2章
4章
伝道の書3章
神の予定のもとにある人間(1-15) すべての事は神の予定による。(1-8) 1節 天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。 ここでの「季節」、「時」とは定められた時期、適した時期を表す。冬に種を蒔いても芽は出ない。春に種を蒔いてこそ、秋に刈り取ることができる。時には逆らうことはできない。この地に生を与えられた生命は、必ず死ぬときがくる。寒い冬もいつかは終わり、春になる。辛く苦しい日々も、決して諦めず神に依り頼んで生きるなら必ず喜びにあふれる輝かしい日がやってくる。 2節 生るるに時があり、死ぬるに時があり、植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、 生まれる時、死ぬ時、植える時、収穫の時があり、 3節 殺すに時があり、いやすに時があり、こわすに時があり、建てるに時があり、 殺す時、病気が治る時、壊す時、やり直す時があり、 4節 泣くに時があり、笑うに時があり、悲しむに時があり、踊るに時があり、 泣く時、笑う時、悲しむ時(葬礼の哀悼の意)、踊る時(婚礼の行列における舞踏)があり、 5節 石を投げるに時があり、石を集めるに時があり、抱くに時があり、抱くことをやめるに時があり、 石を投げる時、石を集める時 [1] 、抱きしめる時、抱きしめない時があり、 6節 捜すに時があり、失うに時があり、保つに時があり、捨てるに時があり、 (商売に関する句)何かを見つける時、物を失う時、大切にしまっておく時、投げ捨てる時があり、 7節 裂くに時があり、縫うに時があり、黙るに時があり、語るに時があり、 引き裂く時 [2] 、修理する時、黙っている時、口を開く時があり、 8節 愛するに時があり、憎むに時があり、戦うに時があり、和らぐに時がある。 愛する時、憎む時、戦う時、和解する時がある。 生活の知恵(9-15) 9節 働く者はその労することにより、なんの益を得るか。 あらゆる事柄が神の定めた予定のうちにあるのに、人が労しなければならないことに何の意味があるのだろうか。 10節 わたしは神が人の子らに与えて、ほねおらせられる仕事を見た。 神は人を苦労しなければならないように仕事を与えられた。 11節 神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。 神のあらゆる業を見るとそのひとつひとつは、すべて時にかなって美しい。、人の心に時間の中に現わされた美しさの意味を永遠との関係において理解したいという願望を与えた。だがそれにも関わらず、人は神の業を見るだけで、その全体の意味を理解することを許されない。 12節 わたしは知っている。人にはその生きながらえている間、楽しく愉快に過ごすよりほかに良い事はない。 神の力とその業の前には恐れがあるのみである(14,6:10-12)。そこで私が理解したことは、生きている間に楽しく愉快に過ごして人生を楽しむしかないということだ。 13節 またすべての人が食い飲みし、そのすべての労苦によって楽しみを得ることは神の賜物である。 また、すべての人は飲み食いして労苦で得たものを楽しみ味わうべきだということだ。それは神の賜物なのだから。 14節 わたしは知っている。すべて神がなさる事は永遠に変ることがなく、これに加えることも、これから取ることもできない。神がこのようにされるのは、人々が神の前に恐れをもつようになるためである。 私は次のことも知った。神のすることは完全で永遠に変わることなく、何一つ付け加えたり、取り除いたりすることはできない。神がこうするのは、人が全能の神を恐れるようになるためだ。 15節 今あるものは、すでにあったものである。後にあるものも、すでにあったものである。神は追いやられたものを尋ね求められる。 今あるものは、ずっと昔にもあったことだ。これから起こることも、以前に起こったことだ。神は、はるか昔にあって今は跡形もなくなっているものを再び生じさせているのだ。 人は獣にまさらない。(16-22) 16節 わたしはまた、日の下を見たが、さばきを行う所にも不正があり、公義を行う所にも不正がある。 「さばきを行う所」司法機関。「公義を行う所」教会。私はそれだけでなく、この世の正義がすたれて法廷や教会でさえ不正が行われていることを知った。 17節 わたしは心に言った、「神は正しい者と悪い者とをさばかれる。神はすべての事と、すべてのわざに、時を定められたからである」と。 私は心の中で言った。「神が人間のしたことを、良いことも悪いことも全部さばく時がくる。神はすべての事と、すべてのわざに、時を定められたからである」 18節 わたしはまた、人の子らについて心に言った、「神は彼らをためして、彼らに自分たちが獣にすぎないことを悟らせられるのである」と。 私はまた、神が罪深い今の世界をそのままにしておくのは、人間を試すためであり、人間が獣と変わらないことを悟らせるためであることに気がついた。 19節 人の子らに臨むところは獣にも臨むからである。すなわち一様に彼らに臨み、これの死ぬように、彼も死ぬのである。彼らはみな同様の息をもっている。人は獣にまさるところがない。すべてのものは空だからである。 神が人間に臨むことは動物にも臨むからだ。人間も動物も、同じ空気を吸い、同じように死んでいく。人間が動物より優れている点などない。すべてのものは空しいのだから。 20節 みな一つ所に行く。皆ちりから出て、皆ちりに帰る。 どちらも同じ所へ行く。土から出て土に帰る。 21節 だれが知るか、人の子らの霊は上にのぼり、獣の霊は地にくだるかを。 人の霊は天に上り、動物の霊は地中深く降りて行くことを、誰も証明できない。 22節 それで、わたしは見た、人はその働きによって楽しむにこした事はない。これが彼の分だからである。だれが彼をつれていって、その後の、どうなるかを見させることができようか。 だからこそ、自分の仕事に生きがいを見いだす以上に幸福なことはないと私は確信した。今のうちに人生を十分に楽しむこと。これが人間が地上にいる理由だ。未来に起こることを楽しむことはできないのだから。 (2020/05/26)
[1] 「石を投げるに時があり、石を集めるに時があり」 男女交合に関係ある句、「石を投げる時は汝の妻が生理的に潔き日、石を集める時は、潔かざる日なり」
[2] 悪しき知らせを聞いたとき(創世37:29),特に死の知らせを受けたとき(創世37:34)に哀悼の情を表すために衣を裂いた。