概要
2章
伝道の書1章
はしがき(1-2) 1節 ダビデの子、エルサレムの王である伝道者の言葉。 1:12,2:1-9から筆者はソロモンを想定している。 序詞(2-11) 2節 伝道者は言う、空の空、空の空、いっさいは空である。 「空」、ヘブル語で「ハヴェール」は、「息、風、霧」を意味する。比喩的に使うと、むなしい、はかない、つまらない、無意味という意味を持つ。KJVではVanity of vanities(虚無の虚無)と訳している。「空の空」と言葉を重ねることにより意味を強めている。これはコヘレトの中心思想で、この書の中に四十回も現れている。 3節 日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるか。 「日の下」(29回出てくる)とは地上・この世を指す。すなわちこの世における生活にのみ限定し、永遠の命という視点に立っていない。「労するすべての労苦」非常な労苦は、「益」利潤、後代の特徴的ヘブル語。この世のあらゆる労苦は、何の役に立つのだろう。この世の生涯の虚しさが本書の主題の一つになっている。 4節 世は去り、世はきたる。しかし地は永遠に変らない。 どんなに力ある優れた治世者の世であっても、いずれ消え去り、次の治世者の世が来る。世界は変遷を繰り返し、永遠に続く時代などはない。しかし人間の営みの空しさと徒労に関わらず大地は永遠に変わらない。 5節 日はいで、日は没し、その出た所に急ぎ行く。 自然界も同様である。太陽は出ては没し元の所に急ぐことを繰り返すことを繰り返すだけ。 6節 風は南に吹き、また転じて、北に向かい、めぐりにめぐって、またそのめぐる所に帰る。 風は向きを変えながらもと来たところに帰って行くことを繰り返しているだけ。 7節 川はみな、海に流れ入る、しかし海は満ちることがない。川はその出てきた所にまた帰って行く。 川も同様にもとの所に帰るだけで何も達成されない。(古代の人々は大地は海に囲まれ、海に流れ込んだ川の水は地下道を通って、ふたたび川の源に帰ると考えた。) 8節 すべての事は人をうみ疲れさせる、人はこれを言いつくすことができない。目は見ることに飽きることがなく、耳は聞くことに満足することがない。 これらすべての退屈きわまる事柄をいちいち言っていたら切りがない。人を疲れさせるだけで何も満足させるものはない。 9節 先にあったことは、また後にもある、先になされた事は、また後にもなされる。日の下には新しいものはない。 すでにあったことはこれからもあり、すでに行われたことはこれからも行われる。太陽の下、新しいことは何一つないのだ。 10節 「見よ、これは新しいものだ」と言われるものがあるか、それはわれわれの前にあった世々に、すでにあったものである。 「新しいもの」は事物。11節の人との対比。それがずっと昔になかったと、どうしてわかるだろうか。新しいように見えても、必ず前例があるか、すでに言い古されたものだ。 11節 前の者のことは覚えられることがない、また、きたるべき後の者のことも、後に起る者はこれを覚えることがない。 「前の者」は人(2:16,9:5)。過ぎた世代の人のこと、あるいは次の世代の人のことが覚えられることはないように、この世にあるものは永遠に覚えられるものなど何もない。 コヘレトの人生探求とその帰結(12-2:26) 知恵と力の虚無 12節 伝道者であるわたしはエルサレムで、イスラエルの王であった。 「エルサレムで、イスラエルの王」はソロモンを指す(1列王4以下)。 彼は、神に愛されて生まれ、イスラエル史上最大の富と権勢と知恵をほしいままにした最も成功した人だった、しかし老年になって堕落した。 このようなソロモン王は、彼の人生経験を述べ、結局は人間のなしうるところは、機会がある間に労苦して得たものをもって生活を楽しむ他はないと主張する。 ソロモンの時代にはイエスはいなく、イエスの愛も奇跡も、またイエスを通して現わされた神の愛も、イエスによる罪の購いも、復活もなかった。世界一の知恵と富と権勢を持ったとしても、イエスがいなければ、人の人生は一瞬で消える無意味なものとなる。 13節 わたしは心をつくし、知恵を用いて、天が下に行われるすべてのことを尋ね、また調べた。これは神が、人の子らに与えて、ほねおらせられる苦しい仕事である。 「神」という言葉が49回出てくる。ソロモンは神を信じていたが、それは救いに至る信仰ではなかった。ソロモンは「知恵を用いて」、神の真理を知ろうとしたが、それは「苦しい仕事」だった。「苦しい」には意地の悪い、かいのないの意味もある。3:11後半参照。どんなに努力して調べても、結局は神がなすことを完全に理解するということは不可能なのだ。それは信仰によってのみなしうることだから。 14節 わたしは日の下で人が行うすべてのわざを見たが、みな空であって風を捕えるようである。 ソロモンの視点は常に「日の下」に限定される。神の救いの計画の視点に立たない地上での生活と体験は空虚なものである。 15節 曲ったものは、まっすぐにすることができない、欠けたものは数えることができない。 人間は信仰なしに真理を知ることはできない。「曲ったもの」とは神が曲げられたもの(7:13)を人にはまっすぐにできない。 また「欠けたもの」(損失の意)を数えることができない。 16節 わたしは心の中に語って言った、「わたしは、わたしより先にエルサレムを治めたすべての者にまさって、多くの知恵を得た。わたしの心は知恵と知識を多く得た」。 「心の中に語って言った」ソロモンは自分に言い聞かせた。自分はこれまでのエルサレムのどの王よりも、多くの知恵や知識を得たという自負がある。 17節 わたしは心をつくして知恵を知り、また狂気と愚痴とを知ろうとしたが、これもまた風を捕えるようなものであると悟った。 そして、賢くなろうと、一生懸命に努力した。しかし、今ではそんな努力さえ、風をつかまえるように空しいことだとわかった。 18節 それは知恵が多ければ悩みが多く、知識を増す者は憂いを増すからである。 なぜなら、多くの知恵と知識を得るとものごとの裏と表、ものごとの本質とそれらの矛盾、本音と建て前を知ることができるようになる。それはかえって、悲しみや苦悩を増やしてしまうことになる。知恵を得れば得るほど悲しみが多くなる。しかし、知恵をもつことこそ幸福である(箴言3:13-15 [1] )ともいえる。知ることはたのしみであり、豊かな知恵は人生を豊かにする。知性が増せばひとは幸福になるのか、悲しみが増すのか。この矛盾する考え方はどちらが正しいのか、一見答えを見つけられないかのように見える。しかし、知性によって悲しみが増すと悟ったソロモンと、幸福になると考える人との決定的な違いは、ソロモンがこの世における生活にのみに目を向けている点にある。 (2020/05/26)
[1] 箴言 3:13知恵を求めて得る人、 悟りを得る人はさいわいである。 3:14知恵によって得るものは、 銀によって得るものにまさり、 その利益は精金よりも良いからである。 3:15知恵は宝石よりも尊く、 あなたの望む何物も、これと比べるに足りない。