創世記第3章
楽園喪失と救い主の降誕
そして
働くことによる赦し
はじめにおける人の創造
創世記第1章26-30に人を作られた経緯が次のように書かれている。
(以下口語訳聖書ではなく、日本聖書刊行会新改訳旧約聖書 1970年版より引用)
1:26 そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。
「われわれに似るように」から分かるように天地創造の場には創造主としての神の他に神を補佐する神々がいた。
KJV(King James Version 欽定訳)では、Let us make man in our image, after our likeness: そしてLuther Bibel 1545では、 Laßt uns Menschen machen, ein Bild, das uns gleich sei, となっており、この場にいたのが複数になっている。
1:27 神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。
1:28 神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」
1:29 ついで神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与えた。それがあなたがたの食物となる。
これは霊として組織した時の状態であり、まだ地の表は荒涼としていた。
第2章に次のようにある。
2:4 これは天と地が創造されたときの経緯である。神である主が地と天を造られたとき、
2:5 地には、まだ一本の野の潅木もなく、まだ一本の野の草も芽を出していなかった。それは、神である主が地上に雨を降らせず、土地を耕す人もいなかったからである。
神である主が天と地を作られたとき、霊としての男と女を作られたが、まだ土地を耕す肉体を持った人がいなかったので、地は荒廃したままだった。人は土地を耕すことにより種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木を守る。またそれらが食物となる。天地創造の初めの時から人間の本領は働くことにあった。そのためにはまず地の上に土地を耕す人を造らなければならなかった。
神は人を造り、その人をエデンの園に置き最初の律法をあたえた。
2:8 神である主は、東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。
2:9 神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木とを生えさせた。
・・・
2:15 神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。
2:16 神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。
2:17 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」
次に助け手になるように動物たちを造った。
2:18 その後、神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」
2:19 神である主が、土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造られたとき、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が、生き物につける名は、みな、それが、その名となった。
2:20 こうして人は、すべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけたが、人にはふさわしい助け手が、見あたらなかった。
そこで神は助け手として男から女を造った。
2:21 そこで神である主が、深い眠りをその人に下されたので彼は眠った。それで、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。
2:22 こうして神である主は、人から取ったあばら骨を、ひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。
2:23 すると人は言った。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女
[1]
と名づけよう。これは男から取られたのだから。」
楽園の喪失、のろいと罰
第3章には、狡猾な蛇が女を言葉巧みに誘導し、食べてはならない木の実を食べさせ、女は夫にも食べさせたいきさつが書かれている。ドイツの旧約聖書学者のヘルマン・グンケルはこの章を創世記中の真珠と称賛している。ここには誘惑の深刻な心理、良心のめざめと罪悪の観念が、多くのことを省略し、余計な説明なしに単純明快に描かれており、旧約聖書中最も卓越した道徳的宗教的洞察の深さを持っており、天地創造の最終的な神の意図である救いの計画の出発点としてのすべての要素が網羅されている。
3:1 さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」
3:2 女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。
3:3 しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」
3:4 そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。
3:5 あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」
3:6 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。
ここでは木の実の禁止をいつどのように蛇が知ったのかの説明が省略されている。また神はすべての創造物をよしとされたはずだが、なぜ楽園に造られたもののうち一番狡猾な蛇を置いたのかの説明がない。しかし、「生めよ。ふえよ。地を満たせ。」と神が言ったのは霊として男と女を創造したときであって、エデンの園においてではないことに注目すべきだろう。肉体を得た後の男と女が地に満ちるためには、女だけがエデンの園を出るのではなく、男と女が共にエデンの園から出ることが、神にとって必然であり意図であったはずで、そのため蛇を置くこともまた神の意図するところであっただろう。しかしここではそういった背景が省略されている。我々はこの時に起きたことにのみ注目すべきで、それ以外のことは意味がないからだろう。
その一つは悪が人間の側ではなく、蛇の側にあったということ。そして罪の起源は人間の内なる性質にあったのではなく、外から誘惑によって来たものであり、我々自身の心の所産ではないということ。それ故人間の本質は善であり、勝利への希望があるということを理解すればよいのだろう。
結果が明快とはいえ我々はどうしてもそれが起きた原因との因果関係を求めてしまう。ソロモンが伝道者の書に書いた次の言葉を肝に銘じるべきだろう。 「私が見いだした次の事だけに目を留めよ。神は人を正しい者に造られたが、人は多くの理屈を捜し求めたのだ。」(伝道者の書7:29)
神はアダムとエバに「神のようになり、善悪を知るようになる」のを何故禁じたのだろうか。それは被造物であるアダムとエバが、創造者である神のようになるということを大それた放漫の罪とみなしたからだろうか。なるほどバベルの塔の物語に見られる人間放漫の罪は、そもそも罪の根源であり、どの時代の預言者たちも、そうした放漫な反逆の罪を排撃することを使命としてきた。それならばいっそのこと最初から善悪を知るような危険が起きないようにすればよい。しかしそれは、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。」といった神が人を造った意図にそぐわない。神は姿かたちが似るようにということではなく、知性、精神、内なる性質が似るようにという厳粛な意図を持って「われわれのかたち」に造り、地のすべてのものを支配するようと命じられた。
コリント第一15:49に次のようにある。「私たちは土で造られた者のかたちを持っていたように、天上のかたちをも持つのです。」
人が内なる性質を高めるよう邁進するには、善悪を知ることが必須であり、それが出発点となる。神にとってまず必要なのは、アダムとエバが善悪を知る木の実を食べるということを自分で判断させることであった。
蛇はエバに「あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」と言った後沈黙する。そしてあとはエバの感覚にまかせたのだが、「その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。」のでその実をとって食べ、いっしょにいた夫にも与え、夫も食べたのだった。最も危険な誘惑に直接に導かれることはまれであるように、蛇はエバを神への不服従へと誘惑しただけで木の実を食べるように直接言ってはいない。
「食べる」という欲求、「目に慕わしく」という感覚的な性情、「賢くする」という知的な放漫は、アダムとエバにとってなんという魅力だっただろうか。またここで蛇とエバの間に神の厳しい律法を非難するという共感すらうかがわせる。誘惑に抗するのは困難なことであった。そして真実と嘘をないまぜにした蛇の言葉巧みな誘惑に負けたとき蛇の約束が果たされ二人の目が開いたのだが、その結果は「神のようになり、善悪を知るようになる」ことから遠くかけはなれたものであった。
しかし、それは人が神のようになる重要な始まりであった。 そのことを二人はまだ知らない。
神の計画の次の段階は、蛇とアダムとエバを罰することだった。
3:14 神である主は蛇に仰せられた。「おまえが、こんな事をしたので、おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。おまえは、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。
3:15 わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」
3:16 女にはこう仰せられた。「わたしは、あなたのみごもりの苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない。しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。」
3:17 また、アダムに仰せられた。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。
3:18 土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。
3:19 あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」
ここで注目すべきは蛇に対してのみ呪いという言葉が使われており、アダムとエバとはのろわなかったことである。神の云いつけに従わなかったとはいえ、それは元々神の意図するところであったのだから。
悪の力の代表である蛇が立ち上がることなく、地を這いまわることも神の意図するところであった。
人間と悪との久しい闘争のすえ、女の子孫であるイエス・キリストが、悪に致命的打撃を与えるという福音の真理がここで語られている。また魂の擁護のために神である主は人と悪の間に「敵意(恨み)」、すなわち仇敵の憎悪を置いた。それは罪悪に対する良心の嫌悪である。もし蛇とエバの間の友誼的同意がいつまでも続いていたら、人間の魂は蛇の誘惑に惨敗し、悪が永久にこの世の君として支配権をにぎることになったであろう。旧約の歴史は、人間と罪悪との闘争の歴史であった。それは人間と悪との間に恨みが置かれていたからである。しかし旧約における悪との闘争の歴史は激烈であったとはいえ、その頭を踏み砕いて悪に致命的打撃を与える程のものではなかった。人間の内部は蛇の悪の思想であまりにも深く汚されていた。
エバはこの時から、みごもりに苦しみ、苦しんで子を産むことになった。また、アダムは、顔に汗を流して糧を得なければならなくなった。そして最後に土に帰ることとなった。罰は科されたことを果たせば放免されるものだが、肉体の死は、子孫に続くものとなった。これは、「生めよ。ふえよ。地を満たせ。」という神の言葉にしたがうために必要であった。人が地上に生を受け、善悪を知り、知性、精神、内なる性質が「天上のかたち」に似たものになるための神の計画の一部だったからである。こうして、自由意思をもった人間は、罪に満ちた世にあって常に誘惑を受け、過ちを犯す危険にさらされることになったが、神は予言者を通して、どうすれば誘惑に打ち勝てるか、犯した罪をどうやって贖うかを教え、またすべての人の罪を贖うという無限無窮の愛と恵みに満ちた救い主を地上に送ると約束された。
救い主の降誕、罪からの救い
そのように、人間が罪に打ち勝つためには、神自身が救い主として地上に降って来なければならなかった。しかも、肉において弱き人間を救うために女から生まれなければならなかった。
ヨハネの福音書1:1-5, 14
1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
1:2 この方は、初めに神とともにおられた。
1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
1:4 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
1:5 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。
・・・
1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
神と共にいた「ことば」は、全人類の罪をあがない、人を罪から救うため、地上にお生まれになった。この救い主はイエスと名付けられた。
マタイの福音書1:21-22
1:21 「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」
1:22 このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。
そして、主イエスが「わたしはすでに世に勝った」と宣言された時、「おまえは、彼のかかとにかみつく。」という主の苦難と犠牲の預言、また「彼は、おまえの頭を踏み砕き」という主が罪と死の力に打ち勝つ預言が成就された。
ヨハネの福音書16:33
「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」
光はやみの中に輝いており、やみはこれに打ち勝てない。
天地創造の最終的な神の意図、救いの計画を単純明快に記述した創世記第3章は、真に創世記の真珠というにふさわしい聖文であり、ここを深く理解する必要があろう。
救い主として地に降りた神の子イエスの贖いの業については別稿で述べたい。
働くことによる赦し
土地がのろわれたので、アダムは苦しい労働によって食を得なければならなかった。しかしこれは罰というよりもむしろ神が彼に与えた赦しの条件であった。
エリザベス・バレット・ブラウニング(ロバート・ブラウニングの妻)の作品に次の詩がある。
Get leave to work--
In this world 'tis the best you get at all,
For God in cursing gives us better gifts
Than men in benediction.
ルーシー・M・モンゴメリーは、Emily's Quest(邦題「エミリーが求めるもの」)でこの詩を引用している。エミリーは失恋、怪我、人々の無理解、眠られぬ夜のにがい数週間が続き、創作意欲が消えてどうしても書けなくなっていた。ところがその長い苦しみの後突然奇跡が起き、光がきて書けることを知る。
ふたたび働けることを知ったエミリーの喜びを村岡花子は次のように訳している。
「働く赦しを得ること--、
それはこの世であなたが得る最も良いものだ。
なぜなら呪いの神は祝福の人よりもよい贈り物を我々に与えるから。
エリザベス・バレット・ブラウニングは、そう書いた―そして確かにそのとおりだった。
仕事がどうして呪いと呼ばれるのかわからない―強いられた労働がいかに苦しいことかを知るまではそれは分からない。けれどもわたしたちに合った仕事は―それをするためにこの世に送られたと知る仕事は―それはほんとうに祝福であり、みちたりた喜びである。・・・
「働く赦し」―だれでもこれは得ることができると思う。けれども、ときどき苦しみと心の痛みがその赦しを与えない。そのときにわたしたちは自分の失ったものを知り、そして神から忘れられるほうが呪われるよりいいと思う。もしも神がアダムとイブを罰して怠けるようにしたならばそのときこそ彼らは棄てられ、呪われていたのである。「四つの大きな川の流れる」エデンでも今夜のわたしの夢ほど楽しくはない、なぜならばわたしには働く力が帰って来た。
「おお神よ、わたしが生きている限り、わたしに働く赦しを与えたまえ」と、わたしは祈る。赦しと勇気を。」
ルーシー・M・モンゴメリー作 村岡花子訳「エミリーが求めるもの」より
(2018/08/30)
[1] 女 אִשָׁה (イシャ) 男 איש (イシュ) איש(イシュ)は「人」を表し、これは「男」という意味でもある。「人」の女性形がאִשָׁה(イシャ)。 英語のManが「人」を意味し、これの女性形がWomanであるのと同じ。 KJVでは、And Adam said, This is now bone of my bones, and flesh of my flesh: she shall be called Woman, because she was taken out of Man. となっている。 同様にルター訳聖書(LUTH1545)では、男性Manne、女性Männinで表している。 (Männinは、男のあばら骨から作られたことを表すマルチン・ルーターによる造語) Da sprach der Mensch: Das ist doch Bein von meinem Bein und Fleisch von meinem Fleisch; man wird sie Männin heißen, darum daß sie vom Manne genommen ist. 日本語の「男」と「女」という単語にはそういう関係がないので、「これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」と唐突な感じになってしまうのは仕方ない。