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へブル人への手紙12章

完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走りぬく(1‐3)
信仰生活における達成への努力
1節 こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。
   わたしたちの参加すべき競争の競技場の観衆として「このような多くの証人」に囲まれている。彼らは自分が生きているうちに、約束が実現するのを見なかった。むしろ、苦しみやしいたげ、そしり、窮乏、拷問などを受けたが、イエスの証人となった人々である。 わたしたちも迫害弾圧にひるまず、勇気と忍耐と希望に満ちた信仰を堅持しようではないか。
2節 信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。
   先頭にいる信仰の先導者・完成者であるイエスからめをそらさずに同じ道を走ろう。イエスは人が経験しえないほどの辱めと苦しみを受けたが、自ら贖いの犠牲になることによって人を義に導く喜び [1] のために耐えて神の右の座に着くことが出来た。
3節 あなたがたは、弱り果てて意気そそうしないために、罪人らのこのような反抗を耐え忍んだかたのことを、思いみるべきである。
   義の方イエスが、あのような罪人からの苦しみ忍ばれたのであるから、今自分が受けているののしりや、あざけりは、無にも等しいものである。したがってこのような時疲れ果てるのではなく、むしろ、イエスの道にならっていると思い喜ぶべきである。
主の訓練を軽んじてはいけない(4‐11)
信仰生活における苦難の意義
苦難には教育的意図が含まれ信仰の鍛錬に役立つ
4節 あなたがたは、罪と取り組んで戦う時、まだ血を流すほどの抵抗をしたことがない。
   この「罪と取り組んで」を迫害者と戦うとも解釈できるが、クリスチャン個人の中に潜む信仰に対する疑いや信仰から離れることへの誘惑、怠惰など、おのれの罪との戦いと考えるべきだろう。イエスは全人類の罪を独りで贖うため血を流すほど苦しまれたが、「あなたがた」は自分一人の罪との戦いにおいてさえ血を流すほど戦ったことがない。
5節 また子たちに対するように、あなたがたに語られたこの勧めの言葉を忘れている、「わたしの子よ、主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。 [2]
   信者の苦難は天父より愛されているという証拠である。苦難は訓練であるから、それがいかに辛いものであっても弱り果ててはならない。
6節 主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである」。
   主は私たちを愛するがゆえ、訓練のため私たちに懲らしめを与えるのであって、もし懲らしめられなければ、愛されていないのだ。
7節 あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである。いったい、父に訓練されない子があるだろうか。
   父が子を訓練するように、主は私たちの信仰を揺るがぬものにするために訓練するので、これを必要なものとして耐えるべきである。
8節 だれでも受ける訓練が、あなたがたに与えられないとすれば、それこそ、あなたがたは私生子であって、ほんとうの子ではない。
   もし訓練が与えられないのであれば、それはその父が子を自分の子と思っていないと同じことである。
9節 その上、肉親の父はわたしたちを訓練するのに、なお彼をうやまうとすれば、なおさら、わたしたちは、たましいの父に服従して、真に生きるべきではないか。
   人間の親である「肉親の父」に懲らしめられるとき子どもは父を憎まずむしろ尊敬して父に従う。なおさらのこと、「たましいの父」である神を尊敬し、服従して生きるべきである。
10節 肉親の父は、しばらくの間、自分の考えに従って訓練を与えるが、たましいの父は、わたしたちの益のため、そのきよさにあずからせるために、そうされるのである。
   肉の父親は、短い期間、自分の思いや感情に従って子を懲らしめる。しかし父なる神は、私たちの益のために懲らしめる。その目的は罪を悔い改め罪から離れ「きよさ」の中に歩むことができるようにするためである。
11節 すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。
   我々は時にこの神の訓練を辛く耐えがたく思うが、福音に真剣に取り組み、祈り、打ち砕かれた心になるまで忍耐強く従順に従った人々はやがて「平安な義の実」を結ぶようになる。
まっすぐな道をつくりなさい(12‐17)
信仰生活における注意と共同の責任
12節 それだから、あなたがたのなえた手と、弱くなっているひざとを、まっすぐにしなさい。 [3]
   弱くなった手足をそのままにしておくとますます弱くなるので屈伸して強くする。同様に霊的に弱くなっていると感じたら、主からの訓練を受けて強くなりなさい。 
13節 また、足のなえている者が踏みはずすことなく、むしろいやされるように、あなたがたの足のために、まっすぐな道をつくりなさい。 [4]
   心に傷を受けているとき主からの懲らしめが、落伍させるのではなく、むしろ深いいやしを与えるように、主からの訓練を常に従順に受け入れるようにしなさい。
14節 すべての人と相和し、また、自らきよくなるように努めなさい。きよくならなければ、だれも主を見ることはできない。
   重荷を負い疲れいると、つい心の中に人と争う気持ちが入り込む。そうならないように常に平和を追い求めるようにしなさい。それは自らをきよめることになる。イエスは「心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。」と言われた。(マタイ5:8)
15節 気をつけて、神の恵みからもれることがないように、また、苦い根がはえ出て、あなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚されることのないようにしなさい。
   自分ばかりではなく、周りの人々も神の恵みからもれることがないように気を付けてあげなさい。苦みが心の中に生じると、その人をむしばむばかりか、あなたがた全体の雰囲気に及び、多くの人が汚れされることとなるのだから。
16節 また、一杯の食のために長子の権利を売ったエサウ [5] のように、不品行な俗悪な者にならないようにしなさい。
   エサウは空腹だからと、たった一杯のスープと引き換えに長子の権利をヤコブに売ってしまった。重荷を負っている時、心の中に苦みが生じるだけでなく、不品行を行なってしまう危険がある。
17節 あなたがたの知っているように、彼はその後、祝福を受け継ごうと願ったけれども、捨てられてしまい、涙を流してそれを求めたが、悔改めの機会を得なかったのである。
   エサウは「涙を流してそれを求めたが、悔改めの機会を得なかった」その涙が真に自分の罪過を悔いたのではなく、自分の特権の喪失を後悔したに過ぎなかったので祝福を受けつぐことはできなかった。悔い改めは、自分の罪過を認め、罪を捨てることによって、罪の責めから解放される。後悔は、自分が犯した失敗を悔いるが、それを変えようとはしない。
   信仰生活には勇気と忍耐が必要である。自分の意図した結果を得られない時、つまずき、不幸や失敗などが重なると、神のみことばに対し疑いがはいり、ますます重荷がふえ、過ちを犯しやすくなる。そのようなとき神は私たちを引き戻すために懲らしめを与える。その信仰の訓練を勇気を持って受け入れ、最後まで耐えれば私たちはいやしを受けて信仰が強められ再び歩むことがでる。
天のエルサレムに近づく(18‐24)
聖徒が主に会う場所
18節 あなたがたが近づいているのは、手で触れることができ、火が燃え、黒雲や暗やみやあらしにつつまれ、
19節 また、ラッパの響や、聞いた者たちがそれ以上、耳にしたくないと願ったような言葉がひびいてきた山ではない。
   どのような所で主に会うのか、そこはかつてモーセに率いられていた時に会った山(出エジプト19:16-19)ではない。
20節 そこでは、彼らは、「けものであっても、山に触たら、石で打ち殺されてしまえ」という命令の言葉に、耐えることができなかったのである。
   「命令の言葉に・・・」は偶像礼拝の結果についての神の叱責と怒りを表す旧約の言葉(申命9:19)。聖なる神ご自身が語る言葉は、耐えることができないほど恐ろしいものだった。
21節 その光景が恐ろしかったのでモーセさえも、「わたしは恐ろしさのあまり、おののいている」と言ったほどである。
   モーセ自身も恐れたほどであった。しかし主に会うのはこのような所ではない。
22節 しかしあなたがたが近づいているのは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の天使の祝会、
   今われわれが近づこうとしているのは、モーセやイスラエル人が近づいた山ではなく、それにいやます荘厳にして威力を持つシオンの山(天上のシオン、神の栄光の御座)、天に用意されている神の都、天のエルサレム(ガラテヤ4:26、黙示21:2-10)である。
23節 天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者なる神、全うされた義人の霊、
24節 新しい契約の仲保者イエス、ならびに、アベルの血よりも力強く語るそそがれた血である。
   福音による新しい契約は霊的永久的なもので、聖徒の交わり、キリストのからだなる教会に他ならない。「天に登録されている長子たちの教会」とはキリストに帰属し、主に名よって礼拝し祈るすべての聖徒や聖徒の集団を指す。「長子たち」とは神の家を継ぐ者、キリストの共同の相続人である聖徒を表す。イスラエルはかつてそのように呼ばれた(出エジプト4:22)が、いまや新しく神のイスラエル(ガラテヤ6:16)がキリストによって起こされ、その御名を信じる人々は神の子とされ、しかも「長子」と呼ばれる特権を与えられた。「全うされた義人の霊」とは旧約の聖徒たちを指し、彼らもまた御子の血によって全うされるのである(7:11, 10:14, 11:40)。「アベルの血よりも・・・」は、それが復讐の働きをした(創世記4:10-12)のに対し、キリストの血は、信じる者の罪をきよめ、新生に至らしめる。しかもその審判採決の力もまたアベルの血にまさるのである。
背教者への警告(25‐29)
究極的な啓示をしりぞける人々へのきびしい採決
25節 あなたがたは、語っておられるかたを拒むことがないように、注意しなさい。もし地上で御旨を告げた者を拒んだ人々が、罰をのがれることができなかったなら、天から告げ示すかたを退けるわたしたちは、なおさらそうなるのではないか。
   「語っておられるかた」すなわち神は旧約の時代は預言者たちによって、新約の時代にはキリストによって語った(1:1-2)。「地上で」のシナイ山におけるモーセへの告知は天使をとおして与えられた(2:2)が、福音は御子キリストの「天から」の啓示によって告げ知らされた(2:3)。律法と福音の比重の差はいうまでもない。
26節 あの時には、御声が地を震わせた。しかし今は、約束して言われた、「わたしはもう一度、地ばかりでなく天をも震わそう」。
   かつて神の「御声が地を震わせた」(出エジプト19:18)ように、神のさばきのときに「わたしはもう一度」(ハガイ2:6)天地を震わす恐るべき力がふるわれる。
27節 この「もう一度」という言葉は、震われないものが残るために、震われるものが、造られたものとして取り除かれることを示している。
   「震われないもの」はみえないもの(11:1)、「震われるもの」(造られたもの)はみえるもの(11:3)に対比している。みえない国は震われずに残るが、みえる国は震われ取り除かれる。
28節 このように、わたしたちは震われない国を受けているのだから、感謝をしようではないか。そして感謝しつつ、恐れかしこみ、神に喜ばれるように、仕えていこう。
   神の言葉の威力はみえないものを待ち望む者にとって、まことに確信と平和の基礎となる。彼らには「震われない国」すなわち神の都、神の国が約束されている。しかしこの約束を拒む者は、「もう一度」御声がひびく時、世の終末に至って「震われ」「取り除かれる」であろう。救いへの道か滅びへの道かの選択が、今眼の前に横たえられている。福音を受け入れた者は、すでに良いほうを選んだのだから「感謝しつつ」、いっそう忠誠とよい業に努めようではないか。
29節 わたしたちの神は、実に、焼きつくす火である。
   信仰の堅持を勧め、忍耐と勇気を教えたこの章は、神のおごそかな実在を述べ、聖書の引用をもって終わる。「焼きつくす火」は神の審判を象徴的に表す(申命4:24、イザヤ33:14)。

(2019/11/21)


[1]  イザヤ53:11
  「彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。
   義なるわがしもべはその知識によって、
   多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。」

[2]  箴言3:11-12
  「わが子よ、主の懲しめを軽んじてはならない、
   その戒めをきらってはならない。
   主は、愛する者を、戒められるからである、
   あたかも父がその愛する子を戒めるように。」

[3]  イザヤ35:3
  「あなたがたは弱った手を強くし、
   よろめくひざを健やかにせよ。

[4]   箴言4:26
   「あなたの足の道に気をつけよ、
    そうすれば、あなたのすべての道は安全である」

[5]   創世記25:33-34, 27:30-40参照