ホセア書5:10
怒りを水のように彼らの上に注ぐ

1.はじめに

 聖書には独特の言葉遣い、言い回しがあり、慣れてしまえばなんでもないことだが、初めて読んだときしっくりこない場合がある。日本聖書協会の口語訳聖書(1955年版)のホセア5:10「ユダの君たちは境を移す者のようになった。わたしはわが怒りを水のように彼らの上に注ぐ。」の「怒りを水のように彼らの上に注ぐ」もそうだ。戦乱に乗じて南のユダ王国が、北のイスラエル王国に侵入し領土を拡張しようとしたため主の怒りを受けるという、北王国の予言者ホセアの南王国に対する警告だ。
 「注ぐ」は、「江戸川が東京湾に注ぐ。」のように「水が流れ込む。」、「木の葉に注ぐ雨」のように雨・雪などが降りかかる、「コップに水を注ぐ。」のように「液体を容器に流し込む。」、「降り注ぐ光」のように「上からふりかける。」、「花にも涙を注ぐ。」のように涙をおとす、「視線が注がれる。」のように心・力を集中するという使い方をする。  「水」と組み合わせた場合、「注ぐ」がどちらかというと穏やかな動き、状態の変化を感じる言葉なので、エネルギーを内に秘めたような「怒り」と組み合わせたホセア5:10の使い方に慣れないと、私にはどうもしっくりしないのだ。勿論そういうことを全く感じない人もいるだろうが。

2.「注ぐ」の考察

 口語訳聖書の翻訳参照原典としたRSVのこの部分は、upon them I will pour out my wrath like water.となっている。またRSVの改訂の原典であるKJVでは、I will pour out my wrath upon them like water.となっている。
もちろん、水のように注ぐで意味は通じるが、pour outには、「注ぐ」の他に、「抑制なしに表現する」というニュアンスの使い方がある。例えば、The woman poured out her frustrations as the judge listened. (裁判官がその女性の話を聞いたとき、彼女はいらいらを吐き出した)というのがこれの用例として挙げられる。
この用法に従った場合、upon them I will pour out my wrath like water.は、「わたしは彼らの上にわが怒りを水のようにぶちまける」といった感じになるだろうか。

 ドイツ語(ルター訳の新版)では、darum will ich meinen Zorn über sie ausschütten wie Wasser.となっており、gießen(注ぐ) ではなく、(容器から)ザーッと出す。ausschüttenを使っている。つまりバケツの水をかぶせるイメージだ。これだと主の怒りがイスラエルの諸部族に下るという比喩が伝わりやすい。

 ホセアのこの予言は、文脈と歴史的背景からすると、気持ちとしては「わたしは彼らの上にわが怒りを水のようにぶちまける。」だろう。しかし「ぶちまける」だと直截的過ぎるし、聖書の品位が失われるため、「注ぐ」にしたのだろうか。共同訳聖書でも、「ユダの将軍たちは国境を移す者となった。わたしは彼らに、水のように憤りを注ぐ。 」としている。ausschüttenのようなこの場面に適切な言葉が日本語にあればいいのだが。

 「注ぐ」のままで、主の大きな怒りが下ることを伝える別の翻訳の仕方がある。The Living Bibleでは、Therefore, I will pour my anger down upon them like a waterfallとし、日本語訳のリビングバイブルでは、「ユダの指導者たちは、最もたちの悪い盗人となる。だから、私の怒りを彼らの上に、滝のように注ぎかける。」としている。怒りの表し方を動詞ではなく目的語の名詞に着目し、主の怒りの比喩を「水」ではなく「滝」にしている。これによって本来的意味が素直に伝わりやすくなっていると思う。
 フランシスコ会聖書研究所の「聖書 -原文校訂による口語訳」では、「大水」としている。これも主の怒りの比喩として分かりやすい。

 「怒りを注ぐ」は、口語訳聖書の他の個所にも登場する。素人にはうかがい知れない聖書翻訳の苦労が、こういうところに察せられる。
以下はホセア5:10以外で「怒りを注ぐ」を使用している個所

聖書 該当箇所
歴代志下12:7 怒りをエルサレムに注ぐことをしない。
エレミヤ書7:20 怒りと憤りを、この所と、人と獣と、畑の木と、地の産物とに注ぐ。
エレミヤ書42:18 怒りと憤りとをエルサレムの住民に注いだように
ゼパニヤ3:8 わが激しい怒りをことごとくその上に注ぐことであって、
これらを読んでいるうちに慣れてしまい「怒りを水のように注ぐ」も、不自然さを感じなくなる。内容を正しく把握しさえすれば、聖書独特の言い回しとして受け入れればいいことだ。聖書を初めて読んだ時の日本語の違和感は、ここに限ったことではない。

「怒りを注ぐ」以外の「注ぐ」
(これらの「注ぐ」は、普通の使い方なので違和感がない。)
聖書 該当箇所
出エジプト25:29 灌祭を注ぐための瓶と鉢
レビ7:36 彼らに油を注ぐ日に
民数7:10 祭壇に油を注ぐ日に
ヨブ16:20 神に向かって涙を注ぐ。
ヨブ36:28 空はこれを降らせて、人の上に豊かに注ぐ。
伝道の書11:3 雲がもし雨で満ちるなら、地にそれを注ぐ、
エレミヤ44:19 酒をその前に注ぐ
エゼキエル16:38 憤りと、ねたみの血とを、あなたに注ぐ
エゼキエル39:29 わが霊をイスラエルの家に注ぐ時、
エゼキエル43:18 燔祭をささげ、これに血を注ぐ日には、
ダニエル9:24 いと聖なる者に油を注ぐためです。
ヨエル2:28 わが霊をすべての肉なる者に注ぐ。
ヨエル2:29 わが霊をしもべ、はしために注ぐ。
アモス9:4 彼らの上にわたしの目を注ぐ、
ゼカリヤ12:10 恵みと祈りの霊とを注ぐ。
マラキ3:10 あふるる恵みを、あなたがたに注ぐか否かを見なさいと、
コリント第二4:18 見えないものに目を注ぐ。
ヘブル1:9 喜びのあぶらを、あなたの友に注ぐよりも多く、


3.黙示録16:1「七つの鉢を、地に傾けよ 」

 RSVの黙示録16:1“Go and pour out on the earth the seven bowls of the wrath of God.”(KJVでは Go your ways, and pour out the vials of the wrath of God upon the earth.)を口語訳聖書では、「さあ行って、神の激しい怒りの七つの鉢を、地に傾けよ」と訳している。pour outを「傾ける」にしているが、激しい怒りに対する動作としては穏当すぎる気がしないでもない。この鉢の比喩は、地面に置いて傾けるのが精いっぱいの大きな重量があるものだろうか。例えば、出エジプト30:18の幕屋の前に置いていた青銅の洗盤、これなら傾けるという動作に合っているかもしれない。しかし、黙示録の鉢は、天にある、あかしの幕屋の聖所から出てきた七つの災害を携えた七人の御使いが、四つの生き物の一つから受けた金の鉢だから、そんなに大きなものではないだろう。民数記にある祭壇に供えた銀の鉢や歴代志下4:8の神殿に置いた金の鉢、あるいはエズラ記にある主の宮の器の金の鉢のようなものかもしれない。そうした鉢を傾けることにより、神の怒りを地、海、川と水の源、太陽、獣の座、大ユーフラテス川、空中に少しずつ注がれ、すべて終えるのにある程度の時間がかかることを暗示しているのか。

 ネストレ校訂本24版に基づき翻訳した新改訳聖書(1970年版)では「行って、神の激しい怒りの七つの鉢を、地に向けてぶちまけよ。」としている。この個所だけ読む限りにおいては理解しやすい。こちらの場合は、一瞬のうちに事が行われるという印象がする。

 ルター訳では、gießen(注ぐ)を使っている。これと上記を合わせて考えると、この部分は、新改訳聖書よりも口語訳聖書の表現が受け入れやすい気がする。
Die Bibel nach Martin Luther 1984
Und ich hörte eine große Stimme aus dem Tempel, die sprach zu den sieben Engeln: Geht hin und gießt aus die sieben Schalen des Zornes Gottes auf die Erde!

Luther Bibel 1545 (LUTH1545)
Und ich hörte eine große Stimme aus dem Tempel, die sprach zu den sieben Engeln: Gehet hin und gießet aus die Schalen des Zorns Gottes auf die Erde!

 新共同訳では、「行って、七つの鉢に盛られた神の怒りを地上に注ぎなさい。」 と口語訳聖書に近い表現をしている。

4.結局のところ

 「注ぐ」だろうが、「ぶちまける」だろうが、あるいは「傾ける」だろうが変わりはない。紀元前740年にアッシリアがサマリアを征服したことにより北のイスラエル王国は終焉し、南のユダ王国は紀元前607年にバビロニア軍によって侵略され、最後の王ゼデキヤは退位させられた。ホセアの預言は成就したが、神が定めた境界を広く人間が守るべき道徳的規範、正義ととるなら、それを人の欲望によって勝手に変えてはいけないという警告にもとれよう。現代はまさにその警告に注意を払わなければならない時代になっている。ヨハネが見た示現も然り、実際の形がどうあれ間違いなく起こるだろう。その日は「もし目をさましていないなら、わたしは盗人のように来るであろう。どんな時にあなたのところに来るか、あなたには決してわからない。」(口語訳聖書 ヨハネの黙示録3:3) 
 「人々が平和だ無事だと言っているその矢先に、ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むように、突如として滅びが彼らをおそって来る。そして、それからのがれることは決してできない。 しかし兄弟たちよ。あなたがたは暗やみの中にいないのだから、その日が、盗人のようにあなたがたを不意に襲うことはないであろう。 あなたがたはみな光の子であり、昼の子なのである。わたしたちは、夜の者でもやみの者でもない。 だから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして慎んでいよう。」(口語訳聖書 テサロニケ第一5:3~6)
 目を覚ましていることが肝要である。イエスがゲッセマネの園の切迫した状況で、弟子たちに急いで教えたのは世に打ち勝つための霊的覚醒であった。(欽定訳マタイ26:45の矛盾 2013/08/17の「まとめ」参照)