3章
5章
へブル人への手紙4章
旧約の歴史はイスラエルの不信に対する神の怒りと、それにもかかわらず変わることのない神の憐憫と慈愛を証明している。それを今、クリスチャンによっていっそう確証されなければならないと教える。かつてイスラエルは神の恵み深い約束を聞かされながら不信仰によって受け入れなかった。しかし、クリスチャンは福音に対して信頼を傾けなければならない(2-3)。神ご自身がその約束の遂行を実証され(3-4)ているからだ。そのため、創造の祝福が、人間の堕落と敗退にもかかわらず、イエス・キリストの贖いの業によって、福音の告知のうちに成就し顕現したゆえんが語られている。またイスラエルのカナン定着がヨシュアによって成功したとしても、それで神の安息に入ったのではなく(8-9)、真実の安息はクリスチャンの完全、人類の救いの完成によって成しえるのだと教えている。しかし、まだ脱落の危険があるのだから、神の安息に入ることを願うクリスチャンは、信仰生活において不断の精進と努力に努めなければならない(11)。そして、その信仰を守り教導するものは、「神の言」である(12)と教える。 14節から10章まで手紙の主題となる。そこでは、信仰の根本的な基盤である「神の子イエス」に対する告白を前提として、イエスの贖いの業を信仰によってどのように受け止めるべきかを「大祭司」という比喩的表現を使って教えている。それは単なる職業的機能を表すものではなく、みずから「贖罪の供え物」(7:27)にふさわしく天父に対する無比の「従順」を捧げた(5:7-8)ことに対する称号であるから恒久かつ完全革新の力を持つ(6:20,7:24,28,8:13)。クリスチャンはこの贖罪の業を理解し、それによって福音の信仰の内容を明確にしながら、いっそう信仰の実践に励みクリスチャンの節操を固くするように勧める。重要な概念の説明のため繰り返して述べている部分がある。 神の安息に入るということ(1-10) 1節 それだから、神の安息にはいるべき約束が、まだ存続しているにかかわらず、万一にも、はいりそこなう者が、あなたがたの中から出ることがないように、注意しようではないか。 神に不従順だったイスラエルの民は荒野を放浪し死に絶えたため約束の地に入ることができず安息できなかった。そして安息に入るべき約束はそのまま残って、今、クリスチャンに用意されている。しかしその用意されている安息に昔のイスラエルのように入れなくならないように注意しなければならない。 2節 というのは、彼らと同じく、わたしたちにも福音が伝えられているのである。しかし、その聞いた御言は、彼らには無益であった。それが、聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかったからである。 モーセに導かれたイスラエルの民は、モーセによって神からの良い知らせを受けたが、何度聞いてもそれを自分たちの生活に取り入れ実践することはなかった。「聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかった」のである。「御言」を聞いてもそれを行いに結び付けずそのまま日々を過ごすと、せっかくの良い知らせも無益なものとなる。ただ聞くだけで主の「御言」の中にいると思い込んでしまう人はこの状態にある。神が救ってくださっ たことを知るのは出発に過ぎない。神は常に導いておられるので、神の前にへりくだり神からの御言を聞きそれに従い続ける不断の努力が必要である。「 したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。」(ローマ10:17) 3節 ところが、わたしたち信じている者は、安息にはいることができる。それは、「わたしが怒って、彼らをわたしの安息に、はいらせることはしないと、誓ったように」と言われているとおりである。しかも、みわざは世の初めに、でき上がっていた。 「信じている者は、安息にはいることができる」キリストのもとに来てキリストを信じることにより霊的安息を得ることができる(マタイ11:28-30 [1] )。イエスの初めの命令は、「来なさい」というものだった。これが救いの安息である。「信じている者」はすでにこの安息に入っている。神は御子キリストにあって罪の贖いのすべてのことをなさってくださった。ゲッセマネの園における苦悩を通して全人類の罪を贖い、さらにゴルゴタの丘で犠牲として命を捧げることによって救いに必要な「すべてが終った」(ヨハネ19:30)。ここにおいて人は救われるために何かすることから解放され、主が救いの業を完成された。人はただイエスの下に来て信じ戒めを守るだけで良い。「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いから」イエスに従い戒めを守ることことによって荷が軽くなり魂に休みを得る。これは従順の安息である。 「わたしが怒って、彼らをわたしの安息に、はいらせることはしないと、誓ったように」は、詩篇95:9-11の引用。御言を聞きはするものの不従順な者は安息に入る特権を失う。 4節 すなわち、聖書のある箇所(創世2:2)で、七日目のことについて、「神は、七日目にすべてのわざをやめて休まれた」と言われており、 ここの安息は創造の安息であり、すべての安息の土台となっている。神は天と地の万物を6日かけて創造し、7日目は完成したのでそれ以上創造の働きをする必要がなくなり休まれた。安息とは休息ではなく完成を意味する。ヨシュアたちがカナンの地に入った時に安息を得られるという約束は、この創造の安息が土台になっている(申命11:10-12 [2] )。 5節 またここで、「彼らをわたしの安息に、はいらせることはしない」と言われている。 3節と同様に詩篇95:9-11の引用「あの時、あなたがたの先祖たちは わたしのわざを見たにもかかわらず、わたしを試み、わたしをためした。わたしは四十年の間、その代をきらって言った、『彼らは心の誤っている民であって、わたしの道を知らない』と。それゆえ、わたしは憤って、彼らはわが安息に入ることができないと誓った。」 6節 そこで、その安息にはいる機会が、人々になお残されているのであり、しかも、初めに福音を伝えられた人々は、不従順のゆえに、はいることをしなかったのであるから、 「初めに福音を伝えられた人々」モーセの時代のイスラエルの民。彼らは「不従順のゆえに」安息に入る特権を失ったのである。 7節 神は、あらためて、ある日を「きょう」として定め、長く時がたってから、先に引用したとおり、「きょう、み声を聞いたなら、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」とダビデをとおして言われたのである。 「きょう、み声を聞いたなら、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」(詩篇95:7-8 [3] )。詩篇95をダビデが書いたのは、ヨシュアが約束の地に入った紀元前約千四百年からだいたい四百年経った後のことである。ダビデが書いている「安息」とはヨシュアがカナンの地に入ったことではなく、安息に入る新たな別の日があるということだ。 8節 もしヨシュアが彼らを休ませていたとすれば、神はあとになって、ほかの日のことについて語られたはずはない。 モーセの後継者ヨシュアによってイスラエルのカナン定着が成功したとしても、それをもって直ちに神の安息に入ることが出来たわけではない。真の安息はクリスチャンの完全、人類の救いの完成の時である。ダビデは詩篇にその日のことについて書いた。 9節 こういうわけで、安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。 このように真の安息は、クリスチャンのために残されている。 10節 なぜなら、神の安息にはいった者は、神がみわざをやめて休まれたように、自分もわざを休んだからである。 クリスチャンは天の御国に入ることによって、神が創造の業を終えて休まれたように、自分の完成の業を終え安息する。 キリストに従う者の国籍は天にある。キリストは私たちにこの世のことを思わず天を思えと教えている。「しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。 彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう。」(ピリピ3:20-21) 神の安息に入るよう努める(11‐13) 11節 したがって、わたしたちは、この安息にはいるように努力しようではないか。そうでないと、同じような不従順の悪例にならって、落ちて行く者が出るかもしれない。 最終的な救いの完成である神の安息にはいることを願うクリスチャンは、信仰生活における不断の精進と努力に努めなければならない。そうしないと昔のイスラエルの人々のように安息に入ることができなくなる。 12節 というのは、神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。 われわれの信仰を守りこれを教導するものは、他ならぬ「神の言」である。神の言の威力をわれわれは恐れなければならない。神の言は生命にみち、それに向かっての生死が決定されるほどの力を持つ。 13節 そして、神のみまえには、あらわでない被造物はひとつもなく、すべてのものは、神の目には裸であり、あらわにされているのである。この神に対して、わたしたちは言い開きをしなくてはならない。 神の判決であるから、それに対して人は決して自分を覆い隠したりすることができない。このような神の言はかつては預言者を通して伝えられたが、いまやイエス・キリストによって断言的に伝えられている。「言」はイエス・キリストその人の現実存在そのものである。 イエスは偉大な大祭司(14‐16) 14節 さて、わたしたちには、もろもろの天をとおって行かれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから、わたしたちの告白する信仰をかたく守ろうではないか。 「わたしたちの告白する信仰」は、「神の子イエス」を言い表すことを意味する。マタイ16:16にある『シモン・ペテロが答えて言った、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。』ということである。「告白」は単なる個人的な表白ではなく、信仰者の公共的、教会的な信仰の言い表しとして、「信条」に発展するものである(1テモテ1:5 [4] )。したがって、「告白」はクリスチャンの基本的な条件となる(ローマ10:10,マタイ10:32-33)。「もろもろの天をとおって」とは、「天使に勝るキリスト」と照応する、栄光の主イエス・キリストの位置を表すので、「神の子イエス」なのである。 15節 この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。 イエスは地上において、「罪は犯されなかった」が、すべてわれわれと同じ条件に身を置いて試練を経験された(マタイ4:1-11,ルカ4:1-13)のであるから、人間の虚弱や愚かさに無頓着ではなく、深く同情するものである。「思いやる」には強い同情の気持ちが込められており、重荷を分かち、苦しみをともにすることをいう。 16節 だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。 信仰告白は必ずしも容易ではない。しばしば迫害や弾圧を覚悟しなければならないが、その都度「わたしたちの弱さを思いや」り、「時機を得た助け」を与える者は、ほかならぬ主イエスご自身であるから、いまわれわれはいっそうこの「御名」を告白する勇気を持とうではないかと勧める。 (2020/06/16)
[1] マタイ11:28-30 「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。
[2] 申命11:10-12 「あなたがたが行って取ろうとする地は、あなたがたが出てきたエジプトの地のようではない。あそこでは、青物畑でするように、あなたがたは種をまき、足でそれに水を注いだ。 しかし、あなたがたが渡って行って取る地は、山と谷の多い地で、天から降る雨で潤っている。 その地は、あなたの神、主が顧みられる所で、年の始めから年の終りまで、あなたの神、主の目が常にその上にある。」
[3] 詩篇95:7-8 「主はわれらの神であり、 われらはその牧の民、そのみ手の羊である。 どうか、あなたがたは、 きょう、そのみ声を聞くように。 あなたがたは、メリバにいた時のように、 また荒野のマッサにいた日のように、 心をかたくなにしてはならない。」
[4] 1テモテ1:15 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった」という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである。