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へブル人への手紙10章

動物の犠牲には効果がない(1‐4)
旧約の祭司の犠牲奉献は予備的任務に過ぎない。したがって、幾たびも繰り返さなければならない。
1節 いったい、律法はきたるべき良いことの影をやどすにすぎず、そのものの真のかたちをそなえているものではないから、年ごとに引きつづきささげられる同じようないけにえによっても、みまえに近づいて来る者たちを、全うすることはできないのである。
   律法の贖罪儀礼は、「きたるべき良いこと」すなわちキリスト(コロサイ2:17 [1] )、「真のかたち」すなわちキリストの福音(ローマ10:15 [2] )のひな型であって、それゆえ何度も繰り返さなければならない。
2節 もしできたとすれば、儀式にたずさわる者たちは、一度きよめられた以上、もはや罪の自覚がなくなるのであるから、ささげ物をすることがやんだはずではあるまいか。
   しかし、実際には「全うすることはできない」から「一度きよめられた」としても「罪の自覚がなくなる」ことはない。この「自覚」は原語では「良心」と訳されるので、意訳では「もはや良心にうったえて、その罪過の赦しを確認した以上は」ということになる。しかし旧約祭司の贖罪儀礼はそれだけの力を持つことはできない。
3節 しかし実際は、年ごとに、いけにえによって罪の思い出がよみがえって来るのである。
   律法の贖罪儀礼を幾たびも繰り返すことは、単に「罪の思い出」(民数5:15罪を覚えさせるもの [3] )すなわち罪の自覚を新たにするだけである。マルコ4:12「彼らは見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、悟らず、悔い改めてゆるされることがない」の状況である。
4節 なぜなら、雄牛ややぎなどの血は、罪を除き去ることができないからである。
   まず罪の自覚が必要であるが、律法の贖罪儀礼ではその次の「罪を除き去る」ことはできない。罪悪の徹底的治療にはキリストの贖罪が必要なのである。それは人間の罪過の重々しさが原因なので真の贖罪は動物の血を犠牲の象徴とするだけでは満たされないからである。罪の除去、贖罪は人格的関係によって生起すべき事柄であるから、その条件もまた律法的な祭儀ではなく、神が受け入れる完全な人格的行為でなければならない。神の御子イエス・キリストの犠牲の意義がそこにある。主イエスが全人類の罪のために自ら命を捧げられたことによって、旧約儀礼には不可能だった究極的な贖罪が成し遂げられたのである。

一度限り捧げられたキリストの犠牲(5‐18)
キリストによる犠牲と旧約儀礼の終息
5節 それだから、キリストがこの世にこられたとき、次のように言われた、「あなたは、いけにえやささげ物を望まれないで、わたしのために、からだを備えて下さった。
   5-9節は詩篇40:6-8 [4] の引用。律法の不完全な儀礼を続けることは神の御心ではない。「キリストがこの世にこられたとき」は、イエスの贖い主としての行為は天父の救いの計画の御心に沿ったもの (ヨハネ6:38 [5] )であるということを教えている。
6節 あなたは燔祭や罪祭を好まれなかった。
   ただ律法を形式的に守り、宗教儀式をくりかえすやりかたを咎める警告は、預言者たちがたびたび行ってきたことだった(1サムエル15:22,詩篇50:8-,51:16-,ホセア6:6,イザヤ1:10-,エレミヤ7:21-)。
7節 その時、わたしは言った、『神よ、わたしにつき、巻物の書物に書いてあるとおり、見よ、御旨を行うためにまいりました』」。
   キリスト降誕は万人に代わって神の御前に正しい捧げものとして贖いの業を行うためであったことを教えている。
8節 ここで、初めに、「あなたは、いけにえとささげ物と燔祭と罪祭と(すなわち、律法に従ってささげられるもの)を望まれず、好まれもしなかった」とあり、
   引用した詩篇の解説
9節 次に、「見よ、わたしは御旨を行うためにまいりました」とある。すなわち、彼は、後のものを立てるために、初めのものを廃止されたのである。
   「後のものを立てるために、初めのものを廃止された」福音による律法の終息(ローマ10:4 [6] )。
10節 この御旨に基きただ一度イエス・キリストのからだがささげられたことによって、わたしたちはきよめられたのである。
   イエスの犠牲はわれわれを罪の贖い聖別するためである。イエスの贖罪は信ずるものをきよめ、聖徒の成長と完成を可能ならしめるものであることをこの手紙で強調している。
11節 こうして、すべての祭司は立って日ごとに儀式を行い、たびたび同じようないけにえをささげるが、それらは決して罪を除き去ることはできない。
   18節までは、これまで述べてきた内容を総括している。旧約以来の祭司の日々のいけにえをささげる儀礼は贖罪の効果がない。
12節 しかるに、キリストは多くの罪のために一つの永遠のいけにえをささげた後、神の右に座し、
   しかしキリストのただ一度の犠牲奉献によって新しい契約が完成した。詩篇110:1 [7] を引用し、前節の「祭司は立って」と「神の右に座し」を対照させキリストの勝利をうたっている。
13節 それから、敵をその足台とするときまで、待っておられる。
   「敵をその足台とするとき」とは再臨によって悪魔の仕業を打ち滅ぼすとき。すでに「永遠のいけにえ」をささげられたので、神の右に座したままいるのである。
14節 彼は一つのささげ物によって、きよめられた者たちを永遠に全うされたのである。
   勝利者キリストの支配は、この世の終わりにいたるまで、聖徒たちをきよめ、完成への道を永久に約束する。
15節 聖霊もまた、わたしたちにあかしをして、
   神の新しい契約が、石の板ではなく私たちの心の中に置かれる、すなわち御霊によって心の一新が行われたのである。
16節 「わたしが、それらの日の後、彼らに対して立てようとする契約はこれであると、主が言われる。わたしの律法を彼らの心に与え、彼らの思いのうちに書きつけよう」と言い、
   エレミヤ31:33 [8] の引用
17節 さらに、「もはや、彼らの罪と彼らの不法とを、思い出すことはしない」と述べている。
   8:12を繰り返して、これまでの総括としている。
18節 これらのことに対するゆるしがある以上、罪のためのささげ物は、もはやあり得ない。
   これまで述べたようにキリストによる贖罪が完成したからにはキリストを信じその道を歩む以外に救いの道はない。律法の儀礼とその時代はすでに過ぎ去り、キリストの福音と新しい契約の時代となったのである(2コリント5:17-19 [9] )。「罪のためのささげ物は、もはやあり得ない」は神の独り子としてのキリストの権威とキリストを贖い主と信ずる聖徒の責任を明らかに告げている。この確信は「「もはや、彼らの罪と彼らの不法とを、思い出すことはしない」という神の恵み深い約束の言葉に基づいている。完全な贖罪と新生とが約束されているのである。

聖なる場所に入るための新しい生きた道(19‐25)
実践的な信仰生活の勧め。信仰はなによりもさきに、「イエスの血」による贖罪の恵みにあずかるこをもって始められる。そしていま大祭司なるイエス・キリストのとりなしによってきよめられ完成の道をすすませる。それゆえ神に近づくこと(22)、信仰を告白し堅く守ること(23)、愛と善行に励むこと(24)。集会に忠実に励むこと(25)。これらの務めをいっそう勤勉にしなければならない。
19節 兄弟たちよ。こういうわけで、わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることができ、
   「兄弟たちよ」(3:12)、「わたしたちは」ともに、主イエスの血によって、もはや古い贖罪儀礼によらず、直ちに天父に祈り礼拝することができるのである。
20節 彼の肉体なる幕をとおり、わたしたちのために開いて下さった新しい生きた道をとおって、はいって行くことができるのであり、
   「彼の肉体なる幕」はイエスのからだを神殿の幕になぞらえ、いまやはばからず信者が神に近づくことができる。それはあたかも祭司以外の者を至聖所から隔てた、あの幕が取り除かれたようなもので、そのためにイエスの贖罪が必要であったのである。いまわれわれは「新しい生きた道」イエスの贖罪の道に従って、古い律法の規定によらず、勇気をもって神の御前に進むことができるようになった。われわれは神との交わりにおいてキリスト以外の仲介者を必要としない。
21節 さらに、神の家を治める大いなる祭司があるのだから、
   キリストは「神の家」を治める。モーセが地上のイスラエルの指導者であったことと対照している。
22節 心はすすがれて良心のとがめを去り、からだは清い水で洗われ、まごころをもって信仰の確信に満たされつつ、みまえに近づこうではないか。
   「心はすすがれて」キリストの血によって悔い改めの結果を生じる。「からだは清い水で洗われ」バプテスマによって罪の赦しを受けきよめられる(1ペテロ3:21 [10] )。
23節 また、約束をして下さったのは忠実なかたであるから、わたしたちの告白する望みを、動くことなくしっかりと持ち続け、
   この信仰の確信は「約束をして下さったのは忠実なかた」イエス・キリストによる神の確約であるから、「わたしたちの告白」信仰の告白には希望があるのである。
24節 愛と善行とを励むように互に努め、
   この希望によって、「愛と善行」に励み、
25節 ある人たちがいつもしているように、集会をやめることはしないで互に励まし、かの日が近づいているのを見て、ますます、そうしようではないか。
   「かの日が近づいて」終末の日を待つ備えを堅くして、キリストの御名による祈りと礼拝の集会を続けようではないか。あらゆる困難に耐え、この教会的実践を続けることによって、「忠実なかた」に答えるわれわれの信仰が確信となる。

故意の罪に対する警告(26‐31)
信仰生活からの脱落の警戒と離教のおそろしさの警告。背教の危険これまでに何度も戒めたが(2:1-3,3:12-14,4:11-13,6:4-8)、それは信仰生活の怠惰と、迫害を恐れる臆病とから起こる危険であるから、ここで強い言葉で再度繰り返すしている。この手紙の読者は、こういう環境から遠い距離ではなかったろう。おそらく今の聖徒をとりまく状況も同じことがいえるであろう。
26節 もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。
   「真理の知識を受けたのち」バプテスマを受け、キリストの道に入ったのち。「ことさらに罪を犯しつづける」意識して罪を犯し続けて、その罪悪を平気でいること。ヨハネの手紙はこの人々のずうずうしい状態を明確にし、弾劾している(1ヨハネ1:6-10 [11] )。キリストの道に入った後に罪を犯し続けるその状態はマルコ3:29の「聖霊を汚すもの」とあるような罪悪にも等しい。
27節 ただ、さばきと、逆らう者たちを焼きつくす激しい火とを、恐れつつ待つことだけがある。
   彼らには厳しい採決が下される。「焼きつくす激しい火」神の審判はしばしば火になぞらえる(ミカ1:4,ゼパニヤ1:18)。
28節 モーセの律法を無視する者が、あわれみを受けることなしに、二、三の人の証言に基いて死刑に処せられるとすれば、
   モーセの律法を無視する者への処罰があれほど恐るべきものであった以上、神の子の福音を侮る者のさばきがいかに重くあるかを警告している。「二、三の人の証言に基いて死刑に処せられる」(申命17:2-7 [12] )。
29節 神の子を踏みつけ、自分がきよめられた契約の血を汚れたものとし、さらに恵みの御霊を侮る者は、どんなにか重い刑罰に価することであろう。
   これは考えうるかぎりの信仰の離反である。
30節 「復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と言われ、また「主はその民をさばかれる」と言われたかたを、わたしたちは知っている。
   「復讐はわたしのすることである」、「主はその民をさばかれる」(申命32:35-36 [13] )。しかも、神の審判は他の面においてまたわれわれの罪過をきよめて救いに至らせるのである [14]
31節 生ける神のみ手のうちに落ちるのは、恐ろしいことである。
   神の審判の恐ろしさを示す。

確信と信仰を持って忍耐する(32‐39)
ここではこの手紙の読者にかつての彼らの経験を想いおこさせ、積極的な励ましを与えている。彼らは残酷な迫害によく耐えて信仰の節操を全うしてきた。この確信を今後も変わることなく持ち続けることを勧める。信仰には忍耐と勇気を要するが、その基礎には大いなる希望が横たわる(34,35)からである。
32節 あなたがたは、光に照されたのち、苦しい大きな戦いによく耐えた初めのころのことを、思い出してほしい。
   信仰生活における忍耐はクリスチャンの著しい徳を成している(ヤコブ1:2-4,1ペテロ1:5-7)。その徳によって得た勝利の記憶を失うなと勧告している。
33節 そしられ苦しめられて見せ物にされたこともあれば、このようなめに会った人々の仲間にされたこともあった。
   迫害時の残虐行為。それは彼らの信仰生活における火による精錬(1ペテロ1:7)のようでもあったであろうし、大いなる精神の戦いであったに違いない。
34節 さらに獄に入れられた人々を思いやり、また、もっとまさった永遠の宝を持っていることを知って、自分の財産が奪われても喜んでそれを忍んだ。
   この世の財産と信仰の確かさを取り違えず、同信の友の苦難を分かち合い、ふかい同情を交わしてきた。この忍耐と勇気は終末的な希望によって支えられている(1テモテ6:17-19)。
35節 だから、あなたがたは自分の持っている確信を放棄してはいけない。その確信には大きな報いが伴っているのである。
   だからいまわれわれはこの経験を忘れてはならない。この信仰の確信は忍耐によって実証される。
36節 神の御旨を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である。
   この忍耐は消極的ではなく、きわめて積極的でなもので、迫害艱難に対する抵抗の力である(マルコ13:13)。
37節 「もうしばらくすれば、きたるべきかたがお見えになる。遅くなることはない。
   「きたるべきかたがお見えになる。遅くなることはない。」(ハバクク2:3 [15] )。「きたるべきかた」の原意は幻・預言もしくはメシヤであるが、ここではキリストにあてはめている。
38節 わが義人は、信仰によって生きる。もし信仰を捨てるなら、わたしのたましいはこれを喜ばない」。
   「義人は、信仰によって生きる」(ハバクク2:4)。ローマ1:17,ガラテヤ3:11でも引用している。この手紙では忍耐によって示す信仰の実践をさしている。
39節 しかしわたしたちは、信仰を捨てて滅びる者ではなく、信仰に立って、いのちを得る者である。
   「信仰に立って、いのちを得る」この世のいのちはたましいとも訳される。霊性、生命は同一線上に用いられるが、いずれもキリストによって贖われ新たに生まれ変わることを予想する。それゆえ信仰の道を邁進するするほかに、これを得ることはできないのである。

(2020/07/26)


[1]  コロサイ2:17
    これらは、きたるべきものの影であって、その本体はキリストにある。

[2]  ローマ10:15
   つかわされなくては、どうして宣べ伝えることがあろうか。「ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は」と書いてあるとおりである。

[3]  民数5:15
   夫は妻を祭司のもとに伴い、彼女のために大麦の粉一エパの十分の一を供え物として携えてこなければならない。ただし、その上に油を注いではならない。また乳香を加えてはならない。これは疑いの供え物、覚えの供え物であって罪を覚えさせるものだからである。
   *新改訳聖書2017では、ヘブル9:7「しかし、第二の幕屋には年に一度、大祭司だけが入ります。そのとき、自分のため、また民が知らずに犯した罪のために献げる血を携えずに、そこに入るようなことはありません。」を参照し「知らずに犯した罪」を覚えさせるものとしている。

[4]  詩篇40:6-8
   あなたはいけにえと供え物とを喜ばれない。
   あなたはわたしの耳を開かれた。
   あなたは燔祭と罪祭とを求められない。
   その時わたしは言った、「見よ、わたしはまいります。
   書の巻に、わたしのためにしるされています。
   わが神よ、わたしはみこころを行うことを喜びます。
   あなたのおきてはわたしの心のうちにあります」と。

[5]  ヨハネ6:38
   わたしが天から下ってきたのは、自分のこころのままを行うためではなく、わたしをつかわされたかたのみこころを行うためである。

[6]  ローマ10:4
    キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終りとなられたのである。

[7]  詩篇110:1
   主はわが主に言われる、
   「わたしがあなたのもろもろの敵を
   あなたの足台とするまで、わたしの右に座せよ」と。

[8]  エレミヤ31:33
   しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。

[9] 2コリント5:17-19
   だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。 しかし、すべてこれらの事は、神から出ている。神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務をわたしたちに授けて下さった。 すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである。

[10] 1ペテロ3:21
   この水はバプテスマを象徴するものであって、今やあなたがたをも救うのである。それは、イエス・キリストの復活によるのであって、からだの汚れを除くことではなく、明らかな良心を神に願い求めることである。

[11] 1ヨハネ1:6-10
   神と交わりをしていると言いながら、もし、やみの中を歩いているなら、わたしたちは偽っているのであって、真理を行っているのではない。 しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。 もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。 もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。 もし、罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とするのであって、神の言はわたしたちのうちにない。

[12] 申命17:2-7
   あなたの神、主が賜わる町で、あなたがたのうちに、もし男子または女子があなたの神、主の前に悪事をおこなって、契約にそむき、 行って他の神々に仕え、それを拝み、わたしの禁じる、日や月やその他の天の万象を拝むことがあり、 その事を知らせる者があって、あなたがそれを聞くならば、あなたはそれをよく調べなければならない。そしてその事が真実であり、そのような憎むべき事が確かにイスラエルのうちに行われていたならば、 あなたはその悪事をおこなった男子または女子を町の門にひき出し、その男子または女子を石で撃ち殺さなければならない。 ふたりの証人または三人の証人の証言によって殺すべき者を殺さなければならない。ただひとりの証人の証言によって殺してはならない。 そのような者を殺すには、証人がまず手を下し、それから民が皆、手を下さなければならない。こうしてあなたのうちから悪を除き去らなければならない。

[13]  申命32:35-36
   彼らの足がすべるとき、
   わたしはあだを返し、報いをするであろう。
   彼らの災の日は近く、
   彼らの破滅は、
   すみやかに来るであろう。
   主はついにその民をさばき、
   そのしもべらにあわれみを加えられるであろう。
   これは彼らの力がうせ去り、
   つながれた者もつながれない者も、
   もはやいなくなったのを、主が見られるからである。

[14]  イザヤ4:4
   そして主が審判の霊と滅亡の霊とをもって、シオンの娘らの汚れを洗い、エルサレムの血をその中から除き去られるとき、シオンに残る者、エルサレムにとどまる者、すべてエルサレムにあって、生命の書にしるされた者は聖なる者ととなえられる。

[15]  ハバクク2:3-4
   この幻はなお定められたときを待ち、
   終りをさして急いでいる。それは偽りではない。
   もしおそければ待っておれ。
   それは必ず臨む。滞りはしない。
   見よ、その魂の正しくない者は衰える。
   しかし義人はその信仰によって生きる。