山原(やんばる)は、沖縄県沖縄本島北部の、山や森林など自然が多く残っている地域で、
1999年から2011年にかけて、その中の国頭村の伊部部落と東村の高江部落に住んでいました。
そこで出会った人々と自然、日々の生活は、人生の大切なの思い出になっています。
伊部には別荘が建ち、高江はヘリパット問題が持ち上がり、記事を書いた当時と今では様子が変わりました。
ヤンバルでの出会い
最初に住んだ国頭村伊部(くにがみそんいぶ)は、わたしを含めて人口10人程の小さな部落だった。部落という言葉は本土では死語になっていると思うが、そこではまだ生きている。ただし広い。畜産基地内の牧場跡地に住んでいた時は隣のUさんの家まで徒歩だと30分かかるのでちょっと顔を出す時も車で行く。Uさんはサザエを採りに連れて行ってくれた。沖縄のテレビ放送が映らず、NHK鹿児島の放送を受信するというのも面白い。わたしは仕事でビデオ会議端末として使うテレビ受像機を持っていたが、テレビ放送を見るわけではないので影響なかった。
名護から数か月の間、Kさんが来ていたことがあった。名護林業組合の創設時の組合長だったKさんは、わたしの木と山について師匠で、沢山のことを教えてもらった。残念なことにその貴重な知識のほとんどが記憶の彼方に去ってしまった。事情があって畜産基地を出て、同じ伊部の海に近い家に引っ越した。こんどは隣まで徒歩5分で行けたので楽だった。そこの古老Nさんの昔の山と海の生活、ジュゴンや終戦直後の与論島の話は、非常に面白いものでこのページにも一部を掲載している。
Nさんの親友のSさんも、戦中戦後の体験談や山の話も興味深くうかがった。実体験に基づく話は、熱がこもるから本で読むのと違う感動をおぼえる。
伊部集落でのアブシバリーも楽しい思い出になった。
伊部で忘れられないのは、那覇から週末に来ていたMさん一家との夜の焚火を囲んでの語らいと三線と歌と焼き芋。今もお付き合いしている。
過疎地の伊部から、東村高江(ひがしそんたかえ)に引っ越した。高江は人口140人の大きな部落、その名の通り高台の見晴らしの良い地形が開けている。そこでの日々も太陽の輝きのような思い出になっている。総じて山原の思い出は明るく楽しいイメージのものだ。高江はノイズがありチラつくものの県内のテレビ放送が受信出来た。
高江の共同売店は、必要なものの購入場所であり、仕事の合間のリフレッシュの場だった。
またハーブ園のTさん夫婦と友だちになり、ハーブのことを色々教えてもらった。その経験が、後々のわたしの花に対する興味の源泉となっている。
高江の三人の区長さんにもお世話になり、毎日が楽しい経験の連続だった。
近所のKさん、Uさんは野菜やパインを持ってきてくれた。伊部でも高江でも山原で出会った人たちは、皆親切でいい人たちばかりだった。
名護の教会まで、車で1時間かかったけれど、これまた山を越え海沿いに走る楽しいドライブだった。
インターネット回線の進歩と台風のため、その山原の生活と別れを告げた。当時のデジタル通信回線は1本64kバイトの回線を2本まとめたISDN。NTTは全国ISDN化を目指して離島でも利用可能になっていたので、
国頭村でも東村でも、ソフトウエア開発の仕事はISDNを使って十分にこなせた。その頃、主にビデオ会議関連の機器の制御ソフトウエアを中心にプログラミングし、機材が必要な時は宅配便で送ってもらいテストしたりしていた。
今では昔話になってしまったが、ビデオ会議は低解像度(720x483)のアナログテレビ(日本ではNTSC)の時代なので、128Kバイトでも可能だった。画質を上げたいときは回線を束ねて256K、384Kと増やして対応した。ところがテレビがHDになり、回線が光ケーブルになり、ISDNが使えた田舎には光ケーブルが敷設されていなかったため、南部の都市部に行かざるを得なくなった。豊見城にアパートを借りて、ADSLから初めて光ケーブルに変え仕事をし、週末に2時間かけて東村に帰り、知人と会い、家庭菜園の手入れをし、教会に行っていた。ところが、東村の家が台風で被害を受け、住むことが出来なくなってしまい、山原の生活と別れることになったが、そこでの十余年の暮らしは幸せな記憶となっている。


山原で出会った花と木(1)
山原一帯の季節は花木によってもたらされる。
年が明けて1月、まずイタジイの新しい緑が芽吹いてくる。これから4月にかけて、明るい緑が山を覆うことになる。山原の原生林の多くはイタジイで構成される。若木は白っぽい幹に緑が映えて美しい。これは国頭村の木になっている。
1月下旬には奥部落の ヒカンザクラが咲き始める。本土のモモの花に似た濃いピンクの花で、奥郵便局の裏山や奥部落を起点とする国道58号線の沿道を飾る。沖縄の桜の開花は、本土とは逆に北から始まり、徐々に南下していく。
伊部の住まいの周囲はスミレの花が沢山咲いた。花の色と形のせいか一種の気品を持っているこの花を路傍や茂みの中で見つけると嬉しいものだ。本土でも見かける白いタチツボスミレに似たシロバナリュウキュウコスミレもある。子供のころ、野生のスミレの花は、いわゆる紫系のスミレ色だけと思っていたので、白いスミレを初めて見つけたときは新種発見と興奮したのだが、新学期の理科の教科書にタチツボスミレの一種として絵が出ていたのでがっかりした。小学校5年生の時の思い出だ。
4月、早ければ3月には、 ノボタンの花が咲き始める。この花は花期が長く、6月下旬頃まで山原の路傍を美しく彩る。日の光を好むのだろう、森の中よりも道の脇や野原で見つけることが多い。東村高江の住まいの裏にこの花が沢山咲いているのを見つけて嬉しくなった。野生の花としては花弁が大きく、ピンクと紫の中間のような色合いの綺麗なこの花を路傍で初めて見たときは感激した。花言葉は野山に咲くことから「自然」、日本人には高貴で上品な色とされる紫色の花から「平静」、「落ち着き」、「ひたむきな愛情」が付けられている
ゴールデンウィークの頃、沖縄は梅雨に入る。この季節、雨にひときわ映える白い花がある。国頭村の花になっているイジュの花だ。この花が咲くと、国頭の山は白っぽくなる。Kさんの話では、一般に沖縄には本土の桜のような白い花を咲かせる木が少なく、女性たちはこの清楚なイジュの花に憧れ、イジュの会といったものを作って見に来たりするのだそうだ。花言葉は清楚な白い花からだろうか「ひたむきな愛」、そしてかわいらしく咲くことから「愛嬌」。イジュの樹皮にはタンニンが含まれ、染料に利用される。昔、伊部にその工場があったという。
(Sep. 18, 2003)




山原で出会った花と木(2)
梅雨の頃はヤマモモの実が美しい。ヤマモモは土佐の名産で、高知県の木になっていたと思う。司馬遼太郎の「竜馬がゆく」で竜馬が訪ねて行った幕府の役人の庭にこの木があるのを見つけ、懐かしがった場面がある。熟した時の濃い赤のヤマモモの実が、白い幹と濃い緑の葉に合ってなかなか綺麗なものだ。木そのものが美しいため街路樹にも使われるので、街中で見た人がいるかもしれない。園芸店でヤマモモの苗木を見ることもある。
ヤマモモは雌雄異株なので、雄と雌をペアで植えるものだと師匠のKさんが教えてくれた。しかし、ヤマモモは風で飛んでくる花粉を受粉して実をつけるので、雌だけ植えてもいいということを本で読んだ。雄の花粉は数キロ先まで飛ぶそうで、意中の人に会うため距離など問題にならないということから「一途」「ただひとりを愛する」という花言葉がついたという。
昔はヤマモモの木を燃料その他に使ったもので、ヤンバルの生活に欠かせない木だったそうだ。Kさんの話では、生活様式の変化で、人々が山に入ることがなくなって、木が伸び放題になり、陰をつくってしまうため、このままでは自生しているヤマモモの木は絶滅の恐れがあるということだ。そんなこともあり、Kさんとヤマモモの実を採ってきて一生懸命種を取り出した。その時、もったいないので食べたり、ジュースにしたりと野生の味をすっかり堪能した。Kさんによるとヤマモモの実には水モモ、松モモ、石モモの3種類があるのだそうだ。水モモは最も実が大きい種類で、その名のとおりみずみずしくて美味しい。松モモはそれよりも小さく、食べたとき松の香りがする。石モモは、実が小さく、石のように硬いので生食に適していない。塩漬けにして食べる。竜馬の話が出てくるが、ヤマモモは江戸時代からヤマモモ酒を作るために珍重されていたらしい。今でもどこかの名産になっている。
暑い夏に入る前は花にとっても過ごしやすいのだろう。やはり梅雨の頃、白い琉球ユリの花があちこちに咲き、梅雨が終わる頃には終わる。自生しているものを路傍で見ることができるが、花弁が大きく美しいため移植されているのをよく見かける。以前は名護の許田インターチェンジを抜け5分くらいのところに、婦人会が移植したという群落を見ることが出来たが、今はどうだろうか。安波部落の安波節の碑の近くにも群落を見ることができる。しかし、野生の花と思わぬ場所で出会う方が嬉しいような気がする。高江の裏庭にも気づかぬうちに咲いていた。本土の園芸種のテッポウユリは、琉球百合の別名で、花の形が旧式の鉄砲に似ているためだそうだ。花言葉は聖母マリヤの象徴に由来した「純潔」、甘い香りから「甘美」。聖母マリアの象徴の百合は元はマドンナリリーだったが、日本からテッポウユリが欧州に持ちこまれてからはテッポウユリに変わったそうだ。受胎告知の絵に描かれている百合は琉球ユリという。しかし、欧米にテッポウユリをもたらしたのはシーボルトなので、わたしとしては疑わしく思う。やはりマリヤの象徴はマドンナリリーなのではないか。
沖縄では年中咲いているハイビスカス。輝く太陽、白い雲、青い空の夏のアイテムに似合うのは、なんといってもこの花の鮮やかな赤だ。光沢があって濃い緑の葉との相性もぴったりだ。時折、人里はなれた道路わきでこの花を見ることがあり、もともと自生していたものと思われることがあるが、中国経由の渡来種だ。でもかなり大昔のことなのですっかり沖縄の風景に溶け込んでいる。普通栽培されている品種は鮮やかな赤い色をしているため、沖縄ではアカバナーと呼ばれていた。昔はくだいた葉でシャンプーしたそうだ。ハイビスカスの花言葉は多い。「新しい恋」「繊細な美」「あなたを信じます」「信頼」「勇気ある行動」この他に赤いハイビスカスには「勇敢」「常に新しい美」がつけられている。
長い夏が終わり、10月に入って暑さが和らぐと、芙蓉の花が咲き始める。この花は国頭村の与那から安田方面に山を縦断する県道2号線、安田から奥方面に向かう県道70号線沿いに多く見られる。花期が長く12月に入る頃まで咲きつづける。Kさんによると中国では、丁度、日本人が桜の木を大切にするのと同じような感覚で、芙蓉の木を大切にするそうだ。伊部畜産基地の牧場跡を出て、伊部川沿いの家に引っ越したとき、目の前に芙蓉の木があったのが嬉しかった。この花は白っぽいものから、ピンクの濃いものまで色合いにバリエーションがある。人によると朝は白っぽく、だんだん色づいて、夕方が一番濃いピンクになるというが、朝昼晩目の前の木を見ていても変わらないようだし、同じ時刻に県道沿いの木を見て廻ったとき、色合いの濃さが様々だったので真意のほどは分からない。古来より芙蓉の花の優しい姿は、しとやかで美しい女性にたとえられるため「繊細な美」「しとやかな恋人」という花言葉がつけられている。
沖縄でも12月、1月なると山は寒くなる。この季節はさすがに山の花の方も少なくなるが、ツワブキの黄色い花が、イタジイの木の下で年を越えて元気に咲いている。
また沖縄で冬場に唯一紅葉するウルシの種類の木を見ることができるのもこの頃だ。本土の楓のように群生するわけではないが、ヤンバルを車で走っているときに見事に赤く色づいた木に出くわすと思いがけなく宝石を掘り当てたような得した気持ちになる。
(Sep. 18, 2003)
見事なアダンのトンネル
こちら側が浜辺で、トンネルの向こうがNさん宅
伊部は本島北部の東海岸に位置する。
伊部不良老人会
この物凄い名前のグループはいったいなんなんだと思うだろう。実態はごく安全な集まりで、暴走老人の集まりというわけではない。この名前はグループの実態がばれないようにカムフラージュでつけたものなのだ。ヤンバルには面白い人たちが沢山いる。特に伊部を含めた安田近辺は、そういう人たちが多い気がする。
伊部(行政区としては安田になっている。)は名護から北へ1時間の沖縄本島北部の国頭村東海岸の小さな部落だ。伊部不良老人会は、早い話が飲み会だ。幹事は国頭村営バスの運転手のTさん。メンバーは伊部売店店主のNさんと同級生のSさん。時々宜野湾からKさんやNさんの従兄弟の方が参加する。
元は伊部友の会と称してた。何せ面白いので、加入希望者が多く、一時は数十名に膨れ上がってしまったのだそうだ。これだけ集まるとどうしても癖の悪いのが何人かいるものだ。
元々伊部は4世帯の小さな部落で、歩くと40分はかかる伊部畜産基地の2世帯を入れたとしても6世帯だ。ここの住民は総じてまじめで大人しいのだが、隣の安田部落からの参加者が沢山いて、これが問題だった。安田はウミンチュ(漁師)の部落で、酒を飲まないときはフツーだが、飲むと手がつけられない人たちが多い。飲み会はいつも殴り合いの喧嘩で〆るというのだからハンパではない。近年、かなり大人しくなったとはいえ、酔っ払って家具をたたいたり物を壊したりするので、このままでは家を破壊される危険があり、伊部友の会は解散ということになった。
その後NさんとSさんだけで、こっそりグループを結成したのだが、やはり何か名前があった方がよかろうということで、 たまたま二人とも自他ともに認める老人だったため、伊部不良老人会にしたわけだ。単に伊部老人会にしなかったのは、構成メンバーの経歴によるのではなく、男だけだし、会の目的が地域の老人会のように高尚なものではないので、気が引けるからということのようだ。この二人以外は老人と呼ぶには語弊があるのだが、グループの隠ぺいのため、名は体を表わさないようにして、元の友の会メンバーの目を逃れているわけだ。
Sさんは太平洋戦争中に海軍にいた人で、戦後はトラックで全国走りまわったとか、不発弾を分解して取り出した火薬を使って漁をしたとか面白い話が聞ける。Nさんの従兄弟は、南部で建設業を営んでいるごつい人だが、私同様酒はまったく飲まない。まあ、盛り上がって楽しいので参加しているわけだ。バスの運転手のTさんは、家の前を通過するときクラクションを鳴らして行く。彼は幹事役として集金と飲食物の調達という重要な役割を担っている。伊部不良老人会の用事だけでなく、停留所ごとになんやかんや頼まれることが多いそうで、オバーに年金を貰ってきてくれと頼まれたり、これをあっちの家に届けてくれとか、何でも屋の様相を帯びているようだ。
伊部に3年住んで、東村の高江に引っ越すとき送別会をしてくれたのが最後の思い出になった。
(Sep. 15, 2003)
伊部畜産基地から海を臨む。 こういう夏の日はEスポが出やすい。
安田の灯台から海を臨む。嘘のようにきれいな海だった。
Eスポ
電離層の一種のスポラディックE層を略してEスポという。晴れた夏の日は、Eスポの効果で思いがけなく遠く離れた地のFM放送を受信することができる。
スポラディックE層は地上から約100キロメートルのところに発生し、FM・TV放送(地デジ以前の)が使用しているVHFの電波を反射するため、1000から2000キロメートルも遠く離れた放送を届けてくれる。Eスポがどのように発生するかは解明されていないが、大体初夏から秋口にかけて出現する。 Eスポは長時間発生するとは限らない。また雲のように移動する。天気予報で見る雲の流れのように、聞こえる地域がさっと移動したり、あるいは停滞したりする。
伊部の牧場に住んでいた頃、Eスポを経験した。民間FM2局が中部に中継局を設置したおかげで、今でこそ良好に受信できるが、2000年当時は県内の送信所からかなり離れているため、受信が困難だった。地形的には、非常に見はらしのよい場所なので、受信条件としてはいいのだが、いかんせん「見通しのきく直線伝播」と言われるVHFの電波を南部からヤンバルの山々を越えて受信することは至難の業だ。TVを持っている家庭では、沖縄県内の放送を受信できず、九州の局を受信していた。多分奄美大島に中継局があるのだろう。音楽番組が多いNHKのFM放送を聞きながら仕事をするというのが、習慣みたいになっていたので、寂しいものがあった。
AM放送はしゃべりが多いので、仕事中に流すのにはあまり適さない。よく晴れた夏の昼頃、ラジカセをFMにセットし、なんとか聞こえないものかとダイヤルを回していると野球放送らしきものが、聞こえてきた。しばらく聞いていると秋田の高校野球地方予選の放送だった。Eスポが発生していたのだ。一般にEスポで遠距離受信ができるときは、その方面の局が同じように聞こえるのだが、その日はその1局のみだった。 その後、よく晴れた朝、西海岸の国道58号線を車で移動中、FMの選局ボタンを押すたびに外国語の放送が次々に入ってきた。東南アジアかロシア方面の放送かもしれない。普段でもAM放送は夜になると中国語をはじめ外国局がかなり強力に入るのだが、FMで受信したのはその時がはじめてであった。少年時代、短波受信機を組み立てて海外放送を受信したときの興奮が思い出された。
Eスポのマニアは多く、「近隣諸国FM放送便覧」なるものもあり、インターネットで検索すると関西で北海道のFM放送を受信したとか、埼玉で沖縄のNHK-FMを受信したとかのレポートが出てくる。面白そうだが、よほど暇でないとできない。釣りとの共通性がありそうな気がする。
(Sep. 16, 2003)
伊部の浜辺にて
伊部畜産基地の夜明け イタジイの森からはヤンバルクイナの鳴き声が
伊部畜産基地の下の浜辺
泣きなさい笑いなさい
伊部の牧場に住んでいた十月の秋晴れの日、ベランダで読書をしていて、ふと目を上げると遠くを三人の男の人が歩いているのが見えた。時々物好きな人や、山原に遊びにきた人たちが無人の牧場と思って入り込んでくることがある。そういう人たちは、思いがけなく人が住んでいることに気が付くとちょっときまり悪そうにそそくさと帰っていく。ところが、その三人は私のいる方にやってきて、親しげに挨拶をした。彼らは山原に遊びにきた途中、変わったヤマトンチュ(本土の人)がいるということを家主に聞いて、珍しいので寄ってみたということだった。その中のひげもじゃの人が、ミュージシャンの喜納昌吉さんだった。アトランタオリンピックの前夜祭に出たり、「花」を作った人としてご存知の方も多いと思う。「花」はアジアの国々で、かなりポピュラーな曲になっている。以前、様々な国の言葉で子供や女性が歌っているものをラジオで流していた。~♪川は流れてどこどこ行くの 人も流れてどこどこ行くの~・・泣きなさい 笑いなさい・・・,
笑うことは健康に大変よく、癌の治療法のひとつとして効果をあげている。明るく笑うことによって癌細胞を退治する細胞を増やし、免疫力を強めることが確認されており、笑顔にしているだけでも免疫力が強まるという。また笑うだけではなく、映画を見て泣くとか、素晴らしい演奏を聞いて感動のあまり涙が出る、といったことも健康のためにいいらしい。悲しいときは無理におさえず心おきなく泣き、楽しいときはおおいに笑う。感情を心の中に押し込めずに自由に表に出してしまうのがいいみたいだ。泣きなさい笑いなさいなのだ。
しかし、社会生活を営む上では、そうことが難しい。感情を抑えこんでじっと我慢の子でいるほうがむしろ誉められる。顔で笑って、心で泣いてという感情を抑制する姿勢が、日本人男性としての精神のあり方、あるいは社会的暗黙の了解になっており、これからなかなかはみ出すのが難しい。
山原の豊かな自然とそこに住む人々の持つホスピタリティと懐の深さは、人の感情をあるがままに受け入れてくれるように思われる。木々をそよぐ風、花に降り注ぐ光、鳥のさえずりと飛翔の美しさ、空に浮かぶ雲の輝き、コバルトブルーとエメラルドグリーンに変化するさんご礁の海、太陽の下でまぶしく輝く砂浜。ヤンバルの自然は、悲しみも喜びも融和してひとつになっているかのようだ。だからここでは、人は心のままにいることができる。
数年前悲しい出来事があって、はたして立ち直ることができるだろうかと思うほど落ち込んだことがあった。その時、人に会いたいという気持ちを強く感じた。そして、どうせこいうい状態で、仕事をしても集中できないと、思い切りよく、作業を中断して、山の中を歩きながら友人と話をした。花や木や岩を見ながら、ゆっくり話をしたことは何にもかえがたいことだった。友人が話す酪農経営の難しさ、地形のこと、気候のこと、日常生活のことなど、なんでもないことを専ら聞き役にまわっていたのだが、それで癒され、落ち着くことができた。都会ではそういったときに役立つ材料があまりないので、なかなかそうはいかない。
音楽もまた病んだ心と体にいいこともよく知られている。悲しいときに心を奮い立たせようとして元気な曲を聴くのは逆効果で、心が沈んでいるときは明るくにぎやかな曲よりも、心の状態に近い静かな曲がいいのだそうだ。これも感情を無理に押さえ込まず、泣きたいときには泣き、笑いたいときには笑うのがいいとうことに通じるような気がする。
(Jun. 14, 2004)
伊部川河口
伊部密輸基地物語 1
伊部は今でこそ4世帯の小さな部落だが、かつてはイジュを原料とした染料工場や漁港で栄えていた200世帯を数える大きな部落であった。
伊部川が海に流れ出る広い河口は、谷に囲まれた入江になっており、台風の際の恰好な避難港だった。当時の船は山原船と呼ばれる帆船だ。この船で山原の木材、薪炭を南部の与那原港まで、2、3日かけて運んでいた。今、伊部川の河口を見ると当時の面影を偲ぶことはまったくできない。染料工場があった場所は原野の状態になっているし、漁港のあったところは底が浅く、とても船が出入りしていたとは想像できない。
何故こうなったかというと、道路の整備によりトラック輸送が可能になったこと、薪炭の需要がなくなり、山原船の果たす役割がなくなったこと、染料工場の経営が成り立たなくなったことなど、社会構造や経済環境の変化があるが、上流の土木工事で出た土砂が雨で流され、堆積して中洲が広がり、川底が埋まってしまったということがある。
さて、戦後の琉球民政府時代の沖縄は、戦前戦中の日本との関係から経済保護が行われ、本土に較べ生活物価が安い状態にあった。伊部はそういった時代に密輸基地として恩恵を受けていたことがあった。日本の与論島から、正規ルートを経由せずに非合法的に牛や馬を持ってきて、安い米を買って与論に帰るというものだ。当時、沖縄では農作業や運送の動力として牛馬がいい価格で取引されていた。戦時中の軍の徴用で県内の牛馬が無くなったからだ。また米は前述の理由で、本土の1/3の価格であった。
与論島から来た密輸船は夜、伊部の沖合いに停泊する。山原船のように底の浅い船は港に入って来れるが、動力船はそれが出来ないのだ。そのため真っ暗な沖合で、牛や馬を海に下ろし浜辺まで泳がせた。馬は賢いので自分で岸に向かって泳いで行くが、牛は岸だろうと沖合いだろうとお構いなしに頭が向いている方向に泳ぐのだそうだ。牛を船から海に降ろす時、必ずしも頭が岸の方を向くとは限らない。へたをすると沖へ沖へと泳いで行ってしまう。そのため暗闇の海の中で、牛の頭が岸の方に向くように格闘するというのが一苦労だった。
(Sep. 15, 2003)
かつて密輸基地としての顔をもっていた伊部
「夏草や兵どもが夢のあと」今は静かな伊部川河口
伊部密輸基地物語 2
どうにかこうにか無事に伊部の部落に上げられた牛達は、早朝まだ暗いうちに山を越えて西海岸の辺土名まで移動さられる。船に揺られ、いきなり海に落とされ、泳がされた揚げ句、険しい山道を歩かされと牛たちは悪戦苦闘の日々が続くのだった。わが伊部不良老人会のNさんは、往年の山男なので、健脚のうえ山道をよく知っている。舗装された県道になった今でこそ車で30分、徒歩なら5時間ほどの道のりだが、当時は行ったら帰ってこないのが普通だった。山を越えるということは、職を得て移り住むとか進学のため故郷を離れるとかで、部落で送別の宴を行い新天地に向かうということだった。山の向こうは別世界、一度超えたら、故郷に錦を飾るまで帰ってこないという一大決心して別れるのである。今でも車で走ると、道路がなかった頃は、いかに険しい山道だったか分かる。夜など霧がかかることが多い。くだんのNさんは、その日のうちに帰ってこれた。そしてこの手間賃が結構いい現金収入だった。金額を聞いたら一回の山越えで、当時のサラリーマンの月給以上であった。
牛を送り出した後の密輸業者の重要な作業は、帰りの船に乗せる米の積み込みだ。海から上がった牛馬は暗いうちに連れて行かれるので、昼間伊部に来てももぬけの殻だ。しかし、米は予め集積しておく必要がある。困ったことに昼間は私服の警察官や部落の駐在が回って来る。警察はここで密輸が行われていることを知っているので、放置しておくわけにはいかない。ところが当時は皆貧しかった。警官は今日は密輸があるらしいと分かると牛馬の移動が終わった頃を見計らって部落にやって来る。Nさんたちが大きな黒糖の塊などを警官に、見廻りご苦労様と言って渡すとそのまま帰っていく。警官の中には自分から要求する度胸のある者もいたそうだ。警察さえいなければ、おおっぴらに米の積み込みができる。米を小船に乗せて、沖の船に乗せ換えると一件落着である。これを本土に持っていけばかなりの儲けになった。
戦後日本の復興を支えた逞しさは、政治機構とは別レベルの草の根が持っているエネルギーだ。社会を構成する民衆の経済力は、自衛本能と生命力で行くところに行くような気がする。
Nさんが与論島に行くと、上のものを下にも置かぬ歓迎を受け、島内移動のタクシーはおろか、飲食、宿泊すべてタダ。当時の与論島には警察が無かったが、犯罪はまったく無く、治安が大変良かった。島民から選ばれた7人(11人だったかもしれない)の男達が島内の風紀・治安の維持から電柱の電灯の交換までやっていた。彼らは飲み屋の営業時間を夜10時までと定め、それ以上は絶対に営業させなかった。西部劇の保安官のような仕組みがあったわけだ。Nさん達が与論島にいる間は特別扱いにしてくれて時間無制限だったそうだ。今は警察がいるので普通と変わらなくなってしまった。
(Sep. 15, 2003)
雄大な東村高江の夕方の雲 静寂の安らぎ
タンポポコーヒー
東村高江の庭にはいろいろな野草が仲間入りしていた。ほとんど勝手に入り込んできたものだが、中にはユリのように移植されたものもある。ここにきて嬉しかったのは、スミレとノボタンが、沢山咲いていたこだ。庭を掃除するときは、小さなスミレを残すように注意深く雑草を取り除く。熱帯系のノボタンは、草刈作業できれいに刈られても翌年しっかり芽を出して薄い赤紫の花を咲かせるくらい生命力が強いのでこの辺では半分雑草扱だ。同じようにどんどん増える野草の仲間にタンポポがある。ヤンバルのものは本土のものに較べ花も葉も小さめだ。私はタンポポが好きなのでそのままにしておいたら、あっという間に庭いっぱいに増えてしまった。
タンポポの葉や根には、利尿、強胆などの薬効があり食用として栽培することもある。沖縄で見られるタンポポは、明治時代に食用の栽培用として北海道に輸入されたセイヨウタンポポが、全国に広がったもの。在来種を駆逐するため要注意外来種になっている。フランスのようにタンポポの葉のサラダを食べるのが春の楽しみという国もある、私も子供の頃タンポポのおひたしを食べたことがある。ほっておいても増えるので栽培するまでもなさそうだが、根が長いので深く掘りやすい畑に植えるのがいいそうだ。
さて、庭でどんどん増え続けるタンポポの根を掘り返して、タンポポコーヒーを作った。タンポポの根は苦味が強く、これを乾燥させ炒って粉砕するとノンカフェインのおいしい、しかも体によい飲み物ができる。難点は根を引っこ抜くのがすごく大変なことだ。北部の赤土は乾燥すると石のように硬くなるので、雨が降った後に掘り返すのだが、それでもなかなか一筋縄ではいかない。鍬、スコップ、シャベルを使い分けて悪戦苦闘しても大抵、途中でブツッと切れてしまい、3分の1位は土の中に残して上の部分を手にすることになる。しかし20本位も揃えば1回の収穫量としては十分だ。水を流しながらタワシで土を洗い落とす。それからスライスしてざるに入れ、太陽の下で乾燥させる。乾いたらフライパンで豆を炒るように箸でかき混ぜながら根気よく炒るうちに焦げ茶色になって香ばしい匂いがしてくる。うっかりすると焦がして、炭化させてしまう。こうなってはいがいがして無美味しくないので注意が必要だ。いい具合になったらミキサーで粉砕し出来上がり。
完成したタンポポコーヒーを軽く煮出して、砂糖を少し入れるとほろ苦く香ばしい自然の贈り物を満喫できる。 健康食品店では、ティーバックに入れたものを幼児も安心して飲める健康な飲み物として売っている。
タンポポの花を天ぷらにして食べた。これも旨い。花は開き過ぎないのがよい。
(Nov. 28, 2003)
ミエ子さんのパインのビニールハウスにて 本土から遊びに来たOさん 2005年1月
パインの事情
東村は日本有数のパイナップルの産地である。 ノリちゃんは「畑に行ったら草の中にゴロゴロしているからとって来たらいいさー」と言う。山原の赤い酸性度は、パイナップル栽培に適している。元来成長力が強い果物なので、土があっているとほっておいても成長する。 遊休地になってしまったところに自生しているものがあるのだ。しかし、夏は草の成長がはやいから、遊休地と思って入ったら、実は耕作地ってこともある。どっちみちノリちゃん自ら(彼女の家の畑から)採ってきてくれたり、近所の人が持ってきてくれるので、わざわざあらぬ疑いをかけられるような危険をおかすことはない。それに部落の共同店に行けば、大きいのても150円で買える。先日、店で休んでいたら、男の人が超完熟パインを持ってきて、その場で切って食べさせてくれた。パイン農家の話では、下半分赤くなったのを畑で採って、その場で切ってギンギラの太陽の下で食べるのが一番旨いのだそうだ。
今年の露地物はなぜか甘味が少ないそうだ。ハウス物の収穫は露地物より早く、6月なのだがこちらはすごく甘かった。小粒だからか1個100円程度。共同店のチエ子ネーネーにお願いして12個本土に送った。運賃の方が高い。早速、東京の会社からとっても美味しいよというメールが来た。
露地物でも生育が安定して糖度が高い品種があるが、苗の供給が十分ではなく、村の北の外れのこの地域までは来ないのだそうだ。「それで、ミエ子さんなんかも困っているんです。」とノリちゃんが言っていたが、なるほど先日、ミエ子さんが「農業経営って難しいです。私なんかみたいなのは人に使われるのが気楽でいいんですけど...」と言っていたわけだ。作りたいものを作らせないというのが日本の農業政策だが、その他にも色々事情があるのだ。
(Sep. 13, 2003)
ペーパーウェイト
夏の高江の仕事場は、いつも心地よい風が吹い抜けて気持ちがいい。
ただ夏の南国の天気は、局地的に急変することがあり、太陽がかっと照りつけているかと思えば、突然雨がざざっときたりするので、晴れていても外出するときは、布団や洗濯物の取り込みを忘れてはいけない。
家にいるときは、雨が降る前に風が知らせてくる。
風が少し涼しいなと思ったら、雲が広がりザーッと30分位降ったりする。
これをカタブイ(片降い)という。向かいの農業の達人トシコさんが、「片降り」と言ったのが忘れられない。島の片方で降っているが、反対側ではいい天気という感じが、大和んちゅにもよく分かる。晴れても降っても、高江の夏ほど気持ちよく、幸せな季節はなかったと思う。
夏の風はとてもうれしい自然の贈り物だが、面倒な時がある。15インチのストックフォームに印刷したログを机や床の上に広げて、仕事をしている時、いきなり突風が吹いてくると、連続用紙のログが長くつながったまま部屋いっぱいに広がり、スルスルと外に伸びていったりするのだ。そうなると端っこからたぐりよせ折りたたまなくてはいけない。ストックフォームというのは、コピー用紙のように一枚一枚用紙が切れておらず、連続しているものだ。大量のデータやコーディングを印刷し畳んでおけるので使いやすいのだが、不可抗力で広がってしまうと始末に負えなくなる。台風が接近する5日位か前ら風が強くなるが、そんなときは紙と追いかけっこかることになる。
ある朝、伊部の海岸を散歩していたとき貝殻を見つけた。アサリや蜆のような小さなものでなく、円すい形の巻貝でずっしりと重量感があり、用紙を抑えておくのに丁度いい。このベージュがかった貝殻ペーパーウェイトは、夏の作業場に不可欠なアイテムになった。
(Oct. 18, 2003)
2005年1月28日 本部岳
緋寒桜
海外に送る荷物の重さを量るために共同店に行ったらミエ子さんがいて、しばし桜談義
ミエコさん曰く、「いやー、桜のあの色、腹が立つねー。この天気であの色はないさー。」
たじたじのノリちゃん、「あははは」と笑うしかない。
ちなみにノリちゃんは、共同店で朝7時半から午後3時半までのシフト勤務だ。
やんばるで桜の咲く季節は、残念ながら凡そ天気が良くない。
白っぽいソメイヨシノなら、花曇りの天気にも似合うが、緋寒桜の濃いピンク色は、曇り空、雨には似合わないというわけだ。
やはりこの色なら心浮き立つ明るい日差しがマッチする。
私は曇天でまぶしさがない落ち着いた景色の中でも、瓦屋根の民家があったりするとこの色でも風景に溶け込んでいいと思う。テニヤの小中学校の近くに丁度そういうところがあった。名護に出かけたついでに寄って写真を撮ってこようと思ったのだが、件の建物は民家ではなく会社の事務所として使われているようで看板が取り付けられていた。
(Oct. 18, 2003)
(注) 共同店とは山原の集落の住民が共同出資して運営する商店のこと。共同売店ともいう。協同組合や生協に似ているが法人ではない。
島ニンジンを収穫する息子
春菊の花
ノビルの花
一月の菜園
冬はほうれん草、小松菜、春菊、からし菜などの葉野菜の栽培時期だ。種は売れ残ったものをノリちゃんにもらった。種にも消費期限があり、古くなったものは売れないのだそうだ。ヤンバルの赤土は強い酸性土だが、ハーブ園のTさんのアドバイスで石灰をたくさん鋤き込んだので、ほうれん草がうまく出来た。おひたし、味噌汁、ベーコンと炒めたりしばらく楽しめそうだ。区費の集金に来たミエ子さんが、「佐々木さんは、ほうれん草の先生だねー。これだとJAに出荷できるさー」とからかう。
小松菜はぐんぐん伸びて、食べきれそうにない。こんなに大きくなるものとは思っていなかった。開いた白菜のようになっている。これと比べるとスーパーで見かける小松菜は、なんともひ弱な感じがする。小松菜は塩をふって一晩ねかせたあと島豆腐かツナと炒めるとおいしいおかずになる。これがあれば他のおかずは要らない。
小松菜は虫にとっておいしい葉っぱのようだ。無農薬なのであちこち食われて穴だらけなのだが、なにしろ大きいのでさすがの大食漢の虫達も食べきれないようだ。
小松菜はなんとか助かったが、大根は葉が小さいうちに全滅してしまった。葉を全部食べられてしまっては如何ともしようがない。プロとアマの違いの一つは種まきのタイミングを見計らう差にあるそうだ。同じものを蒔くのに向かいのトシコさんの大根は葉に虫がつかず青々と元気に育っている。私が蒔いた一ヶ月後に蒔いたものだ。私の場合、若い葉で幼虫を飼育していたようなものだが、トシコさんはその時期が終り葉を食べなくなる頃に芽が出るよう時期を調整していたわけだ。さすが評判の人だけある。人から聞いた話では、彼女は鍬の使い方からして違うのだそうだ。
冬の野菜の王者春菊は不思議と虫がつかない。はるか昔中国から薬草として持ち込まれたものでもあり、虫にとって苦手なのだろう。どんどん成長し、食べきれず花を咲かせてしまった。島ラッキョウの種を分けてもらったが、ノビルではないかと思う。ほっておいてもどんどん増える。これもきれいな花が咲いた。
島ニンジンは大丈夫だった。ニンジンの葉は細長くて食べにくいのかもしれない。島ニンジンはあと一ヶ月位したら収穫できるだろう。
ジャガイモも濃い色の葉をつけて元気に育っている。残念ながら一本は根切り虫にやられてしまった。
バジルは、寒くなって枯れてきたが、しばらくすると種がこぼれるという。バジルはスープ、サンドイッチ、パスタの味を引き立てる料理の名脇役として夏の間活躍した。先週できるだけ元気な葉を選んでポトフに添えて食べたのが最後になった。庭に植えているハーブの仲間はバジルの他にローズマリー、ミント、カモマイル(カモミール)などがある。そういえば一株だけ買ってきたワイルドストロベリーが実をつけ始めた。
(Jan. 5, 2004)
絆にて (2004年2月)
カチャーシー (2004年2月)
カチャーシー
伊部に住んでいた頃、いろいろな人たちと知り合いになった。週末に那覇からやってくるMさんご夫婦と弟さんご夫婦もそういった楽しい山原の友達だ。Mさん夫婦は、そこを訪れる人たちの心の結びつきを作る場となるようにと、彼らの別荘を「絆」と名付けた。 Mさんと知り合った当時、私が住んでいた処から絆まで徒歩5分の近さであった。Mさん夫婦と弟さん夫婦が遊びに来ると森の中のような大きなサキシマスオウの木のある絆に集まり、星空の下で焚き火を囲んで食事しながら話をしたり、三線に合わせて沖縄民謡やギターの伴奏でフォークソングを歌ったりした。定番は安里屋ユンタ、十九の春、芭蕉布、安波節、花、島唄など。
Mさんの奥さんは安田(あだ)の出身だ。伊部から車で5分の安田は釣りの好きな人たちにはよく知られた漁港がある部落で、Mさんの奥さんの兄弟のHさんもウミンチュ(漁師)だ。時々Hさん家族も絆の焚火に合流した。Mさんは三線を上手に弾くが、義弟H船長も名手だ。彼の情感溢れる「二見情話(ふたみじょうわ)」は、聞くものの胸にはるか過ぎ去りし日々への想いを引きこむ不思議な力をもっていた。時折クイナの鳴き声だけが聞こえる伊部部落の闇の中、焚き火の光が、潮風に鍛えられた逞しいウミンチュの顔をやさしく照らし出す。一日の労働を終え、憩うとき自然に湧き出る音楽の根源的な意味と素晴らしさを感じた。 数年後の夜、友人と二人で新宿の琉球料理の店に行ったとき、若い人が三線の演奏をやっていたので、二見情話をリクエストしたら、難しい曲なので未だ演奏できないと言われた。
伊部に住んでいた頃もそうだが、東村に移った後も、東京から遊びに来た友人たちを何度か絆に連れて行った。観光地を見てまわるよりも、地元の人との交流が、旅の思い出としていつまでも心に残ったはずだ。教会の男の子たちが泊りに来た時、河原で花火をやった後、絆に連れて行ったら、紅芋で焼き芋を作って歓待してくれた。
大学の春休みに遊びに来た息子を連れて行ったときは、最後にカチャーシーを踊った。
カチャーシーは祭り、結婚式など祝い事の最後に全員参加で、テンポの速い三線の演奏に合わせて踊るもの。カチャーシーとはかき混ぜるという意味の方言だ。両手を頭上にあげて手首を回しながら左右に振る様が、かき混ぜるように見えるのでそう呼ばれる。カチャーシーをやる時分には、全体が盛り上がっているので、初めての人でも手を振っていれば何とかなる。厳密には男は手をげんこつにし、女は指を広げないで手を開く。つまりグーとパーである。げんこつは家庭を築き、そこに幸せを持ち帰って絶対離さない、パーは幸せを持ち帰り、それを人に分かち与え、指を閉じるのは幸せが逃げないようにという気持ちが込められている。
(Mar. 04, 2004)
パインハウスにて ミエ子さんと私の息子 (2004年2月)
2018年現在ミエ子さんはパイン栽培を引退し農業委員
大学生だった息子は、今や三児の父
私も歳を取るわけだ。
パインハウスのお手伝い
早春の朝、共同売店に行くと、ノリちゃんが店の前をウロウロして、何か物憂げである。必要な買い物を済ませると、「佐々木さん、これから何処かへ出かけるんですか?」と聞いてきた。パイナップル栽培をやっているミエ子さんが、親戚の急病の看護で留守になった従妹の家に姪の世話をするため、早朝に出かけてしまった。この季節は天候の変化が激しいのだ。曇っていると思ったら晴れて、晴れたと思ったら雲が出て小雨がぱらついたりする。出かけたときは、曇っていたのだが、時間とともに晴れ間が出て、日差しが広がってきた。パイン栽培用のビニールハウスは、冬場でも閉めたままだと、日光でかなり高温になる。開花前に温度が高すぎるとパインの成長に影響するので、ハウスの側面を開けて、温度調整して欲しいという援助要請の電話が、ミエ子さんから親友のノリちゃんにあったのだ。 ところが、店を閉めるわけにもいかず、悶々と悩んでいたところに私が来たので、飛んで火にいる夏の虫、ミエ子さんのビニールハウスに行って、開けて欲しいというわけだ。 しかし、ハウスの場所は知っているけど、どうすればいいんだろうか。 「入口の左右にハンドルがあるから、それを回すだけさー。簡単よー。」とノリちゃん。 そこで、まー、行ってみるわと、田舎に似合う愛車白いカローラバンでミエ子さんのパイン畑に向かった。
パイン畑は共同売店から家に帰る途中ちょっと左に入ったところにある。大きいハウスが五棟ほどあり、次々に開けていった。ノリちゃんは、下の方を開ければいいと言っていたが、どの程度、開けたらいいのか勝手が分からない。開けている間も太陽が見え隠れする。この程度かなと思って、次の棟に移り、いやもっと開けた方がいいかなと、てんでばらばらにやってしまった。いいパイン栽培農家になるには経験者の指導が不可欠なのだ。
次の日、ノリちゃんが、「ハウスごとに影の具合に合わせて、大きく開けたり、小さく開けたり丁度いいように調整してくれたと、ミエ子さんがとっても感心していたよ。初めてなのにさー。」と言う。うーん、それは物凄いひいき目だよ。でももしかして、パイン栽培の才能があるかな。何をやるにしても山原の生活は楽しい。
(Mar. 22, 2018)
ローゼルの花と果実 (2005年10月)
ローゼルのガクを砂糖に漬ける。
ローゼル
ハーブ園のTさんから、ローゼルが収穫できるようになったから来るようにという電話があった。ローゼルは花が落ちた後、ガクが閉じて果実がふっくらする。真っ赤に色づいたガクをハーブとして利用する。ローゼルのガクは、ビタミンCやクエン酸他の多くの栄養分を含み、疲労回復に効果がある酸味が強いハーブティーとなる。ハイビスカスティーとして売られているものは、このローゼルを原料としている。花は淡い黄色だが、ガクと茎は暗赤色で緑の葉とのコントラストが美しい。 果実だけになったローゼルの一枝は、観賞価値があり、花瓶に挿しておくとしばらく楽しめる。 西アフリカ原産の熱帯植物のため、沖縄の気候が栽培に適している。ハーブ園に遊びに行ったとき、ローゼルのハーブティーをご馳走になり、その風味がすっかり気に入った。ローズヒップに似ているが、酸味がより強い気がする。
Tさんのハーブ園は、東村高江の家から徒歩10分の距離なので、車を使わず、散歩がてらに農道を歩いていく。よく晴れた秋の日、日よけのアダンの傘をかぶり、軍手と剪定はさみを持って出かけた。二つの笊にいっぱいになる量をもらい、加工方法を教えてもらった。ハーブとして使う部分は、外側のガクの部分なので、二つに切って中の果実部分は捨てる。それをガラス瓶に氷砂糖と交互に重ねて入れ、数日間保存しておく。氷砂糖が溶けるにしたがい、にローゼルの成分が溶けて綺麗な赤いシロップができる。ティースプーン一杯程度のシロップをカップに入れお湯を注ぐとハイビスカスティーになる。砂糖漬けになって残ったガクをパンケーキに入れたり、そのまま食べたりしても美味しい。
ローゼルの花言葉は、毎朝新しい花が美しく咲くことから「新しい恋」「華やか」、真っ赤な実には「乙女の真心」という果実言葉がつけられている。
(2005年12月)
伊部ではアブシバレーをこの浜で行った。 (2004年2月)
高江では浜を見下ろす広場でアブシバレーを行った。(2003年7月)
アブシバレー
山原の楽しい思い出の一つにアブシバレーがある。凡そ旧暦4月に行われる害虫駆除の儀礼とされているが、場所によって内容はかなり違う。アブシとは田や畑の畦のことで、バレーは払う、つまり畦払いである。昔は、害虫の被害は脅威であり、この虫払いの行事でもって害虫を集落の外へ追い出し、豊年を祈願するというのが、概ね共通している。
現在の伊部は、生業として漁業をやっているわけではないが、浜に集まり、海の神と山の神に大漁豊作を祈る。海の神は女、山の神は男だった。テーマからそれるが、昔、伊部で魚が採れると、漁に出ていない者も含め部落全員の男たちの間で分ける習慣があったそうだ。さて、浜の所定の場所で、アブシバレーの祈願をした後は、食事会となる。旧暦4月は、梅雨と重なることがあり、浜にブルーシートを広げて、食事が始まる頃に雨が降り出すことが多かった。そういう時は、皆で急いでブルーシートをたたみ、大きな家の縁側に会場を変更する。区長が各区のアブシバレーの開催日を調整して重ならないようにする。通常週末に行うので、南部の都市部に住んでいる親族が里帰りして、子供を含めた賑やかな食事会になった。その時、初めてサメの肉を食べた。フライにしたもので、最初チキンカツかと思った。
東村高江は標準に近いやり方だった。畔の草刈りに相当する作業は、拝所から浜に下る道の草刈りを行う。草刈り機は、各世帯の標準装備になっているが、私は持っていないので草刈りを免除された。こちらは海を見下ろす広場で、アブシバレーの祈願を行った後、ブルーシートを広げての大人だけの食事会で、気心の知れた人たちとの和やかな時間だった。
(2005年12月)
伊部畜産基地の雄大な夕方の雲。 (2000年7月)
郵便局
伊部の牧場跡地に住んでいた時、最寄りの郵便局は、16kmほど北の奥部落にある奥郵便局だった。車で10分位の安田部落に簡易郵便局があるが、配達は奥から来ていた。仕事の都合でしばしば本土に行くことがあり、配達の人とは顔なじみなので、留守中の郵便物を郵便局に預かってもらい、帰ったら連絡して配達してもらっていた。ある時、区長のUさんが家に来て、安田の簡易郵便局に年賀状が来ているから取りに行ったらいいよと言う。正月に奥郵便局の配達員の代わりに、簡易郵便局の奥さんが配達に来たそうだ。ところが、私が住んでいた処は、一つ3万坪の牧場跡地が、二つ隣り合っている奥の方で、手前の牧場を横切らなければならない。そこは、牧草が伸び放題、倉庫のトタンが飛ばされたまま、家畜小屋や牧場主の住宅は壊れたままでゴーストタウン化しており、とてもこんなところに住んでいる人はいないだろうと途中で引き返してしまったそうだ。
東村高江に移ってからは、ゆうパックを共同店から出せるようになったので便利になった。毎朝8時半ごろに集荷に来た。ある時、共同店から帰宅したら、ゆうパックの不在通知が入っていた。すぐに郵便局に不在通知が入っていたことを電話したら、こちらの名前を名乗る前に「ああ、佐々木さんねー。配達の人に戻るように連絡するからちょっと待っててねー。」と言って切ってしまった。まもなく、「もうすぐ局に着く頃なので、午後配達するそうですよー。ごめんねー。」と折り返しの電話があった。声だけで私が誰なのかと、電話番号も分かったのである。これが都会の郵便局だと、不在通知の番号、氏名を確認されるが、そういう面倒な事は無い。今では配達担当者の携帯電話番号が、不在通知に書かれており、直接連絡することもできるようになって、便利になったが。。。
(2005年12月)