16章
18章
ヨハネの黙示録17章
大淫婦の裁きとバビロンの滅亡(17章-18章) 大淫婦とはローマのことで、皇帝礼拝を淫行の罪に譬えている。 大淫婦が裁かれる(1-18) 1節 それから、七つの鉢を持つ七人の御使のひとりがきて、わたしに語って言った、「さあ、きなさい。多くの水の上にすわっている大淫婦に対するさばきを、見せよう。 「多くの水」は15節にあるように、世のあらゆる民族をさしている。「大淫婦に対するさばきを、見せよう」とあるが、16章で概括的にのべており、18章で詳細に述べている。 2節 地の王たちはこの女と姦淫を行い、地に住む人々はこの女の姦淫のぶどう酒に酔いしれている」。 「この女と姦淫を行い」は偶像礼拝を行ったこと。「酔いしれている」はエレミヤ51:7。 3節 御使は、わたしを御霊に感じたまま、荒野へ連れて行った。わたしは、そこでひとりの女が赤い獣に乗っているのを見た。その獣は神を汚すかずかずの名でおおわれ、また、それに七つの頭と十の角とがあった。 「荒野」は12:16の荒野とは別の意とするイザヤ21:1-12にバビロン崩壊についての「海の荒野についての宣託」があり、ヨハネの黙示録の著者はこの宣託を熟知していたであろう。「赤い獣」は12:3の「赤い龍」、13:1の「一匹の獣」と同じものと考えられ七つの頭と十の角(ダニエル7:7)とを持ち、神を汚す名でおおわれていた。 4節 この女は紫と赤の衣をまとい、金と宝石と真珠とで身を飾り、憎むべきものと自分の姦淫の汚れとで満ちている金の杯を手に持ち、 「紫と赤の衣」(18:16)は、贖われた者の「白い衣」と対比される。「憎むべきもの」と「姦淫の汚れ」は偶像礼拝をさしている。 5節 その額には、一つの名がしるされていた。それは奥義であって、「大いなるバビロン、淫婦どもと地の憎むべきものらとの母」というのであった。 「奥義」とは、額に記されている名が象徴的なものであることを示している。「バビロン」であるローマ帝国はイエスの証人である聖徒たちを多く殺して、その血に酔いしれていた。 6節 わたしは、この女が聖徒の血とイエスの証人の血に酔いしれているのを見た。この女を見た時、わたしは非常に驚きあやしんだ。 ローマの迫害の剣は信者の流した血を飲んで酔っている。 7節 すると、御使はわたしに言った、「なぜそんなに驚くのか。この女の奥義と、女を乗せている七つの頭と十の角のある獣の奥義とを、話してあげよう。 天使は7節以下で、獣について説明し、最後の18節で、大淫婦について解き明かしている。 8節 あなたの見た獣は、昔はいたが、今はおらず、そして、やがて底知れぬ所から上ってきて、ついには滅びに至るものである。地に住む者のうち、世の初めからいのちの書に名をしるされていない者たちは、この獣が、昔はいたが今はおらず、やがて来るのを見て、驚きあやしむであろう。 「獣」はローマ帝政を代表するものとして「再生のネロ」をさしている。ただし「昔はいたが、今はおらず、そして、やがて底知れぬ所から上ってきて、ついには滅びに至るもの」がネロ帝をさすかどうかについては異論がある。この句は「昔いまし、今いまし、やがてきたるべき者」と対比して用いられている。 9節 ここに、知恵のある心が必要である。七つの頭は、この女のすわっている七つの山であり、また、七人の王のことである。 「七つの山」はローマ市の周囲の七つの丘をさす。それは同時に七人の皇帝をさす。 10節 そのうちの五人はすでに倒れ、ひとりは今おり、もうひとりは、まだきていない。それが来れば、しばらくの間だけおることになっている。 「そのうちの五人はすでに倒れ、ひとりは今おり、もうひとりは、まだきていない」という記述から、ヨハネの黙示録執筆の時には第六代目の皇帝が在位していたと考えられる。ローマ帝政の第六代皇帝はガルバ帝(在位68-69年)であることを根拠にすれば、ヨハネの黙示録は紀元68年に書かれたということになる。しかし、ガルバを含めその後の、オト(在位69年1月-4月)、ヴィテリウス(在位69年4月-12月)の在位は短期間だったので、彼らを無視して、第六代の「ひとりは今おり」の皇帝をヴェスバシアヌス(在位69-79年)という見方をする説もある。その節によれば、次のテトス(在位79-81年)は、比較的短命で、「しばらくの間だけおることになっている」ということに適合する。そして、黙示録執筆はヴェスバシアヌス帝の時で、後にドミティアヌス帝の時、「しばらくの間だけおることになっている」を事後預言として加筆したというのである。しかし、著者の真意はここで正確な歴史的事情をみることではない。 11節 昔はいたが今はいないという獣は、すなわち第八のものであるが、またそれは、かの七人の中のひとりであって、ついには滅びに至るものである。 「第八のもの」は、前後の関係から第五代のネロ帝をさすと言われている。彼は「かの七人の中のひとり」であったが、悪魔的な存在として「第八のもの」として見られている。 12節 あなたの見た十の角は、十人の王のことであって、彼らはまだ国を受けてはいないが、獣と共に、一時だけ王としての権威を受ける。 「十の角は、十人の王」が誰をさすかについても異論が多い。通常「再生のネロ帝」に従ってローマに侵入すると言われていたパルチヤの諸侯と解せられている。16:12の「日の出る方から来る王たち」に相当する。十は七と同じく完全数である(ダニエル7:24)。彼らは完全な王ではないが、しばらくの間、王としての権威を持たせられる。 13節 彼らは心をひとつにしている。そして、自分たちの力と権威とを獣に与える。 「彼らは心をひとつにし」17の「思いをひとつにし」している者で、一時的な支配権を与えられていた。 14節 彼らは小羊に戦いをいどんでくるが、小羊は、主の主、王の王であるから、彼らにうち勝つ。また、小羊と共にいる召された、選ばれた、忠実な者たちも、勝利を得る」。 しかし彼らは「主の主、王の王」(ダニエル2:47)である小羊には勝つことができなかった(19:16)。「召された」者も、「選ばれた」者も、「忠実な者」であった。 15節 御使はまた、わたしに言った、「あなたの見た水、すなわち、淫婦のすわっている所は、あらゆる民族、群衆、国民、国語である。 ここで1節の「多くの水」を世のあらゆる民族をさしていると説明している。 16節 あなたの見た十の角と獣とは、この淫婦を憎み、みじめな者にし、裸にし、彼女の肉を食い、火で焼き尽すであろう。 ローマ帝国内に内紛、内乱が起こる。サタンの軍も神の用いる一つの道具に過ぎないことを暗示している。 17節 神は、御言が成就する時まで、彼らの心の中に、御旨を行い、思いをひとつにし、彼らの支配権を獣に与える思いを持つようにされたからである。 彼らは一時の間、獣の部下として働くことを許されたのである(17:12,20:7-8)。 18節 あなたの見たかの女は、地の王たちを支配する大いなる都のことである」。 5節と同様に1節の大淫婦は「大いなる都」(11:8,18:10)すなわち、「大いなるバビロン」(18:2)であることを説明している。 (2019/12/29)
ヨハネの黙示録略解
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