10章
12章
へブル人への手紙11章
信仰とは(1-2) 信仰は神の約束に基づく。強い希望と神の全能に対する信頼から生ずる知識もって支えられる。 1節 さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。 信仰はまことの存在、ほんとうの現実を知ることであり、単に感覚に訴えられる表面的なものではない。「確信し」、「確認する」とは自ら証拠だてること、証人となること。 2節 昔の人たちは、この信仰のゆえに賞賛された。 信仰の先人たちは、みな証人となった。 信仰の手本(3‐40) 旧約聖書の族長たちの信仰の模範。 神の約束に対する全幅の信頼。勇気そして忍耐を必要とする。 3節 信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。 「この世界が神の言葉で造られた」という事実は、神の御子イエスがこの世界の唯一の主であることを意味する。神の恵み深い支配が、今日のわれわれの生存をささえている。信仰はこの事実を直視し、そこに雄々しい忍耐がうまれこの世の変動や混乱に際して正しく自分を処することができるようになる。信仰は盲目的ではなく、かえってより高く深い知識にいたる。そして希望と愛とに満たされた確信として現れる。 4節 信仰によって、アベルはカインよりもまさったいけにえを神にささげ、信仰によって義なる者と認められた。神が、彼の供え物をよしとされたからである。彼は死んだが、信仰によって今もなお語っている。 (創世記4:3-4)土を耕すものカインは、地の産物を主に供えた。神はカインの供え物を顧みなかったので、カインは怒って顔を伏せた。一方、羊を飼う者アベルは、その群れのういごと肥えたもの、すなわち一番良いものを神に捧げた。アベルは神を敬っているとしてアベルと供え物とを帰りみた。 5節 信仰によって、エノクは死を見ないように天に移された。神がお移しになったので、彼は見えなくなった。彼が移される前に、神に喜ばれた者と、あかしされていたからである。 6節 信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自身を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。 (創世記5:21-24)信仰の本領は神に栄光を帰すこと、またその喜びにあずかることである。エノクはその信仰によって、「神に喜ばれた者」となり、「死を見ないように天に移された」。 7節 信仰によって、ノアはまだ見ていない事がらについて御告げを受け、恐れかしこみつつ、その家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世の罪をさばき、そして、信仰による義を受け継ぐ者となった。 ノアは(創世記6:12-21)の神の指示「御告げ」を敬虔な態度で「恐れかしこみつつ」受け、すべて神の命じられたようにした。(創世記6:22) 「信仰によって世の罪をさばき」(創世記6:9)、「信仰による義を受け継ぐ者」(創世記7:1)となった。( 8節 信仰によって、アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った。 9節 信仰によって、他国にいるようにして約束の地に宿り、同じ約束を継ぐイサク、ヤコブと共に、幕屋に住んだ。 アブラハムは神の指示に従って「受け継ぐべき地」への信仰による冒険の旅を続け、現状をつぶやかず、希望を失うことがなかった。 10節 彼は、ゆるがぬ土台の上に建てられた都を、待ち望んでいたのである。その都をもくろみ、また建てたのは、神である。 それは「ゆるがぬ土台の上に建てられた都」である神の永遠の都を見たからである。この都は神の計画によって築かれた神の国、天にあるエルサレム(12:22)である。 11節 信仰によって、サラもまた、年老いていたが、種を宿す力を与えられた。約束をなさったかたは真実であると、信じていたからである。 12節 このようにして、ひとりの死んだと同様な人から、天の星のように、海べの数えがたい砂のように、おびただしい人が生れてきたのである。 100歳(創世記17:17)の「ひとりの死んだと同様な人」なアブラハムは、神から高齢の妻サラにイサクが生まれるという約束を受けた。(創世記17:15-21)そして神とイサクとの間の契約により子孫が「天の星のように、海べの数えがたい砂のように」生まれた。 13節 これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者 [1] であることを、自ら言いあらわした。 昔の族長たちがその模範を示したように、信仰とは神の約束に不動の信頼を寄せることである。その約束は永遠の都、神の国の到来についてのものだった。生きているうちにその実現を見なかったが、「それを望み見て」大きな喜びをいだき、自ら証人となった。 キリストに従う者の国籍は天(ピリピ3:20、ヨハネ14:2)にある。 旧約の先祖たちもこの道を歩んで契約の証人となり、「自ら言いあらわした」。 14節 そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している。 自ら神の証人になった彼らの希望は実に天の故郷、永遠のいのちにあったことを示している。 15節 もしその出てきた所のことを考えていたなら、帰る機会はあったであろう。 彼らはが捨ててきた低俗な生活、地上の快楽、目に見える故郷を思い、そこに帰ろうとすればそれもできただろうが、彼らの信仰生活は逆戻りすることがなかった。 16節 しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。 彼らが望んだことは、固い決意と信念と勇気をもって、さらにすぐれた場所、人の本当の故郷、神の都を目指すことだった。そこで神は彼らの信仰を受け入れ、「彼らの神」と呼ばれることを拒まず、恵みによって都を用意されたである。 17節 信仰によって、アブラハムは、試錬を受けたとき、イサクをささげた。すなわち、約束を受けていた彼が、そのひとり子をささげたのである。 (創世記22:1-19) 18節 この子については、「イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるであろう」と言われていたのであった。 (創世記21:12) 19節 彼は、神が死人の中から人をよみがえらせる力がある、と信じていたのである。だから彼は、いわば、イサクを生きかえして渡されたわけである。 20節 信仰によって、イサクは、きたるべきことについて、ヤコブとエサウとを祝福した。 (創世記27:28-29、39-40) 21節 信仰によって、ヤコブは死のまぎわに、ヨセフの子らをひとりびとり祝福し、そしてそのつえのかしらによりかかって礼拝した。 (創世記48:14-16) 22節 信仰によって、ヨセフはその臨終に、イスラエルの子らの出て行くことを思い、自分の骨のことについてさしずした。 (創世記50:24-25) 23節 信仰によって、モーセの生れたとき、両親は、三か月のあいだ彼を隠した。それは、彼らが子供のうるわしいのを見たからである。彼らはまた、王の命令をも恐れなかった。 モーセの生い立ち(出エジプト2) 24節 信仰によって、モーセは、成人したとき、パロの娘の子と言われることを拒み、 25節 罪のはかない歓楽にふけるよりは、むしろ神の民と共に虐待されることを選び、 26節 キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる富と考えた。それは、彼が報いを望み見ていたからである。 モーセの信仰(出エジプト2:11-15) 27節 信仰によって、彼は王の憤りをも恐れず、エジプトを立ち去った。彼は、見えないかたを見ているようにして、忍びとおした。 (出エジプト2:14以下) 28節 信仰によって、滅ぼす者が、長子らに手を下すことのないように、彼は過越を行い血を塗った。 過ぎ越し(出エジプト12:21-23) 29節 信仰によって、人々は紅海をかわいた土地をとおるように渡ったが、同じことを企てたエジプト人はおぼれ死んだ。 紅海渡行(出エジプト14:15-21) 30節 信仰によって、エリコの城壁は、七日にわたってまわったために、くずれおちた。 (ヨシュア6:1-20) 31節 信仰によって、遊女ラハブは、探りにきた者たちをおだやかに迎えたので、不従順な者どもと一緒に滅びることはなかった。 (ヨシュア6:21-24) 「不従順な者どもと一緒に」(ヨシュア6:25) 32節 このほか、何を言おうか。もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル及び預言者たちについて語り出すなら、時間が足りないであろう。 ギデオン(士師6-8)、バラク(士師4-5)、サムソン(士師13-16)、エフタ(士師11-12)、ダビデ(サムエル、列王)、サムエル(サムエル、列王) 33節 彼らは信仰によって、国々を征服し、義を行い、約束のものを受け、ししの口をふさぎ、 ダビデは「国々を征服し」、ダニエルは「ししの口をふさぎ」(ダニエル6:16)、サムソンの勇壮な行動 34節 火の勢いを消し、つるぎの刃をのがれ、弱いものは強くされ、戦いの勇者となり、他国の軍を退かせた。 「火の勢いを消し」(ダニエル3:17以下)、「つるぎの刃をのがれ」(1サムエル18:10-12)、「弱いものは強くされ」(士師15:19,16:28) 35節 女たちは、その死者たちをよみがえらさせてもらった。ほかの者は、更にまさったいのちによみがえるために、拷問の苦しみに甘んじ、放免されることを願わなかった。 信仰の忍耐の方向、「女たちは」(1列王17:17以下、2列王4:32-37)死のかなたへの現実的な希望が彼らをささえた。 36節 なおほかの者たちは、あざけられ、むち打たれ、しばり上げられ、投獄されるほどのめに会った。 「あざけられ、むち打たれ」エレミヤ(エレミヤ20:7以下、37)、 37節 あるいは、石で打たれ、さいなまれ、のこぎりで引かれ、つるぎで切り殺され、羊の皮や、やぎの皮を着て歩きまわり、無一物になり、悩まされ、苦しめられ、 「石で打たれ」ゼカリヤ(2歴代誌24:20-22)、「のこぎりで引かれ」イザヤの死の伝説、「つるぎで切り殺され」(1王19:10、エレミヤ26:23)、「羊の皮や、やぎの皮を着て歩きまわり」粗末ななりをして流浪する。 38節 (この世は彼らの住む所ではなかった)、荒野と山の中と岩の穴と土の穴とを、さまよい続けた。 神の国に住むにふさわしい人々にとって「この世は」、永久に住むには値しない場所であった。 39節 さて、これらの人々はみな、信仰によってあかしされたが、約束のものは受けなかった。 旧約時代の人々は信仰による忍耐と希望を持ち続け、クリスチャンとともに全き祝福にあずかる日を待っている。われわれもまた彼らに劣らず、忍耐と勇気をもって信仰のたたかいに耐えようではないか。 40節 神はわたしたちのために、さらに良いものをあらかじめ備えて下さっているので、わたしたちをほかにしては彼らが全うされることはない。 神はわたしたちのために、「さらに良いもの」である神の国を用意してくださっている。旧約時代の人々の立派な信仰の歴史は、やがて真実のメシヤであるキリストの来訪によって開かれた福音の歴史をもって初めてその結果を得て、彼らとともに主の晩餐に招かれる。彼らを信仰の証として、この道を全うするのは、われわれの使命である。驚くべき神の救いの計画は、旧約の時代の人々の信仰と新約の時代と人々の信仰が、不可分なものであり、「わたしたちをほかにしては彼らが全うされることはない」ことを教えている。 (2019/11/18)
[1] 詩編39:12 「主よ、わたしの祈を聞き、 わたしの叫びに耳を傾け、 わたしの涙を見て、もださないでください。 わたしはあなたに身を寄せる旅びと、 わがすべての先祖たちのように寄留者です。」