物価が高いのが玉に瑕
勉強のための出張旅行だったが、オスロには見たい所が沢山あった。今度は観光で行きたいものだ。
しかし物価が高い。同じ北欧のフィンランドの人もそう言っていた。
豊かさ指数トップの高福祉国家だから仕方ないか。 隠れた原油大国だしな、とひがむ。
そのうえ、「世界幸福度ランキング2018」で2位だって。ちなみに日本は上位50ケ国に入っていない。
(2018/04)
オスロ宮殿
アーケシュフース要塞
カール・ヨハン通り
ヨットハーバーホテルはどこだ!?
今を去ること17年前、2001年のノルウェー出張顛末記である。オスロに本社があるビデオ会議システムのメーカーで、トレーニングがあり参加することになった。フィンランドのNokia、スウェーデンのエリクソンを始め北欧は電気通信の先進国である。ノルウェーのTANDBERGは、ラジオ、テープレコーダの雄として、アメリカ市場では日本製品を凌駕するドラコンキラーと呼ばれたが、オーディオから撤退し、ビデオ会議システムに転身した。
オスロへはコペンハーゲンで入国審査し、オスロ行きに乗り換える。コペンハーゲンには、2回出張したことがあるが、改装され新装開店のデパートのように奇麗になっていた。コペンハーゲンからオスロまでは、約1時間の飛行だ。コペンハーゲン空港は、ハブ空港なので乗り換えの搭乗口を探すのが面倒だが、オスロ空港はこじんまりしていて分かりやすい。
スーツケースを受け取り、公衆電話からオスロの会社の担当者に電話した。すると、あいさつの後、君のホテルが変わったことを聞いたかという。なんだって、そんなこと聞いていないよと言うと、日本に連絡したんだけど間に合わなかったのかな。ホテルの名前は、何々で何処そこにあると勢いよくまくし立てた。相手は先祖がバイキングかと思うような大男で、威勢が良い。なんとかメモしたが、正確に聞き取れたか心もとない。後で考えたらホテルの電話番号も言ってなかったし。とりあえず空港内の観光案内所に行って、地図をもらい地名を言ったら、元のホテルで利用するはずだった駅Sentralstationの一つ手前のNationaltheatretが、最寄り駅らしいことが分かった。 係の人は、確かその辺りにホテルがあったと言う。もう一度、公衆電話からバイキングの子孫に電話したが、帰宅したのか呼び出しに応答がない。今だったら携帯端末に、ホテルの正確な住所、名前をテキストメッセージで送れるのだが、日本のキャリヤは、まだそういうことができなかった。(当時すでに日本以外の世界共通のテキストメッセージサービスとして定着していたSMSの提唱者はフィンランドの人である。日本の携帯電話は2011年にやっと国内のキャリヤ間のSMS相互接続が可能になった。) 今なら、タブレットを持っていれば動じることが無い。
空港から高速列車に乗って、30分位で、Sentralstation駅に着いた。観光案内所でもらった地図を頼りに、ホテルがあるはずの通りVikaを探して10分位歩いたが、それらしいものが見つからない。傍のショッピングセンターのような所に入り、店員に聞いたがホテルがあることを知らない。一旦駅に戻り、見通しが利く場所を探していたら、警察官がいた。しめたと思い話したら、その日は臨時の警備のため来ているが所轄ではないので、その近辺の地理は不案内だと言う。そこで駅に戻り、キオスクでテレホンカードを買い、電話帳を借りて、店員さんにホテルのページを聞いた。この近くのホテルはどれだろうと聞いたら、多分これじゃないかという。名前を見るとメモしたものに一部合致していた。そこに電話したら、お待ちしていましたという。駅からの行きかたを教えてもらったら、最初に聞いたショッピングセンターの道路を隔てた向かいの建物の後ろが、そのホテルだった。かなり近くまで行っていたのだ。この時点で8時半頃だったが、夏に向かう北欧は、その時刻でも明るい。予定より1時間程遅れての到着だったが、日が暮れないうちに着くことが出来た。
バイキングの子孫が心配して、ホテルに電話してきたとレセプションデスクの人が言っていた。外に行って夕食を食べた後、日本に電話したら、オスロからホテルの変更の連絡を受け、すぐに私の携帯電話に電話したそうだ。だが、搭乗するためすでに電源を切った後だったのだ。私がどうしているのか、かなり気をもんだようだ。始めよければ終わりよし。その後のトレーニングは、充実した楽しいものだった。電気通信のプロトコルは、ITU-Tという規格に基づく。トレーニングはこのITU-Tの解説と動作確認の実験、ビデオ会議の実機ハンズオン、遠隔操作によるトラブルシューティングなどだった。フランス、デンマーク、ノルウェー、ギリシャ、アラブ首長国連邦、中国、ブラジルからの参加者と、一緒に実習したのが楽しかった。三日間のコースが2回あり、それぞれの最終日の夕方に放課後のアクティビティーがあった。最初のコースのアクティビティーは、カーリングだった。オリンピックのノルウェー代表の選手が指導してくれた。カーリングは、落ち着いて慎重にやれば、初心者でも、それなりの成果を出せ、なかなか面白いものだ。私はギリシャから来た2名とチームになった。
この6日間のトレーニングで得た知識が、後のビデオ会議関係のアプリケーション開発の基礎となった。あの頃は、大方はISDNを使い、モニターもアナログテレビ放送のNTSCかPALのテレビだった。それが今では、光ケーブルでインターネットを介し、HDの高品質画像で通信するのが当たり前になった。基本的な原理が変わったわけではないが、受講当時を思うと隔世の感がある。
(Mar. 29, 2018)
ノルウェー軍博物館にて
ノルウェー軍博物館にてミュージアムの街
オスロには優れた博物館と美術館が多くあるがの魅力だ。出張の旅だったので、時間が少なかったが、アーケシュフース城と要塞、その中にあるノルウェーレジスタンス博物館とノルウェー軍博物館を見たし、ムンク美術館を見ることができた。写真はあまり撮れなかった。
レジスタンス博物館で、大量の銃が山積みになっているコーナーがあった。特に説明文や銘文はなく、見る者が何を感じるかにまかされている。それらの銃一丁々々にレジスタンスの重みが加わり、強烈な印象を与える秀逸なオブジェであった。ドイツの占領中のノルウェー・ナチス党の統治下、王、閣僚はイギリスに亡命し、ノルウェー軍はレジスタンス活動を続けたという。
博物館には、レジスタンスが使った無線装置も展示されており、大いに興味が引かれた。その中に歯に埋め込んだラジオ受信機があった。鉱石ラジオである。暗号の受信に使ったのであろう。当時の事だから、検波器として黄鉄鉱か方鉛鉱を使っていると思う。子供の頃、黄鉄鉱の塊を持っていて、鉱石ラジオを作ったものだが、結構感度が良かった。北欧各国におけるドイツ軍の侵攻に対し、抵抗活動は粘り強く行われ、フィンランドの北極博物館の歴史展示室にも、無線がどのように活用されたか、小屋の中の配置とともに展示されていた。
レジスタンス博物館を出て、建物の外置かれた旧式の大砲を見ながら、広い要塞内をしばらく歩くと、ノルウェー軍博物館がある。この中には、戦争で使われた実物の火器、車両が置かれていた。V1飛行爆弾が天井から吊り下げられていた。命中率はかなり低かったようだが、こんなのが空を飛んで来くるのを見たら、恐怖に立ちすんだに違いない。見ているだけで恐ろしい。
アーケシュフース城から、街並みを見ながらゆっくり40分ほど歩いた所にムンク美術館がある。ムンクと言えば、即座に連想する絵が「叫び」。「叫び」は何点か制作されたが、ムンク美術館には、そのうちテンペラ画、パステル画、リトグラフが展示されている。それらの絵の中で、夕暮れの赤と青黒いフィヨルドの叫び、あるいは白と黒だけの叫びに、一様に恐れおののき耳をふさぐ一人の人物がいる。その原画をゆっくり味わうことができた。