4章
6章
へブル人への手紙5章
イエスは人間の大祭司より優れている(1‐10) 大祭司は民のために犠牲の捧げものを捧げるとともに、人々の弱さを分かり同情し、その難儀をともに負う。キリストの苦難の意義も同様である。 1節 大祭司なるものはすべて、人間の中から選ばれて、罪のために供え物といけにえとをささげるように、人々のために神に仕える役に任じられた者である。 今や祭司職は、ユダヤ的背景から離れ、「人間の中から選ばれて」と広く人間社会の場面に移っていることを示す。これによって祭司の犠牲奉献は異教的供え物から、精神的内容を備えるものへと発展したが、キリストの贖罪はそれ以上の力を発揮する。 2節 彼は自分自身、弱さを身に負うているので、無知な迷っている人々を、思いやることができると共に、 旧約の祭司的律法と良心との関係を明示している。「弱さ」は他人を「思いやること」に役立つ。この同情がキリスト苦難の意義をささえる。 3節 その弱さのゆえに、民のためだけではなく自分自身のためにも、罪についてささげものをしなければならないのである。 祭司の贖罪儀礼は「自分自身」のためにも必要である(レビ4:1以下,9:7-8 [1] ,16:1-4)。もちろんキリストはその祭司職によって自分の罪過のためには犠牲を捧げることを要したまわないが、我々の同情者として人類の重荷を引き受けたもうた。それは祭司職の役目を次節以下に述べる特別な仕方で得ているからである。 4節 かつ、だれもこの栄誉ある務を自分で得るのではなく、アロンの場合のように、神の召しによって受けるのである。 「アロンの場合のように、」(出エジプト28:1,民数3:10 [2] )。大祭司の栄誉は神の召命によるものである。 5節 同様に、キリストもまた、大祭司の栄誉を自分で得たのではなく、「あなたこそは、わたしの子。きょう、わたしはあなたを生んだ」と言われたかたから、お受けになったのである。 祭司と人間としての領分が神によって与えられたものであるから、単なる名誉ではなく、神の栄光を映す「栄誉」であることを詩篇2:7 [3] を引用して説明している。 6節 また、ほかの箇所でこう言われている、「あなたこそは、永遠に、メルキゼデクに等しい祭司である」。 同様にこの栄誉について伝説的大祭司であるメルキゼデクと等しいと詩篇110:4 [4] を引用している。 7節 キリストは、その肉の生活の時には、激しい叫びと涙とをもって、ご自分を死から救う力のあるかたに、祈と願いとをささげ、そして、その深い信仰のゆえに聞きいれられたのである。 キリストの栄誉は神の永遠の独り子としては当然のことであるが、救い主キリストとしての栄光は、天父への「従順」と恭敬と切り離すことができない。それとともに以下7節のキリストのとりなしの祈り、8節の先在と受肉への道、9節の贖罪の成立、10節の仲保者キリストの永遠の職能という順序で述べる。「激しい叫びと涙」はゲッセマネの園での祈り(マタイ26:36-46)を思い起こさせる。「深い信仰のゆえに」は、神に対するまったき敬虔と恭順を意味する。それゆえ「聞きいれられた」とは、神の意志に完全に一致したということを示す。神の子としての立場を守り通し、それをもって天父に受け入れられた次第を告げている。 8節 彼は御子であられたにもかかわらず、さまざまの苦しみによって従順を学び、 万人の模範となるキリストの天父に対する従順は、「さまざまの苦しみによって」、学んだものという。こうして人間としての道を全うし、全人類の代理者である地位を得たゆえんを明らかにしている。 9節 そして、全き者とされたので、彼に従順であるすべての人に対して、永遠の救の源となり、 「全き者とされた」は完成を意味するが、地上における人間としての生活の時と対照的に苦難を超えた勝利を指している。ピリピ2:6-11 [5] のようにキリストの謙遜と気高さが歌い上げられている。「永遠の救の源」(イザヤ45:17 [6] ) 10節 神によって、メルキゼデクに等しい大祭司と、となえられたのである。 そしてキリストは永遠の大祭司として仲保者となられたのである。 義の言葉を味わうことができない幼な子のままでいてはならない(11‐14) キリストがメルキゼデクにひとしい職能を持つことについて十分に理解していない幼稚な信仰状態に対し、教会的な配慮をもって叱責にちかい勧告がなされている。(5:11-6:8) 11節 このことについては、言いたいことがたくさんあるが、あなたがたの耳が鈍くなっているので、それを説き明かすことはむずかしい。 教会員の理解力や判断の減退を「耳が鈍くなっている」と言っている。 12節 あなたがたは、久しい以前からすでに教師となっているはずなのに、もう一度神の言の初歩を、人から手ほどきしてもらわねばならない始末である。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要としている。 しかもこの未熟な状態は自然的生来的なものではなく、怠惰の結果であって、他人に教えるはずの者が依然として幼い者のようであるという。ここの「神の言の初歩」は初級の福音の教えではなく、教師たる者の責任が問われている。「堅い食物」、「乳」(1コリント3:1-2 [7] ) 13節 すべて乳を飲んでいる者は、幼な子なのだから、義の言葉を味わうことができない。 「義の言葉」は福音の根本的教えを指すが、ここでは広い意味で解し、幼児の言葉ではなく成人の語るべき言葉づかいをさしたもの。 14節 しかし、堅い食物は、善悪を見わける感覚を実際に働かせて訓練された成人のとるべきものである。 「堅い食物」は、信仰生活の試練をつみかさねた者が味わうことができるもの。それは自ら善悪を見わけ、信仰生活の軌道を正しくするものであって、そのためわれわれはいっそう深くキリストの道を学ばなければならない。 (2020/06/28)
[1] レビ9:7-8 モーセはまたアロンに言った、「あなたは祭壇に近づき、あなたの罪祭と燔祭をささげて、あなたのため、また民のためにあがないをし、また民の供え物をささげて、彼らのためにあがないをし、すべて主がお命じになったようにしなさい」。 そこでアロンは祭壇に近づき、自分のための罪祭の子牛をほふった。
[2] 民数3:10 あなたはアロンとその子たちとを立てて、祭司の職を守らせなければならない。ほかの人で近づくものは殺されるであろう」。
[3] 詩篇2:7 わたしは主の詔をのべよう。 主はわたしに言われた、「おまえはわたしの子だ。 きょう、わたしはおまえを生んだ。」
[4] 詩篇110:4 主は誓いを立てて、み心を変えられることはない、 「あなたはメルキゼデクの位にしたがって とこしえに祭司である」。
[5] ピリピ2:6-11 キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、 かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、 おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。 それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。 それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、 また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。
[6] イザヤ45:17 しかし、イスラエルは主に救われて、 とこしえの救を得る。 あなたがたは世々かぎりなく、 恥を負わず、はずかしめを受けない。
[7] 1コリント3:1-2 兄弟たちよ。わたしはあなたがたには、霊の人に対するように話すことができず、むしろ、肉に属する者、すなわち、キリストにある幼な子に話すように話した。 あなたがたに乳を飲ませて、堅い食物は与えなかった。食べる力が、まだあなたがたになかったからである。今になってもその力がない。