プラハで考えたこと。

  これまでは、旅行は空いていて、料金が安くなるシーズンオフに限るというのが、私のポリシーであったが、この旅行でそれを見直さなければと考えている。  確かに観光客が減るシーズンは、移動も見物も楽なのだが、どうしても荷物が重くなる。防寒具はかさ張るし、移動の際に身に着けるもの以外に予備のセーター、ダウンのベスト、重ね着用の発熱下着、厚手の靴下とくる。若いころ(60才位)には、さらに滑り止めが付いたトレッキングシューズ、双眼鏡、カメラ2台、パソコンをスーツケースに詰め込み、かなりの重さになったものだが平気だった。
  ところが、そういう冬装備で、プラハ中央駅について、いざ列車から降りようとしたら、スーツケースを落としそうになった。地下鉄や近郊列車と違い、国際列車とはいえ、ヨーロッパの旧式の長距離列車の昇降口は狭く段差が大きい。そのため、自ずと片手でスースケースを持ち、もう一方の手で手すりに摑まりながら、一段一段降りることになる。おまけに乗るときはスーツケースを持ち上げながら、よじ登る格好なのでいいが、降りるときは大きなスーツケースで足元がが遮られるため、踏み間違えないように注意する必要がある。 いつも列車を使うわけではないが、年を取るに従い筋力が落ちたことを実感した。それで今後は荷物の少ない夏に計画しようと思っている。写真を見ると夏のプラハは観光客が溢れているようだが。(2013/01)



 プラハ中央駅

 市内の移動に使用したトラム

郷愁の街

  プラハ中央駅のホームに降りたら、幸せな気持ちで満たされた。その後も、この街全体が歓迎してくれているような暖かい感じを受けたのは何故だろうか。一昨年、東京の西洋新美術館のミュシャ展でスラブ叙事詩に描かれている悲惨な民族紛争と宗教紛争の大作を見たときの感動も同様であった。それらの作品の中に残る希望とボヘミア民族に対する深い愛。ナチスドイツの占領とソビエト連邦への統合という厳しい歴史を経験した人々の心の底にある普遍的な同胞に対する慈しみが、町全体に漂っているのではないだろうか。あるいは、私のボヘミアンへの憧れと共感が、そう感じさせたのだろうかと、ふと思うこともある。
  概してプラハの人たちは、静かで親切だ。どこの国もトラムはガタガタだが、プラハのは特にひどく、立っていたらバランスを崩しそうになった。それを見た若い男性が席を譲ってくれた。公共交通機関で席を譲られたのは、人生でこれが初めてだった。その後もない。東京で仕事があるとき、満員電車で席を譲ってあげる方だ。街は清潔で、路上にゴミが落ちていることはない。
  もう一度帰りたい郷愁の街だ。 (Mar. 19, 2018)


時計の仕掛けが動く時刻になると観光客が集まる。

仕掛けが動きキリストと12使徒が次々に現れる。

天文時計

  中世の天文時計。 時計は、上の太陽や月の位置などの天文図を示すための文字盤、下の月々を表す浮き彫りの暦版からなる。最も古い時計機構は1409年に作られたという。その後、暦版が加えられ、ゴシック装飾が施されたという。600年以上も動き続けたということになるが、途中何度か修復工事がされた。最も大きな修復は、第二次大戦後のもので、ドイツ軍による焼夷攻撃による損傷に対するものだった。この天文時計は旧市庁舎にあるが、時計塔の側面が黒いのは、焼夷弾攻撃の傷跡である。天文時計は時刻の他に太陽と月の位置がわかる仕組みになっているそうだが、見方を理解しないと役に立たない。暦時計は種まき、収穫の時期が分かる仕組みになっているそうだ。
  時計の上に19世紀の改修の時に加えられた動く人形の仕掛けがあり、9時から21時の毎正時に天文時計の横の死神である骸骨が鐘を打つと、窓からイエスと十二使徒が次々に現れる。時計自体の仕組みもさることながら、この人形のからくりは一見に値する。私が11時15分前に時計の前に行ったときは、まだ人だかりはなかったが、その後観光客が集まりだして十二使徒の行進が始まるのを待った。ロシア系の顔立ちの観光客が多かった。彼らはアメリカ人や中国人のように騒々しくない。ツアーの団体のガイドは旗を持っている。いよいよ11時、鐘が打ち鳴らされると、二つの窓が開き、イエスと十二使徒が次々に現れた。使徒達は、苦悩と悲しみの表情なのだが、なんとなくかわいらしい。チェコはマリオネットの国だから、こういう彫刻が得意なのだろう。


プラハ城
プラハ城の中で、とりわけ威容を誇る聖ヴィート大聖堂 黄金小路

プラハ城

  プラハ城は世界で最も古く大きい城だ。ヴルタヴァ川にかかる美しい橋、カルレ橋のたもとから眺めたプラハ城のファザードは、千年の歴史の荘厳さというよりも貴婦人のエレガントを感じる。現在はこの城に大統領府が置かれているということだが、どの部分がそうなのか分からなかった。警備はそれほど厳しくない。城の中には宮殿、庭園、尖塔の他に二つの教会、修道院がある。中でもゴシック様式の聖ヴィート大聖堂の美しいステンドグラスと外壁の壁画は一見の価値がある。 帰途ポスターを見て分かったことだが、その日礼拝堂で、コンサートがあった。朝は衛兵が立っている正門と思しき方から入ったのだが、反対側から入ればよかったのだ。城は丘の上に建っていて、正門に至る坂道は結構距離が長いが、反対側の裏門の坂道は短く、観光客は普通そっちを利用するからだろうか。コンサートのポスターはそちら側にしかなかった。何れにしても、とても一日で見ることができるものではなく、もう一度行ってみたいと思っている。
  城内は小さい街のようなもので、独立した建物が沢山ある。その中で楽しみにしていたのが黄金小路だ。黄金小路の名前は、皇帝ルドルフ2世がここに錬金術師を住まわせ、金属を金に変える物質を探させたのが由来と言われている。後にこの通りの11軒の小さな家が建てられ、召使や門番が住んでいたという。現在は当時の生活を再現した博物館やショップとして使われている。錬金術師の部屋もあり、彼らが使った当時の道具が展示されている。片側に簡単なベッドがあり、寝ても覚めても実験と工夫に頭が一杯だった様子がしのばれる。各部屋はとても小さい。おしゃれ好きな人の部屋、裁縫の好きな人の部屋、料理が好きな人の部屋、食事をすることが楽しみだった人の部屋など、住んでいた人の好みが再現されていて見ていて楽しい。食料部屋の玉子の保管方法、玉ねぎを吊るした様子、クッキング用ストーブ、ワッフル焼の道具、鍋、食器等も微笑ましい。
  プラハ中央駅から徒歩で、プラハ城に行くには、ヴルタヴァ川を見下ろしながら、カルレ橋を渡る。ヴルタヴァ(Vltava)は、日本ではドイツ語名のモルダウ(Moldau)として知られている。これを見るのが、チェコの旅の楽しみの一つだった。この川の雄大な流れを目にしたとき、遂に本物を見たという感動とともに、あのスメタナの交響詩「わが祖国」モルダウの旋律が自然に心に浮かんだのだった。スメタナの交響詩モルダウについての説明を要約すると次のようになる。この曲は二つの源流から流れ出し、それが一つの流れに合流して、様々な情景を歌い上げながら、次第に川幅を広げプラハへ至る頃は雄大な流れになり、最後はラベ川(Labe)、ドイツ語名エルベ川(Elbe)へと消えていく流れを描写している。スメタナがこの曲を作り上げたときは、まだ交響詩というジャンルが一般的ではなかったため、曲の説明を付けたのだそうだ。今では美しい一篇の詩を読むように聞くことができ、端的に言えば、聴くと幸せな気持ちで一杯になる優れた曲だと思う。 カルレ橋からヴルタヴァ川を見下ろすと、カモメのような水鳥や白鳥が賑やかに泳いでいたり、遊覧船がゆったり行き来しているのが見える。橋の長さが500m以上あるから、かなりの川幅だ。それだけの長さの橋を歩くので、遥か彼方だったプラハ城も、橋を渡るにつれてだんだん大きく見えてくる。(2018/03/25)





プラハ城内のローゼンベルグ宮殿(Rosenberg Palace)にカフェがある。

ターキーのベーコンのクラブサンド

プラハ城でのランチ

  プラハ城のなかにあるローゼンベルグ宮殿(Rosenberg Palace)でランチを食べた。宮殿に入りすぐ左手がカフェになっている。 ローゼンベルグ家がこの宮殿を建てたときは、ルネッサンス様式だったが、女帝マリア・テレジアの時にバロック様式に改築された。貴族女学院、未婚の貴族の女性のための居室として使われていたとのこと。
  カフェとはいえ、宮殿の中となるとなんとなく緊張するが、おっかなびっくり入ってみると、部屋の作りは荘厳なバロック様式ではあるものの、テーブルや椅子はいたってシンプルな気楽なもので一安心。昼食時ではあるが、一組の母娘が出て行ったあとは、他に客はいない。これだから旅は冬に限る。観光地として人気があるプラハの夏はこうはいかないだろう。シーズンオフの冬だから、周囲のざわめきに煩わされず、ゆっくりくつろぎながら食事を楽しみ、本を読み、次の散歩コースを吟味することができるというものだ。公園などで小さい子が賑やかに走り回ったりするのは、微笑ましく歓迎するが、雰囲気が落ち着いたカフェなどで、騒いだり物を壊しかねないような、見ていてハラハラする行動は興ざめだ。
  その日食べたものは、ターキーのベーコンのクラブサンドとホットチョコレート。レストランで食事の写真を撮ることはマナーとして許されないことだそうだが写真を一枚撮った。日本円に換算すると400円位だった。観光地にしては安い。ベーコンは薫り高く、レタスはサクサクし、ドレッシングも美味しい。クラブサンドを食べるとき、切ってつまむ仕草をスマートにやりたいといつも思うが、なかなかうまくいかない。場数を踏めばいいだろうが。





  カフェ・カフカと博物館になっているフランツ・カフカの生家 (2013/01)

カフカが週末に執筆を行った黄金小路の家 (2013/01)  

カフカ

  フランツ・カフカの生家が、旧市街広場のすぐ近くにある。ここは建てかえられたものだそうだが、現在カフェと博物館になっている。チェコの国民的作家であるカフカの博物館は、他にもカルレ橋とプラハ城の間にもあり、橋からカフカ・ミュージアムの大きな文字が見える。他にカフカが執筆の際に使っていた小さな家がプラハ城の中の黄金小路にある。   近世になって黄金小路の家に芸術家が住み着くようになり、保険局に勤めていたフランツ・カフカも、妹が所有していた黄金小路の22番の青い家で週末になると執筆活動をした。この家は現在、書店になっていて、チェコにゆかりの作家の本や絵葉書などを売っている。良心的なセンスの良い装丁の小型本が多く、私はダイアリー形式のページにカフカ関連の写真や記事が入っているThrough the Year with Franz Kafkaと、ライナー・マリア・リルケのTwo Prague Stories、そして中世のプラハの銅版画の複製を買った。Through the Year with Franz Kafkaは、右ページが1月1日から12月31日まで、1ページ1週間のダイアリーにその日に生まれた作家の名前や生年、カフカに関する出来事が載っており、左ページには写真、解説、引用が載っていて、パラパラめくって拾い読みするだけでも楽しい。4月のところに学生時代に読んだチャペックの「園芸家12ヶ月」の挿絵が載っていて懐かしかった。
  私はリルケが同時代のカフカを評価していたことを知らなかった。若いころリルケの伝記を読んでいたし、詩集の巻末の解説も読んでいたはずなのに迂闊にも、オーストリア・ハンガリー二重帝国時代のプラハで生まれた彼をドイツ人だと思い込んでいた。カフカは私の好みではなかったが、今回のプラハ訪問で、彼に対する興味を深め、リルケについても再認識し再読することになった。カフカの迷宮世界、先が見えない袋小路、不条理の連続、そしてリルケのあらゆる精神の高みを凌駕する類まれなる「ドゥイノの悲歌」の深淵。カフカやリルケの作品は、ボヘミアンであることによって成されたものでないだろうか。(2018/3/23)