12章
概要
へブル人への手紙13章
信仰の道における義務(1‐21) 1節 兄弟愛を続けなさい。 1-6節には、格言的に信者の日常生活の心得が述べられている。「兄弟愛を」互いに助け合うことを勧める(6:10,10:24,1テサロニケ4:9,1ペテロ1:22,2ペテロ1:7)。 2節 旅人をもてなすことを忘れてはならない。このようにして、ある人々は、気づかないで御使たちをもてなした。 「旅人をもてなす」旅人である信者、困難な状況にある兄弟たちへの援助は兄弟愛の強いあらわれである(ローマ12:13,1テモテ3:2,テトス1:8,1ペテロ4:9)。「ある人々は」(創世記18:1-のアブラハム,19:1-のロト,士師記13:1-のマノア)。 3節 獄につながれている人たちを、自分も一緒につながれている心持で思いやりなさい。また、自分も同じ肉体にある者だから、苦しめられている人たちのことを、心にとめなさい。 「獄につながれている人たち」迫害により囚人になった人々。彼らのために祈り、彼らが受けている苦痛に強く同感するように勧める(1コリント12:26)。 4節 すべての人は、結婚を重んずべきである。また寝床を汚してはならない。神は、不品行な者や姦淫をする者をさばかれる。 「不品行」「姦淫」旧約新約を通じて、きびしく戒められている悪徳である(出エジプト20:14,ローマ1:24-,1コリント5:1,6:9,18)。 5節 金銭を愛することをしないで、自分の持っているもので満足しなさい。主は、「わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない」と言われた。 「金銭を愛すること」すなわち貪欲もまた退けられる(1テモテ3:3)。「わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない」申命31:6の引用。 6節 だから、わたしたちは、はばからずに言おう、「主はわたしの助け主である。わたしには恐れはない。人は、わたしに何ができようか」。 「主はわたしの助け主である。わたしには恐れはない。人は、わたしに何ができようか」詩篇118:6の引用。 7節 神の言をあなたがたに語った指導者たちのことを、いつも思い起しなさい。彼らの生活の最後を見て、その信仰にならいなさい。 7-13節では、信仰を全うして勝利の生涯を終えた指導者たちをおぼえ、その道を追いかけるようにと勧めている。その先頭には常に主イエス・キリストが立ちたもう。それを仰ぎ見て、信仰の道を邁進せよと強調する。「神の言をあなたがたに語った指導者たち」教会の指導者たちや使徒の教えを伝える人々。彼らはキリストを証し、その福音を伝えることによって「祈りとみ言葉のご用にあたる」(使徒行伝6:4)。彼らの多くは殉教者として自ら信仰を証明し、み言葉に対する忠誠を全うした。このような堅忍不屈の信仰をわれらに与え、またこれを支持したもう方は実にイエス・キリストご自身である。 8節 イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない。 12:27-28の「震われないもの」こそは、「きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない」キリストの福音の力、その約束の言葉である(マルコ13:31,1ペテロ1:24)。「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない」は黙示録1:8の「今いまし、昔いまし、やがてきたるべき者、全能者にして主なる神」と同じく厳粛な賛美の言葉である。 9節 さまざまな違った教によって、迷わされてはならない。食物によらず、恵みによって、心を強くするがよい。食物によって歩いた者は、益を得ることがなかった。 「さまざまな違った教」は信仰生活について枝葉末節を論じたてながら根本をおろそかにするような種々の言動。異端や違う福音(ガラテヤ1:6,テトス3:10)と呼ぶほどのものではないにしても、放任しておけばそういう危険を招く人々の教え。「食物によらず」は、そういう脱線的な傾向が禁欲主義的な色彩をおびたものであったらしい(1テモテ4:3)。 10節 わたしたちには一つの祭壇がある。幕屋で仕えている者たちは、その祭壇の食物をたべる権利はない。 ユダヤ主義的な禁欲論者たちの誘惑にひかれそうな弱い信者を励まし戒めて、われわれには真実の「祭壇」すなわち神の御前に至る道が開かれており、イエス・キリストの贖罪による新しい生命が約束されていることを再度強調する。「幕屋で仕えている者たちは」われわれの祭壇は主イエスがご自身を捧げたことによって築かれたのであるから、古い祭司たちやその儀式に従う人々は、あたかも祭司たちが祭壇の食物を食べる権利をもたないように、この祭壇に近づくことができない。ここではキリストの犠牲の記念である聖餐を食物に例えているとも解釈される。聖餐にあずかる信者は、明確にユダヤ教の領域から別離しなければならないからである。 11節 なぜなら、大祭司によって罪のためにささげられるけものの血は、聖所のなかに携えて行かれるが、そのからだは、営所の外で焼かれてしまうからである。 旧約の律法では血をささげたけもののからだは宿営の外で焼かれた(レビ16:27)。 12節 だから、イエスもまた、ご自分の血で民をきよめるために、門の外で苦難を受けられたのである。 イエスもエルサレム城外の丘で苦難を受けられた。 13節 したがって、わたしたちも、彼のはずかしめを身に負い、営所の外に出て、みもとに行こうではないか。 依然として頑迷不振なユダヤ人たちの「営所」の外に出て、古い戒律や空虚な内容の形式主義を捨て去って、神の国に進もうではないかという勧める。そのためにはわれわれもまた「彼のはずかしめを身に負い」イエスの道を歩まなければならない。 14節 この地上には、永遠の都はない。きたらんとする都こそ、わたしたちの求めているものである。 14-16節では、信仰生活の目標を明らかにしてわれわれにふさわしい礼拝のしかたを勧めている。「永遠の都」は天に属する。それがわれわれの理想である。しかもこの都は信者のために備えられているのだから、われわれは今さら古めかしい祭司たちがする供え物ではなく、主の御名をたたえることによって、賛美のほめうたをささげようではないか。 15節 だから、わたしたちはイエスによって、さんびのいけにえ、すなわち、彼の御名をたたえるくちびるの実を、たえず神にささげようではないか。 「御名をたたえるくちびるの実」はホセア14:2 [1] からの連想。 16節 そして、善を行うことと施しをすることとを、忘れてはいけない。神は、このようないけにえを喜ばれる。 「善を行うことと施しをすること」が神の喜びたもういけにえとなる(ピリピ4:18)。この思想は旧約聖書にも見出される。イザヤ1:10-17,エレミヤ7:3-7,ミカ6:6-8,アモス5:21-25,詩篇40:7-,50:8-15,51:17-,申命10:12-20,1サムエル15:22など。 17節 あなたがたの指導者たちの言うことを聞きいれて、従いなさい。彼らは、神に言いひらきをすべき者として、あなたがたのたましいのために、目をさましている。彼らが嘆かないで、喜んでこのことをするようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならない。 神に霊的なささげ物をなし、隣人に対する愛を保つためには、指導者たちに従うことを忘れないようにしなければならない。彼らはわれわれの魂の牧者であるから、彼らを嘆かせないように心掛けなければならない。「彼らが嘆かないで」教会全体が危険に陥らないように、指導者たちは常に心配し祈り願っている。主イエスは自ら弟子たちのためにかく祈られた(ルカ22:32)。使徒と教会はこの祈りの義務を続けている。 18節 わたしたちのために、祈ってほしい。わたしたちは明らかな良心を持っていると信じており、何事についても、正しく行動しようと願っている。 18-21節では、筆者の願いを語り、祈りをもって、この手紙の全体をしめくくっている。「わたしたちのために、祈ってほしい」指導者の位置に立つ者が、教え導かれる人々に向かって祈りの援助を求めている。パウロはしばしばこのような求めをおこなっている(ローマ15:30,エペソ6:18,20,1テサロニケ5:25,2テサロニケ3:1 [2] )。これは祈りの継続の懇請も意味している。さらに「わたしたちは明らかな良心を持っていると信じており」と指導者の立場をはっきりと言い表して、責任の所在を明らかにしている。だれか手紙の筆者に対していわれのない批判をしたのだろうか(ピリピ1:15-17)。いずれにせよ、教会員たちにとりなしの祈りを求めるからには自分たちの行動がいかに清潔純粋であるかを述べずにはいられなかった。 19節 わたしがあなたがたの所に早く帰れるため、祈ってくれるように、特にお願いする。 しかも何かの妨げによって実現できずにいる帰還が、少しでも早く可能になるように祈ってくれることを読者に頼んでいる。 20節 永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死人の中から引き上げられた平和の神が、 読者および読者の教会のための祈り。「羊の大牧者」キリストが教会の最高の指導者、牧者でいますことを示す(1ペテロ2:25,5:4 [3] ,詩篇80:1)。「平和の神」われらに真の平和をもたらす神(ローマ15:33 [4] ,16:20,2コリント13:11,1テサロニケ5:23)。 21節 イエス・キリストによって、みこころにかなうことをわたしたちにして下さり、あなたがたが御旨を行うために、すべての良きものを備えて下さるようにこい願う。栄光が、世々限りなく神にあるように、アァメン。 神はキリストの血によってわれらを贖い、主の教会をきよめ、救い主としての意志を全うされたが、それがために聖徒にみ旨を行うように導き、必要な力を与えたもう(ピリピ1:6,3:12-14 [5] )。このために祈っている。 結びの言葉とあいさつ(22‐25) 22節 兄弟たちよ。どうかわたしの勧めの言葉を受けいれてほしい。わたしは、ただ手みじかに書いたのだから。 「勧めの言葉」この手紙は信者に対する訓戒が多く述べられているが、それは学校の教室での教えと違い、信仰生活における実践的な勧めである。手紙を読む読者にキリストの贖罪の意味を教え、信仰を励まし、勇気を与え、徳をたてるためである(2コリント1:24)。 23節 わたしたちの兄弟テモテがゆるされたことを、お知らせする。もし彼が早く来れば、彼と一緒にわたしはあなたがたに会えるだろう。 「テモテがゆるされたことを」迫害からの釈放を意味するのか。 24節 あなたがたの指導者一同と聖徒たち一同に、よろしく伝えてほしい。イタリヤからきた人々から、あなたがたによろしく。 「聖徒たち一同」信者の群れ。聖徒の国、永遠の真理を予想し、終末観的な色彩を帯びている(ダニエル7:18 [6] )。 25節 恵みが、あなたがた一同にあるように。 「恵みが、あなたがた」祝福の祈りの挨拶。コリント人への手紙、ガラテヤ人への手紙、エペソ人への手紙、ピリピ人への手紙、コロサイ人への手紙、テサロニケ人への手紙、ピレモンへの手紙などの結尾と同様である。 (2020/07/27)
[1] ホセア14:2 あなたがたは言葉を携えて、主に帰って言え、 不義はことごとくゆるして、 よきものを受けいれてください。 わたしたちは自分のくちびるの実をささげます。
[2] 2テサロニケ3:1 最後に、兄弟たちよ。わたしたちのために祈ってほしい。どうか主の言葉が、あなたがたの所と同じように、ここでも早く広まり、また、あがめられるように。
[3] 1ペテロ5:4 そうすれば、大牧者が現れる時には、しぼむことのない栄光の冠を受けるであろう。
[4] ローマ15:33 どうか、平和の神があなたがた一同と共にいますように、アァメン。
[5] ピリピ3:12-14 わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。 兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、 目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。
[6] ダニエル7:18 しかしついには、いと高き者の聖徒が国を受け、永遠にその国を保って、世々かぎりなく続く。