ルカによる福音書2
イエスの誕生と成長

救い主イエスの誕生(2:1-7)
ローマの皇帝アウグストの時代、ローマの支配下にあった国は課税のために人口調査(住民登録)を行った。この調査は生まれ故郷で行うもので、ダビデの家系であったヨセフとマリヤは、そのころ住んでいたナザレを出て、ダビデが生まれたベツレヘムに帰っていった。泊まっていたところには部屋が無く、そこで生まれた救い主は飼い葉おけに横たえられた。
1節 この人口調査は公の記録に残っていない。ルカは皇帝アウグストとイエスを対比させるためこの物語を描いたと考えられる。
   アウグストは救い主、神の子と呼ばれ、彼の赦免の告知は福音と称されていた。
   それに対しルカはイエスこそ救い主であり、その誕生こそ福音であることを主張しようとした。
   武力で威圧する皇帝の治世は一時的なものだが、愛と犠牲によるイエスの支配は永遠の平和である。
2節 ユダヤはシリヤの総督のもとにローマによって治められていた。
3節 住民登録は自分が生まれた町で行った。
4節 ダビデはベツレヘムで生まれ、羊飼いをしていた。
7節 神の子は身を低くし、人に顧みられないさまで、汚れたところに来られた。
   「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、
    かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。
    その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、
    しかも十字架の死に至るまで従順であられた。」(ピリピ2:6-8)

羊飼いたちへの天使の啓示(2:8-20)
夜、羊の番をしていた羊飼いたちに主の使いがあらわれて、ダビデの町ベツレヘムに救い主が生まれたことを告げた。そして多くの天の軍勢があらわれて神を賛美した。この声を聞きお生まれになった救い主を見に行ったのは、社会的に低い階級の羊飼いたちだけだった。ベツレヘムには住民登録のために多くの人が集まっていたが、彼らは天使の訪れも天の軍勢の声も聞くことがなかった。
8節 羊を囲いに入れずに平原で野放しにしていたので、夜は見張る必要があった。
   救い主誕生の知らせは、王にではなく、こうした庶民である羊飼いのところに来た。
9節 神に出会うことは人間にとって恐れであった。
10節「すべての民に与えられる大きな喜び」とこの福音が全世界への救いであるというルカが意図がここに現れている。
11節「あなたがた」罪と死に悩む人間のために救い主が生まれた。「このかたこそ主なるキリスト」油そそがれた者、メシヤである。
   救い主はローマ皇帝ではない。 
12節 その有様は人と異ならず、おのれを低くしていることがしるしとなる。
13節 さらに多くの天使が現れて神をほめたたえた。
14節「み心にかなう人々に平和があるように」、神に喜ばれる人々に平和があるように。
15節 主のみ使いから聞くことから始まったが、自らの目で見て確かめることで、その事実を自分のものとすることが出来る。
   同じように信仰も聞くことから始まり、自分で考え、神に尋ねることで己の証とすることができる。
16節 ベツレヘムまでは少し離れていたが急いで行って、マリヤとヨセフと幼子を捜しあてた。
   熱心に注意深く探すことが信仰の第一歩となる。
17節 聞き、自分で確かめた後、次に行うことは人に伝えること。
18節 羊飼いの話を聞いた人々は不思議に思っただけだった。それは自分で確かめなかったからだ。
19節 マリヤは考え深い敬虔な人だったのでこれらの出来事を思いめぐらした。
20節 羊飼いたちは自分自身で確信を持つことができた喜びに満たされながら帰っていった。それは真理を知ったという証を持つ喜びである。

イエスの割礼(2:21)
21節 救い主イエスはユダヤ人として律法に従い割礼を受け、み使いに告げられたようにイエスという名がつけられた。
   マリヤの信仰と天使の言葉に従う忠実さが表れている。
   イエスはギリシャ語名だが、これはヘブル語のヨシュアから出たもので、当時のユダヤでは多く使われたが、2世紀頃からはあまり使われなくなった。イエスは「助ける」または「救う」という意味である。

イエスの聖別(2:22-40)
イエスの両親は、最初の男の子は神のものとして捧げなければならないという旧約の律法に従って神殿で犠牲の供え物を捧げた。これは主のものとして聖別されるという意味がある。シメオンとアンナは、ヨセフとマリヤが宮に連れてきたイエスを見るなり、約束された神の救いが始まったことを知り、神に感謝し、母マリヤにイエスの使命について語った。またエルサレムの贖いを待ち望んでいるすべての人々にも語った。このことから霊的枯渇の時代にあって、救いの御業を待ち望む信仰深い人々がいたことが分かる。
神殿での聖別の後、幼子イエスを連れてヨセフとマリヤはユダヤからナザレに帰っていった。マタイはこの間にエジプトへの逃避行を書いている。
22節 律法によると女性は出産によって汚れるため、男子のときは40日間、女子のときは80日間のきよめの期間をもたねばならなかった。
    「女がもし身ごもって男の子を産めば、七日のあいだ汚れる。
     すなわち、月のさわりの日かずほど汚れるであろう。
     八日目にはその子の前の皮に割礼を施さなければならない。
     その女はなお、血の清めに三十三日を経なければならない。
     その清めの日の満ちるまでは、聖なる物に触れてはならない。
     また聖なる所にはいってはならない。
     もし女の子を産めば、二週間、月のさわりと同じように汚れる。
     その女はなお、血の清めに六十六日を経なければならない。」(レビ12:2-5)
   このきよめの期間が終わった後、幼子イエスを主にささげるためエルサレムに上ったのだった。
23節 最初の男の子は、もっとも大切な神のものとして捧げられた。         「イスラエルの人々のうちで、すべてのういご、すなわちすべて初めに胎を開いたものを、
     人であれ、獣であれ、みな、わたしのために聖別しなければならない。
     それはわたしのものである」(出13:2)
24節 イエスの両親は貧しかっため子羊に手が届かず、「山ばと一つがい、または、家ばとのひな二羽」で犠牲を捧げた。
   このようにして、世の救い主は民衆とともに生涯を始められたのだった。
    「男の子または女の子についての清めの日が満ちるとき、
     女は燔祭のために一歳の小羊、罪祭のために家ばとのひな、あるいは山ばとを、
     会見の幕屋の入口の、祭司のもとに、携えてこなければならない。
     祭司はこれを主の前にささげて、その女のために、あがないをしなければならない。
     こうして女はその出血の汚れが清まるであろう。
     これは男の子または女の子を産んだ女のためのおきてである。
     もしその女が小羊に手の届かないときは、山ばと二羽か、家ばとのひな二羽かを取って、
     一つを燔祭、一つを罪祭とし、祭司はその女のために、あがないをしなければならない。
     こうして女は清まるであろう」(レビ12:6-8)
25節 シメオンは律法を忠実に守り、やがて来るメシヤによる救いの日が来ることを待ち望んでいた信仰の人で聖霊が宿っていた。シメオンはまた旧約が準備のためのものであり、これから新約の時代が始まることを知っていた人であった。
26節 そして救い主キリストにまみえる迄死なないというお告げを聖霊から受けていた。
   ルカは聖霊の働きについてたびたび記している。
    「だれか生きて死を見ず、
     その魂を陰府の力から
     救いうるものがあるでしょうか。」(詩89:48)
27節 御霊の導きに促されたシメオンと幼子イエスの運命の出会いは天の神聖な配剤であった。御霊に感じる研ぎ澄まされた精神は、シメオンの強い信仰によるものである。
28節 ついに幼子イエスにまみえることができたシメオンの心は喜びに満たされ神をほめたたえた。
[シメオンの賛歌(2:29-32)]
  「主よ、今こそ・・・」ラテン語訳の最初の二字をとってヌンク・ディミティスという。
  「救主に会うまでは死ぬことはない」という約束が今ここに成就し、「この僕を安らかに去らせてくださいます」(これはユダヤ人が臨終や別離のときにいうシャロームという言葉。)
   シメオンは今抱いている幼子イエスが万民の救いのために来たメシアであることを確信し、
   この光である救いは異邦人にまで及び、またその光はイスラエルから出るので、この民族の栄光であると歌う。
    「主はその聖なるかいなを、
     もろもろの国びとの前にあらわされた。
     地のすべての果は、われわれの神の救を見る。」(イザヤ52:10)
33節 両親はシメオンの語ることに驚くばかりで、この時はまだ理解できずにいる。
34節 シメオンは母マリヤにイスラエルそして全人類はキリストによって二分されることを予言している。
   イエスはつまずきの石として置かれ、信ずる者には隅のかしら石となる。
    「主はイスラエルの二つの家には聖所となり、またさまたげの石、つまずきの岩となり、
     エルサレムの住民には網となり、わなとなる。」(イザヤ8:14)
   人はイエスの福音に接し、神の救いのみ心を信じるか信じないかを問われ、
   イスラエルの多くの人が信じようとしないで滅び、一方信じて救いの道に入る人も多くいるだろう。
   そのようにして多くの人の心の思いが現れる。
35節 マリヤはそのことでイエスの母として苦悩に打たれることになるだろう。
   人の救いのためには、きよらかな魂が苦しまなければならない。
36節 アセル族はヤコブの子アセルを祖とする部族。ヨシュア19:24に「第五に、アセルの子孫の部族のために、」とある。
37節 アンナは老年になって、エルサレムの宮で神に仕え敬虔な生活をしていた。
38節 アンナも幼子イエスを見て贖い主の誕生を神に感謝し、贖いを待ち望んでいるエルサレムの人々に語り続けた。
39節 ナザレでの準備の30年間が始まる。
40節 肉体的に「成長して強くなり」、精神的に「知恵に満ち」、そして霊的(宗教的)に「神の恵み」があり健全に育った。

イエスの少年時代(2:41-52)
少年イエスが「わたしが自分の父の家にいる」と、神の子、救い主としての自覚を書いている。
41節 ユダヤの男子は過越しの祭、五旬節、仮庵の祭に出ることを律法によって命じられていた。敬虔なヨセフの家庭では夫婦でエルサレムに上った。
   「あなたは年に三度、わたしのために祭を行わなければならない。
    あなたは種入れぬパンの祭を守らなければならない。
    わたしが、あなたに命じたように、アビブの月の定めの時に七日のあいだ、
    種入れぬパンを食べなければならない。それはその月にあなたがエジプトから出たからである。
    だれも、むなし手でわたしの前に出てはならない。
    また、あなたが畑にまいて獲た物の勤労の初穂をささげる刈入れの祭と、
    あなたの勤労の実を畑から取り入れる年の終りに、取入れの祭を行わなければならない。
    男子はみな、年に三度、主なる神の前に出なければならない。 (出23:14-17)
   「あなたのうちの男子は皆あなたの神、主が選ばれる場所で、年に三度、
    すなわち種入れぬパンの祭と、七週の祭と、仮庵の祭に、主の前に出なければならない。
    ただし、から手で主の前に出てはならない。 」(申16:16)
42節 ユダヤでは12歳のころから青年期に入り宗教上一人前として扱われた。
43節 祭りの行き帰りは同郷の人々との団体の旅で、ナザレまで3日の行程の間、親から離れ子供同士一緒に歩くこともあった。そのため両親は帰路の人々の中にイエスもいるものと思った。
44節 マリヤとヨセフは無事に祭に参加した安堵感もあり、親戚か友達と一緒と思いすぐには心配はしなかっただろう。
45節 一行の中にいると思ったイエスがいないので、エルサレムに戻ったときのマリヤとヨセフの心が、「捜しまわりながら」という簡単な言葉に表れている。
46節 人であふれた都を捜しまわり、やっと3日後に神殿の中で、「教師たちのまん中にすわって、彼らの話を聞いたり質問したり」子供らく屈託のないイエスを見つけた。
49節 12歳になったとはいえまだ少年らしいあどけなさで、「自分の父の家にいるはずのこと」を両親が理解せず心配して捜しまわっていたことをイエスは不思議に思う。イエスはヨセフを父と思い51節で「彼らにお仕えになった。」が、同時に神を「自分の父」と理解していた。イエスと神との関係と救い主としての目覚めが始まっていた。
50節 しかしマリヤとヨセフは、神の使いから教えられていたが、まだイエスの言葉の意味を理解できなかった。 51節 マリヤはイエスの言葉の意味を悟ることができなかったが、思慮深くこころの中に留めておいた。そしてこれが徐々に理解でき、シメオンが言ったように最後は十字架のそばで、「つるぎで胸を刺し貫かれ」たのだった。(2:35)
52節 この少年時代の物語は、幼子イエスの物語の終わり(2:40)と同じ内容の言葉で終わっている。
   この後の18年間についてはルカは何も書いていない。イエスという神の宮は音もなく静かに建てられていったのである。
   「宮は建てる時に、石切り場で切り整えた石をもって造ったので、
    建てている間は宮のうちには、つちも、おのも、
    その他の鉄器もその音が聞えなかった。 」(1列王6:7)

(2019/01/25)