

ペテロの第一の手紙5章
神の羊の群れを世話する(1-4) 当書簡を終えるにあたり、皇帝ネロの激しいクリスチャン迫害に合っていたペテロは、一段と激しい迫害とそれに伴う殉教が迫っていることを警告している。そしてその中で、彼らが真実の恵みの中で、励まされ、確固たる信仰を確立し強められ、やがて神の栄光に招き入れられることを伝えている。そのためには、長老たちにがキリストの証し人としてしっかりと立ち、教会員を育て教会を強めなければいけないと勧告する。 1節 そこで、あなたがたのうちの長老たちに勧める。わたしも、長老のひとりで、キリストの苦難についての証人であり、また、やがて現れようとする栄光にあずかる者である。 「長老たち」Πρεσβυτέρους(Presbyterous)、冠詞なし複数なので、教会生活をになっている長老たち(Edlers)全体をさす。ここの長老は職責としてではなく、信仰・経験の意味が加わった信仰の先輩をさしている。「わたしも、長老のひとり」ὁ συμπρεσβύτερος(ho sympresbyteros)定冠詞ὁ(ho)は、「わたし」である当書簡の著者が読者によく知られていることを示す。使徒の立場に立つ著者が、自分もあなたがたとともに長老なのだ(a fellow elder)という気持ちを伝えている。それは教会の頭である主の前では、彼自身も同じ長老の責任をともにする者だという確信から出た慎みと謙遜がにじみ出た言葉である。教会の初期から使徒と長老が区別されていたが、後には使徒たちが主に対してはたすべき責任の後継者として、長老たちを教会の秩序の中に立て、主に仕えるよう導いた。他に監督、教師、執事などがあるが、ここでは、長老のなすべきこと、責任としていることを性質によって表現している。「キリストの苦難についての証人」使徒あるいは長老は、主に召されて、神が起こされた出来事であるキリストの苦難の証人である(ルカ24:44-48,ヨハネ15:27,使徒1:8 [1] ,21-22,)。「やがて現れようとする栄光にあずかる者」とは約束されたキリストの再臨の際にキリストの栄光にともにあずかる者をさす(マタイ19:28 [2] ,ヨハネ13:36)。この現れようとしている栄光は、すでにキリストにあっては、復活、昇天、神の右に座するなどの表現で伝えられている。そしてキリストとの共同の相続人として苦難ののちに受け継ぐのである(ローマ8:17-18) [3] 。 2節 あなたがたにゆだねられている神の羊の群れを牧しなさい。しいられてするのではなく、神に従って自ら進んでなし、恥ずべき利得のためではなく、本心から、それをしなさい。 「神の羊の群れを牧しなさい」これが長老の第一義的な職務である(ヨハネ21:16 [4] ,使徒20:28)。旧約聖書では、神あるいは救い主を羊飼い、そして信仰者たちの共同体を羊の群れと呼ぶ(詩篇100:3 [5] ,エゼキエル34:7-23,31)。新約聖書では、イエスがご自分を羊飼い(ルカ15:3-6 [6] ,19:10,ヨハネ10:14以下)、弟子たちを「小さな群れ」と呼ぶ(マタイ10:16,ルカ12:32 [7] )。信仰者たちは自分たちのものではなく、「ゆだねられている神の羊」なのである。したがって、長老たちが、真の所有者である主に対して責任を果たすことは、教会として非常に大切なことである。このために常に目ざめていなければならない、「牧しなさい」とは、羊の成長に必要なあらゆることを行い、飼い育ててゆきなさいという意味である。教えと訓練による教会員の育成には、次の注意が必要である。まず「しいられてするのではなく、神に従って自ら進んで」するということである。教会から強いられてしぶしぶするということではいけない。「神に従って」すなわちキリストに従うことによって、神が自らなさるわざに参加させていただくという気持ちで自発的になすべきである。1コリント9:16 [8] の「そうせずにはおれない」そうしないなら「わたしはわざわいである」という姿勢を常にとることである。次に「恥ずべき利得のためではなく」行うということである。パウロは、いじきたない利得のために心が動かされる場合が、伝道者、監督、長老、執事たちにありうることを知って、はばかることなく警告している(1テモテ3:8 [9] ,テトス1:7)。これに対して「本心から」は、心から喜んで、敏活にの意味で、これに熱心が加わる。 3節 また、ゆだねられた者たちの上に権力をふるうことをしないで、むしろ、群れの模範となるべきである。 「ゆだねられた者たち」とは霊的な訓育のために割り当てられた人たちをさし、前節の「ゆだねられている神の羊」である。その羊の群れは、神の恵みにより割り当てられたのであって、支配するために集められたのではない。「模範となるべき」とは群れの中で実例を示し、ともに実践していく生活をしなさいという勧告である。形式的な権威によって、上からおさえることなどはしてはいけない。自分が主に仕え、主に従い、主と交わること、それを行なって、初めて人々が同じように主に仕え、従い、主と交わることができるのである(1コリント10:32-33 [10] )。 4節 そうすれば、大牧者が現れる時には、しぼむことのない栄光の冠を受けるであろう。 「大牧者」とは頭(かしら)であられる牧者としてのキリストをさす。「しぼむことのない栄光の冠」、冠は王権のしるし(詩篇21:3 [11] )であるとともに、ユダヤでは花婿が用いるもの(イザヤ61:10 [12] )。また、異邦人の間ではギリシャの競技の勝利者、公共のために奉仕した顕著な人、祭りにおいて用いられた。キリストがすべての人々に仰ぎ見られる再臨の時、約束の成就としていのちの冠をキリストにあってうけるのである(ヤコブ1:12 [13] ,黙示2:10)。「しぼむことのない」とは、しぼまない花とされるアマラントス(不凋花:ふちょうか)で作られているという意味。永遠の栄光をあらわす。 謙遜になり,油断なく見張る(5-11) (5-9)長老たちに対する勧告に続き若い信仰者たちに対する勧告。教会は外から問いかけられ挑まれることが少なくない。そのような場合、教会のなまぬるさは、若い人々の長老に対する不満の原因となり、若い人々の思いと行為は不従順になりやすい。 (10-11)神の摂理の確かさと神をほめたたえる祈り 5節 同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。また、みな互に謙遜を身につけなさい。神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜うからである。 盲従でもなく、外形だけの従順でもなく、「みな互に謙遜を身につけなさい」と謙遜な行為が、長老たちへの自発的な服従となるようにとすすめている。「身につけ」るとは、帯のついた衣類を着て帯で結んだり、袋物のように袖口をしばることからきている。どこからもすきのない着付けのように、全身に衣類がぴったりついている姿である。どんな行為をしても、謙遜という服装に覆われている姿をさしている。人と人の間にあるべきほんとうの謙遜が、先輩の長老たちへの服従の基となる。真の謙遜は、頭(かしら)であるキリストが、いつもすべての者に対して僕となり、父なる神の碁石に従っておられるということに源をおく。そのため「神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜う」のである(箴言3:34,詩篇138:6,ルカ1:51-53 [14] )。また、パウロはコロサイ人にあてた書簡で、あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身に着け、これらいっさいのものを結ぶ帯である愛を加えよ勧告している(コロサイ3:12-15 [15] )。 6節 だから、あなたがたは、神の力強い御手の下に、自らを低くしなさい。時が来れば神はあなたがたを高くして下さるであろう。 キリストにあって生きる者は、他人と自分を比較し、他人に対して自分を低くしない。ただ「神の力強い御手」の下で謙虚にされて、「自らを低く」するのである。虚偽に転落しやすい自己満足的な謙遜ではない。なによりもまず、神に対して人を謙遜にならしめるように、神の力が人々の中に働いて人々の解放や、懲らしめに現れることをヘブル風に表現して、神の力強い御手という。「時が来れば」とは1:5の「終わりの時」、2:12の「おとずれの日」と同じく、神がよしとする時、約束の実現の時をさしている。いそぐことも、いらいらする必要もない。その時こそ、神は忠実に従った者たちを高くしてくださる(1サムエル2:7,マタイ23:12 [16] ,ルカ14:11,18:14,ピリピ2:6-9)。「神の力強い御手の下に、自らを低く」する謙遜は、神への確かな信頼、消えることのない神の愛への確信となる。 7節 神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい。 神は「あなたがたをかえりみていて下さる」心配してくださる。「かえりみる」とは感心を持つことである。神は、苦しみや問題のただ中にある人間に関心を持ち、行動される。この点こそが、異教と聖書の神の特異性を示す。異教においては、神々の関心をよびさますにはさまざまな儀式を行う。しかし、聖書の神は違う。神の方からすでに人に関心を持っているので、先に行動される(マタイ6:25-34 [17] 、ローマ5:8、8:32)。 この神に、「自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねる」ことが許されている。「ゆだねる」には努力してなげかける意味がある。心が裂かれる「思いわずらい」を、この決断的なゆだねる行為によって、自分よりもはるかに確かな神にゆだねることが許されているのである。思いわずらいに圧倒されるのは、神を信頼するよりは、自己を信頼している結果である。神への強い信頼は、ゆだねたからといって、自分勝手な、あるいは不注意な眠ってしまうような生活はけっしてゆるされない。 8節 身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食いつくすべきものを求めて歩き回っている。 「身を慎み」、1:13,4:7にも出ている。ルカ12:37の主人が帰った時に目を覚ましているのを見られる僕たちのようでなければならない。なぜなら、「敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食いつくすべきものを求めて歩き回っている」からである。敵ἀντίδικος(antidikos)も、悪魔διάβολος(diabolos)も、ヘブル語のサタンの訳語と考えられている。敵対したり、誘惑したりして、人を背教者にしてしまう働きの面から、「敵」といい、侮辱、中傷する迫害者として迫ってくる面から、「悪魔」と表現したとみられる。敵としては法廷で訴え、抗争をしかけ(ルカ12:58,18:3)、悪魔としては、ヨブ1:6-12にサタンがヨブをどう扱ったかが出ている。「しし」は古代人の間では、百獣の王の意味ではなく、典型的な猛獣を表している(詩篇22:13 [18] )。迫害の性格をもった圧迫の下では、サタンは食い尽くすべきものに迫ろうと歩き回っていることを知るべきである。 9節 この悪魔にむかい、信仰にかたく立って、抵抗しなさい。あなたがたのよく知っているとおり、全世界にいるあなたがたの兄弟たちも、同じような苦しみの数々に会っているのである。 「悪魔」は積極的なものである。これに対しては信仰に固く立った抵抗が必要である。これまで多くの服従のすすめが述べられてきたが、それと対照的に、ここでは短いがきびしい抵抗の命令が述べられている。抵抗はそれほど困難なことではないが、信仰にかたく立って、すきのない全生活で抵抗することは、主のかえりみなしには非常に困難である。全生活を神に服従することでイエスを主なる救い主と証しすることなしには、この抵抗がくずれることになる。「あなたがたのよく知っているとおり、全世界にいるあなたがたの兄弟たちも、同じような苦しみの数々に会っているのである」の「会う」と訳されたἐπιτελεῖσθαι(epiteleisthai)には「旧時代の税金を払う」という意味がある。古い世が今なお課税してくるさまざまな「苦しみ」にあっているが、全世界の兄弟たち、信仰者の群れは、それをりっぱに支払ってきているということだ。KJVでは、同じ苦しみを信仰の責任において「成し遂げる」という意味でthe same afflictions are accomplished in your brethren that are in the world.と訳している。したがって、世界中の信仰のある兄弟たちは、数々の苦しみにあいながら、その出来事において、神に対して信仰の責任を果たしている。このことを知ることにより、あなたがたも、迫害や苦難に遭遇するとき、教会の共同責任を実現して欲しいと若い信仰者たちに希求する。 10節 あなたがたをキリストにある永遠の栄光に招き入れて下さったあふるる恵みの神は、しばらくの苦しみの後、あなたがたをいやし、強め、力づけ、不動のものとして下さるであろう。 「あふるる恵みの神」ご自分の民、信仰者の群れを支配したもう神は、すべてのものをあふれる恵みをもって扱ってくださる。その扱い方を、私たちは今、見えるようにさし示しめすことはできない。なぜなら、今出会っているのは、「しばらく」のことであるが、「苦しみ」であるからだ。しかし、どんな苦しみに出会っているにしろ、その後、「あなたがたをいやし、強め、力づけ、不動のものとして下さるであろう」という。口語訳聖書では、原文の「苦しみの後」のあとにあるαὐτὸς(autos)が抜けている。これは「彼自ら」(He Himself)という意味の語で、「あなたがたをキリストにある永遠の栄光に招き入れて下さったあふるる恵みの神」である神ご自身がということである。聖書協会共同訳聖書では、「あらゆる恵みの源である神、キリストを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみの後で癒やし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。」となっており原文に忠実に翻訳している。いずれにしても、バプテスマによって確証される恵み、すなわちキリストにある永遠の栄光に招き入れられることこそ、信仰において今受けている恵みである。キリストにおいて始められた救いの恵みは、無限の豊かさをもって必ず成就される。それは神自らなさる約束の成就である。「いやし」は、破損した船や網を修理する意味がある。病気なら治癒であり、生活の破れ、崩壊なら再確立の意味になる。「力づけ」は、積極的な奉仕に備えていわれ、「不動のものとして下さる」は、基礎づける、ゆるがないものにすることで、神の国の救いの完全さ、確かさを示している。 11節 どうか、力が世々限りなく、神にあるように、アァメン。 力に関して心深く思いめぐらし、悪魔の働きに目をとめる信仰の洞察から、力が世々限りなく「神に」と祈り、「アァメン」とたたえて確認し、賛意を求めている。 結びの言葉(12-14) 個人的なあいさつ 12節 わたしは、忠実な兄弟として信頼しているシルワノの手によって、この短い手紙をあなたがたにおくり、勧めをし、また、これが神のまことの恵みであることをあかしした。この恵みのうちに、かたく立っていなさい。 「シルワノ」は、使徒15:40,16:19,16:25のシラスと同一人物といわれている。ギリシャ語に巧みなユダヤ人で、パウロの第二回伝道旅行に同行した。1テサロニケ1:1,2テサロニケ1:1,2コリント1:19に出てくる。この書簡の著者は「忠実な兄弟として信頼している」とシラスに対する深い信頼を示している。この書簡は「短い手紙」だが、「あなたがたにおくり、勧めをし、あかしした」訳は、それが「神のまことの恵み」だからであると証ししている。神の真の恵みである福音が伝えられるためには、勧めること、証しすることのふたつが大きな柱である。勧めることは倫理的側面、証しすることは真理の主張であり、宣教の教理的側面を示している。このふたつの側面を合わせて用いながら、恵みとして述べられるものは、すでにおこされている神の出来事、新しい歴史である。終わりに当たって、「この恵みのうちに、かたく立っていなさい」と念を押している。 13節 あなたがたと共に選ばれてバビロンにある教会、ならびに、わたしの子マルコから、あなたがたによろしく。 「バビロン」は、黙示17,18章の場合と同様にローマを指していると考えられる。「共に選ばれてバビロンにある教会」とはアジアにある教会とともに選ばれたローマにある教会という意味になり、共に選ばれたものと信じてかわすあいさつになっている。原文では教会という語は使わず、「バビロンの彼女から」ἡ ἐν Βαβυλῶνι(hē en Babylōni)になっている。2ヨハネでも「選ばれた婦人」、「選ばれたあなたの姉妹」と教会を女性に擬している。神なしに生きるローマにも、あなたがたと共に選ばれた教会があり、あなたがたと同様に離散し、寄留している人たちの群れがおり、彼らも同じ苦しみにあずかっている。彼らからもよろしくということだ。「わたしの子マルコ」は、使徒12:12,25,15:37-39,コロサイ4:10,2テモテ4:11に出てくるマルコと思われる。 14節 愛の接吻をもって互にあいさつをかわしなさい。キリストにあるあなたがた一同に、平安があるように。 「愛の接吻をもって互にあいさつをかわし」が、初代教会のあいさつだった。「キリストにあるあなたがた一同に」と呼ぶのは、福音による祝福と交わりにあずかることは、救い主を人格的に完全に信頼していることに他ならないからである。そして「平安があるように」と祈る。復活したキリストのあいさつも、「やすかれ」であった。 (2020/10/14)
[1] 使徒1:8 ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。
[2] マタイ19:28 イエスは彼らに言われた、「よく聞いておくがよい。世が改まって、人の子がその栄光の座につく時には、わたしに従ってきたあなたがたもまた、十二の位に座してイスラエルの十二の部族をさばくであろう。
[3] ローマ8:17-18 もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである。 わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない。
[4] ヨハネ<21:16/br> またもう一度彼に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。彼はイエスに言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を飼いなさい」。
[5] 詩篇100:3 主こそ神であることを知れ。 われらを造られたものは主であって、 われらは主のものである。 われらはその民、その牧の羊である。
[6] ルカ15:3-5 そこでイエスは彼らに、この譬をお話しになった、 「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。 そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、 家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集め、『わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うであろう。
[7] ルカ12:32 恐れるな、小さい群れよ。御国を下さることは、あなたがたの父のみこころなのである。
[8] 1コリント9:16 わたしが福音を宣べ伝えても、それは誇にはならない。なぜなら、わたしは、そうせずにはおれないからである。もし福音を宣べ伝えないなら、わたしはわざわいである。
[9] 1テモテ3:8 それと同様に、執事も謹厳であって、二枚舌を使わず、大酒を飲まず、利をむさぼらず、
[10] 1コリント10:32-33 ユダヤ人にもギリシヤ人にも神の教会にも、つまずきになってはいけない。 わたしもまた、何事にもすべての人に喜ばれるように努め、多くの人が救われるために、自分の益ではなく彼らの益を求めている。
[11] 詩篇21:3 あなたは大いなる恵みをもって彼を迎え、 そのかしらに純金の冠をいただかせられる。
[12] イザヤ61:10 わたしは主を大いに喜び、 わが魂はわが神を楽しむ。 主がわたしに救の衣を着せ、 義の上衣をまとわせて、 花婿が冠をいただき、 花嫁が宝玉をもって飾るようにされたからである。
[13] ヤコブ1:12 試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう。
[14] ルカ1:51-53 主はみ腕をもって力をふるい、 心の思いのおごり高ぶる者を追い散らし、 権力ある者を王座から引きおろし、 卑しい者を引き上げ、 飢えている者を良いもので飽かせ、 富んでいる者を空腹のまま帰らせなさいます。
[15] コロサイ3:12-15 だから、あなたがたは、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから、あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身に着けなさい。 互に忍びあい、もし互に責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。 これらいっさいのものの上に、愛を加えなさい。愛は、すべてを完全に結ぶ帯である。 キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。あなたがたが召されて一体となったのは、このためでもある。いつも感謝していなさい。
[16] マタイ23:12 だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。
[17] マタイ6:25-34 それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。 空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。 あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。 また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。 しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。 きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。 だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。 これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。 まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。 だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。
[18] 詩篇22:13 かき裂き、ほえたけるししのように、 わたしにむかって口を開く。