欽定訳マルコ4:39
“Be peace, be still”
はじめに
日本聖書協会の口語訳聖書(以下口語訳)マルコによる福音書4:39は次のようになっている。
「イエスは起きあがって風をしかり, 海にむかって, 『静まれ, 黙れ』と言われると, 風はやんで, 大なぎになった。」
同じ箇所が欽定訳聖書(以下KJV)では、次のようになっている。
And he arose, and rebuked the wind, and said unto the sea, Peace, be still. And the wind ceased, and there was great calm.
改訳版(RV)以下のKJVの系統では、概ね同じく“Peace! Be still! “(感嘆符が付いている)になっている。
しかしKJVと異なる系統の聖書では、口語訳の「静まれ、黙れ」に近い表現になっている。ルター訳(1545) “Schweig und verstumme!” (英訳するとSilence
[1]
and be still!)、新世界訳聖書(1961) “Hush! Be quiet!”、新国際版聖書(1996) “Quiet! Be still!”、エルサレム聖書(1956) “Silence! Tais-toi!"(英訳するとSilence! Shut up!)
何故KJV(およびその派生)だけが異なる表現をしているのだろうか? そして、KJVを源流とする改定標準訳聖書(以下RSV)を参照した口語訳聖書では、“Peace! Be still! “を「静まれ、黙れ」としているのは何故だろうか?
単なる一介の聖書読者に過ぎない者が言葉をひねくり回すのもどうかと思うが、問題を考察してみたい。
[2]
Peaceの用法
さて、例えば次のように、何らかの動作を行う主体(わたくし)、あるいは何かを所有する主体(わたくし)を省略することなく記述する場合、その対象(目的語)である「平安(peace)」は名詞である。
「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。 わたしが与えるのは, 世が与えるようなものとは異なる。」(ヨハネ14:27)
“Peace I leave with you, my peace I give unto you: not as the world giveth, give I unto you.” (John 14:27.)
あるいは、次のようにある状態を表す静的な動詞(Be動詞)とともに用いる。例えば、“Peace be unto you.” (John 20:19)、「安かれ」(ヨハネ20:19)、(口語訳のこの日本語は、やや唐突な感じがする。 新改訳聖書では、「平安があなたがたにあるように。」とKJVに近い。)
もし、マルコ4:39が、“Be peace, be still”なら、「安かれ、静まりなさい。」ということになるが、実際には“Peace, be still“になっている。他の共感福音書の記述と合わせて考えると、「安心して平安になりなさい」とうような平和的なニュアンスに解釈するには無理があるように思える。むしろ、「風と海とをおしかりになると、」(マタイ8:26) 「風をしかり、海にむかって、・・・・と言われると」(マルコ4:39)「風と荒浪とをおしかりになると、」(ルカ8:24)とあるように叱責した場面を描写しているわけだから、“Peace, be still“のpeaceを動詞の命令形とみるのが自然なのではないだろうか。
しかし、命令文なら「沈黙!」、「黙祷!」というように動詞(せよ)を省略して名詞のみで構成することも可能だ。研究社のNEW COLLEGIATE ENGLISH JAPANESE DICTIONARYによるとpeaceの名詞に「静けさ」、「沈黙」の意味があり、「お静かに!」と言う時の用例
[3]
としてPeace! Peace! を載せている。 この考え方によるとstillの方は形容詞なので、be stillで、「ないだ」状態の意味になるから、Peace, be stillで「黙れ、静まれ」ということになり、KJVと口語訳の間の意味の齟齬は解消される。ただし、これはKJVの記述を現代英語として捉えた場合ということを忘れてはならない。時代とともに言葉は変わる。KJVが書かれた初期近代英語
[4]
ではどうなのだろうか。自然な表現として、さらにpeaceの動詞の命令形についても考察してみたい。
初期近代英語におけるPeaceの動詞用法
では、数百年前の英語にPeaceの動詞があったのだろうか?
KJVの刊行は17世紀の英国で、その記述の多くは、ティンダル聖書
[5]
によっている。ティンダル聖書のマルコによる福音書4:39は、And he rose vp and rebuked the wynde and sayde vnto the see: peace and be still. And the winde alayed and ther folowed a greate calme.となっており、さらに古い表記であるが、言い回しはKJVおよび改訂版に継承されていることが分かる。 生粋のBritish Englishによる記述であるから、現在私たちが学んでいるAmerican Englishで解釈すると本来の意図した意味から乖離する可能性がありそうに思える。
そこで、British English版のCambridge, Oxford, Reverso, Collins, Chambers, Longmanのオンライン辞書
[6]
でpeaceを調べてみた。これらの辞書の中で、ただひとつCollins English Dictionary
[7]
にintr (mainly obsolete) to be or become silent or stillがあった。静かにする、黙るという自動詞(intransitive verb)で、日常会話ではほとんど使われなくなった(mainly obsolete)としているが、KJVが刊行された1611年頃にはまだ普通に使われていたのだろう。
Collins English Dictionaryは、English Worldwide
[8]
とAmerican Englishを切り替えて検索するようになっている。British Englishに当たりをつけて調べたがどちらでも上記のpeaceの動詞が出てくる。つまり、“Peace, be still“は、”Be silent, be still”という意味であり、英語を母国語にする人や英語を職業にする人は「黙れ、静まれ」と自然に理解するのだろう。(古い言い回しだから必ずしもそう理解するとは限らないかもしれないが。)
まとめ
peaceを現代英語の名詞の命令文用法であれ、初期近代英語の動詞の命令形の用法であれ、RSVを参照し、口語訳聖書を編纂した際に前述のことを把握した上で、“Peace! Be still! “ (RSVは感嘆符が付いている)を正しく「静まれ、黙れ」と翻訳したのである。
すなわち“Peace, be still“のpeaceを平和と解釈し、「安かれ、静まりなさい。」のようにとるのは誤りであり、「静まれ、黙れ」が正確な日本語表現ということになる。
KJVがティンダルのpeace and be stillという表現を取り入れ、それは普通の英語の言い回しなので、その後の改訂版でもそのまま残り、ティンダルの仕事と関係のない、他の聖書では、それぞれの翻訳者が適切と判断した表現の仕方で記述したため、普通の日本人の目にはKJV系統の表現が他の聖書と違っているように見えただけだ。 余計な心配をしたわけだが、勉強になった。
さてこの件に関連して、末日聖徒イエス・キリスト教会版KJV(オリジナルのKJVに脚注を加えた版)を使用する際に注意しなければいけない点がある。マルコ4:39のPeaceにTopical GuideのPeaceを参照するように注釈が付いている。Topical Guideは単なるクロスリファレンス、あるいはインデックスであって内容を解説しているものではないので致し方ないが、Peaceの項には、「平和」、「平安」を含めたすべてのpeaceを含む聖句が列挙されている。見出し部分にSilence, Silentも参照するように書かれているものの、Silence, Silentの項にはマルコ4:39は無い。 学習者が“Peace, be still“のpeaceを「静まれ」ではなく、「平安」、「平和」という意味にとらえないように注意する必要があろう。
参考1
peaceの名詞の用法に「沈黙」「静けさ」の意味がある。(以下はAmerican Englishの辞書から)
Merriam Webster
[noun]
—used interjectionally to ask for silence or calm or as a greeting or farewell
Merriam Webster Learner's Dictionary
[noncount]
a : a quiet and calm state
▪ I just want a few moments of peace. = I just want a little peace and quiet.
▪ Why won't they leave him in peace? [=why won't they stop bothering him?]
b : a safe and calm state in a public place
▪ Peace and order were finally restored in the town.
▪ He was arrested for a breach of the peace. = He was arrested for disturbing the peace. [=for behaving in a loud or violent way in a public place]
Oxford Advanced AMERICAN DICTIONARY
[noun] the state of being calm or quiet
She lay back and enjoyed the peace of the summer evening.
I would work better if I had some peace and quiet.
He just wants to be left in peace (= not to be disturbed).
I need to check that she is all right, just for my own peace of mind (= so that I do not have to worry).
He never felt really at peace with himself.
(law)They were charged with disturbing the peace (= behaving in a noisy and violent way).
研究社のNEW COLLEGIATE ENGLISH JAPANESE DICTIONARY(第5版)のpeaceの「静けさ」、「沈黙」の項に次の例文がある。
Peace! Peace! お静かに! (これでマルコ4:39のPeace!を「静まれ」と解釈できる。)
Peace and quiet (特に騒いだり口論した後での)静穏
The shot broke the peace of the morning. 銃声が朝の静寂を破った。
参考2
原点に帰って、マルコ4:39のギリシャ語本文は次のようになっている。
καὶ διεγερθεὶς ἐπετίμησεν τῷ ἀνέμῳ καὶ εἶπεν τῇ θαλάσσῃ· σιώπα, πεφίμωσο. καὶ ἐκόπασεν ὁ ἄνεμος καὶ ἐγένετο γαλήνη μεγάλη.
これを英語に逐語訳にすると以下になる。
And | having been awoken | he rebuked | the | wind | and | said | to the | sea | Silence | be still | And | fell | the | wind | and | there was | a calm
[1] Schweigは自動詞で、これだけで黙れという内容になる。一方、Silenceは、他動詞なのでここでは使えず、名詞の命令的用法を使ってみた。
[2] アマチュアのたわ言とご容赦いただきたい。。
[3] 参考1を参照
[4] 1500年から1800年までが初期近代英語の時代で、ティンダル聖書や欽定訳聖書がこの期間に書かれた。
[5] ティンダルは、英訳したものを1523から配布を始めたが処刑された。KJVの中表紙に、TRANSLATED OUT OF THE ORIGINAL TONGUES: AND WITH THE FORMER TRANSLATIONS DILIGENTLY COMPARED AND REVISEDとあり、原典からの完全な翻訳ではないことが書かれている。FORMER TRANSLATIONSがティンダル聖書を示す。
[6] 調べたのは2013年6月。時間が経つと改訂が行われ内容が変わる可能性があるが、オンラインの場合旧版を参照できない。
[7] http://www.collinsdictionary.com/dictionary/english
[8] British Englishのこと。さすがCollinsの心意気