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伝道の書2章

コヘレトの人生探求とその帰結(1:12-2:26)
快楽の虚無(1-11)
コヘレトは至上善の探求を念願して、知愚の両面で試みた(1-3)。
1節 わたしは自分の心に言った、「さあ、快楽をもって、おまえを試みよう。おまえは愉快に過ごすがよい」と。しかし、これもまた空であった。
   私は愉快に生きよう、思う存分楽しもうと思った。しかし、そういう生き方は空しいものだった。
2節 わたしは笑いについて言った、「これは狂気である」と。また快楽について言った、「これは何をするのか」と。
   一日中笑って何になるのだろう。それは愚かなことだ。また快楽が何をやったというのだろう。それは意味のないことだ。
3節 わたしの心は知恵をもってわたしを導いているが、わたしは酒をもって自分の肉体を元気づけようと試みた。また、人の子は天が下でその短い一生の間、どんな事をしたら良いかを、見きわめるまでは、愚かな事をしようと試みた。
   私は知恵を探求しながら、元気になろうと体を酒にゆだね、この地上での短い一生の間になすべき事は何であるかを知ろうとして馬鹿をやっても見た。多くの人が経験する幸福を味わってみようとしたのである。

コヘレトは富と力とを傾けて、あらゆる贅沢と快楽とに身をゆだねた(4-8)。
4節 わたしは大きな事業をした。わたしは自分のために家を建て、ぶどう畑を設け、
5節 園と庭をつくり、またすべて実のなる木をそこに植え、
6節 池をつくって、木のおい茂る林に、そこから水を注がせた。
   今度は、大規模な事業に乗り出して、仕事からくる充実感を得ようとした。邸宅を建て、ぶどう園、庭園、公園、それに果樹園まで造り、良い作物を実らせるために貯水池まで造った。
7節 わたしは男女の奴隷を買った。またわたしの家で生れた奴隷を持っていた。わたしはまた、わたしより先にエルサレムにいただれよりも多くの牛や羊の財産を持っていた。
8節 わたしはまた銀と金を集め、王たちと国々の財宝を集めた。またわたしは歌うたう男、歌うたう女を得た。また人の子の楽しみとするそばめを多く得た。
   次に、男女の奴隷を買った。私の家で生まれた奴隷たちもいた。ほかに家畜の群れも飼ってみたが、その数は以前のどの王よりも多かった。さらに、多くの州や国から、税金として金銀をかき集めた。また文化的な活動として、混声コーラスを組織した。そのうえ私には、大ぜいのそばめがいた。

コヘレトはかつてエルサレムにいた先輩たちの誰よりも大いなるものとなり、心を喜ばすものは何一つ拒まなかった。しかし、彼はそれに溺れてしまったわけではない(9-10)。
9節 こうして、わたしは大いなる者となり、わたしより先にエルサレムにいたすべての者よりも、大いなる者となった。わたしの知恵もまた、わたしを離れなかった。
   こうして、歴代のエルサレムの王がなしえなかったことをなし大いなるものとなった。そのうえ、この世の成功に溺れることなく、知恵をもってこれらのものの価値を見極めようとした。 10節 なんでもわたしの目の好むものは遠慮せず、わたしの心の喜ぶものは拒まなかった。わたしの心がわたしのすべての労苦によって、快楽を得たからである。そしてこれはわたしのすべての労苦によって得た報いであった。
   欲しいものは何でも手に入れ、したい放題の楽しみをやってみた。そひてつらい仕事にも大きな喜びがあることを知った。この喜びはすべての労働に対する報酬だった。

しかし、彼の心を満足させるものは何もなかった。
11節 そこで、わたしはわが手のなしたすべての事、およびそれをなすに要した労苦を顧みたとき、見よ、皆、空であって、風を捕えるようなものであった。日の下には益となるものはないのである。
   しかし、してきたことを振り返ってみると、どれもこれも空虚なことばかりで、風を追うようなものであった。この世には価値があるものはないのである。

知恵の虚無を見たものの、その相対的価値を否定しなかった(13-14前半)。しかし死の前にそれが何の力になるのか(14後半、15)。知恵ある者も愚かな者も同じように忘れさられてしまう(16)。かくて人生は、残忍で無意味のものであった(17)。
12節 わたしはまた、身をめぐらして、知恵と、狂気と、愚痴とを見た。そもそも、王の後に来る人は何をなし得ようか。すでに彼がなした事にすぎないのだ。
   原写本の破損のため意味不明な箇所。前半は狂気についても、愚痴いついてもふれていないが、全項にわたって述べられているのは知恵の限界について。後半はソロモンにしてこの嘆きであれば、彼以下の者のことは知れたものだという程の意。
13節 光が暗きにまさるように、知恵が愚痴にまさるのを、わたしは見た。
   光が闇にまさっているように、知恵は無知よりはるかに価値がある。
14節 知者の目は、その頭にある。しかし愚者は暗やみを歩む。けれどもわたしはなお同一の運命が彼らのすべてに臨むことを知っている。
   知恵ある者は先々を正しく判断するが、愚かな者は先のことがわからない。ところが私は、知恵のある者にも愚かな者にも共通点があることを知った。
15節 わたしは心に言った、「愚者に臨む事はわたしにも臨むのだ。それでどうしてわたしは賢いことがあろう」。わたしはまた心に言った、「これもまた空である」と。
   それは知恵の足りない者が死ぬように、いずれこの私も死ぬということだ。それなら、知恵をつけたところで、いったい何の益があるというのだ。私は、知恵をつけるも空しいものだと悟った。
16節 そもそも、知者も愚者も同様に長く覚えられるものではない。きたるべき日には皆忘れられてしまうのである。知者が愚者と同じように死ぬのは、どうしたことであろう。
   賢い人も愚かな人も死に、時がたてば、両者とも、すっかり忘れられてしまう。
17節 そこで、わたしは生きることをいとった。日の下に行われるわざは、わたしに悪しく見えたからである。皆空であって、風を捕えるようである。
   私はここまでわかると、生きているのがいやになった。この世で行われることは益のないことのように見える。何もかも空しく、風を追うようなものだ。

労苦の虚妄(18-21)
18節 わたしは日の下で労したすべての労苦を憎んだ。わたしの後に来る人にこれを残さなければならないからである。
   骨を折って築き上げたものはどうなるのか [1] 。他者のものになると思うといやになる。
19節 そして、その人が知者であるか、または愚者であるかは、だれが知り得よう。そうであるのに、その人が、日の下でわたしが労し、かつ知恵を働かしてなしたすべての労苦をつかさどることになるのだ。これもまた空である。
   そればかりか、跡を継ぐ者が賢い者か愚かな者か、だれにわかるだろうか。それでも、私が労苦して築いた財産はその人のものになるのだ。これもまた空しいことだ。
20節 それでわたしはふり返ってみて、日の下でわたしが労したすべての労苦について、望みを失った。
   これまでのことを考えると満足感を与えると考えていた労苦も愚かしく思われる。
21節 今ここに人があって、知恵と知識と才能をもって労しても、これがために労しない人に、すべてを残して、その所有とさせなければならないのだ。これもまた空であって、大いに悪い。
   生涯をかけて知恵や知識や技術を追求しても、せっかく手に入れたものを全部何もしなかった者に譲らなければならない。空しいだけでなく、とても嫌なことだ。

さればいかに生きるべきか(22-26)
22節 そもそも、人は日の下で労するすべての労苦と、その心づかいによってなんの得るところがあるか。
   そもそも、この世では、どれほど努力して必死に働いても何の役にも立たないのだ。
23節 そのすべての日はただ憂いのみであって、そのわざは苦しく、その心は夜の間も休まることがない。これもまた空である。
   労苦して働いた日々に残るものは、心労とと悲しみに押しつぶされて心休まることがなく、夜も安心して眠れない。全くむなしい話ではないか。
24節 人は食い飲みし、その労苦によって得たもので心を楽しませるより良い事はない。これもまた神の手から出ることを、わたしは見た。
   それなら人はこの宿命的な労苦で得たもので飲み食いして人生を楽しむが一番良いではないか。私はこれも神のみ旨であることに気が付いた。
25節 だれが神を離れて、食い、かつ楽しむことのできる者があろう。
   というのは、神のみ心なくして、誰も飲み食いして楽しむことはできないからだ。
26節 神は、その心にかなう人に、知恵と知識と喜びとをくださる。しかし罪びとには仕事を与えて集めることと、積むことをさせられる。これは神の心にかなう者にそれを賜わるためである。これもまた空であって、風を捕えるようである。
   神は心にかなった者に知恵と知識と喜びを与えてくださる。ところが神はただあくせく働いて金を求める人には仕事を与え、金持ちになると、その財産を取り上げ、神のみ旨を知って行う人に分け与える。これも風を追うように空しい。



(2020/05/26)


[1]  詩編39:6
     まことに人は影のように、さまよいます。
     まことに彼らはむなしい事のために
     騒ぎまわるのです。
     彼は積みたくわえるけれども、
     だれがそれを収めるかを知りません。