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ヨハネの黙示録13章

天の戦い、地における獣の増大、地の刈り入れ(12章-14章)

龍が戦いを続けるため、二匹の獣に全権を委任する。
獣が神の民と戦うために海の中から上ってくる。いのちの書に名が記されていないものはこれを拝む(1-10)
1節 わたしはまた、一匹の獣が海から上って来るのを見た。それには角が十本、頭が七つあり、それらの角には十の冠があって、頭には神を汚す名がついていた。
   初めのものは「海から上って来る」獣で、水中の怪物たるサタンと密接な関係があり、「角が十本、頭が七つあり」、「十の冠」があった。ただし、冠は頭ではなく、角にあった。ダニエル7:4には四つの獣が海から出てきたことが述べられている。「頭には神を汚す名がついていた」は、当時のローマ皇帝はアウグストゥス(尊者)とかアウトクラトール(絶対者)と称して、神に奉るべき名をそのまま自らにつけていたことを暗示している。
2節 わたしの見たこの獣はひょうに似ており、その足はくまの足のようで、その口はししの口のようであった。龍は自分の力と位と大いなる権威とを、この獣に与えた。
   ひょう、くま、ししに似た獣は、ダニエル7:3-6,ホセア13:7にも書かれている。ダニエル書に出てくる四匹の恐ろしい獣の外見は、ヨハネの黙示録においてはすべて一匹の獣が持っている。龍はローマ帝政を象徴する。この獣を利用するために、一時自分の権力をこの獣に与えたのである。2テサロニケ2:9には「不法の者(反キリスト)が来るのは、サタンの働きによる」とある。ローマ市民であることを名誉としたパウロは、ローマ帝国に対して敬意を持っていたが(ローマ13:1)、ヨハネの黙示録においては、ローマ帝国とキリスト教会とは正面衝突しているのである。
3節 その頭の一つが、死ぬほどの傷を受けたが、その致命的な傷もなおってしまった。そこで、全地の人々は驚きおそれて、その獣に従い、
  「その頭の一つが、死ぬほどの傷を受けたが、その致命的な傷もなおってしまった」これがどの皇帝をさすかについて異論が多いが、ネロ皇帝を暗示している。カリグラ帝が大病にとりつかれたが、かろうじて死を免れたという事実があるため、カリグラ帝をさすという説もある。12節にも「致命的な傷がいやされた先の獣」とある。18節の「六百六十六」がネロ大帝をさすものとすれば、復活したと称される再生のネロ帝(Nero redivivus)のことを意味している。更に、これはドミティアヌス帝であるとする説もある。ヨハネの黙示録が書かれた時代は第十一代のドミティアヌス帝政(81-96年)の末期であった。しかしネロ帝(54-68年)は、死後、復活して、パルチヤ兵を率いてローマに帰還するという風説が広く伝わり、再生のネロの伝説が生じた。これはローマ帝政の権威を示す一つの事実であって、人々は皆ローマ帝国を謳歌して、これに追従したのだった。ただし原文には「従う」の語はなく、単に「驚きおそれ」のだった。
4節 また、龍がその権威を獣に与えたので、人々は龍を拝み、さらに、その獣を拝んで言った、「だれが、この獣に匹敵し得ようか。だれが、これと戦うことができようか」。
   ローマ帝国では王権神授説の思想が広まり、皇帝は神の代理人または神そのものとして、皇帝崇拝のような疑似宗教が流行した。「だれが、この獣に匹敵し得ようか」とは旧約聖書においては神だけについて言われたものであった(出エジプト15:11 [1] ,詩編35:10,76:7,89:6,113:5)。
5節 この獣には、また、大言を吐き汚しごとを語る口が与えられ、四十二か月のあいだ活動する権威が与えられた。
  「大言を吐き汚しごとを語る口」は、ダニエル7:8,20,25,11:36などによる表現。獣は聖徒と戦って勝ち、神の御名を汚すことさえ許されていたが、それも「四十二か月」のことに過ぎなかった。
6節 そこで、彼は口を開いて神を汚し、神の御名と、その幕屋、すなわち、天に住む者たちとを汚した。
  「口を開いて」何かの演説の初めであることを示すしている(詩編22:13,78:2,マタイ5:2,使徒8:35)。「神の御名」以下の句は、「神を汚し」の説明となっている。「天に住む者たち」(12:12)天上にある聖徒たちのこと。彼らは神の「幕屋」といわれる。
7節 そして彼は、聖徒に戦いをいどんでこれに勝つことを許され、さらに、すべての部族、民族、国語、国民を支配する権威を与えられた。
   獣には短期間であるが聖徒や諸国民を支配する権能が与えられていた。ここの聖徒は艱難時代の聖徒のこと。教会に対しては、「黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。(マタイ16:18)」という約束がある。
8節 地に住む者で、ほふられた小羊のいのちの書に、その名を世の初めからしるされていない者はみな、この獣を拝むであろう。
   世界はすべて反キリストの支配の中に入り、「小羊のいのちの書」3:5,17:8,20:12,15,21:27,詩編69:28)にその名を記されていない者は皆、彼を拝むようになる。しかし、世の初めからその名をしるされている者(エペソ1:4 [2] )は、彼を拝むことがない。聖徒たちは、悪魔を拝む勢力からとてつもない圧力を受け、殉教が唯一の選択肢であった。圧力に屈することなく、死を選び取ることができたのは、自分の力ではなく、世の初めから永遠のいのちに定めておられる神の選びの力、神の主権によったのである。キリストによる救いは、自分で頑張って神にしがみつくのではなく、神がキリストにあって保ってくださるという恵みによるのである。
9節 耳のある者は、聞くがよい。
  「耳のある者は、聞くがよい」とはしっかり聞きなさい(2:7,11,17)ということ。主の言葉として繰り返し出てくる(マタイ11:15他)。
10節 とりこになるべき者は、とりこになっていく。つるぎで殺す者は、自らもつるぎで殺されねばならない。ここに、聖徒たちの忍耐と信仰とがある。
   エレミヤ15:2 [3] からの引用。「つるぎで殺す者は、自らもつるぎで殺されねばならない」は、マタイ26:52の「剣をとる者はみな、剣で滅びる」の意ではなく、「つるぎで殺されるように定められている者はつるぎで殺される」という予定説を述べている。これがエレミヤの原意である。「ここに、聖徒たちの忍耐と信仰とがある」14:12と同じ説明の句。読者に対して、忍耐と信仰とをあらためて注意している。この苦しみは永続するものではなく、終わりがあり、輝かしい主の来臨によって主が支配されるので、信仰と忍耐をもって耐え忍べということである

獣が地から上ってくる。獣の刻印を付ける (11-18)
11節 わたしはまた、ほかの獣が地から上って来るのを見た。それには小羊のような角が二つあって、龍のように物を言った。
   次に「地から上って来る」獣が現れる。この第二の獣は、「小羊のような角が二つ」ある。これは皇帝崇拝に奉仕する「にせ預言」をさしている。このことは「羊の衣を着て」やってくる「にせ預言」(マタイ7:15)からも暗示される。16:13,19:20,20:10などにそのことが明らかにされている。「龍のように物を言」うとは、龍のように大言と汚しごとを語るの意(5節)で、悪魔からの言葉、預言を語ったのである。
12節 そして、先の獣の持つすべての権力をその前で働かせた。また、地と地に住む人々に、致命的な傷がいやされた先の獣を拝ませた。
   このにせ預言は獣の前に立って、その代弁者として活動したのである。すなわち、ローマ政府の手先として皇帝礼拝を奨励したのである。
13節 また、大いなるしるしを行って、人々の前で火を天から地に降らせることさえした。
   マルコ13:22の「にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、しるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。」のように、彼らは不思議な魔術をもって人々を驚かした。
14節 さらに、先の獣の前で行うのを許されたしるしで、地に住む人々を惑わし、かつ、つるぎの傷を受けてもなお生きている先の獣の像を造ることを、地に住む人々に命じた。
  「先の獣の前で行うのを許された」とは、ローマの官史などの承認または後援を得て、異教の祭司などが民衆をだますために皇帝礼拝のまじないなどをすることをさしている。「しるし」は前節と次節に書かれていること。「つるぎの傷を受けてもなお生きている先の獣」とは「致命的な傷がいやされた先の獣」すなわちネロ大帝をさす。
15節 それから、その獣の像に息を吹き込んで、その獣の像が物を言うことさえできるようにし、また、その獣の像を拝まない者をみな殺させた。
  「像が物を言う」は、今日の腹話術のようなもの。これも彼らの妖術の一つであった。「獣の像」とは皇帝の胸像または全身像のようなもの。2テサロニケ2:4の「彼は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して立ち上がり、自ら神の宮に座して、自分は神だと宣言する。」のように、にせ預言者が獣の像を神殿の至聖所に据えて、これによって皇帝崇拝の有無をためさせたのである。
16節 また、小さき者にも、大いなる者にも、富める者にも、貧しき者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々に、その右の手あるいは額に刻印を押させ、
  「刻印」は7:3に聖徒の額に押された印に対応するようなもので、次節の「獣の名、または、その名の数字」である。それは皇帝崇拝をする者が持っていたしるしと思われる。
17節 この刻印のない者はみな、物を買うことも売ることもできないようにした。この刻印は、その獣の名、または、その名の数字のことである。
   刻印のない者は経済活動ができなくなる。小羊のいのちの書に記されている人たちは、これによって餓死する危険がある。
18節 ここに、知恵が必要である。思慮のある者は、獣の数字を解くがよい。その数字とは、人間をさすものである。そして、その数字は六百六十六である。
  「ここに、知恵が必要である」は、17:9の「ここに、知恵のある心が必要である」と同様で、次に示す数字は人間を暗示し、また人間が理解できる範囲内の事柄であることを示している。数字7は完全を意味し、神の数字である。そして、6は人間の数字であるという。獣の国は人間のもの、地上のもの、そして悪魔に属する。では「獣の数字」666を人間の数字で解くとどうなるのか。これの解釈については、古来種々の説がある。ヘブル語のアルファベットの数値でこれを解くゲマトリア(Gematria)またはイソプセフィア(isopsephia)の方法によると「ネロ皇帝」(ネロン・ケゼル)と解する。また、666は777という完全数、すなわちキリストに対して一位低い数を持つ反キリストをさすという説もある。何れにせよこの666を「すべての人々」の「右の手あるいは額」に刻印されたのだった。

(2019/12/27)


[1]  出エジプト15:11
  「主よ、神々のうち、だれがあなたに比べられようか、
   だれがあなたのように、聖にして栄えあるもの、
   ほむべくして恐るべきもの、
   くすしきわざを行うものであろうか。」

[2]  エペソ1:4
   「みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、 」

[3]  エレミヤ5:2
  「もし彼らが、『われわれはどこに行けばよいのか』とあなたに尋ねるならば、彼らに言いなさい、
  『主はこう仰せられる、
   疫病に定められた者は疫病に、
   つるぎに定められた者はつるぎに、
   ききんに定められた者はききんに、
   とりこに定められた者はとりこに行く』。」

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