6章
8章
へブル人への手紙7章
王および祭司であるメルキゼデクは特別な存在(1‐10) 王たる祭司メルキゼデクは永遠の大祭司たる神の子イエスの予表をなしている。 メルキゼデクはレビ族の祭司にまさる。 1節 このメルキゼデクはサレムの王であり、いと高き神の祭司であったが、王たちを撃破して帰るアブラハムを迎えて祝福し、 「サレム [1] の王」とはエルサレムの主権者。「いと高き神の祭司」であるメルキゼデクはキリストの予表であり、キリストの権威はこれに勝ることを以下で解き明かす。「メルキゼデク」を直訳すれば「義の王」となり、旧約ではメシヤとその王国の特徴を示す。(詩編72:1-2、イザヤ9:7,32:1、エレミヤ23:5) 2節 それに対して、アブラハムは彼にすべての物の十分の一 [2] を分け与えたのである。その名の意味は、第一に義の王、次にまたサレムの王、すなわち平和の王である。 「サレム」の意味は「平和」であるから、義の王・・サレムの王・・平和の王と注釈している。 3節 彼には父がなく、母がなく、系図がなく、生涯の初めもなく、生命の終りもなく、神の子のようであって、いつまでも祭司なのである。 レビ族の祭司たちは系図を必要としたが、メルキゼデクは孤立している。「生涯の初めもなく、生命の終りもなく、神の子」のようであって、祭司職の高貴なことと、人により与えられた権威ではなく神の手によるものだということを示唆している。 4節 そこで、族長のアブラハムが最もよいぶんどり品の十分の一を与えたのだから、この人がどんなにすぐれた人物であったかが、あなたがたにわかるであろう。 メルキゼデクの祝福にこたえて族長アブラハムが彼に十分の一捧げたことは、メルキゼデクがいかに高貴な祭司であるかを示す。 5節 さて、レビの子のうちで祭司の務をしている者たちは、兄弟である民から、同じくアブラハムの子孫であるにもかかわらず、十分の一を取るように、律法によって命じられている。 祭司のレビ人は、アブラハムの子孫であるが、同族の人々から、律法によって十分の一を受け取る。 6節 ところが、彼らの血統に属さないこの人が、アブラハムから十分の一を受けとり、約束を受けている者を祝福したのである。 メルキゼデクはアブラハムの子孫でないが、アブラハムから十分の一を受けとったことから、アブラハムよりすぐれ、したがってレビ族の祭司よりもはるかにすぐれた祭司であることが明白である。 7節 言うまでもなく、小なる者が大なる者から祝福を受けるのである。 祝福を与えるものは、祝福を受けるものにまさる。 8節 その上、一方では死ぬべき人間が、十分の一を受けているが、他方では「彼は生きている者」とあかしされた人が、それを受けている。 レビ族の祭司たちは普通の人間であるが、メルキゼデクは「生命の終りもなく」彼らとは異なる地位を占めている。 9節 そこで、十分の一を受けるべきレビでさえも、アブラハムを通じて十分の一を納めた、と言える。 人々から十分の一を受けるレビ族の祭司たちはアブラハムの子孫であるから、「アブラハムを通じて」メルキゼデクに十分の一を納めたことになる。 10節 なぜなら、メルキゼデクがアブラハムを迎えた時には、レビはまだこの父祖の腰の中にいたからである。 すなわちレビ族の祭司たちはメルキゼデクよりも下位ということになる。さらに、大祭司たるイエスはこのメルキゼデクよりも高い位置にいる。その仲保者の御業は到底この世の祭司たちの及ぶところではない。イエス・キリストは永遠の大祭司として従来の律法を不要に帰せしめたのである。 キリストは祭司族に勝る(11‐28) キリストは神に来る人々をいつも救うことができる(25) 11節 もし全うされることがレビ系の祭司制によって可能であったら――民は祭司制の下に律法を与えられたのであるが――なんの必要があって、なお、「アロンに等しい」と呼ばれない、別な「メルキゼデクに等しい」祭司が立てられるのであるか。 レビ系の祭司制では救いが全うされない(律法は、何事をも全うし得なかった)ため、「メルキゼデクに等しい」祭司が必要である。 12節 祭司制に変更があれば、律法にも必ず変更があるはずである。 旧約の律法と祭儀は不可分であったことを示す。 13節 さて、これらのことは、いまだかつて祭壇に奉仕したことのない、他の部族に関して言われているのである。 主イエスはレビ族の出身ではない。今やレビ族以外から祭司が出現したのである。 14節 というのは、わたしたちの主がユダ族の中から出られたことは、明らかであるが、モーセは、この部族について、祭司に関することでは、ひとことも言っていない。 「主がユダ族の中」、すなわちダビデ王の家系であるが祭司族ではない。メルキゼデクも王にして祭司の職を得た。 15節 そしてこの事は、メルキゼデクと同様な、ほかの祭司が立てられたことによって、ますます明白になる。 ほんとうの祭司職、永遠の仲保者はこの世の血族関係や社会的階級によって得る者ではない。 16節 彼は、肉につける戒めの律法によらないで、朽ちることのないいのちの力によって立てられたのである。 あるいは「肉につける戒めの律法」によるものではない。まことに死人をよみがえらす神の力によるのである。 17節 それについては、聖書に「あなたこそは、永遠に、メルキゼデクに等しい祭司である」 [3] とあかしされている。 18節 このようにして、一方では、前の戒めが弱くかつ無益であったために無効になると共に、 律法の改廃。キリストの福音が律法の時代を過ぎ去らせた。 19節 (律法は、何事をも全うし得なかったからである)、他方では、さらにすぐれた望みが現れてきて、わたしたちを神に近づかせるのである。 新しい契約による希望。優越した希望が来て、信仰の力となった。希望は神の約束によってもたらされる。「わたしたちを神に近づかせる」のは旧約の祭司によるのではなく、神の独り子の贖罪による。 20節 その上に、このことは誓いをもってなされた。人々は、誓いをしないで祭司とされるのであるが、 21節 この人の場合は、次のような誓いをもってされたのである。すなわち、彼について、こう言われている、「主は誓われたが、心を変えることをされなかった。あなたこそは、永遠に祭司である」。 22節 このようにして、イエスは更にすぐれた契約の保証となられたのである。 アロンの系譜に立つ祭司職は暫定的であるが、イエス・キリストは神の永久不変の契約によるものなのでまことに恒久にして永遠である。「更にすぐれた契約の保証」とは神の新しい契約仲保者となったという意味で、福音そのものを指す。 「契約」は旧約の時代は、選民に対する神の約束を指していたが、いまやこの約束はイスラエルの民をこえて、全世界から招かれたキリストによる新しい選民に向けられている。これは神の一方的な恵であるが、相手の信仰を確認しその責任を問うという仕方による。イエス自身がこのたぐいない契約の保証となられている。 23節 かつ、死ということがあるために、務を続けることができないので、多くの人々が祭司に立てられるのである。 24節 しかし彼は、永遠にいますかたであるので、変らない祭司の務を持ちつづけておられるのである。 25節 そこでまた、彼は、いつも生きていて彼らのためにとりなしておられるので、彼によって神に来る人々を、いつも救うことができるのである。 この保証はなによりも、死者のよみがえりの初穂であるイエス・キリストであるから、普通の祭司たちが及びもつかないのは当然である。彼らは人間であるからその死によって交替せざるを得ない。そこで多くの祭司がつぎつぎにあらわれてくるが、主イエスはただひとりである。「神に来る人々」はキリストによって神との交わりがゆるされ祈りの集いに迎え入れられたことを指している。イエスはその血(10:19)ととりなし(7:25)と契約の保証(7:22)とによってわれわれを神に近づかせた。永遠の生命にいたる道がそこに開かれる。 26節 このように、聖にして、悪も汚れもなく、罪人とは区別され、かつ、もろもろの天よりも高くされている大祭司こそ、わたしたちにとってふさわしいかたである。 27節 彼は、ほかの大祭司のように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために、日々、いけにえをささげる必要はない。なぜなら、自分をささげて、一度だけ、それをされたからである。 28節 律法は、弱さを身に負う人間を立てて大祭司とするが、律法の後にきた誓いの御言は、永遠に全うされた御子を立てて、大祭司としたのである。 アブラハムにまさり(7:6)、新しい秩序の創始者であり(7:16)、神の誓いによって立てられた(7:21)、永遠の大祭司は、「聖にして、悪も汚れもなく、」自分自身に対し、また隣にむかって、まことに神の人たるにふさわしい関りを持ち続ける。それゆえ彼は「罪人とは区別され」罪過に陥ることなく(4:15)、十字架の後によみがえり、天に昇り、「もろもろの天よりも高くされ」今栄光の場所において仰がれたもう(4:14)。 「聖」、「悪もなく」、「汚れもなく」の三つは主イエスの地上における生活態度であった。これらの特質は祭司の資格として要求されるものであったが、主イエスはこの点で欠けるものがなかったばかりでなく、まさにその模範であった。イエスの生涯は、その本質の資質を持って神の子にふさわしいものであった。 キリストの犠牲は自分の罪のためではなく、全人類のためであった。そしてそれはただ一度だけであった。 (2019/11/11)
[1] 詩編76:2 「その幕屋はサレムにあり、 そのすまいはシオンにある。」
[2] 創世記4:17-20 「アブラムがケダラオメルとその連合の王たちを撃ち破って帰った時、ソドムの王はシャベの谷、すなわち王の谷に出て彼を迎えた。 その時、サレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒とを持ってきた。彼はいと高き神の祭司である。 彼はアブラムを祝福して言った、 「願わくは天地の主なるいと高き神が、 アブラムを祝福されるように。 願わくはあなたの敵をあなたの手に渡された いと高き神があがめられるように」。 アブラムは彼にすべての物の十分の一を贈った。」
[3] 詩編110:4 「主は誓いを立てて、み心を変えられることはない、 「あなたはメルキゼデクの位にしたがって とこしえに祭司である」。」