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へブル人への手紙6章

完成を目指して努力する(1‐3)
1節 そういうわけだから、わたしたちは、キリストの教の初歩をあとにして、完成を目ざして進もうではないか。今さら、死んだ行いの悔改めと神への信仰、
   キリストの道を深く学ぶため、ただ受け身で話を聞くだけでなく、常に「完成を目ざして進もう」と勧める。そして、エペソ1:15-19 [1] にある祈願に満たされ、ピリピ3:9-15 [2] におけるような自覚を持つように勧められる。それは「キリストの死のさまとひとしくなり、死人のうちからの復活に達したい」(ピリピ3:10-11 [3] )という願いであり、信仰生活における経験の重さを教える。それゆえ「キリストの教の初歩」にとどまっているではなく、完成を目ざせということになる。
2節 洗いごとについての教と按手、死人の復活と永遠のさばき、などの基本の教をくりかえし学ぶことをやめようではないか。
   信者入門の「キリストの教の初歩」の段階を「死んだ行いの悔改めと神への信仰」(信仰と悔い改め)、「洗いごとについての教と按手」(教会への加入)、「死人の復活と永遠のさばき」(永遠の救い)の三つあげている。これらはもともとユダヤ教の宗教教育に用いられたもの考えられる。この内容は大切であるが、その方式にとどまって、初歩段階入門程度で停滞してはならないと教えている。
3節 神の許しを得て、そうすることにしよう。
   信者は「神の許しを得て」自分の力だけではなく聖霊の助けを受けて前進することができる。この努力を怠るとき、信仰生活の責任を忘れ、背教者に転落する危険を生じる。

離れ去った人たちが、ふたたび悔改めにたち帰ることは不可能(4‐8)
背教者のゆくすえについての警告
信仰生活は絶えざる努力を必要とする。それを怠るならばたちまち後退することになる。
4節 いったん、光を受けて天よりの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となり、
   なぜなら、せっかく「光を受け」(神の知識をあたえられ)、「天よりの賜物を味わい」(贖罪のめぐみを受け)、「聖霊にあずかる者となり」(聖霊の賜物を受け)、
5節 また、神の良きみ言葉と、きたるべき世の力とを味わった者たちが、
   「神の良きみ言葉と、きたるべき世の力とを味わった者たち」(福音を聞いて神の約束を知り、主イエス・キリストの主権を認めた者たち)
6節 そののち堕落した場合には、またもや神の御子を、自ら十字架につけて、さらしものにするわけであるから、ふたたび悔改めにたち帰ることは不可能である。
   キリストの恵みによって以上の特権に預かったとしても、日々の努力を怠る者は脱落してしまう。このような者は主の犠牲の十字架をむなしくするものであって、これを再び悔い改めに立ち返らせることは不可能である(1ヨハネ5:16-17 [4] )。
7節 たとえば、土地が、その上にたびたび降る雨を吸い込で、耕す人々に役立つ作物を育てるなら、神の祝福にあずかる。
   「たびたび降る雨」のように絶えずそそがれる神の恵みを従順に受け入れて、「役立つ作物を育てる」のように労苦を惜しまず信仰を育て続けるなら、神の祝福にあずかる。
8節 しかし、いばらやあざみをはえさせるなら、それは無用になり、やがてのろわれ、ついには焼かれてしまう。
   しかし、神の民として自認しつつもその知識を捨てた者たちの罪過は、もはや神の審判を免れえない。この不信、脱落。背教の根源には、かたくなな心と不従順が横たわる。キリストの従順がわれわれの信仰の源泉となり救いの根拠となる。

最後まで望みを持ちつづける(9‐12)
8節まで信仰生活の脱落と背教の危険について厳しく戒めたが、この警告が信者を委縮させることがないように、親愛の情を込めて熱心に奨励を語る。
9節 しかし、愛する者たちよ。こうは言うものの、わたしたちは、救にかかわる更に良いことがあるのを、あなたがたについて確信している。
   「しかし、愛する者たちよ。」と前節までの激しい調子を和らげて呼びかけている。「救にかかわる更に良いこと」は、この手紙を読む信者たちがその信仰生活によって救いに関わる事柄を保っている状態を示す。そして教会に対する彼らの愛と信仰から生まれる永遠の希望がそれを物語っている。
10節 神は不義なかたではないから、あなたがたの働きや、あなたがたがかつて聖徒に仕え、今もなお仕えて、御名のために示してくれた愛を、お忘れになることはない。
   「聖徒に仕え」は貧しい信者を助け、相互の交わりを厚くして教会の徳を建てる(2コリント8:4,9:1)ことをいう。神はこのような信者の信仰による愛の行いをお忘れになることはないのだから希望を持つことができる。
11節 わたしたちは、あなたがたがひとり残らず、最後まで望みを持ちつづけるためにも、同じ熱意を示し、
   この世にあるかぎり人を愛し続けて、十分な報いを受けることができるようにと願っている。
12節 怠ることがなく、信仰と忍耐とをもって約束のものを受け継ぐ人々に見習う者となるように、と願ってやまない。
   「怠ることがなく」、「信仰と忍耐とをもって」という勧めは、この手紙全体を通じて強調されている。そうするなら信仰生活が怠惰に流れたり、無関心に陥ったりすることはない。そうして神が約束されたものを受け継ぐ人たちにならう者となりなさい。

神のご計画は不変(13‐20)
前節をうけて、「信仰と忍耐とをもって約束のものを受け継ぐ人々に見習う者となる」ために希望が必要であることを述べている。さらにアブラハムへの約束と彼の忍耐、神ご自身の誓い、神の確約の実証、イエスの模範などを挙げ、信者の希望の源が大祭司イエス・キリストにのみあることを教えている。
13節 さて、神がアブラハムに対して約束されたとき、さして誓うのに、ご自分よりも上のものがないので、ご自分をさして誓って、
   神は信仰による希望の成就を約束される。そして神ご自身がそのことを自ら誓いたもう。この神の誓い(詩篇110:4 [5] )によって信仰を堅く保ち、神の約束の賜物を受けた最初の者がアブラハムであった(創世記22:16-17 [6] )。
14節 「わたしは、必ずあなたを祝福し、必ずあなたの子孫をふやす」と言われた。
   「誓い」とは約束をさらに確かめるものである。神自身においては誓いの必要はなかったが、相手の信頼を保証するために加えられた。
15節 このようにして、アブラハムは忍耐強く待ったので、約束のものを得たのである。
   アブラハムは神の約束に対して従順と忍耐をもって答えた。アブラハムの模範は神の約束が誓いによって不変不動であることと、それに対する信仰者の生活がどんな苦労や困難にも不屈であるべきことを教えている。これは神の契約の成就には、それを受ける側に信頼と忍耐の義務が生じるということである。この「約束のもの」は無限の広さをもって、アブラハムのみにとどまらず、全人類におよぶ福音として、イエス・キリストを通してわれわれに与えられている(ローマ4:16 [7] ) 。
16節 いったい、人間は自分より上のものをさして誓うのであり、そして、その誓いはすべての反対論を封じる保証となるのである。
   誓う時は、自分よりもすぐれたものを指して誓う。ご自分よりもすぐれた存在がない神はご自分にかけて誓われた。こうして神の約束が、神自身の保証によって確実なものであることを明らかにしたのである。
17節 そこで、神は、約束のものを受け継ぐ人々に、ご計画の不変であることを、いっそうはっきり示そうと思われ、誓いによって保証されたのである。
   アブラハムへの約束は彼の血族を越えて、彼の信仰を受け継ぐ人々におよぶ。すなわち「約束のものを受け継ぐ人々」とは、主の教会に属するクリスチャン全体を指す。
18節 それは、偽ることのあり得ない神に立てられた二つの不変の事がらによって、前におかれている望みを捕えようとして世をのがれてきたわたしたちが、力強い励ましを受けるためである。
   「二つの不変の事がら」とは神の約束と誓いをさす。これによって。われわれはこの世の朽ちる富に惑わされず、約束にむかって前進することができるのである。
19節 この望みは、わたしたちにとって、いわば、たましいを安全にし不動にする錨であり、かつ「幕の内」にはいり行かせるものである。
   この前進する力の源が神の約束の保証に他ならない。したがって「この望み」もまた確固としたものになる。信仰の確かさと希望の力がそこにある。「錨」は波風はげしい現実世界の中で、信仰者の希望は荒天のもとで船を安全に保たせる希望を表す。希望は天に高く向かい、ついには天の聖所である「幕の内」に達するものである。
20節 その幕の内に、イエスは、永遠にメルキゼデクに等しい大祭司として、わたしたちのためにさきがけとなって、はいられたのである。
   この道筋はすでに主イエス・キリストが「さきがけ」として進まれた道であって、われわれはその足跡を追っていけばよい(12:2)。主を信ずる者の希望はイエスの模範によって支えられている。「メルキゼデクに等しい大祭司」(5:6,10,7:17)とあるのはイエスの最高位を象徴的に言い表して、イエスが開かれた道をたゆまず追って、不退転の信仰を全うするようにとの勧告を重ねている。

(2020/07/05)


[1]  エペソ1:15-19
   こういうわけで、わたしも、主イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対する愛とを耳にし、 わたしの祈のたびごとにあなたがたを覚えて、絶えずあなたがたのために感謝している。 どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、知恵と啓示との霊をあなたがたに賜わって神を認めさせ、 あなたがたの心の目を明らかにして下さるように、そして、あなたがたが神に召されていだいている望みがどんなものであるか、聖徒たちがつぐべき神の国がいかに栄光に富んだものであるか、 また、神の力強い活動によって働く力が、わたしたち信じる者にとっていかに絶大なものであるかを、あなたがたが知るに至るように、と祈っている。

[2]  ピリピ3:9-15
   律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。 すなわち、キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり、 なんとかして死人のうちからの復活に達したいのである。 わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。 兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、 目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。 だから、わたしたちの中で全き人たちは、そのように考えるべきである。しかし、あなたがたが違った考えを持っているなら、神はそのことも示して下さるであろう。

[3]  ピリピ3:10-11
   すなわち、キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり、 なんとかして死人のうちからの復活に達したいのである。

[4]  1ヨハネ5:16-17
   もしだれかが死に至ることのない罪を犯している兄弟を見たら、神に願い求めなさい。そうすれば神は、死に至ることのない罪を犯している人々には、いのちを賜わるであろう。死に至る罪がある。これについては、願い求めよ、とは言わない。 不義はすべて、罪である。しかし、死に至ることのない罪もある。

[5]  詩篇110:4
   主は誓いを立てて、み心を変えられることはない、
   「あなたはメルキゼデクの位にしたがって
   とこしえに祭司である」。

[6]  創世記22:16-17
    言った、「主は言われた、『わたしは自分をさして誓う。あなたがこの事をし、あなたの子、あなたのひとり子をも惜しまなかったので、 わたしは大いにあなたを祝福し、大いにあなたの子孫をふやして、天の星のように、浜べの砂のようにする。あなたの子孫は敵の門を打ち取り、

[7]  ローマ4:16
  このようなわけで、すべては信仰によるのである。それは恵みによるのであって、すべての子孫に、すなわち、律法に立つ者だけにではなく、アブラハムの信仰に従う者にも、この約束が保証されるのである。