネは「測りざお」を与えられて、「神の聖所」を測るように命ぜられた。エゼキエルも同様に測りざおを与えられて、神殿の全部を詳細に測るように命ぜられている(エゼキエル40:30 [1] 以下)。黙示録では「神の聖所」(3:12)とその祭壇の中心部に限られている。測るというのは、それによって悪魔的な侵害から免れるようにすることで、額に印をおされることと同様である。聖徒は神の宮にたとえられることもあるから、「神の聖所」もキリストの教会そのものをさしている。黙示録の成立が一世紀の終わりころであるとすれば、エルサレムの神殿はすでに紀元70年に破壊されており、当時は存在しなかった。
2節 聖所の外の庭はそのままにしておきなさい。それを測ってはならない。そこは異邦人に与えられた所だから。彼らは、四十二か月の間この聖なる都を踏みにじるであろう。
  「聖所の外の庭」は異邦人の侵入のままにされていて、終末の時には反キリストの軍がそこまで入り込むのである(ルカ21:24)。「聖なる都」も歴史的現実的なエルサレムというよりは、天上のエルサレム(21:2)と解すべきである。「四十二か月」と3節の「千二百六十日」は9節の「三日半」、12:14の「一年、二年、また半年」と同じく、三年半の意で、しばらくの間という意味である。これはダニエル7:25,12:7の「ひと時と、ふた時と、半時の間」と同じである。
3節 そしてわたしは、わたしのふたりの証人に、荒布を着て、千二百六十日のあいだ預言することを許そう」。
  「ふたりの証人」はモーセとエリヤをさしているという説がある。モーセは律法を、エリヤは預言を代表する(マタイ17:3)からである。エリヤは雨を降らせないようにし(1列王17:1,ヤコブ5:17)、モーセは水を血に変える奇跡をなした(出エジプト4:9,7:17,20)。一説には、ローマで殉教したと言われるペテロとパウロをさすとも言われている。その他ヤコブとヨハネ、エノクとエリヤ、アベルとエノクなどの節もある。「荒布」は預言者の着る粗服である(マルコ1:6)。
4節 彼らは、全地の主のみまえに立っている二本のオリブの木、また、二つの燭台である。
  「オリブ」と「燭台」はゼカリヤ4:2-3,14 [2] によるもので、これらは人間の生活を保護するものである。ゼカリヤ書に出てくる二本のオリブの木はエルサレム神殿の再興に尽力したゼルバベルとヨシュアをさすと言われている。ヨハネの黙示録においては、二本のオリブの木は二つの燭台と同じものをさすように解釈し直されている。
5節 もし彼らに害を加えようとする者があれば、彼らの口から火が出て、その敵を滅ぼすであろう。もし彼らに害を加えようとする者があれば、その者はこのように殺されねばならない。
  「口から火が出て」(1:16,2:16,9:17)というのは、エリヤの時、天から火が降って、人々を焼き尽くしたという故事によるものだろう(2列王1:10)。神の口から火が出て敵を焼き尽くすことは、2サムエル22:9にもある。
6節 預言をしている期間、彼らは、天を閉じて雨を降らせないようにする力を持っている。さらにまた、水を血に変え、何度でも思うままに、あらゆる災害で地を打つ力を持っている。
  「雨を降らせないようにする力」はエリヤの持っていた力をさし(1列王17:1,ルカ4:25,ヤコブ5:17)、「水を血に変え・・・力」はモーセが持っていた力をさす(出エジプト7:17,19,11:10,1サムエル4:8,詩編105:29)。ルカ4:25に「エリヤの時代に、三年六か月にわたって天が閉じ」とあり、3節の千二百六十日に相当する。「何度でも思うままに」このふたりの証人はモーセ以上の力を与えられていた。
7節 そして、彼らがそのあかしを終えると、底知れぬ所からのぼって来る獣が、彼らと戦って打ち勝ち、彼らを殺す。
   彼らにはこのような一種の超自然的な力が与えられていたが、そのあかしが終わると「底知れぬ所」からの獣(ネロ帝によって代表される反キリスト)によって殺される。この「獣」には定冠詞がつけられていて、読者にはそれが誰か分かっている。
8節 彼らの死体はソドムや、エジプトにたとえられている大いなる都の大通りにさらされる。彼らの主も、この都で十字架につけられたのである。
  「ソドムや、エジプトにたとえられている大いなる都」で主が「十字架につけられた」とあるから、この都はエルサレムをさすと考えられるが、ヨハネの示現ではいつの間にかローマの都に変わっている。ソドムやエジプトは悪人の国のようにみられていた。「彼らの主」と、キリストがモーセやエリヤの主であるというのは歴史的には不可能であるが、信仰的には可能である(へブル11:23-26)。
9節 いろいろな民族、部族、国語、国民に属する人々が、三日半の間、彼らの死体をながめるが、その死体を墓に納めることは許さない。
   死体を墓に納めずにさらしものにしておくことは、死人に対する最大の侮辱であった(詩編79:3,イザヤ14:19,20,エレミヤ16:4)。「三日半の間」四十二か月(2節)、千二百六十日(3節)と同様にしばらくの期間をさす。
10節 地に住む人々は、彼らのことで喜び楽しみ、互に贈り物をしあう。このふたりの預言者は、地に住む者たちを悩ましたからである。
  「地に住む人々」全人類を象徴的に示している。「贈り物」をしあって喜ぶことは、エステル9:19,22,ネヘミヤ8:10,12に見られる。「悩ました」とは、預言者などのことばによって人々の良心が責められたことをさす。エリヤは「イスラエルを悩ます者」と呼ばれた(1列王8:17)。
11節 三日半の後、いのちの息が、神から出て彼らの中にはいり、そして、彼らが立ち上がったので、それを見た人々は非常な恐怖に襲われた。
   神の「いのちの息」霊(創世記2:7,6:17,7:15,22)が彼らの中に入ると、彼らは復活した。
12節 その時、天から大きな声がして、「ここに上ってきなさい」と言うのを、彼らは聞いた。そして、彼らは雲に乗って天に上った。彼らの敵はそれを見た。
  「彼らは雲に乗って天に上った」は、モーセとエリヤの昇天と関係がある。彼らの復活も昇天もキリストの復活と昇天を予表するものであり、同時にそれにあずかるものであった。
13節 この時、大地震が起って、都の十分の一は倒れ、その地震で七千人が死に、生き残った人々は驚き恐れて、天の神に栄光を帰した。
   大地震のために害を受けたのは、「都の十分の一」と「七千人」とで、圧倒的な大災害ではないが、打ち続く災害のため、さすがの悪人らもその非を悟るのである。これからあとは、人々の背後にあって、悪人をあやつる悪魔そのものが神の手によって罰せられることになる。
14節 第二のわざわいは、過ぎ去った。見よ、第三のわざわいがすぐに来る。
   六つのラッパとともに始まった第二のわざわいは、いまや終了した。9:12と同じような表現で、第三のわざわいの到来が近いことをのべる。

第七のラッパ:この世の国はわれらの主、メシアのものとなった。天の神殿が開かれ、契約の箱が見える。(15-19)
15節 第七の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、大きな声々が天に起って言った、「この世の国は、われらの主とそのキリストとの国となった。主は世々限りなく支配なさるであろう」。
  「われらの主とそのキリスト」は詩編2:2によったもの。「主は世々限りなく支配なさるであろう」(出エジプト15:18,詩編10:16,ダニエル2:44,7:14,27,ルカ1:33)。
16節 そして、神のみまえで座についている二十四人の長老は、ひれ伏し、神を拝して言った、
  「二十四人の長老」4:4,10,5:8,19:4。
17節 「今いまし、昔いませる、全能者にして主なる神よ。大いなる御力をふるって支配なさったことを、感謝します。
  「全能者」(パントクラトール)はラテン語のインペラトールにあたる。ドミティアヌス帝はその在位中22回も自らをインペラトールとして宣言したと言われる。「大いなる御力」神の強い力については、15:8,18:8。
18節 諸国民は怒り狂いましたが、あなたも怒りをあらわされました。そして、死人をさばき、あなたの僕なる預言者、聖徒、小さき者も、大いなる者も、すべて御名をおそれる者たちに報いを与え、また、地を滅ぼす者どもを滅ぼして下さる時がきました」。
   諸国民の怒りも神の怒りに対しては何の力もない(詩編2:1,46:6,99.1)。「僕なる預言者」アモス3:7,ダニエル9:6,10)。「小さき者も、大いなる者も」13:16,19:5,18,20:12。
19節 そして、天にある神の聖所が開けて、聖所の中に契約の箱が見えた。また、いなずまと、もろもろの声と、雷鳴と、地震とが起り、大粒の雹が降った。
   神とキリストの直接の支配の示現とともに、天上の契約の箱が見えた。いまや「前方の幕屋」(へブル9:8)は取り除かれ、クリスチャンは、はばかることなく聖所に入ることができるのである(へブル10:19)。しかし神の顕現の際には、旧約聖書に見られるような自然界の激変が伴う(出エジプト19:16他)。

(2019/12/24)


[1]  エゼキエル40:3
 「神がわたしをそこに携えて行かれると、見よ、ひとりの人がいた。その姿は青銅の形のようで、手に麻のなわと、測りざおとを持って門に立っていた。」

[2]  ゼカリヤ4:2-3
 「彼がわたしに向かって「何を見るか」と言ったので、わたしは言った、「わたしが見ていると、すべて金で造られた燭台が一つあって、その上に油を入れる器があり、また燭台の上に七つのともしび皿があり、そのともしび皿は燭台の上にあって、これにおのおの七本ずつの管があります。 また燭台のかたわらに、オリブの木が二本あって、一本は油をいれる器の右にあり、一本はその左にあります」。 」
 ゼカリヤ4:14
 「すると彼は言った、「これらはふたりの油そそがれた者で、全地の主のかたわらに立つ者です」。」

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