4月9日に沖縄を出た一週間後の翌日4月17日に新型コロナウイルスの緊急事態宣言が全国に拡大された。
今年の春も寒い日が続き、八幡平に着いた9日の夜に雪が降った。その後も、何度かにわか雪が降った。しかし5月3日に気温が急上昇し20度を超え、翌日4日には桜が咲いた。タイミング良くカタクリとキクザキイチゲの競演となった。
八幡平 2019 - 2度目の春と夏、3度目の秋
八幡平 2018 - 春から秋にかけて
八幡平 2017 - はじめての秋
県民の森みんなの広場 2020年4月10日朝
雪が融けるとキクザキイチゲやフキノトウが顔をだす。 2020年4月30日
雪解け水で満たされた安比高原奥のまきばの沼 2020年5月11日
雪が落ちてまた帰らず
4月9日の夕方、八幡平の家に到着した時、雪が舞い降りるように降っていた。朝、起きて外を見ると木の枝がうっすらと雪化粧していた。 早速、新しい雪を踏みながら県民の森に行ってみる。 こげ茶色のリスが桜の木の間の雪の上を駆けて抜ける。白い雪の上でよく目立つ。 咲き始めた水芭蕉の花に綿毛のような雪が積もっている。 シデコブシの花はまだ蕾が小さい。 天から雨が降り、雪が落ちてまた帰らず、 地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、 種まく者に種を与え、 食べる者にかてを与える。(口語訳旧約聖書イザヤ55:10) 神と人との隔たりのような天と地の隔たり。しかし、天から降る雨や雪がそのまま天に帰らず、地を潤し実りをもたらしてから循環するように、神は人に無条件の愛を注ぐ。 早春の山は、谷の残雪の下から、雪解け水がチョロチョロ、ボコボコと流れる陽気な音が聞こえてくる。 風のない曇った空の下、小鳥のさえずりが賑やかな雑木林を通り抜け、春の静けさにつつまれた林道を歩くとき、魂の耳をすませば、その静寂の中に命が生まれる無数の音を感じる。 松林の下には早くもフキノトウが芽を出し、キクザキイチゲの花が下を向いたまま暖かくなるのを待っている。 そんなところに雪がふわふわ落ちてきたり、時には吹雪のように冷たい風に乗ってやってきたかと思うと、雲間から日の光が差してくる。目まぐるしく変わる春の山の天気。 夏だとにわか雨か夕立いったところ。4月下旬までは寒く、カタクリの花がいつ開くかと毎日のように見に行ったが、ゴールデンウイークに入るまでは小さな蕾のままだった。 山登りのトレーニングに使わせてもらっている近所ののスキー場の上の方は、まだしばらく雪が残っていて、アイゼン歩行の練習に丁度いい。 そこも雪が融けると花が咲き、フキノトウやワラビが萌え出る。 苔は厳しい冬に強いらしい。雪の下から新鮮な緑のスギゴケが顔をのぞかせる。 5月、安比高原のブナの森をぬけて奥のまきばに行った。同じ八幡平市内だが、高度が高いので春の訪れが一ヶ月ほど遅い。途中の林道沿いの小さい川は、水量が増えて勢いよく流れている。この水が「地を潤して物を生えさせ、芽を出させて」、八幡平の美味しい米や野菜を育て、「食べる者にかてを与える」。 このように、わが口から出る言葉も、 むなしくわたしに帰らない。 わたしの喜ぶところのことをなし、 わたしが命じ送った事を果す。(口語訳旧約聖書イザヤ55:11) 天から降る雨や雪のように、神が一度語られた言葉もまた成就することなくそのまま帰ることはない。神の口から出る言葉を聞きそれに信頼を置く者の思いと心は変えられ豊かにされる。 奥のまきばに着くと、雪解け水が沼にたまり、自然の貯水池ができていた。水面に映った青い空と水に浮かぶ白い雪が美しい。シラカバの枝の芽はまだ固いが、ミズバショウの白い花が乳児の生え始めた小さい歯のようにちょこっと水面から顔を出していた。県民の森のミズバショウはとっくに終わったが、高原を駆け抜ける風はまだ冷たく、奥のまきばはこれからだ。スプリング・エフェメラル(春の妖精)のキクザキイチゲだけが枯草の上で目立つ。平地は白い花が多いが、高原は鮮やかな青が多い。 (2020/05/16)
県民の森みんなの広場 2020年5月5日
枝垂桜とカスミザクラ 2020年5月5日
カタクリ 2020年5月8日
安比高原ブナの森のヤマザクラ 2020年5月18日
にほいぬるかな
今年は、盛岡のソメイヨシノの開花が4月25日。その日の八幡平市の家の近辺では吹雪で、桜の開花はまだまだ先のことと思われた。 梅は咲いたか桜はまだかと、毎日のように見に行っていたのだが、4月のうちは一向に咲く気配がなかった。去年は4月中旬に咲いていたカタクリも小さな蕾がついているだけだった。ところが翌26日は、朝からいい天気で気温がぐんぐん上がり20度を超える春の陽気に。その日は日曜日だったので出かけることはなかったが、翌朝ゴミ出しに行ったら、近所の桜が咲いている。八幡平の県民の森のオオヤマザクラの蕾が大急ぎで膨らみ、5月3日についに開花した。見頃は9日前後だった。 山桜が咲いた後、二週間程経って八重桜が咲いた。この花を目にすると、百人一首にある伊勢大輔(いせのたいふ)の いにしへの奈良の都の八重桜 けふ九重に にほひぬるかな を条件反射的に思い浮かべる人が多いのではないだろうか。 「にほひぬるかな」の「にほひ」は、香りではなく見た目の美しさを表すことば。八重桜の「八」と宮中を表す九重の「九」の数字の対比、「いにしえ」と「けふ」、過去と現在の対比をみごとに詠い込んでいる。奈良の僧都から八重桜が宮中に献上された折り、桜を受け取る役は古参の紫式部だったが、それを新参の伊勢大輔に花を持たせようと譲ったという。そして中宮・彰子(しょうし)の父藤原道長は、桜を受け取るときに歌を詠むようにと伊勢大輔に求め、即座にこれを返したというもの。かつての奈良の栄華をしのばせる豪勢な八重桜だけど、京の都ではいっそう美しく咲き誇っていると、今の宮中の栄華ぶりをほめたたえるという、打てばひびく歌詠みの家柄の出としての面目躍如たる歌だ。歌としてはやや趣に欠けるものの若々しい凛としたよく透る声で詠じたことだろう。 詠いおわるやいなや、時の権力者道長はじめ並み居る公達(きんだち)、彰子中宮に仕える女房達の歓声に包まれたという。こういう優れた作品が千年もの間、日本人の心の中に生き続けて花の季節を愛でることができるのは幸せだ。なおこの歌に感心した彰子中宮が次の返歌を送っているが、これは紫式部の代作という。 九重に にほふを見れば桜狩 重ねて来たる春かとぞ思ふ 宮中に咲き誇る遅咲きの八重桜を見れば桜狩のよう。 もう一度春が来たかと思いました。 春が遅いこの辺りは、オオヤマザクラに先駆けて早いうちから咲きだすキクザキイチゲとカタクリの開花が重なり、五月に入るとまさしく「にほひぬるかな」と詠嘆する季節になる。こうした百花繚乱の春は、異なる花と花の姿と色の対比が「にほひ」を際立たせる。カタクリの美しい立ち姿と愛らしい薄紅色とキクザキイチゲの凛とした姿勢と清楚な白。それらと桜の花。タンポポや水仙の明るい春の日差しのような黄色と白樺やカラマツの明るい若葉。 この季節は、麓の田園風景の中にもにほひぬる風景をあちこちで目にする。農家の家の周りや畑の周囲に植えられた花を通りすがりに見ると大変良い気分になる。広い農地の片隅に植えられたピンクの枝垂桜(しだれざくら)と白いカスミザクラの美しさ。こういう所に木を植えてくれる奇特な人がいるものだと只々感心するばかりだ。そのうち隠れた名所になるかもしれない。 同じ八幡平市内の安比高原の野生の桜も趣がある。この桜の木は桜らしからぬ姿かたちをしている。河原の若いネコヤナギの木のように枝が地面から横に広がって伸びているのだ。花が咲いていないとただの灌木にしか見えない。それが5月中旬になって咲きだすと桜と分かる。そして中心の幹が成長するとだんだん普通の桜の木らしくなる。雪がとけた春の高原で、こんもりとした若い木があちこちで花を開くと、山ならではの「にほひぬるかな」になる。 (2020/05/30)
ヤマアジサイの透き通るような両性花 2020年7月18日
ヤマアジサイ 2020年7月8日
ヤマアジサイ
今年の梅雨は長く、東北南部は8月2日に梅雨明けが発表されたが、北部はまだ続いている。 しかし、梅雨の季節の代表的な花であるヤマアジサイ(山紫陽花)は、見頃が終ってしまった。 アジサイの仲間は、半日陰を好む。ほの暗い林道でのヤマアジサイとの出会いは、雨の季節の喜びの一瞬となる。宝石箱の中のジュエリーのような透明感のある小さな両性花(一つの花に雄しべと雌しべをもつ花)とその周りを取り囲むように咲く花弁状の装飾花の絶妙な組み合わせ。 花の色は、多い順にブルー、ピンク、白がある。白は非常に少ない。 ヤマアジサイは、華奢で清楚、可憐なことから「乙女の愛」、清々しく強く心をひく魅力的な姿から「切実な愛」という花言葉がつけられている。両性花には美味しい蜜が詰まっているのか、海抜500m位の比較的低い県民の森に植栽されているヤマアジサイにミツバチが集まっているのをしばしば目にする。 (2020/08/07)
オニシモツケの花 2020年7月10日
オニシモツケのつぼみ 2020年7月10日
オニシモツケ
梅雨空のどんよりと曇った空の下、スキー場を下っている時、オニシモツケ(鬼下野)の花が白い綿毛のように咲いているのを見つけた。オニシモツケはシモツケソウ属で、北海道と本州(中部以北)の山地に分布する。シモツケソウ(下野草)は1メートル位だが、オニシモツケは1メートル半から2メートルの背丈になるので、この名が付けられている。 オニシモツケの葉は比較的大きく、人の手のひらのように先が分かれている。花が咲く前はかなり地味で、あまり印象に残らない。しかし、白い花が咲きだすと、濃い緑の葉を背景にふわふわした雲のように見えて目につきやすい。そして、その白い雲に近寄って、よく見ると小さな花が集まっているのがわかる。一つ一つの花は何とも可憐な姿をしている。この控えめさから、「ほのかな恋」、「思慕」などの花言葉がある。 名前が似ている低木にシモツケ(下野)がある。シモツケの葉先はまっすぐで、分かれていない。名前は下野(しもつけ)の国(現在の栃木県)にちなむ。シモツケソウやオニシモツケは山野に分布するが、シモツケは園芸種として庭先に植えられている。 また花の姿が似ているものにカノコソウがある。こちらは林道の湿った場所でよく見られる。生薬として利用される。 (2020/08/01)
夏の夜空 2020年8月19日
アンドロメダ大星雲 2020年8月20日
にぎやかな夜空
結局、今年は東北北部の梅雨明けの発表がなかった。梅雨明けのない夏は、2009年以来11年ぶりとのこと。それでも、8月18日から三日間は、一日中晴れた。さっそく県民の森のみんなの広場にカメラと三脚を持って行った。 ここは星がよく見え、夏の夜空には天の川が綺麗にかかる。木星がとても明るく、日没後の一番星になっている(天の川の左の明るい星が木星)。固定カメラで、星が流れないように撮影できるぎりぎりの露出時間30秒で何枚か撮った。 その中に人工衛星と流星が写ったにぎやかなものが一枚あった。 左下の明るさと太さが一定の線は人工衛星。真ん中のさらに明るい線は流星で、徐々に明るく太くなった後、スッと消えている。 右の暗い線も人工衛星だが、軌道が高いか小型のためかぼんやりしている。 一般に人工衛星は、地球に対する速度を上げるために東に向けて打ち上げられ、地球を西から東に回る軌道に投入される。八幡平から見える人工衛星は、南西ないし北西から、南東ないし北東に移動するのが多い。 地球観測衛星は、北極と南極の上空を通る軌道に投入されるため、あまり見ることがない。 JAXAのホームページで、日本の宇宙ステーションISS「きぼう」の軌道情報を公表している。 北東のカシオペアを35mmのズームレンズで撮ったら、アンドロメダ大星雲が写っていた。肉眼でもぼんやりとした光芒状に見えるとのことだが、近視の私には到底見ることが出来ない。ズームレンズでもこの程度は撮れるので、来年は赤道義を使って天体望遠鏡で撮影してみたい。 (2020/08/20)
ハマナスの花 2020年8月5日
ハマナスの実(ローズヒップ) 2020年8月5日
ハマナスの花で一休み 2020年8月5日
花の名前
トレッキング以外でも、片道60分未満の場所へは、車を使わず徒歩ででかける。郵便局なら往路35分、復路45分。帰りは登ることになるので往路よりも時間がかかる。郵便局からさらに10分のところに、松尾八幡平ビジターセンターがあり、棟続きの直売所アスピーテには、新鮮な山菜や地元産野菜、果物が並ぶ。安いばかりではなく、沖縄では目にすることのないものが出るので、野菜や果物は専らここで買う。エコバッグ代わりのリュックを肩に、カメラを持って行く。 同じ道でも、歩いていると車を運転している時には気が付かなかったものが目につく。 先日ハマナス(浜茄子)の花を見つけた。家から郵便局に行くまでの間と、郵便局とアスピーテの途中の2カ所にある。ハマナスは、ジャパニーズローズともいうバラの一種で、香りが強く昔は香水の原料とする精油や滋養強壮の実(ローズヒップ)が使われたが、ブルガリア産のダマスクローズにとって代わられた。 ハマナスの花を実際に見るまでは、その名前から、ナスの花のように素朴な紫の小さな花をイメージしていた。とてもバラだとは想像できなかった。なぜ、名前がハマナスになったかというと、浜に生え、実がナシの実のように甘酸っぱいので、浜梨と言っていたのが、なまってハマナスになったという。これは牧野富太郎の説で、今ではこれが通説になっている。しかし、江戸時代の本草学者の説にハマナスの実を小型のナスに見立ててハマナスと名付けたというのがある。色と形からは現代のナスに見えないが、江戸時代には扁平丸形のものが好んで栽培されたというから、当時としては自然な発想だったのかもしれない。今でいう京都の賀茂ナスのような小型の丸ナスに近いものだろう。どちらにしても花につけた名前ではなく、実につけた名前というわけだ。 しかし、せっかくの美しい花には、バラを連想する名前にして欲しかった。バラそのものは、昔から日本にもあり、あの源氏物語には、「階のもとの薔薇、けしきばかり咲きて、春秋の花盛りよりもしめやかにをかしきほどなるに、うちとけ遊びたまふ。」(賢木巻)とあり、これに負けじと同時代の枕草子にも「薔薇は、近くて、枝の様などはむつかしけれど、をかし」(能因本 70段 草の花は)とある。日本原種の薔薇を「うばら」、「いばら」と呼び、唐から渡来した薔薇を音読みで「さうび」と呼ぶ。そういう区別なしで、俳句の季語として今でも「さうび」が使われている。冬に葉が散った後、寂しく一輪咲き残るバラを冬さうびのように詠み込む情感はなかなかいいものだと思う。 物事は本質が大事であって、花の名前はどうでもよろしい、人体に有益な実こそ優先すべきということかもしれないが、この見方はなんだか寂しい。「ロミオとジュリエット」のなかでジュリエットが語る有名なセリフに、「私たちがバラと呼ぶものは、他のどんな名前で呼んでも、同じように甘く香るわ」(That which we call a rose by any other name would smell as sweet.)というのがある。 これのパロディーが「赤毛のアン」に出てくる。マリラはアンに「人は名前よりも、行いが肝心」とに教訓を垂れる。これに対してアンは、「薔薇はたとえどんな名前で呼ばれても甘く香るって本で読んだけど、絶対にそんなことはないと思うわ。薔薇がアザミとかスカンク・キャベツとかいう名前だったら、あんないい香りはしないはずよ」(松本侑子訳)とかえす。本好きなアンは、孤児院で、「ロミオとジュリエット」を読んだのであろう。名前がいかなるものであっても、その人や物の本質には関係ないという本質主義の世界の住人であるジュリエットと、言葉と文学の世界の住人である空想好きのアンの違いがおもしろい。わたしの場合、秋や冬はいいとして、「さうび」では夏の薔薇の甘い香りがしないと思う。やはり「バラ」がいい。それに対し秋や冬に「さうび」が似合うのは、薔薇の「香り」よりも「姿」を感性のよりどころとするからだろうか。 名前は「もの」の本質を示す「名は体を表す」の見方からすれば、花期が短い花よりもその価値をローズヒップに見出す「ハマナス」という呼び方は当然の帰結かもしれないが、花の姿かたちから名前をつけると違ったことだろう。ハマナスの花言葉に「美しい悲しみ」というのがある。これは花が短命であることに由来する。他に豊かな芳香から「香り豊か」、「あなたの魅力に惹かれます」などがあり、「旅の楽しさ」というのもある。 (2020/08/20)
アカツメクサの蜜を吸うクジャクチョウ 2020年7月10日
菊の蜜を吸うモンキチョウ 2020年9月10日
アザミ蜜を吸うオオウラギンスジヒョウモン 2020年9月5日
蝶さまざま
近所のスキー場を登って林道に出た所で、アカツメクサの蜜を吸っている綺麗な蝶を見つけた。 このゴージャスな翅を見て何かを連想しないだろうか? そう、孔雀の飾り羽にそっくりだ。そのためクジャクチョウという名前が付けられている。 クジャクチョウは、標高の高いところで見られる珍しい蝶だ。 アカツメクサの花弁をちぎって吸うと甘い蜜が口に広がる。この甘い蜜を求めて蝶が集まる。アカツメクサの花弁は大きいが、細くて深いので、蝶なら蜜を吸うことが出来る。しかし、ミツバチには難しいので、ハチ達は花弁が浅いシロツメクサに集まる。 スキー場の下の方には、赤と白のツメクサが生えており、こうした昆虫たちのえさ場になっている。ツメクサの他にアザミ、タンポポ、ブタナ、ハルジオン、ヒメジョオン、その他様々な花が咲いている所には蝶が集まる。花に集まる蝶の他に樹液を求めて木に集まるタテハ系の蝶もいる。 蝶の幼虫は野菜などの葉を食べるちょっと近づき難い存在だが、成虫になるとあでやかな姿と、舞うような飛び方で人を魅了する。そして食物は花の蜜。花が咲いているところには蝶がいるというわけで、人の目を楽しませてくれる。モンキチョウと菊の花は、色の組み合わせが絶妙で、嬉しさに胸がいっぱいになり、思わず心の中で有難うとつぶやいた。 この辺では、オレンジ色に黒い模様のウラギンスジヒョウモンもよく目にする。 高原を代表するヒョウモンチョウ(豹紋蝶)の一種だ。こうした蝶の色や模様のデザインは、花に合わせたのだろうか。ひらひら舞うように飛んでいる姿、花にとまって蜜を吸う姿は実に見事だ。 蝶たちが、夏から秋にかけて、草原や林の中を楽しそうに飛んでいる姿を目にすると、同じ空気の中、同じ空間に住んでいるのが、とても不思議な気がする。 (2020/09/19)
ベニシジミがたくさんいるのでミツバチ(真ん中右寄り)は退散 2020年9月30日
秋の花とベニシジミ 2020年9月30日
夢の中のようなベニシジミ 2020年9月30日
白い野ばら(ノイバラ)の花 2020年6月29日
胡蝶の夢
秋の心地よい陽光の下、豊富に咲いた野菊の花に小さな愛らしいベニシジミが集まって蜜を吸っている。花の大きさは、小さいものが1円玉サイズ、大きいもので500円玉サイズ。ベニシジミがいかに愛らしいものか分かろうというもの。チョウたちは花から花へ楽しそうに飛び回り、にぎやかな笑い声が聞こえてくるような気がする。 先にいたミツバチが多勢に無勢と退散していった。ひらひらと飛んできたモンシロチョウも遠慮して通り過ぎていく。しばらく見ているうちに人と人の間をとりもつ神の愛が、人と蝶の間にもあるのではないか。そんな思いから、蝶たちの夢の世界に入りこんだ気がしてきた。 中国戦国時代、宋の思想家荘子の説話に「胡蝶の夢」というのがある。 あるとき、私はうたた寝をして、夢の中で胡蝶になっていた。 生まれながらにして蝶であった私は、ひらひらと翅にまかせて 空中を舞い花から花へと渡り歩く楽しさに耽っていた。 やがてハッと目が覚めると、私は現身(うつしみ)の私だった。 この現身の私が胡蝶になった夢を見たのだろうか、 もしかしたら、あのひらひらと楽しげに舞いあるいていた胡蝶が 人間になった夢を見ているのではないか。 どちらが夢でどちらが現実だと本当に区別がつくだろうか。 荘子が説くところによれば、森羅万象の一切を等しくみることにより、目的意識に制約されない自由な境地に達したとき、自然と融和して自由な生き方ができるということだろう。たとえこの世の身が、汚濁に満ちた世俗のなかにあっても、その精神において生と死、物と心、是と非、善と悪、真と偽、美と醜、貧と富、貴と賤など、時間的空間的な対立と差別を発展的に統一することで、澄んだくもりのない世界が現れる。したがって、自由な境地にあれば夢と現実を区別する必要などないのだ。 小川未明の「月夜とめがね」という作品は、月のいい晩、窓の下にすわって、針しごとをしているおばあさんが、 「いま自分はどこにどうしているのかすら、思いだせないように、ぼんやりとして、ゆめをみるようにおだやかな気持で・・・」と夢と現実が交じりあった自由な世界での物語だ。 まず、めがね売りの男が訪ねてきて、目がかすんで見えにくくなったおばあさんにめがねを売って帰っていく。 次に十二三の美しい女の子がやってくる。 女の子は町の香水製造場で、毎日夜おそくまで、白ばらの花からとった香水をびんにつめているという。その晩は、月の下を歩いていると石につまづいて、指をきずつけてしまい、いたくてがまんできず、まだ起きていたおばあさんの家の戸をたたいたのだった。 おばあさんが、女の子のきずをよく見ようとめがねをかけたところ、それは、娘ではなく、きれいな一つのこちょうであった。 おばあさんはやさしく女の子をうらの花園につれていく。 「花園には、いろいろの花が、いまをさかりと咲いていました。ひるまは、そこに、ちょうや、みつばちが集まっていて、にぎやかでありましたけれど、いまは、葉かげでたのしいゆめをみながらやすんでいるとみえて、まったくしずかでした。ただ水のように月の青白い光が流れていました。あちらのかきねには、白い野ばらの花が、こんもりとかたまって、雪のように咲いています。」 おばあさんがふりむくと、あとからついてきた少女は、いつのまにか、どこへすがたを消したものか、足音もなく見えなくなっていた。 小川未明の「月夜とめがね」を青空文庫で読むことが出来る。また、夢と現実の境界がない世界で、少年の死を描いた小川未明の秀作に「金の輪」がある。この作品は臨床心理学者の河合隼雄が、児童文学を足がかりに子供の心理分析をする「子どもの宇宙」(岩波新書)で取り上げている。 (2020/10/03)
カタクリとキクザキイチゲ 2020年5月4日
紅白のアカツメクサ 2020年7月10日
霧の中のトンボ 2020年8月3日
ツーショット
犬も歩けば棒に当たる。野山を歩いていると珍しいものに出合うことが多い。以下、今年出会った自然界のツーショットをいくつかあげる。 カタクリとキクザキイチゲ(菊咲一華)が向き合うように咲いている場面。 どちらも群生することが多い種類なので、ふたつが同じ場所で咲くというのはあまりない。 それが同時に花開き、何か囁きあっているように見える向きに咲いているのに出くわすとは、今年度の最高の邂逅である。 カタクリの花言葉は、うつむくように咲く姿から、恥じらいによって気持ちをうまく伝えられない、せつない初恋の様子を連想した「初恋」、1株に1輪ずつしか花をつけず、まだ肌寒さも残る季節に、すっと佇んでいる姿から、「寂しさに耐える」がつけられている。 キクザキイチゲの花言葉は、まだ枯草が残る早春の野原や芽吹き前の樹の下で、ひっそりと春を告げて咲く花の可憐さから「静かな瞳」、山麓の木々がやっと芽吹く頃に、落ち葉の中で群生して咲いていたやさしい花の思い出から「追憶」がつけられている。 カタクリとキクザキイチゲは共に、春に開花したあと、初夏には枯れて、地上から姿を消し、翌年まで地中で過ごすスプリング・エフェメラル(春の妖精)の植物。つまり妖精同士なのである。来年はこういう場面はないだろう。 同じ種類でも色違いが並んで咲く確率が低いものがある。 例えば、アカツメクサ(ムラサキツメクサ)はその名の通り、紅色の花をつける多年草で、牧草、緑肥として利用される他にハーブとしても多用され成長力が強く、スキー場がピンクの花で覆われる。ところが、まれに白い花のものが咲くことがある。これに似た白い花にシロツメクサ(クローバー)があるが、区別は容易である。シロツメクサは背丈が低くグリーンカバーとして使われる。また一本の茎に花を一つだけつけ、花から茎が伸び、地面に葉が茂る。茎の途中から葉をだすことはない。葉は丸みを帯びたハート形をしている。 アカツメクサは背丈が高く(20-80cm)、花の直下に葉を付ける。枝を分け、途中から葉を出す。葉はプロペラ型。花の大きさもアカツメクサ(2-3cm)の方が大きい。 。。。ということで、白いアカツメクサとシロツメクサを間違えることはない。 夏に白いアカツメクサと普通の紅色のアカツメクサが花のすぐ下の茎を交差して仲良く並んで咲いているのに出会った。スキー場の斜面を上がっていったとき、目線が自然に下向きになるので、目につきやすいことはつきやすいのだが、何本かあるゲレンデのうち、たまたまその日に選んだルートで、出くわしたのである。 どうして二本の茎が交差したのだろうか。しかも、色違いで。不思議なことがあるものだ。 アカツメクサの花言葉は、英語でindustry、これを日本語で表して「勤勉」、「実直」になったとか。和訳の花言葉は、あまり花のイメージと合わないが、他に、小さな花がたくさん集まって球形に咲くピンク色の花が一面に咲き広がることから「豊かな愛」、立ち上がった茎先の丸いピンクの花のすぐ下に、三日月状の白い模様が入った1対の葉がつく姿から「善良で陽気」というのが付けられている。 夏の霧が出た朝、七滝を見に行った帰り道、トンボが向き合って草の穂にとまっていた。こういう単純、かつシンメトリーなシーンが自然に創り出されるのが面白い。 秋になって、一本の茎に二つの花がくっついて咲いている双子のアカツメクサを見つけた。ずいぶん太った花だなと思ってよく見たら、一つではなく二つの花がほっぺたをくっつけるように咲いていたのだった。
霜の降りた道 2020年10月21日
ブナの森 2020年10月20日
大きなナラの木 2020年10月19日
秋、 道
すきとおった冷気が地上に降り 冷え込むようになった秋の朝 山道には霜柱が立っている 枯草に囲まれた道が 夜明け前に霜の妖精が歩いたため白くなっている ぶどう色に枯れたナワシロイチゴの葉には ドーナツにふりかけたパウダーシュガーのような霜 ブナの森に入ると木の後ろから朝日が差して 金色に輝くゴールデンロード ここは祈りのような静けさにつつまれた聖なる森 森の中の道を外れた所で グランドマザーツリーが悠久(ゆうきゅう)の大地を見守る ブナの森を登りきると 青い空の下 白樺と楓の道 秋の山道は 赤 黄 オレンジの光があふれる色の洪水 リンドウの紫色が枯れた草むらのアクセント 大きな木に出会うと 荘厳な気配を感じる そして ガジュマルの木のようにキジムナーか あるいは トトロがいるのではと なんだかゾクゾクするような楽しい気分になる 大きな木には、幾星霜の風雪に耐えた風格と威厳がある それと どっしりとした安定感からくる安らぎが 公園では高原よりも少し遅れて紅葉が始まった 遊歩道沿いの並木で紅葉する楓 芝生に落ちた赤や黄の楓 夕方の残光に金色に輝く楓 農村の道を歩いていつも感心させられるのは 道に沿って植えられた花 春は水仙 夏はダリア 秋は菊 軒下に大根を干している家もある (2020/10/31)
秋の安比高原奥のまきば 2020年10月21日
水に姿を映す白樺の木 2020年10月21日
秋、 水辺
秋の高原は、秋色の絵具で描かれた水彩画 緑のままの松と熊笹 枯葉色の枯草 葉が散って白い幹だけになった白樺 葉を燃える夕日色に染めたカエデ そして、それらを鏡のように映しだす清澄な水を貯えた沼 秋の青く輝く純粋無垢な水面 完璧なコバルトブルー 秋の青は永遠不滅の青 主は野を池に変らせ、 かわいた地を泉に変らせ、 飢えた者をそこに住まわせられる。(詩篇107:35-36) 秋が深まると黄葉していた白樺の木の葉が散って、鏡のような沼の水面にすっきりと清楚な姿を映し出す。 「でもね、妖精がいると想像するのはたやすいのよ。私は毎晩、寝る前に窓から見るの。木の妖精が本当にここにすわって、泉に姿を映しながら髪をといているんじゃないかと想って。朝は、朝露の中に足跡を探すこともあるわ。ああ、ダイアナ、木の妖精を信じてちょうだい!」(赤毛のアン第21章より)。 想像は空想の世界に夢見て、心象風景の中に心と想いを解放する。人は老いるという現実があるが、ありがたいことに夢は年をとらない。 あまり関連がないが、文学と想像力の問題を追及したコリン・ウイルソンの「夢見る力」を思い出した。まだ本棚に鎮座している。 (2020/10/21)
秋の虹 八幡平マウンテンホテル・パノラマスキー場 2020年11月7日
秋の虹 八幡平市松尾寄木 2020年10月29日
秋、 虹
2020年は雨が多かった。 秋は天気が変わりやすく、降ったと思えば晴れて、晴れたと思えば、また降ってくるという具合 雨粒が空中に残っている時に日が差すと出現する虹は、いつまでも出ているわけではないから、カメラを持って走り回つた。 普段は途中で息継ぎをするスキー場だが、気合が入っているからゴム長靴で一気に走り登れた。雨上がりの秋の燃えるような色の木々の上に浮かぶ虹。自然界の色使いの多様性と完璧な表現力に驚かされる。 旧約聖書創世記には、洪水が引いた後、神がノアにもはや洪水によって滅ぼすことはない約束として、「わたしは雲の中に、にじを置く。」(創世記9:13) と言われたと書かれている。 また、 捕囚の地で、虹に神の栄光を見た預言者エゼキエルは、「そのまわりにある輝きのさまは、雨の日に雲に起るにじのようであった。」 (エゼキエル1:28) と語っている。 (2020/11/8)
初雪が降った朝 2020年11月4日
赤土のようなカラ松の落ち葉と白い雪 2020年11月4日
新しい雪の上にキツネの足跡があった 2020年11月9日
紅葉したドウダンも雪化粧 2020年11月9日
秋の終わり 冬の入り口
11月4日に初雪が降った。前夜は雨音が夜遅くまで続いていたが、午前4時頃外を見ると月が出ていて、地面が所々白くなっていた。早速防寒着に身を包み、冷たい空気の月下の世界を訪れてみた。薄っすらと雪化粧したスキー場に行くと、まだ暗い東の空には、明けの明星金星が明るく輝いている。晴れてはいるが、北西から冷たい風に乗って、足早に流れてくる小さな雲があり、下にはホテルの屋根の雪が、銀色の月の光に照らし出されていた。 日が出て明るくなってから、身支度をして再びスキー場に出た。晴れてはいるが、西の山の上には大きな雲がかかっている。夏の間伸びた草を刈った後のゲレンデはデコボコして、歩きにくいものだが、積もった雪のおかげで楽に登れる。濃いサフランイエローに黄葉したカラマツが朝日に映えている。スキー場から見下ろすと、緑のままのアカマツとカラマツがパッチワークのように目の前にひろがる。ゲレンデから林道に出ると、朝日が松林の後ろから射してきて雪を明るく照らし出している。朝の光の中では、すべてのものが新鮮に見える。枯草でさえも。 黄葉したカラマツの葉が地面に散って、沖縄本島北部の赤土のようになった林道は、秋の模様替えで明るくイメージチェンジした感じで、雪が降った朝のシンと冷たい空気の中を歩いているのに心温まる心地がしてきた。秋から寒い冬へ季節が変わろうとするときの、暖かい色の贈り物。 しばらく歩いていると、風が吹いてきて雪が降りだし、林の中がかすんでしまう。30分ほど経って晴れ間が出た後は降ったりやんだり、晴れたり曇ったりの繰り返し。雪を降らせる雲が冷たい風に乗って、奥羽山脈を越えて流れ続けている。 初雪はその日のうちに溶けてしまった。 11月9日に2度目の雪が降った。 朝、山道に降り積もった新しい雪に足跡をつけながら歩いていると、なんとなく楽しくなる。枯れ木立から差し込むプラチナ色に輝く太陽の光。うっすらと積もった雪に吸い込まれてしまった森の音。そうした森閑とした木々の間をめぐる白い雪の道に点々と一列に続くキツネの足跡。リス、野ウサギ、キツネは冬眠しないで、冬場もエサを求めて歩き回る。 キツネは前足の後に後ろ足をつけて歩くので、雪の上に一本のまっすぐな点々が続くことになる。タヌキの足跡の大きさと形はキツネに似ているが、1列にならず蛇行する。 こうした動物たちの通った跡を見つけるのも雪が降った朝の楽しみのひとつだ。 雪が降った後の、色の対比も嬉しい。雑木林の黒と雪の白、笹の緑と雪の白、雪の上に散ったカエデの赤や黄色と雪の白、紅葉したドウダンの葉にうっすらと積もった雪の白、朝日に輝く黄金色のカラマツと雪の白。。。 こういう美しさは、葉が散り終わったり、雪が降り積もると知ることができない。 秋の終わり、冬の入口の絶妙なタイミングだから気づくことができるものであり、季節の移り変わりの姿をただ見るだけではなく、まだ互いに知りあっていない季節と知り合いになる喜びで胸を満たしてくれるものだ。 シンと凍るような朝の雪は、精神と思いを清めてくれる。 ヒソプをもって、わたしを清めてください、 わたしは清くなるでしょう。 わたしを洗ってください、 わたしは雪よりも白くなるでしょう。 (口語訳旧約聖書詩篇51:7) 2度目の雪が降った次の日、沖縄に帰る途中埼玉に寄るため、一日早く盛岡に向かった。まだ雪が残っていたので、夏用タイヤのままの車を家に置き、マウンテンホテルからバスを利用した。すると、5分も走ると高度が100m程度低くなると思うが、雪がまったくなかった。下の方では雪ではなく雨だったのかもしれない。海抜267mの八幡平市役所と私の家の辺りは標高560mなので約300mの標高差があり、無風状態での計算上の気温は1.8℃低いことになるが、実際には冬場だと4℃低くなる。木に覆われていることや、高度だけではなく地形的な条件もあるのかもしれない。 (2020/11/21)