1章
3章
へブル人への手紙2章
ここでは、1章に述べられた事情に基づいて、クリスチャンの責任の重大さについて教えている。それは、古い律法による契約の関係から、神の御子イエス・キリストによる新しい契約の関係となった今、クリスチャンはいっそう戒めを守る道を歩まなければならないことである(1)。まず、過去の時代の律法的教育を想いおこさせ(2)、クリスチャンとなった責任を正しく理解し従わなければならないこと(3)を教え、しかもそれを神自身が支えている(4)ことを告げている。 イエス・キリストの権威は人類の救い主、世の贖い主として犠牲の道を歩んだ彼の謙虚と別のものではなく、神の計画による救いの秩序である。キリストの勝利による人間の光栄(5-9)と、それが彼の苦難によって獲得された(10-18)ものである。これは1コリント15:54-57の信仰認識を根底としており、ピリピ2:6-11と共通する表現であり、キリスト降誕の奥義を強調している。 御言葉に対し強い注意を払う(1-4) 1節 こういうわけだから、わたしたちは聞かされていることを、いっそう強く心に留めねばならない。そうでないと、おし流されてしまう。 このように神のひとり子である御子イエス・キリストは、父なる神から「神よ」と呼ばれている天地の創造主であり、天使はこれとイエスを救い主と信じる「救を受け継ぐべき人々」に仕える霊である。 これらの救いについての教えを、ますますしっかりと心に留めて、押し流されないようにしなければならない。 2節 というのは、御使たちをとおして語られた御言が効力を持ち、あらゆる罪過と不従順とに対して正当な報いが加えられたとすれば、 モーセの律法は、神が「御使たちをとおして語られた御言」であった。その律法が「効力を持ち」、すべての罪過を犯した人や不従順な人は、律法に照らし合わせて正当な処罰を受けた。 3節 わたしたちは、こんなに尊い救をなおざりにしては、どうして報いをのがれることができようか。この救は、初め主によって語られたものであって、聞いた人々からわたしたちにあかしされ、 キリストの共同の相続人として「救を受け継ぐ人」になるという素晴らしい教えをないがしろにするなら、神からの処罰を免れることはできない。この救いの教えは、最初主ご自身によって語られ、それを聞いた使徒たちによって、人々に証された。 4節 さらに神も、しるしと不思議とさまざまな力あるわざとにより、また、御旨に従い聖霊を各自に賜うことによって、あかしをされたのである。 しるしと不思議をともなった宣教とともに、御旨に従って聖霊が各自に与えられて主のみことばが確かなものであるという証を得たのだった。 [1] イエスは全てのものの上に立つ(5‐9) 5節 いったい、神は、わたしたちがここで語っているきたるべき世界を、御使たちに服従させることは、なさらなかった。 イエスは「きたるべき世界」福千年の世の王・統治者となり、救いを受け継ぐ人々は、その国の民、祭司となる。 [2] (黙示1:6)。この王国を御使いたちが相続することはない。 6節 聖書はある箇所 [3] で、こうあかししている、 「人間が何者だから、 これを御心に留められるのだろうか。 人の子が何者だから、 これをかえりみられるのだろうか。 神が創られた万物の中で人間は非常に小さな存在である。 神は何故このような者を御心に留めておられるのだろうか。 7節 あなたは、しばらくの間、彼を御使たちよりも低い者となし、栄光とほまれとを冠として彼に与え、 8節 万物をその足の下に服従させて下さった」。 [4] 「万物を彼に服従させて下さった」という以上、服従しないものは、何ひとつ残されていないはずである。しかし、今もなお万物が彼に服従している事実を、わたしたちは見ていない。 神が人を造られたとき、人が行なうことは、この地を支配して、生き物を従わせることであった。 すなわち、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」というのが神の最終的な意図である。しかし、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見ていない。これはアダムの堕落の結果であるが、それは神の永遠の計画の始まりの一部であって、私たちはまだその途上にいるに過ぎない。 9節 ただ、「しばらくの間、御使たちよりも低い者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、栄光とほまれとを冠として与えられたのを見る。それは、彼が神の恵みによって、すべての人のために死を味わわれるためであった。 イエスは、人を贖い出して神のもとに帰すために「御使たちよりも低い者」、すなわち人としてこの世に来られた。そしてイエスは、父なる神の御心に従って霊と体の死の苦しみを味われ、栄光と誉れとを冠として与えられた。それはすべての人が、その人の罪過のために受けなければならない死の苦しみを、「神の恵み」により神の独り子イエスが、その人の罪を贖うために代わって受けたためである。 きよめられる者たちを兄弟と呼ぶ(10‐18) イエスは救いへと導く方(10)、憐れみ深い大祭司(17) 10節 なぜなら、万物の帰すべきかた、万物を造られたかたが、多くの子らを栄光に導くのに、彼らの救の君を、苦難をとおして全うされたのは、彼にふさわしいことであったからである。 神であるイエスが人となって、架刑に処せられたのは、「多くの子らを栄光に導く」ためであった。神と人との大きな隔たりを埋めることができるのは、万物の創造主だけが可能であったため、地上に下り人と同じ苦しみを味わい、人を滅びから救うことが「救いの君」イエスにふさわしいことだった。 このようにイエスは、人のために想像できないほどの苦しみを味わい、人々を罪と死から解放し、再び神の子ども、神の相続人としての地位を得ることができるようにした。 11節 実に、きよめるかたも、きよめられる者たちも、皆ひとりのかたから出ている。それゆえに主は、彼らを兄弟 [5] と呼ぶことを恥とされない。 「きよめるかた」とはイエスであり、「きよめられる者たち」とは私たち。「皆ひとりのかたから」というのは、イエスは人となって、アダムと同じような人間になられたという意味である。私たちはアダムの子孫だが、イエスも同じようになられた。イエスは全人類を贖うことによって、長兄になぞらえることができる。神を父と呼ぶ者にとって、互いに兄弟姉妹であることは理にかなっている。ここの「恥と」しないとは、否定しない、否認しないと同義。 12節 すなわち、「わたしは、御名をわたしの兄弟たちに告げ知らせ、教会の中で、あなたをほめ歌おう」 [6] と言い、 すべてイエスを信じる者は神の子とされる。 主イエスは彼らを「兄弟」とされた。 13節 また、「わたしは、彼により頼む」、また、「見よ、わたしと、神がわたしに賜わった子らとは」と言われた。 [7] 「神がわたしに賜わった子ら」は、イエスが仲保者であることを証言するための引用。 イエスが全人類のために苦しみを通られたゆえに、イエスを贖い主とより頼む者は、聖なる者とされて、この世のものから切り離され、神の家族の中に入り兄弟姉妹となった。 14節 このように、子たちは血と肉とに共にあずかっているので、イエスもまた同様に、それらをそなえておられる。それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、 「血と肉とに共にあずかっている」とは人間の存在状況を表す。そのようにイエスも人としてこの世に生まれ、そしてその死によって「死の力を持つ者」を無力にし、人を死の恐怖から解放した。 15節 死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである。 キリストを信ずる者は、イエスの復活の力にあずかり、奴隷の境遇から解放されて新しい命の道を歩む。死が自然現象であるなら、恐怖に終わらないだろうが、血と肉にあずかる人間の現実は「死の恐怖」に満たされている。そこには罪が隠されているからである。イエスは贖罪の偉大な効力によってこの罪の力を滅ぼした。奴隷はいつも恐怖を抱いている。しかしイエスに従う者は、復活者イエスの光の下に恐怖を抱かない。 16節 確かに、彼は天使たちを助けることはしないで、アブラハムの子孫を助けられた。 イエスは「天使たち」を救うためではなく、「アブラハムの子孫」(聖徒たち)を救うために来た。これまで度々天使を引き合いに出したが、イエスの救いの対象は人間であることを明確にしている。 17節 そこで、イエスは、神のみまえにあわれみ深い忠実な大祭司となって、民の罪をあがなうために、あらゆる点において兄弟たちと同じようにならねばならなかった。 イエスは死を滅ぼし、その恐怖を取り除いて、信じる人に新しい自由を与えた。そのうえ、イエスは「あらゆる点において兄弟たちと同じように」なられ、神の御前に大祭司として立ち永遠にとりなしを行う。 18節 主ご自身、試錬を受けて苦しまれたからこそ、試錬の中にある者たちを助けることができるのである。 試錬の中にある者たちを助けるために、「主ご自身」が、みずから同じ「試錬を受けて苦しまれ」なければならなかった。これによって今なおイエスは神と人との仲保者として、人のとりなしを行うのである。 神の子イエスが人となって行った業により神の大祭司となられた長兄は、試錬の中にある者たちの同情者であり、いつでも手を差し伸べる頼もしい友である。 (2019/11/14)
[1] 1コリント12:8-11 「すなわち、ある人には御霊によって知恵の言葉が与えられ、ほかの人には、同じ御霊によって知識の言、 またほかの人には、同じ御霊によって信仰、またほかの人には、一つの御霊によっていやしの賜物、 またほかの人には力あるわざ、またほかの人には預言、またほかの人には霊を見わける力、またほかの人には種々の異言、またほかの人には異言を解く力が、与えられている。 すべてこれらのものは、一つの同じ御霊の働きであって、御霊は思いのままに、それらを各自に分け与えられるのである。」
[2] 黙示1:6 「わたしたちを、その父なる神のために、御国の民とし、祭司として下さったかたに、世々限りなく栄光と権力とがあるように、アァメン。 」
[3] 詩篇8:4 「人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか、 人の子は何者なので、これを顧みられるのですか。」
[4] 詩篇8:5 「ただ少しく人を神よりも低く造って、 栄えと誉とをこうむらせ、 詩篇8:6 「これにみ手のわざを治めさせ、 よろずの物をその足の下におかれました。
[5] マタイ25:40 「すると、王は答えて言うであろう、 『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、 すなわち、わたしにしたのである』。」 マルコ3:34-35 「そして、自分をとりかこんで、すわっている人々を見まわして、言われた、 「ごらんなさい、ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。 神のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」。 」 ヨハネ20:17 「イエスは彼女に言われた、 「わたしにさわってはいけない。わたしは、まだ父のみもとに上っていないのだから。 ただ、わたしの兄弟たちの所に行って、『わたしは、わたしの父またあなたがたの父であって、 わたしの神またあなたがたの神であられるかたのみもとへ上って行く』と、彼らに伝えなさい」。」 (復活したイエスは、弟子たちのことを「わたしの兄弟たち」と言われた。)
[6] 詩篇22:22 「わたしはあなたのみ名を兄弟たちに告げ、 会衆の中であなたをほめたたえるでしょう。」
[7] イザヤ8:17-18 「主はいま、ヤコブの家に、み顔をかくしておられるとはいえ、 わたしはその主を待ち、主を望みまつる。 見よ、わたしと、主のわたしに賜わった子たちとは、 シオンの山にいます万軍の主から与えられたイスラエルのしるしであり、前ぶれである。」