8章
10章
へブル人への手紙9章
キリストの贖罪の意義 キリストの祭司職は比較するものもない高い位置を占めていることを古い時代の律法に規定された礼拝儀式と新しい理想的な礼拝を比較しながら、以下の順で整然と述べている。 幕屋の構造と設備(1-5) 幕屋における礼拝の仕方(6-10) 旧約の規定に対する「新約の血」の意義(11-14) 新約の血の贖罪的内容(15-22) キリストの贖罪と永遠の仲保者(23-28) 地上の聖なる所での神聖な奉仕(1‐10) 1節 さて、初めの契約にも、礼拝についてのさまざまな規定と、地上の聖所とがあった。 幕屋(礼拝所、聖所)の規定は旧約の律法に多く見出されるが、栄光の主キリストを仲保者とする福音的な立場からすると、本質的には人間のわざによるものといえる。 2節 すなわち、まず幕屋が設けられ、その前の場所には燭台と机と供えのパンとが置かれていた。これが、聖所と呼ばれた。 「まず」は場所的に最初の入り口をさす。幕屋(出エジプト36)は二つの部分に分かれ、前方は「聖所」と呼ばれた前方には、「燭台」(出エジプト25:31-39,37:17-24)、「机」(出エジプト25:23,30,37:10-16,レビ24:6) 3節 また第二の幕の後に、別の場所があり、それは至聖所と呼ばれた。 後方を「至聖所」と呼んだ。そこは贖罪所として、贖罪日に大祭司だけがはいる場所である。至聖所への第二の幕(出エジプト26:1-13,36:8-9)は単に「幕」とも呼ばれた(10:20,マルコ15:38)。 4節 そこには金の香壇と全面金でおおわれた契約の箱とが置かれ、その中にはマナのはいっている金のつぼと、芽を出したアロンのつえと、契約の石板とが入れてあり、 「金の香壇」は贖罪日に祭司が儀礼を執行する際に用いる。「契約の箱」の中に「契約の石板」(申命9:9-11,15)、「マナのはいっている金のつぼ」(出エジプト16:33-34)、「アロンのつえ」(民数17:10)が納められていた。 5節 箱の上には栄光に輝くケルビムがあって、贖罪所をおおっていた。これらのことについては、今ここで、いちいち述べることができない。 「栄光に輝くケルビム」とは神の啓示に仕える天使の光輝あるさまを象徴化したもの(出エジプト25:22,民数7:89,詩篇80:1,99:1)。この手紙で伝えようとしていることは旧約の律法や祭儀である「これらのことについて」を詳しく説くことではなく、真実の霊的礼拝(ローマ12:1 [1] )の意義を教えることにあるとにある。 6節 これらのものが、以上のように整えられた上で、祭司たちは常に幕屋の前の場所にはいって礼拝をするのであるが、 以下、旧約の礼拝規定の限界について述べている(6-10)。「祭司たちは常に」祭司が聖所で行うこと(出エジプト30:7-8,レビ24:3)。 7節 幕屋の奥には大祭司が年に一度だけはいるのであり、しかも自分自身と民とのあやまちのためにささげる血をたずさえないで行くことはない。 「大祭司が年に一度だけ」至聖所で大祭司が贖罪日に行う礼拝儀式(レビ16:34)。「血」とは罪の贖いの血(レビ16:17-18)。雄牛の血と、やぎの血をもってイスラエルの汚れを除いてこれを清くし、聖別する。 8節 それによって聖霊は、前方の幕屋が存在している限り、聖所にはいる道はまだ開かれていないことを、明らかに示している。 「それによって聖霊は・・・」は古い契約の時と新約の始まりを比喩的に述べている。「前方の幕屋・・・」はそれによって至聖所がへだてられたように過去の不完全な礼拝儀式では神の御座に近づくことが不可能であるということ。 9節 この幕屋というのは今の時代に対する比喩である。すなわち、供え物やいけにえはささげられるが、儀式にたずさわる者の良心を全うすることはできない。 「良心」はパウロの手紙に現れているが、この手紙では9:14.10:22,13:18に出てくる。旧約祭司の儀礼が形骸化して、真の悔い改めと再生に至らせなかったことを批判している。幕屋もまた将来を指向するにとどまっており、新約の「今の時代」の「比喩」に過ぎない。比喩であるから、実体はその背後または前方に隠されている(10:1)。「今の時代」はまた危機的現実をも含む(ローマ2:25-26 [2] )。旧約儀礼はただ外形的な行事に過ぎず、暫定的な規律に終わっている。 10節 それらは、ただ食物と飲み物と種々の洗いごとに関する行事であって、改革の時まで課せられている肉の規定にすぎない。 「肉の規定」とは供え物と犠牲奉納などの宗教行事を指す。それらは贖罪の根本的解決にならず、キリストの福音とは比較すべくもない。いまや福音の存在はこのような儀礼によって代表される旧秩序に対する霊的精神的な「改革」となる。 キリストはご自身の血によって永遠のあがないを全うされた(11‐28) (11-14) キリストによる贖罪の意義、キリストの苦難の死が持つ贖罪の力、キリストの血が人類の罪過をきよめ、贖罪のしるしとなったこと。 贖罪の目的は新しい神の民を招き、神の国を形成すること。 キリストの血は神の新しい契約を意味し、それによって教会を聖別すること。 キリストは新しい契約の仲保者(15) 11節 しかしキリストがすでに現れた祝福の大祭司としてこられたとき、手で造られず、この世界に属さない、さらに大きく、完全な幕屋をとおり、 1-10の旧約儀礼と対照的な大祭司キリストの働き。「こられたとき」キリストの来訪は贖いへの道となったが、その光輝ある業績は復活昇天の道となってあらわにされている。このことにより、5:8-10と矛盾するようにみえる「キリストがすでに現れた祝福の大祭司としてこられたとき」という神の子がこの世に来られた時すでに大祭司であったという言い方は、判然とした脈絡を持っていることになる。 12節 かつ、やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのである。 キリストの高挙 [3] と十字架への道とを統一的に述べることはヨハネによる福音書の特色をなしているが(3:14,12:23,13:31)、ここでも同様に述べている。栄光の主は普通の祭司のように動物の血を象徴的に使用したのではなく、現実的に「ご自身の血によって」完全無欠の贖罪を成就された。「一度だけ聖所にはいられ」は繰り返しを要しないただ一度の効果をあらわす(7:27)。「永遠のあがない」は罪過の奴隷状態から完全な自由に至るために必要な代価がキリストの血によって完全に払いつくされたことを示す。これを「手で造られず、この世界に属さない、さらに大きく、完全な幕屋」という旧約の律法の秩序に屈しない、神のまったく新しい秩序によって行われたのである。 13節 もし、やぎや雄牛の血や雌牛の灰が、汚れた人たちの上にまきかけられて、肉体をきよめ聖別するとすれば、 旧約の儀礼も当時の生活状況の中では、ある程度の意味があったかもしれないが、そこには当然であるが限界があり、死者をよみがえらせ、罪人を徹底的にきよめることはできなかった。このような旧約のきよめの儀礼(民数19)と対照的に「きよめ聖別する」という表現は、クリスチャンの贖罪の信仰から生じる聖潔の道を指示する。 14節 永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか。 そして、その根拠としてキリストの自己奉献について述べ、「ご自身を傷なき者として神にささげられた」ことが、ただ一度の完璧な贖罪行為になったと述べている。ここに新約の贖罪は、物をもってする外形的な儀礼ではなく、神の独り子のみが成しうるまことに驚嘆すべき人格的行為として結晶した。このことは「永遠の聖霊によって」遂行されたのである。キリストの人格性の根底には、神と同質の永遠なる神性が保たれている(7:16参照)ことを教え、このキリストの尊い血が、いかにわれわれを生かし働かせているかを説く(1ペテロ1:18-19)。 15節 それだから、キリストは新しい契約の仲保者なのである。それは、彼が初めの契約のもとで犯した罪過をあがなうために死なれた結果、召された者たちが、約束された永遠の国を受け継ぐためにほかならない。 15-22節ではキリストの死がどのような意義を持つかを教えている。前節のキリストの自己奉献の内的必然性の証拠という意味を持つ。まず「新しい契約」(8:8-13)を成すために必要な仲保者の働きについて述べる。キリストの苦難と死が人類の罪過への報いを代わって引き受け、その代償にによって新しい選民に「永遠の国」の引継ぎが約束されることになった。人類の罪過、すなわち「初めの契約のもとで犯した罪過」とは単に律法に反する行いを意味するのではなく、神が選んだ選民が神に対して不信背反したということを指す。神から離れたにもかかわらず、選民に対する神の意志は変わらず、われら「召された者たち」が「永遠の国」を受け継ぐことができるように、キリストの贖罪がなされたと教えている贖罪の神学的根拠ともいえる重要な聖句である。 16節 いったい、遺言には、遺言者の死の証明が必要である。 贖いによる新しい契約の成立の条件を「遺言」という比喩を使って説明している。 17節 遺言は死によってのみその効力を生じ、遺言者が生きている間は、効力がない。 最初の契約による贖罪儀礼はいつもくりかえさなければならなかったが、「遺言」のようにキリストのただ一度の犠牲の死は、贖罪として「効力」を持つものである。 18節 だから、初めの契約も、血を流すことなしに成立したのではない。 18-21節では旧約における律法規定について述べている。 19節 すなわち、モーセが、律法に従ってすべての戒めを民全体に宣言したとき、水と赤色の羊毛とヒソプとの外に、子牛とやぎとの血を取って、契約書と民全体とにふりかけ、 「モーセが・・・」出エジプト24:3 [4] 20節 そして、「これは、神があなたがたに対して立てられた契約の血である」と言った。 この古い契約の「神があなたがたに対して立てられた契約の血」出エジプト24:8 [5] は、新しい契約のキリストの「多くの人のために流すわたしの契約の血」(マルコ14:24)になった。 21節 彼はまた、幕屋と儀式用の器具いっさいにも、同様に血をふりかけた。 モーセの律法では、油を注いですべてのものを聖別した(出エジプト40:9)。また血を注いできよめた(出エジプト24:6、レビ8:15,19,16:14-16)。 22節 こうして、ほとんどすべての物が、律法に従い、血によってきよめられたのである。血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない。 「血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない」は、キリストの贖罪を理解する足がかりである。同時に旧約の象徴的儀礼の限界を示している。というのは、イエス・キリストの血は単に「死の証明」(16節)であるだけでなく、無比な聖なる潔さをもって自己を神にささげた神の独り子の人格的行為そのものであって、永遠の「生命の保証」であるからである。旧約聖書もまたそれを予想する教えを伝えている(レビ17:11 [6] )が、イエスの血はこの意味で、単に他人の手にもたらされた供え物としての物的用具ではない。それは血による「罪の許し」とともに血によるきよめを意味している。この点をおしひろめて言えば、贖罪は死を条件とするよりも、死をもって死を克服する、新しい生命力によるのだということになる。真の贖罪は罪過の許しにとどまらず、聖き新生への開始でなければならない。イエスの血はそのような力を持つ(1ペテロ1:18-19,1ヨハネ1:7 [7] )。 23節 このように、天にあるもののひな型は、これらのものできよめられる必要があるが、天にあるものは、これらより更にすぐれたいけにえで、きよめられねばならない。 23-28節では旧約の儀礼の限界を明らかにし、イエス・キリストの贖罪の力の絶大なことを教える。そのためキリストの祭司的職位と権能は天に属する恒久的なもので、地上の祭司たちの予備的暫定的なものとはまったく異なると教える。「天にあるもののひな型」天的なものに対して地上のものを指す象徴的な表現(8:5)。地上の祭儀は神の国における礼拝のひな型に過ぎない。キリストは永遠の仲保者として、われわれに代わってこの道を進まれた。そしてこの「天にあるものは、これらより更にすぐれたいけにえで、・・・」天的な礼拝場においても、被創造者である人間は聖なる創造者のまえに立って、そのつどきよめられなければならない。 24節 ところが、キリストは、ほんとうのものの模型にすぎない、手で造った聖所にはいらないで、上なる天にはいり、今やわたしたちのために神のみまえに出て下さったのである。 これはキリストの贖罪の力は罪人の赦しにとどまらず、聖徒をして神の御前に聖ならしめるということである。汝ら、聖なるべししいう命令は、聖徒に向かって語られている(1ペテロ1:16 [8] ,レビ19:2,11:44,20:7,マタイ5:48,1テサロニケ4:3)。 25節 大祭司は、年ごとに、自分以外のものの血をたずさえて聖所にはいるが、キリストは、そのように、たびたびご自身をささげられるのではなかった。 旧約律法の贖罪儀礼はキリストによる贖罪の予備的教訓に過ぎない。 26節 もしそうだとすれば、世の初めから、たびたび苦難を受けねばならなかったであろう。しかし事実、ご自身をいけにえとしてささげて罪を取り除くために、世の終りに、一度だけ現れたのである。 「世の終りに、一度だけ現れた」とはイエス・キリストの来訪をさしているが、ヨハネ1:14「そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。」という神の言キリストの降誕が神の永遠の計画によって時の中間においてなされたことを基礎としている。これはガラテヤ4:4「時の満ちるに及んで」と同じ趣旨である。したがって、この「一度だけ」という言葉が非常に重みを持っており、三度繰り返されている。 27節 そして、一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっているように、 この贖罪の血はただ人間の願望をあらわした象徴的なものではなく、神の独り子イエスの決定的行為にほかならず、しかもそれは完全無欠の行いであるゆえ、二度とはくりかえされない。 28節 キリストもまた、多くの人の罪を負うために、一度だけご自身をささげられた後、彼を待ち望んでいる人々に、罪を負うためではなしに二度目に現れて、救を与えられるのである。 キリストが「二度目に現れ」るときは、この世の終末、聖徒の完成の日にほかならない。キリストの自己奉献は他の犠牲奉献の儀礼とはまったく異なる完璧なものである。われわれがキリストによる贖罪を受け新生の道を進む意味は、いかなる人生の局面においてもイエス・キリストを主として仰ぎ見ること以外のなにものでもない。 (2020/07/19)
[1] ローマ12:1 兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。
[2] ローマ2:26-27 だから、もし無割礼の者が律法の規定を守るなら、その無割礼は割礼と見なされるではないか。 かつ、生れながら無割礼の者であって律法を全うする者は、律法の文字と割礼とを持ちながら律法を犯しているあなたを、さばくのである。
[3] 高挙 キリスト教の神学用語、「神によって高く挙げられること、引き上げられること、lift upされることー」 日本語の辞書には出てこない言葉 以下 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典より 神は…キリストを死人の中からよみがえらせ,天上においてご自分の右に座せしめ」 (エペソ書1・20,ルカ福音書 22・69,使徒行伝2・33,5・31など) ,彼をあらゆる権力の上に,またあらゆる名の上におかれて,全人類の統治者,すなわち神みずからの力と主権の代行者とされたとするもので,キリストの復活の神学的意味の一つ
[4] 出エジプト24:3 モーセはきて、主のすべての言葉と、すべてのおきてとを民に告げた。民はみな同音に答えて言った、「わたしたちは主の仰せられた言葉を皆、行います」。
[5] 出エジプト24:8 そこでモーセはその血を取って、民に注ぎかけ、そして言った、「見よ、これは主がこれらのすべての言葉に基いて、あなたがたと結ばれる契約の血である」。
[6] レビ17:11 肉の命は血にあるからである。あなたがたの魂のために祭壇の上で、あがないをするため、わたしはこれをあなたがたに与えた。血は命であるゆえに、あがなうことができるからである。
[7] 1ヨハネ1:7 しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。
[8] 1ペテロ1:16 聖書に、「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである」と書いてあるからである。